ベトナム

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ベトナム社会主義共和国
Cộng hoà Xã hội chủ nghĩa Việt Nam
(共和社會主義越南)
ベトナムの国旗 ベトナムの国章
国旗 国章
国の標語:Độc lập - Tự do - Hạnh phúc
漢字独立・自由・幸福
国歌Tiến Quân Ca(ベトナム語)
進軍歌
ベトナムの位置
公用語 ベトナム語(越南語)
首都 ハノイ(河内)
最大の都市 ホーチミン市(胡志明市)
政府
ベトナム共産党書記長グエン・フー・チョン
国家主席 グエン・スアン・フック
国家副主席 ヴォ・ティ・アイン・スアン英語版
政府首相ファム・ミン・チン
国会議長ヴオン・ディン・フエ
面積
総計 331,212km264位
水面積率 1.3%
人口
総計(2020年 97,582,700人(14位[1]
人口密度 295[2]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2019年 7615兆5675億2600万[3]ドン
GDP(MER
合計(2019年3278億7300万[3]ドル(36位
1人あたり 3,398.214[3]ドル
GDP(PPP
合計(2019年1兆188億600万[3]ドル(35位
1人あたり 10,559.323[3]ドル
独立
フランスより独立宣言
ベトナム民主共和国
1945年9月2日
独立承認
ジュネーヴ協定
1954年7月21日
南北統一、改称1976年7月2日
通貨 ドンVND)(₫ / Đồng; 銅)
時間帯 UTC(+7) (DST:なし)
ISO 3166-1 VN / VNM
ccTLD .vn
国際電話番号 84
ベトナム
(越南)
ベトナム社会主義共和国の国章

ベトナムの歴史


主な出来事
仏領インドシナ成立
東遊運動 · 日仏協約
仏印進駐 · 大東亜戦争
マスタードム作戦
ベトナム八月革命
第一次インドシナ戦争
ディエンビエンフーの戦い
ジュネーヴ協定 · 南北分断
トンキン湾事件 · ベトナム戦争
パリ協定 · 西沙諸島の戦い
サイゴン解放
カンボジア・ベトナム戦争
中越戦争 · 中越国境紛争
ドイモイ
スプラトリー諸島海戦


ベトナム共産党
南ベトナム解放民族戦線
共産主義
ホー・チ・ミン思想


「国家」
大越
ベトナム民主共和国
ベトナム国
ベトナム共和国
南ベトナム共和国
ベトナム社会主義共和国


人物
ファン・ボイ・チャウ
グエン・タイ・ホック
ホー・チ・ミン
ヴォー・グエン・ザップ
レ・ドゥク・ト
レ・ズアン
グエン・ミン・チエット
グエン・タン・ズン
ノン・ドゥック・マイン
グエン・フー・チョン


言語
ベトナム語 · チュノム · チュハン
チュ・クオック・グー

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ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、ベトナム語Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam / 共和社會主義越南)、通称ベトナムえつなんベトナム語Việt Nam / 越南、ヴィエットナム、英語: Vietnam)は、東南アジアインドシナ半島東部に位置する社会主義共和制国家[4]首都ハノイ

インドシナ半島の東海岸をしめるベトナムの国土は南北に長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジア国境を接する。東と南は南シナ海に面し、フィリピンボルネオ島マレーシア連邦ブルネイインドネシア)そしてマレー半島(マレーシア連邦およびタイ王国南部)と相対する。

南シナ海南部のスプラトリー諸島を「長沙諸島」(ちょうさしょとう、ベトナム語Quần đảo Trường Sa / 群島長沙、クァンダオ チュオンサ)と呼称して自国領と主張し、一部を実効支配している。南シナ海中部のパラセル諸島(ベトナム名は「黄沙諸島」)に付いても領有権を主張しているが、過去にはアメリカ合衆国や中国との武力衝突もある[5]

概要[編集]

中国南東岸に住む諸族である百越のうち駱越が南下して、の時代には中国の支配を受けたが、10世紀に独立[6]丁朝李朝陳朝黎朝阮朝などの王朝支配を経て、19世紀後半にフランス植民地に編入された[6]第二次世界大戦中の日本軍の進駐と戦後の第一次インドシナ戦争を経てフランス植民地体制が崩壊し、国土は社会主義陣営のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義陣営のベトナム共和国(南ベトナム)に分裂。ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)を経て南ベトナムの政権が崩壊し、1976年に統一国家としてベトナム社会主義共和国が成立した[7]

政治体制はベトナム共産党による一党独裁体制である[8][9]エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界136位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)[10]。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも下から6番目の175位と後順位であり、最も深刻な状況にある国の一つに分類されている(2020年度)[11]

人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、政府が言論、結社、報道、信仰など人民のあらゆる基本的自由を制限しており、刑事司法は政府からの独立性に欠け、警察は自白を引き出すために拷問を多用するという人権侵害が極めて深刻な国であることを報告している[12]

経済面では、1978年のカンボジア侵攻後の国際的孤立の中で国際収支が悪化して経済危機に陥り、干ばつや洪水などの自然災害による食糧不足などが重なって大量の難民を出す事態に陥った[6]。その対策として1986年ドイモイを打ち出し、経済の自由化を進めた。外国資本の導入で製造業は活況を呈し、南シナ海で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品になっている[7]。他方でドイモイの進展で貧富の格差は拡大している[6]

外交面ではベトナム戦争以来親ソビエト連邦外交を基調としたため、ソ連と対立する中華人民共和国と関係が悪化。1977年国連に加盟するも、1978年に親中反ソ派のポル・ポト政権下のカンボジア侵攻したため、1979年に中国のベトナム侵攻を招き[13]、国際的に孤立した[7]ソ連崩壊後の1991年に中越戦争で交戦した中華人民共和国と、1995年にはベトナム戦争で交戦したアメリカ合衆国と国交を回復し、ASEANにも加盟した[6]。近年は南沙諸島など南シナ海への実効支配を強める中国との対立が深まっており[14]2010年代以降はアメリカ軍やASEANと合同軍事演習を行うなど中国牽制の姿勢を強めている[15][16]2016年にはTPPに加盟[17]

軍事面では18歳から25歳の男性を対象に兵役期間2年の徴兵制を敷いており[18]ベトナム人民軍は50万弱の兵力を有する[19]。軍事力は軍事ウェブサイトの グローバル・ファイアパワー (GFP) が発表する「2020 Military Strength Ranking」によれば世界22位で、東南アジアでは第2位である[20]

人口は9762万人(2020年ベトナム統計総局)。住民はキン族(ベトナム人)が約86%を占め、他にミャオ族チャム族など53の少数民族が存在し、中国人も暮らしている[6][21]

宗教は仏教徒が多いが、カオダイ教ホアハオ教、フランス植民地時代からのカトリックも存在する[6]。憲法上は信教の自由を認めているが、実際には政府による強力な規制・監督が敷かれており、アメリカから信教の自由の改善を要請されている[22]

公用語はベトナム語で住民の大半が使用しているが、一部に少数民族の言語も存在する[6]。表記方法としては古くは漢字が用いられ、13世紀からはチュノムという漢字を基に作られた独自の民族文字が使用されるようになったが、フランス統治時代以降はチュ・クオック・グーと呼ばれるローマ字表記が用いられており、現在は漢字とチュノムは廃れている[23]

地理としてはインドシナ半島の東半部、トンキン湾、南シナ海に沿うS字形の南北に細長い国土である。北部はソンコイ川の形成する 紅河デルタとそれを囲む山岳地帯から成り、中部はアンナン山脈が急崖をなして南シナ海岸に迫る狭い地域であり、最狭部では東西の幅が約50kmである。南部は主としてメコン川メコンデルタからなる。首都はハノイ[6]

国名[編集]

正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam" (Công hoà xa hoi chu nghia Viêt Nam.oga 聞く)。略称は "Việt Nam" (ベトナム語発音: [viət˨ næm˧] ( 音声ファイル))である。ベトナム語の漢字チュハン)では「共和社會主義越南」「越南」となる。

1802年に現代とほぼ変わらない領土で統一した人物は、阮朝の創始者の阮福暎(嘉隆帝)である。1804年には嘉慶帝から越南国王封ぜられ、「越南」を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」の号を求めたが、嘉慶帝は「越南」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。

ロシア語で「Вьетнам」と書き、ラテン文字表記法の学術表記で「V'etnam」になり、日本語表記は「ベトナム」となる。しかし「i」があるベトナム語による「Việt」の正しい発音は「ベト」ではなく「ヴィエッ」であることから、一部文献等では「ヴィエトナム」「ヴィエットナム」等の表記もみられる。漢字文化圏の国家なので漢字で「越南」(えつなん)の表記もあり、(えつ)と略す。「越南」の表記を用いながら「ベトナム」と呼ぶこともある。現在の日本国外務省ではカタカナで「ベトナム」「ベトナム社会主義共和国」の表記を用いるが、かつてはベトナム語の発音に近い「ヴィェトナム社会主義共和国」の表記となっていた。

公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。1976年6月24日、ベトナム戦争後初の南北統一国会(第6期国会第1回会議)が招集され、7月2日の国会決議により現在の国名が決定された[24]。2013年の憲法改正時に、「ベトナム社会主義共和国」の国名を、1945年ベトナム八月革命によって独立した時の国名「ベトナム民主共和国」に改める動きが報じられた[25][26] が、改正案から国名変更部分は除外され、変更はされなかった[27]

歴史[編集]

ベトナムの歴史
ベトナム語の『ベトナムの歴史』
文郎国
甌雒
南越
第一次北属期
前漢統治)
徴姉妹
第二次北属期
後漢六朝統治)
前李朝
第三次北属期
南漢統治)
呉朝
丁朝
前黎朝
李朝

陳朝
胡朝
第四次北属期
統治)
後陳朝
後黎朝前期
莫朝
後黎朝
後期
南北朝
莫朝
南北朝
後黎朝後期
阮氏政権 鄭氏政権
西山朝
阮朝
フランス領
インドシナ
ベトナム帝国
コーチシナ共和国 ベトナム
民主共和国
ベトナム国
ベトナム
共和国
南ベトナム
共和国
ベトナム社会主義共和国

石器文化[編集]

今からおよそ30 - 40万年前の地層から人類ハノイ北方のタムハイにあるタムクエン洞窟(ランソン省)で発見されている。他の場所からも、例えばクアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)から打製石器剥片石器がたくさん発見されている。また、タムオム(ゲアン省)、ハンフム(イエンバイ省)、トゥンラン(ニンビン省)、ケオレン(ランソン省)などからも人類の足跡が発見されている[28]

今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス)が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省)、ソンビー(フート省)やライチャウ、ソンラ、バクザン、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧で、万能石器である[29]

最終氷期が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器を伴い、石製のが見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾して農業ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから、を飼って畜産を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟や採取、場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる[30]

青銅器文化[編集]

部族国家群鴻龐朝英語版(現フート省付近の文郎国、山岳部の甌越ベトナム語版紅河デルタ雒越など)を形成していた。これが古越人(後のベト族)である。紀元前4世紀頃から、東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が、北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯に広がった。始皇帝によって象郡が置かれ、郡県支配を受けた。蜀泮によって文郎国、甌越、雒越が統合され、甌雒紀元前257年 - 紀元前207年)が成立し、コロアを王都とした。紀元前207年に南越国が成立し、甌雒を併合した。

北属期[編集]

越人王朝の形成[編集]

モンゴルの侵攻[編集]

モンゴル帝国に連なるが中国を支配した13世紀に、皇帝のクビライは3度にわたるベトナム侵攻英語版(元越戦争)を行った。1258年第1次元越戦争ベトナム語版1283年第2次元越戦争ベトナム語版1287年第3次元越戦争ベトナム語版1288年白藤江の戦いで敗北した元の侵攻軍は敗走した。

第四次北属期[編集]

14世紀に陳朝の都昇龍(タンロン)を2度攻略した制蓬峩(チェーボンガー、Chế Bồng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏が、元に代わった中国・永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争英語版(明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期英語版1407年-1427年)となり、明よって「交阯」(JiaozhiGiao Chỉ、交趾)との地名で呼ばれた。

南進時代[編集]

藍山蜂起1418年 - 1428年)で明軍を追い出した黎利(レ・ロイ)により後黎朝が起こる(1428年 - 1788年)。地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国[31] にはヴィジャヤ英語版パーンドゥランガベトナム語版の2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻(チャンパ・大越戦争英語版)によりヴィジャヤが滅亡した。

黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。この頃、日本は広南阮氏と交易し、ホイアンに日本人町ができ来遠橋などが建てられた。

広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世英語版(在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(: Prey Nokor、現ホーチミン市)に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ズオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên)らの率いる50隻余の艦隊が出現して広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった[32]

1693年に広南阮氏の武将阮有鏡ベトナム語版がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省カマウ省に勢力を伸ばしていた鄚玖の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り、広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人居住領域の併合を行う。

西山朝[編集]

1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり、1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年シャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福暎がメコンデルタ地帯に攻め込んだが(ラックガム=ソアイムットの戦い)、阮恵(グエン・フエ)率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部に辛うじて存在していた後黎朝の昭統帝乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福暎は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。

阮朝[編集]

ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かれた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されている。

西山朝に内紛の兆しが見えると、阮福暎1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝(1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する[注 1]

フランス植民地支配[編集]

1847年4月15日、フランス軍艦がダナン艦砲射撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い英語版)。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊がダナンに侵攻(コーチシナ戦争英語版1858年-1862年)。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナが成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランスがハノイを占領した。

1883年6月、トンキン戦争英語版(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約英語版(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナントンキンがフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定英語版(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約英語版(第2次フエ条約、パトノートル条約)で清への服従関係を絶つ。

1884年8月、清仏戦争1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約で、清は宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立し、フランスにより植民地化された。日本では「仏印」と呼ばれた。

反仏独立運動[編集]

フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム(黄花探、通称「デ・タム」)などが知られる。

1904年ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デ維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)。1907年en:Gilbert Trần Chánh ChiếuFrançois-Henri SchneiderらによってLục Tỉnh Tân Văn(六省新聞、1907年 - 1908年)がサイゴンで発行される。1912年広東ベトナム光復会を結成。

1913年Nguyễn Văn VĩnhとFrançois-Henri Schneiderらによって初のチュ・クオック・グー新聞の『Đông Dương tạp chí』(『東洋雑誌』、1913年 - 1919年)がハノイで発行される。1916年コーチシナ蜂起英語版。1919年、ホー・チ・ミン安南愛国者協会Association des Patriotes Annamites)を組織。1923年Diệp Văn Kỳによってチュ・クオック・グー新聞『Ðông Pháp Thời Báo』(『東法時報』、1923年 - 1928年)がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省グエン・タイ・ホックベトナム国民党によるイエンバイ蜂起ゲアン省ハティン省ゲティン・ソヴィエトベトナム語: Xô Viết Nghệ TĩnhNghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。

1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。

第二次世界大戦[編集]

1940年ナチス・ドイツのフランス侵攻により、フランスは北部を占領され、南部にはドイツに協力するヴィシー政権が樹立された。これに伴い、日本軍が北部仏印進駐1941年タイ王国とフランス(ヴィシー政権)の間にタイ・フランス領インドシナ紛争が発生した。日本政府東京条約でこれを仲裁した直後に南部仏印進駐を決行。米英蘭との対立を深めて太平洋戦争に突入し、仏印は南方作戦マレー作戦マレー沖海戦タイ進駐)における日本軍の策源地となった。

1944年ヴォー・グエン・ザップ武装宣伝旅団ベトナム語版ベトナム人民軍の前身)を組織。凶作に加え、米軍空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、北部(トンキン)を中心に翌年までに200万人以上(諸説あり)が餓死したとされる(1945年ベトナム飢饉)。1945年3月11日保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助(明号作戦)下でベトナム帝国の独立を宣言。1945年8月15日連合国への降伏を決めた日本がポツダム宣言を受諾した旨を声明(玉音放送)し、軍に戦闘停止を命令したが、8月17日、ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠し(ベトナム八月革命)、この革命でバオ・ダイは退位させられた[33]9月2日ベトナム民主共和国の樹立を宣言、ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任。同日、日本が降伏文書に署名した。

アメリカの介入と南北分断時代[編集]

インドシナ戦争[編集]

1946年11月、ハイフォン(海防)でのフランス軍との衝突から、フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争、1946年 - 1954年)が始まる。1949年、フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。国共内戦における中国共産党の勝利で中国大陸に建国された中華人民共和国と、ソビエト連邦は、ベトナム民主共和国を承認。以後、東西冷戦下で北ベトナム及び統一ベトナムは、中ソや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、東欧社会主義諸国とともに東側陣営に属することとなった。

北ベトナムの土地改革ベトナム語版1953年 - 1956年)。1954年5月のディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスは7月にジュネーヴ協定を結んでベトナムから撤退し、独立戦争は終結した。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムではアメリカ合衆国を後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。1960年12月、南ベトナム解放民族戦線結成。

ベトナム戦争[編集]

1962年2月、アメリカ合衆国はサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入によるベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。1963年11月22日ケネディ大統領が暗殺されジョンソンが米大統領に就任すると、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件以降、米軍は戦争に直接介入するようになる。1965年2月、アメリカが北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、本格的な戦争に突入する。1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢により、アメリカは大打撃を受ける。5月、パリ和平会談を開始したが、会議は中断される。同年10月、ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開された。1969年1月20日ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる。6月、南ベトナムで解放戦線は、南ベトナム共和国革命臨時政府を建設し、ベトナム共和国と対峙する。9月2日ホー・チ・ミンが死去し、レ・ズアン第一書記として党のトップとなる。1972年4月、アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開する。1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、パリ和平協定に調印する。1973年、日本との国交が樹立される。1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏する。サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は崩壊。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結した[34][35]

南北ベトナム再統一以後[編集]

1976年4月、南ベトナム消滅による南北統一、初の南北統一選挙が行われた。1976年7月2日ベトナム民主共和国ベトナム社会主義共和国に改名。1976年12月、ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイで開き、旧名称であるベトナム共産党を再度採用した。

カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争[編集]

第二次インドシナ戦争でカンボジアの共産主義勢力クメール・ルージュは、北ベトナムや南ベトナム解放戦線と協力関係にあったが、1975年にカンボジア内戦に勝利して民主カンプチアを建国した後はベトナムとの対立を深めた。民主カンプチアによる多くの国境侵犯やバチュク村の虐殺などにより、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争(第三次インドシナ戦争、1978年 - 1989年)でカンボジアへの侵攻を開始。1979年、侵攻を非難する中華人民共和国がベトナムを攻撃し、中越戦争が開始される。世界各国は援助を停止したためベトナムは孤立するが、戦争期に中ソから支援され、またアメリカや南ベトナムから鹵獲・接収した多種多様な近代兵器と実戦経験豊富な古参兵を擁するベトナムは、文化大革命で混乱・疲弊した中国人民解放軍を相手に善戦し、国連五大国の一角である中国を一度は退けた。

戦争が継続される一方、国内の産業は混乱、経済は低迷した。特に、1979年の農業は農地の集団化が進まないなどの理由でコメの生産が計画量に達せず、軽工業も人材不足や原材料の輸入途絶で生産が停滞した。五か年計画は破綻し、コメの配給が行われない地区も発生した[36]

1986年7月、レ・ズアンが死去。12月、第6回全国代表者大会以降、チュオン・チン国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(刷新)政策」を開始し、改革・開放路線に踏み出す。1988年3月14日ジョンソン南礁が中華人民共和国に占領される(スプラトリー諸島海戦)。カンボジア・ベトナム戦争で勝利してヘン・サムリン率いる親ベトナム政権を成立させた代償にソ連圏を除く国際社会から孤立し、国内経済が疲弊しており、1989年9月、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。カンボジアからの撤退を命じたグエン・ヴァン・リンらが1990年に秘密裡に訪中し、1991年に中国を訪れたヴォー・チ・コン国家評議会議長が江沢民総書記と会談、越中関係を正常化させた。

関係改善期[編集]

1991年6月27日ドー・ムオイが共産党書記長(最高指導者)に就任。1993年2月、フランスと和解(当時のフランス共和国大統領フランソワ・ミッテラン)。1995年7月、クリントンアメリカ大統領が、国家の承認外交関係樹立を発表。1995年8月5日、アメリカと和解した。

7月、東南アジア諸国連合(ASEAN)が加盟を認め、周辺諸国との関係も改善した。10月、所有権契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる。1996年1月、ASEAN自由貿易地域(AFTA) に参加。1997年12月29日レ・カ・フューが共産党書記長に就任。1998年アジア太平洋経済協力(APEC)参加。2003年7月5日 フォンニャーケーバン国立公園ユネスコ世界遺産に登録された。

2001年4月22日ノン・ドゥック・マインが共産党書記長に就任。2003年日越投資協定締結。2006年初頭、Bui Tien Dungが拘留される。6月27日チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員(ホーチミン市党委員会書記)を選出した。また、引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を国会は選出した。6月28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。ダオ・ディン・ビンベトナム語版交通運輸大臣は同省傘下の汚職事件(PMU 18 scandal)で指導責任を問われ、事実上更迭された。

2007年1月11日世界貿易機関(WTO)に正式加盟した(150番目の加盟国)。2007年10月16日国連総会安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。

政治[編集]

チョンベトナム共産党書記長
チョンベトナム共産党書記長
フック国家主席
フック国家主席
チン首相
チン首相

統治体制[編集]

政体社会主義共和制統治体制は、ベトナム共産党による一党独裁制である。ベトナム共産党の最高職である党中央委員会書記長(最高指導者)、国家元首である国家主席政府の長である首相立法府である国会の議長を国家の「四柱」と呼んでいる[37]。原則として、党と国家のトップを同じ人物が兼務することはなく、「四柱」を中心とした集団指導体制を取る。2018年10月には病死したチャン・ダイ・クアン国家主席の後任としてグエン・フー・チョン共産党書記長が2021年まで国家主席の兼任があった[38]。2021年以降、書記長と国家主席が再度分離され、国家主席がグエン・スアン・フック(前首相)、首相はファム・ミン・チン、国会議長はヴオン・ディン・フエが務める。

マルクス・レーニン主義ホー・チ・ミン思想を基軸とするベトナム共産党は、現在のベトナム社会主義共和国憲法(2013年制定)第4条に「国家と社会の指導勢力」と明記されている。建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行なっており、ホー・チ・ミン(初代ベトナム労働党主席兼ベトナム民主共和国主席)でさえも専制的な権力を有したことはない。1980年代までは、民主党、社会党などの衛星政党も存在するヘゲモニー政党制であったが、1980年代末には解散され、名目的な複数政党制から、純粋な一党制に移行した。現在、ベトナム共産党以外の政党の結成は禁止されている。

政府の運営は極めて官僚的であり、市場経済化しつつ政治の民主化は認めない中国共産党独裁下の中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを簡素化するなど、投資の透明性や効率性を向上させようとしている[39]

立法[編集]

立法府たる一院制国会憲法では「国権の最高機関」とされ、定員500名、任期5年。ただし、一党独裁制であるため、国会は重要な役割を果たしてはいない[注 2]。全立候補者は共産党翼賛組織の「ベトナム祖国戦線」の審査で絞り込まれる[41]。投票率は9割以上だが、家族や組織の代表者による代理投票が行われており、実際の投票経験はない国民も多い[42]

国会議員の9割以上は共産党員であり、1986年以降は政府批判の発言も見られるが、党の指導は絶対的である[42]

[編集]

最近まで、中華人民共和国と同様に都市在住者と農村在住者の戸籍を区分していたが2017年、正式に廃止を決定。2021年7月1日に戸籍簿の発行が終了[43]、2023年1月1日にデータベース移行する予定である[44]

国際関係[編集]

ベトナムと外交関係を有する諸国の一覧図。

中国との関係[編集]

共産党の一党社会主義体制を採用しており、社会主義市場経済ネット検閲など中国と類似する政策を行なっているために「ミニ中国」の異名がある[45]

中国の王朝から侵略や支配を受け938年にその支配を脱した。

第一次インドシナ戦争ベトナム戦争では、ベトナム民主共和国中華人民共和国から支援を受け、グエン・ソンのような中国共産党党員はベトナム人民軍初の士官学校をつくった。しかし、北ベトナムに対して北爆再開など大規模な軍事攻撃を行ったリチャード・ニクソン大統領の中国への電撃訪問から中国はアメリカ合衆国に接近し、パリ協定でのアメリカ軍撤退に乗じて西沙諸島の戦いで中国が南シナ海への進出などしたため、摩擦が起き始めた。中国に友好的だったホーチミンの死後になされた南北ベトナム統一後、ソ連寄りとなったベトナムによるカンボジアへの侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)を巡っては1979年に中国との大規模な戦争を起こし(中越戦争)、中国は米国とともに民主カンプチア連合政府フルロなどベトナムに対する抵抗活動を支援し、1989年グエン・ヴァン・リンらがベトナム人民軍にカンボジアからの撤退を命じて中国と国交正常化交渉を開始するまで度々交戦(中越国境紛争)をしている状態であった。

ホアンサ諸島チュオンサ諸島はベトナムのもの」(Hoàng Sa, Trường Sa là của Việt Nam)と主張するキャンペーン。
2013年ホーチミン市統一会堂にて)

中華人民共和国とは陸続きのため、最大の貿易相手国であり、中国製品も多く流通しているが過去の侵略された歴史を含めて、反中感情を抱く者は非常に多い。

台湾との関係[編集]

台湾には、在台ベトナム人(在台越南人)とベトナム系台湾人(越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争後の難民や出稼ぎ労働者、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2019年時点で在台外国人約76万人のうち、在台ベトナム人は約22万人と29%を占める[注 3]。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。

北朝鮮との関係[編集]

朝鮮民主主義人民共和国とは、共産主義国家同士の関係で、ハノイ、平壌双方の首都に大使館が設置されており、大韓民国よりも早く国交を結んでいる。ベトナム戦争時には、朝鮮人民軍部隊が北ベトナムへ派遣された(朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦[46]。また、過去にはベトナムの声の交換中継をしていた。一方で北朝鮮の銀行関係者を追放するなど、国際連合の対北朝鮮経済制裁を実施している[47]

このほか、2019年2月の米朝首脳会談のホスト国も担った。

韓国との関係[編集]

ベトナム戦争に韓国がアメリカの参戦要請により参加[48]ハミの虐殺、性暴力、性暴力による出生または民間人との間に出来た子供の置き去りとなったライダイハン問題などが起こる[49]

なおベトナム政府はベトナム戦争の問題では韓国政府への謝罪、補償の要求は行っておらず補償を求めているのは個人である[50]

1992年にかつての北ベトナムであるベトナムと国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物京南ハノイランドマークタワーを所有し、またホーチミン市でも一番高い建物であるビテクスコ・フィナンシャルタワーヒュンダイグループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。特に中国から携帯電話の生産拠点を移したサムスン電子2016年の輸出総額の2割近くを占めている[51]

ベトナム人労働者や結婚移民を送り出しており2019年の韓国における結婚移民ではベトナム人が4万人で最も多かった[52]

アメリカ合衆国との関係[編集]

第二次世界大戦中は、アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたるベトミンとの関係は対日戦の盟友であった。日本軍優勢の頃にインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したりしたアメリカ軍航空隊の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている[注 4]。また、アメリカ軍が潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている[54]1940年代後半の独立時に制定された憲法は、旧宗主国フランスのみならずアメリカ合衆国憲法をも参考に作られており、1950年代にアメリカでレッド・パージマッカーシズム)が起こった頃には、一時、自らの共産党を法的に非合法組織としたことすらあった。

第一次インドシナ戦争でフランスに勝利した後、アメリカが介入した。影響力を喪失した旧宗主国のフランスに代わり、アメリカ合衆国政府は南ベトナム傀儡政権を樹立して、背後から操って間接支配を続けた。1954年にベトナム独立戦争が終結した後、1960年にアメリカ合衆国の傀儡政権を打倒し、ベトナム人自身による民族自決統治を求める南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナム政府軍に対する民族独立の武力闘争を開始した。

1961年にアメリカ合衆国政府は、南ベトナムにアメリカ合衆国軍軍事顧問団を派遣し、傀儡政権である南ベトナム政府を支援し、トンキン湾事件を口実にベトナム戦争への軍事介入、南ベトナム解放戦線に対する掃討戦を開始した。詳しくはベトナム戦争(ベトナムでは「抗米戦争」と言われている)を参照。1965年に、アメリカ合衆国政府北ベトナムに戦線を拡大し、北ベトナムのみでなく、ベトコンが潜伏していたラオスカンボジアに設置された「ホーチミン・ルート」も同時期に大規模爆撃した。

中央情報局(CIA)は、秘密戦争をタイ王国ラオスカンボジアで開始していた。中でも、米国内で秘密にされた米軍によるロン・ノル政権支援の為のカンボジアへの大爆撃は、この一国に対してだけで、第二次世界大戦での日本本土空襲総規模の三倍に達していた事も判明している。北ベトナムとアメリカは敵対関係となった。アメリカ軍はベトナム戦争当時の1968年昭和43年)3月16日に、クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落にて、ソンミ村虐殺事件を起こしている。

また、捕らえられた米兵は、別名「ハノイ・ヒルトン」(正式名称:ホアロー捕虜収容所)に収容され、後にアメリカ合衆国上院議員となるジョン・マケインも収容され捕虜となった後、北ベトナム兵より拷問を受けた。(ハノイ・ヒルトンとは蔑称であり、本家「ヒルトンホテル」のことではない)。1999年に、本物のヒルトンホテルである「ヒルトン・ハノイ・オペラ」が、首都ハノイで開業している。

1975年4月30日サイゴン陥落で、ベトナム戦争でのアメリカ合衆国の敗戦が確定した。事前に進軍を察知したアメリカ合衆国は「フリークエント・ウィンド作戦」を決行し、自国民の保護の他に南ベトナムの要人も保護した。アメリカが支援していた南ベトナムからは、多くの難民(ボートピープル)が流出し、カナダオーストラリア、フランス、アメリカ、日本へと移民した。サイゴン陥落後からソビエト連邦の崩壊を経て、ドイモイ政策後の1995年8月5日、アメリカと和解し、当時のビル・クリントン大統領は越米両国の国交を樹立させ、通商禁止も解除された。しかしアメリカは、1973年パリ和平協定の戦時賠償事項を、2015年時点に至っても全く履行していない。

2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカが貿易最恵国としたこともあり、フォード・モーターゼネラルモーターズコカ・コーラハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出。2003年に国防大臣はアメリカ国防総省ペンタゴン)の歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。

政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の枯葉剤などについても、あえて「民間団体」に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っている。一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米的な珍しい例である[55]2010年8月には国交復活15周年を記念し、空母ジョージ・ワシントンが中部ダナン市を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却して未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。

アメリカは、南ベトナムからは82万人もの難民を受け入れた。ベトナム系アメリカ人が故郷に旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義の本土とは対立が根深く、政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。

2015年7月7日には、ベトナム戦争後、最高指導者として初めてグエン・フー・チョン党書記長が訪米して、バラク・オバマ大統領ホワイトハウスで会談した[56]。2016年にオバマ大統領が訪問し、武器輸出全面解禁を表明した[57]

フランスとの関係[編集]

清仏戦争にてベトナム北部のランソンを攻略するフランス軍を描いた1885年フランスの絵画。
19世紀末から20世紀初頭のフランス領インドシナの領域の拡張を示した地図。

1887年明治20年)- 1945年昭和20年)。

植民地化を図るフランス第三共和国は、1883年癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)と1884年甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によって保護国化した。宗主権を主張してこれを認めない朝を清仏戦争で撃破し、1885年天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、カンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。

1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年ロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携の下での民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。

1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナ日本軍が進駐した(仏印進駐)。当時は、日本とドイツ同盟を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本はその隙を衝いて[要出典]仏印進駐を行ったのである。

仏印進駐後、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「大東亜共栄圏」の建設を呼号し、明号作戦の結果、カンボジアとラオスと同時期の1945年3月11日ベトナム帝国としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、阮朝王政復古を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけて一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。日本のポツダム宣言受諾表明に至る1945年8月14日から15日にかけて、インドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。

その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイ8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。

現在の食卓で見かけるベトナムコーヒーフランスパンバインミーワインは、仏領インドシナの名残りである。シエスタ昼寝)の習慣ダラットで見かける高級ホテル別荘カトリック教会聖堂であるハノイ大教会サイゴン大教会ダナン大教会さらにホイアンの古い町並みは、フランス統治時代の面影を色濃く遺している。また、現在は世界遺産であるミーソン聖域の修復を施したのも、フランスのフランス極東学院であるが、ベトナム戦争時に、ここを拠点にしていた南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)アジト掃討のために、アメリカ空軍爆撃機B-52によって破壊された。

日本との関係[編集]

百人一首』の歌人、阿倍仲麻呂は中国唐朝安南節度使でもあった。
ホイアン日本橋来遠橋)。鎖国前、交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ[58]、今でも現地の人に大切に使われている。提灯フェホォと書いてあるが、これは当時のホイアンの町の呼称である。世界遺産
仏印進駐後、サイゴン(現在のホーチミン市)を闊歩する日本軍兵士(1941年)。

明治時代から昭和前半[編集]

最期の王朝である阮朝は、フランス共和国の植民地侵攻により、フランス領インドシナとなった。1905年日露戦争帝政ロシアに対する日本の勝利が、ファン・ボイ・チャウなどの知識人らに知れ渡り、独立するための武器援助を日本に求めるため来日した。彼らの要請は犬養毅によって拒否されたが、代わりに勉学に勤しむことを提案され、日本へ留学する「東遊運動」が盛んになった。しかし、フランスは日本に圧力をかけて1907年日仏協約を締結させ、日本在住のベトナム人を追放させた。

第二次世界大戦[編集]

1940年昭和15年)に日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年(昭和16年)には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、日本軍は太平洋戦争末期までフランス領インドシナ政府と共存していた。その後、日本軍は、1945年3月の明号作戦によりフランス領インドシナを解体し、阮朝保大帝の下でベトナム帝国を独立させた。

戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟(ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは保大帝を退位させてベトナム八月革命を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないと見做されている[注 5][信頼性要検証]

第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、国内ではこの200万人という数字は広く知られている(「ベトナム独立宣言」参照)が、日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている(『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波現代文庫、2005年)。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により「経済協力」の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。

第二次世界大戦後[編集]

第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、フランス軍ベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まった。ベトミンに残留日本兵が多数参加し、独立に対して多大な貢献をした。当時、766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵が政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって日本へ帰国した150人以外は、なお留まり続けた模様である。

1951年に日本政府はベトナム国南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)が国名を変更したベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。

一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の1973年7月より、フランスの首都パリにおいて国交交渉が開始される。同年9月21日には交換公文が交わされ、大使級の外交関係が樹立された[59][60]。また、国交樹立の合意に伴い「経済協力」の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。

日本共産党全教1993年よりフエストリートチルドレン保育教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫[注 6] 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党[注 7]活動家政治家と親しく、1994年6月30日から1997年(平成9年)11月7日自社さ連立政権下においては、フエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行なっている。

近年の日越関係[編集]

現在,日越関係は「アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ」の下、政治、経済、安全保障、文化・人的交流など幅広い分野で緊密に連携している。日越間の交流の増加を受けて、1997年の在大阪ベトナム総領事館開設に続き、2009年に在福岡ベトナム総領事館、2010年に在釧路ベトナム名誉領事館と在名古屋ベトナム名誉領事館が開設された[61]

皇太子徳仁親王(当時)は2008年平成20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し[62]、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイダナンホイアンホーチミン市と、各地を縦断して訪問し、明仁上皇が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川支流で新種のハゼが見つかったことを明らかにした学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した[63]。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している[64]

査証(ビザ)に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する口上書を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている[65]。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である[66]

在日ベトナム人は増加傾向にあり、2020年末には44万8000人となり、日本の外国人では韓国を抜き、中国に次いで2番目に多い[67]

政府開発援助・価値観外交[編集]

ODAは日本が最大の支援国であり[67]、日本のODAによってタンソンニャット国際空港カントー橋などの基幹インフラを建設・支援をしている。

教育・文化交流事業[編集]

軍事[編集]

ベトナム人民海軍の兵士。
2007年6月20日

ベトナム人民軍 (Quân đội Nhân dân Việt Nam/軍隊人民越南) は1944年12月22日に建軍された。徴兵制度を採用しており、18歳から27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。中越戦争時には総人口5000万人台に対して正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、現在では総人口約9000万人に対して48万4000人まで削減された。人員は陸軍が41万2000人、海軍が4万2000人、防空・空軍が3万人である。このほか、予備役と民兵が合わせて300万人~400万人いる。予備役将校の職業は様々で、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。

ベトナム人民軍は日本の防衛大学校に本科学生相当の留学生を多数派遣している。インド海軍ベトナム人民海軍将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請している[70]。アメリカ合衆国や日本からは巡視船の供与を受け[71][72]カムラン湾には伝統的友好国のロシア海軍は勿論、アメリカ海軍海上自衛隊中国人民解放軍海軍などの艦船が寄港している。2014年には国際連合平和維持活動に初参加した[73]

地理[編集]

概要[編集]

ベトナムの標高図
世界遺産に登録されたハロン湾
ベトナム北部の徳天瀑布

ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタ地帯紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタ地帯はメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。

沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。

沿岸には北部・トンキン湾を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土として、海南島との間にあるバクロンヴィー島ホーチミン市から約600km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「チュオンサ」(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「ホアンサ」(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中華人民共和国実効支配下にある。最大の島は、最西端の領土となる、シャム湾に浮かぶフークォック島である。

主要な河川は紅河(支流であるカウ川ロー川ダー川)、タインホアに河口を持つマー川ヴィンに近いカー川、中部のトゥイホアに河口を持つバー川英語版、南部のドンナイ川メコンデルタメコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は、中部のフエダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。

デルタ地帯[編集]

5月から11月にかけて、インド洋を渡ってやってくるモンスーン(季節風)が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川の至る所で堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタや南部のメコンデルタが、重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である[74]

平野[編集]

ベトナム北部には、紅河、マー川(タインホア省)やラム川(ゲアン・ハティン省)の下流域などに大きな平野が広がっている。紅河平原の面積は約15,000平方キロメートルで一面が水田であり、人口は6,500,000人(1931年時点)を擁し、そのほとんどは農民である[75]

気候[編集]

北回帰線よりも南に位置し、赤道近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーンの影響を強く受ける。7月から11月まで台風の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。

北部は温帯性の気候であり、4月から10月までが雨期となる。首都ハノイの平均気温は1月が16℃、7月が29℃である。年平均降水量は1,704mm。チュオンソン山脈の影響により、山岳地帯では降水量が4,000mmを超える場所もある。ケッペンの気候区分では、温帯夏雨気候(温暖冬季少雨気候) (Cw) に分類されている。

南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候〈Aw〉、一部地域は熱帯モンスーン気候(Am))[注 10]。平均気温は1月が18℃、7月が33℃だが、平均降水量は1,000mmと少ない。

北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江(メコン川)が広がる。

紅河デルタにあるフーリーでは、1980年から1995年の月別平均気温は、1月16℃、2月15℃、3月19℃、4月22℃、5月26℃、6月27℃、7月28℃、8月27.5℃、9月26℃、10月24℃、11月21℃、12月19℃である[76]

  • ハノイの気候(温帯夏雨気候)
ハノイ (1898-1990年)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 33
(91)
34
(93)
37
(99)
39
(102)
43
(109)
40
(104)
40
(104)
38
(100)
37
(99)
36
(97)
36
(97)
37
(99)
43
(109)
平均最高気温 °C°F 19.3
(66.7)
19.9
(67.8)
22.8
(73)
27.0
(80.6)
31.5
(88.7)
32.6
(90.7)
32.9
(91.2)
31.9
(89.4)
30.9
(87.6)
28.6
(83.5)
25.2
(77.4)
21.8
(71.2)
27.0
(80.6)
日平均気温 °C°F 16.5
(61.7)
17.5
(63.5)
20.5
(68.9)
24.2
(75.6)
27.9
(82.2)
29.2
(84.6)
29.5
(85.1)
28.8
(83.8)
27.8
(82)
25.3
(77.5)
21.9
(71.4)
18.6
(65.5)
24.0
(75.2)
平均最低気温 °C°F 13.7
(56.7)
15.0
(59)
18.1
(64.6)
21.4
(70.5)
24.3
(75.7)
25.8
(78.4)
26.1
(79)
25.7
(78.3)
24.7
(76.5)
21.9
(71.4)
18.5
(65.3)
15.3
(59.5)
20.9
(69.6)
最低気温記録 °C°F 3
(37)
5
(41)
7
(45)
10
(50)
16
(61)
21
(70)
22
(72)
21
(70)
17
(63)
13
(55)
6
(43)
5
(41)
3
(37)
雨量 mm (inch) 18.6
(0.732)
26.2
(1.031)
43.8
(1.724)
90.1
(3.547)
188.5
(7.421)
239.9
(9.445)
288.2
(11.346)
318.0
(12.52)
265.4
(10.449)
130.7
(5.146)
43.4
(1.709)
23.4
(0.921)
1,676.2
(65.991)
平均降雨日数 8.4 11.3 15.0 13.3 14.2 14.7 15.7 16.7 13.7 9.0 6.5 6.0 144.5
湿度 78 82 83 83 77 78 79 82 79 75 74 75 78.8
平均月間日照時間 93 56 62 120 186 180 186 186 180 155 150 124 1,678
出典1:World Meteorological Organisation (UN),[77] BBC Weather (record highs, lows, and humidity) [78]
出典2:World Climate Guide [79]
  • ホーチミン市の気候(サバナ気候)
ホーチミンの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 31.6
(88.9)
32.9
(91.2)
33.9
(93)
34.6
(94.3)
34.0
(93.2)
32.4
(90.3)
32.0
(89.6)
31.8
(89.2)
31.3
(88.3)
31.2
(88.2)
31.0
(87.8)
30.8
(87.4)
32.3
(90.1)
日平均気温 °C°F 26.4
(79.5)
27.7
(81.9)
29.2
(84.6)
30.2
(86.4)
29.6
(85.3)
28.5
(83.3)
28.2
(82.8)
28.1
(82.6)
27.9
(82.2)
27.6
(81.7)
26.9
(80.4)
26.1
(79)
28.03
(82.48)
平均最低気温 °C°F 21.1
(70)
22.5
(72.5)
24.4
(75.9)
25.8
(78.4)
25.2
(77.4)
24.6
(76.3)
24.3
(75.7)
24.3
(75.7)
24.4
(75.9)
23.9
(75)
22.8
(73)
21.4
(70.5)
23.7
(74.7)
雨量 mm (inch) 13.8
(0.543)
4.1
(0.161)
10.5
(0.413)
50.4
(1.984)
218.4
(8.598)
311.7
(12.272)
293.7
(11.563)
269.8
(10.622)
327.1
(12.878)
266.7
(10.5)
116.5
(4.587)
48.3
(1.902)
1,931
(76.023)
平均降雨日数 2.4 1.0 1.9 5.4 17.8 19.0 22.9 22.4 23.1 20.9 12.1 6.7 155.6
湿度 69 68 68 70 76 80 80 81 82 83 78 73 75.7
平均月間日照時間 244.9 248.6 272.8 231.0 195.3 171.0 179.8 173.6 162.0 182.9 201.0 223.2 2,486.1
出典1:World Meteorological Organization (UN)[80] Weatherbase (humidity)[81]
出典2:(sunshine hours only)[82]

生物多様性[編集]

ベトナムでは15,986種の植物相が確認されており、その内の10%が固有の植物で占められている。動物相には、307種の線虫類、200種の貧毛綱、145種のダニ類、7,750種の昆虫(うち113種はトビムシ目)、260種の爬虫類、120種の両生類が含まれている。また840種の鳥類と310種の哺乳類が生息しており、うち100種の鳥類と78種の哺乳類が広範囲に分布している。他は水生無脊椎動物が794種、海水魚が2,458種を占めている。 淡水に生息する微細藻類も1,438種存在しており、全微細藻類の9.6%がベトナム国内での生息を確認されている。

環境[編集]

ベトナムでは、先述での戦争時において使用された枯葉剤などの化学物質による影響から、多くの問題を抱えている一面がある。

また、野生動物の密猟が大きな懸念事項となっている。

2004年時点で生物多様性の保全に4,907万ドルを費やしており、30の国立公園を含む126の保全地域を設立している。現在は9つの生物圏保護区が設けられている。

地方区分[編集]

ベトナムの地方

日本の地域と同様の慣用的な地方の区分として、地方行政区画に沿って西北部東北部紅河デルタ北中部中南部中部高原(タイグエン)、東南部メコンデルタの8つに分けている。

また、より大枠な地方の区分として、西北部・東北部・紅河デルタを北部地方ベトナム語版(北ベトナム、ベトナム語Miền Bắc / 沔北)、中北部・中南部・中部高原を中部地方ベトナム語版(中部ベトナム、ベトナム語Miền Trung / 沔中)、東南部・メコンデルタを南部地方ベトナム語版(南ベトナム、ベトナム語Miền Nam / 沔南)の3つに区分している。これらは、フランス植民地時代トンキンアンナンコーチシナにそれぞれ相当するが、細部に変更がみられる。

[編集]

Color Notes

      陸上の極地 (2)       海岸線の極地 (2)       海上の極地 (2)

# 最極端 場所 行政区 接する自治体 座標[注 11] 出典 写真
1
最北端 ドンヴァン県ルンクー社英語版 ハザン省 中華人民共和国の旗 中国雲南省 北緯23度23分33秒 東経105度19分24秒 / 北緯23.392505度 東経105.323240度 / 23.392505; 105.323240 [83]
Cột cờ Lũng Cú.
2
最西端 ムオンネ県英語版シンタウ社英語版アパチャイベトナム語版 ディエンビエン省[84][85]  ベトナム
中華人民共和国の旗 中国
ラオスの旗 ラオス
十層大山英語版
北緯22度24分03秒 東経102度08分38秒 / 北緯22.400734度 東経102.143940度 / 22.400734; 102.143940 [86]
3
最南端 ゴクヒエン県カマウ岬 カマウ省 南シナ海 北緯8度37分23秒 東経104度42分36秒 / 北緯8.623度 東経104.71度 / 8.623; 104.71 [87] Mũi Cà Mau.
4
最南端 ホンカイ島英語版ヴァンガード堆 カマウ省 南シナ海
7° 28′ 0″ N, 109° 37′ 0″ E

(おおよそ)

[88]
5
最東端 ヴァンニン県ヴァンフォン湾ホンゴム半島ドイ岬 カインホア省 南シナ海 北緯12度38分54秒 東経109度27分42秒 / 北緯12.6483756度 東経109.4616339度 / 12.6483756; 109.4616339 [89]
6
最東端 南沙諸島チュオンサ県仙女礁 カインホア省 南シナ海 北緯8度51分18秒 東経114度39分18秒 / 北緯8.855度 東経114.655度 / 8.855; 114.655 [90][91]
Da Tien Nu.

地方行政区画[編集]

ベトナムの地方行政区画。

2011年4月の改正により、58省と、5の中央直轄城庯(市)となった。中央直轄城庯はハノイ(河内)、ホーチミン市(胡志明)、ダナン沱㶞)、ハイフォン(海防)、カントー芹苴)。国土最北に位置する省はハーザン省Hà Giang, 河楊)、国土最南に位置する省はカマウ省 (Cà Mau) である。自治体独自の旗を禁止しているため自治体ごとの旗は存在しない[92]

主要都市[編集]

住所表記[編集]

欧米の多くと同様に、細かい分類から順に表記し、またストリートによって住所を表す。番地は、偶数が左車線側、奇数が右車線側のように分かれ、ストリート名のない細かい路地に入る場合は、7/40(40番地にある路地内の7番目)のように表記する。例として、ホーチミン市1区人民委員会の住所を下記に記す。

  • Ủy ban nhân dân Quận 1 - 47, Đường Lê Duẩn, Phường Bến Nghé, Quận 1, Tp Hồ Chí Minh, Việt Nam
    (1区人民委員会 - 47番地、レ・ズアン通り、ベンゲー坊、1区、ホーチミン市、ベトナム)

経済[編集]

ホーチミン市の遠景
1997年に落成したサイゴン貿易センター

世界銀行の統計によると、2018年GDP(国内総生産)は2,372億ドル。一人当たりのGDPは2,387ドルである[93]

1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に市場経済システムを取り入れるというドイモイ政策を採択、中国の改革開放と同様に市場経済路線へと転換した。1996年のベトナム共産党第8回大会では、2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。ドイモイ政策の導入以降、貧困率は大幅に改善され、1993年の58.1%から2015年には5%以下となった[94]

政府開発援助と外国投資が経済を牽引している。2007年には政府にとって重要な目標となっていた世界貿易機関(WTO)に加盟した。世界金融危機で一時失速した国内総生産 (GDP) の成長率も、2010年代は平均して5~6%の安定成長が続いている。一方インフレ率は、2011年に18.7%と高い数値を記録したが、2017年には3.5%となった。中国では人件費が上昇基調にあることから、新たな投資先として注目が集まっている。欧州連合(EU)は新興国で初のFTAを結ぶ相手にベトナムを選び[95][96]、2020年8月1日に発効した[97]

伝統的な友好国である旧ソ連圏であるユーラシア経済連合も初のFTAを締結[98]。また、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)では、米国政府によれば最も利益を受ける国とされ[99]、日本政府によれば交渉でも主導的な役割を果たしており[100]、世界銀行によればTPPで最も恩恵を受ける国である[101]

NEXT11VISTAの一角にも数えられており、今後一層経済の発展が予想されている。1日1ドル以下で生活する貧困層の割合は中国、インド、フィリピンを下回る。

労働人口の66%が第一次産業に従事しているが、近年は第二次産業第三次産業が急成長。観光業の伸びが特に著しく、重要な外貨獲得源となっている。

主な輸出品目は原油、衣料品、農水産物。特にコメについては、インド、タイに次ぐ世界第3位の輸出国である[102]カシューナッツと黒胡椒の生産は世界の1/3を占め1位。コメのほかコーヒーゴム、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。

安い人件費、ODAを活用したインフラ整備を背景に外国資本の受け入れでASEANで高い経済成長を続けている[103]

社会主義国として経済の根幹をなしてきた国有企業とは別に、民間企業が台頭している。不動産会社として2001年に起業した後に小売業製薬学校病院経営、農業・飼料からベトナム初の自動車生産にまで進出したビン・グループ、ベトジェットを傘下に持つソビコ・ホールディングス、不動産業のFLC、BRGなどが財閥を形成しつつある。これらを含めた大手企業の経営者は10大富豪と呼ばれる。旧ソ連への留学組が創業・経営し、政治家や政府高官との人脈を利用して事業を成長させてきた例が多いと指摘されている[104][105]

2010年8月4日、ベトナム公安省は、乱脈経営で国営ベトナム造船グループ(ビナシン)を経営危機に陥れたとして、同グループの前会長を背任に当たるとして逮捕した。前会長は親族を重要ポストに登用するなど私利を図っていた疑いがもたれている。

2011年11月8日、2011-2015年の社会経済発展計画を政府が提案し、国会で承認された。国内総生産年平均6.5-7%の成長率を目指し、公共投資や国営企業の改善を通じた経済構造の再編を図るものである。

農業[編集]

コーヒーは、現在ではブラジルに次いで世界第二位の生産量(99万トン、2003年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料、製菓用途で使われる安価なロブスタ種(カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種の栽培も始まっている。また、現地では基本的に植民地支配を受けたフランスの手法を取り入れた飲み方にてベトナムコーヒーが飲まれる。

水田水稲作地帯は北部の紅河デルタと南部のメコンデルタであり、生産性も高く、国家の重要な穀倉地帯を形成している。メコンデルタで栽培できる野菜類は、ナスキュウリトマトなどのほかに、ミント類がある。

鉱業[編集]

石炭南シナ海で採掘される石油を中心とした有機鉱物資源、スズを中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。石炭技術で釧路コールマインとの繋がりが太く、北海道釧路市に名誉領事館を設置している。2003年時点の採掘量は1,670万トン。原油は1,660万トンのを産出する産油国でもあり、天然ガスの採取量は126千兆ジュールとなっている。

金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。最も重要なのが世界第4位のスズ(4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。亜鉛クロムのほか、リン鉱石を産出する。

エネルギー[編集]

ベトナムの電力の大部分は、石炭石油ガスなどの火力発電または化石燃料発電によって生産されており、その他にはディーゼル、小さな水力発電所での水力発電、再生可能エネルギーを用いた発電が挙げられる。これらが現在も国の電気を供給している。

観光産業[編集]

交通[編集]

ホーチミンのバス

道路[編集]

鉄道[編集]

空港[編集]

科学技術[編集]

ベトナムの科学技術に対する国家支出は、2010年時点でGDPの約0.45%に達している。

国民[編集]

正装として着用される民族衣装アオザイ

ベトナム社会主義共和国憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族籍を記入する欄が設けられている[106]

人口[編集]

ベトナムの総人口は、2022年現在で9,832万人となっている。1988年以降「2人っ子政策」をとってきたが、2017年を以って廃止された[107]

民族構成[編集]

公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)が最も多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語はムオン族・セダン族などと同じオーストロアジア語族モン・クメール語派)語族に属する。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている[108]

その他に少数民族としてホア族華人)、タイ系タイー族ターイ族ヌン族クメール族ムオン族、モン族(ミャオ族)、ザオ族などがある。少数民族のうち、ホア族とクメール族以外の大半は山地に住む。

言語[編集]

言語はベトナム語(越南語)が公用語である。その他にも華語(主に広東語閩南語北京語)、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や高齢者の間ではフランス語が理解できる人もいる。また、ソビエト連邦など共産主義国とのつながりがあったため、ロシア語を理解できる人もいる。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け(観光客相手に生活していく上でも、英語ができないと生活が成り立たないため)に英語が目立つのが、現在の状況である。

文字[編集]

詳細については、各項目を参照のこと。

チュ・クオック・グー𡨸國語)
声調をもつベトナム語を表記するために発明された声調入りアルファベットラテン文字)であり、現在唯一の公用文字。17世紀フランス人イエズス会宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが、カトリック教会布教の為に発明した文字。19世紀末以降のフランス植民地時代に普及し、1945年の独立時に正式に公用文字となった。現在、ベトナム語はもっぱら、この文字により表記される。
チュハン𡨸漢)
ベトナムにおける漢字。上記のチュ・クオック・グーが公用文字となるまで、ベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としてはもっぱら漢文(古中国語)が用いられた。チュ・クオック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。北ベトナムでは1950年の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、1954年には漢字の公的な使用を全廃、南ベトナムでは1975年の崩壊まで中等教育での漢文科が存続していた。2014年現在では、僧侶日本語中国語の学習者しか読めなくなっている。
チュノム𡨸喃)
ベトナム語を表記するために13世紀に発明された合成漢字。固有語の表記に用いられ、漢字と混ぜ書きされた。
  1. 漢字の音と意味による形成
  2. 訓読み
  3. 当て字

など、複数の造字法があり複雑で、一時期を除いて公用文字に採用されることはなかったが、民族意識の高まりを背景に民間では有識者層を中心に普及し、18世紀から19世紀には多くのチュノム文学が生まれた。20世紀になると、漢字の画数が複雑過ぎる事で、初等教育に支障を来す事や、チュ・クオック・グーの普及により、急速に衰退の道を辿った。

人名[編集]

主要民族であるキン族を中心に、人名の多くは、漢字文化圏に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(tên đệm、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。

名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムを持つものがある。

宗教[編集]