大韓民国

大韓民国
대한민국(大韓民國)
韓国の国旗 大韓民国の国章
国旗 国章
国の標語:弘益人間[注釈 1]
国歌애국가 (愛國歌)(韓国語)
愛国歌
韓国の位置
公用語 韓国語韓国手話言語
首都 ソウル
最大の都市 ソウル
政府
大統領 李在明
国務総理 李周浩(権限代行)
国会議長禹元植
大法院院長曺喜大
憲法裁判所所長金炯枓英語版(代行)
面積
総計 100,449km2109位
水面積率 0.3 %
人口
総計(2024年 51,238,450人(29位
人口密度 510人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2023年 1933兆1524億[1]韓国ウォン
GDP(MER
合計(2024年1兆8390億580万[2]ドル(12位
1人あたり 35,563.079[2]ドル
GDP(PPP
合計(2024年3兆1051億5100万[2]ドル(12位
1人あたり 60,046.345[3][4]ドル
建国
大韓民国臨時政府[注釈 2]1919年4月11日
日本の統治終了1945年8月15日
在朝アメリカ軍政庁設置1945年9月8日
大韓民国樹立宣言
アメリカ軍政の終了)
1948年8月15日
通貨 韓国ウォンKRW
時間帯 UTC+9 (韓国標準時) (DST:なし)
ISO 3166-1 KR / KOR
ccTLD .kr
国際電話番号 82
  1. ^ デ・ファクト
  2. ^ 現行大韓民国憲法で主張、国際的には無効。

大韓民国の国璽
国璽
大韓民国
各種表記
ハングル 대한민국
漢字 大韓民國
発音 テハンミング
日本語読み: だいかんみんこく
RR式 Daehan Min-guk
MR式 Taehan Min'guk
英語表記: South Korea Republic of Korea
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大韓民国(だいかんみんこく、: 대한민국[5]: Republic of Korea)、通称:韓国(かんこく、: 한국: South Korea)は、東アジアに位置する共和制国家首都ソウル特別市[6]

概要

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主要20か国(G20)、経済協力開発機構 (OECD)、開発援助委員会主要債権国からなるパリクラブのメンバー[7][8]経済複雑性指標は世界4位[9]国際通貨基金における『先進国』である[10]。2024年における国内総生産 (GDP) は世界12位[11]、貿易輸出額は世界6位[12]。主要産業はエレクトロニクスIT化学製品自動車など。ハイテク製品を柱に、サムスン電子(スマートフォン・半導体世界最大手)、LGエレクトロニクス(家電世界最大手)、現代自動車(自動車世界シェア3位)等多数の世界的企業を輩出し、工業技術力指数は世界3位[13]。近年はスマートフォン先端半導体の開発で知られる[14][15]

2023年における韓国平均世帯所得は7,185万ウォン[16]世界銀行における『高所得国(一人当たりのGNIが1万4005ドル以上)』に分類される[17]。2022年度の平均所得(月収)は364万ウォン、中央値は267万ウォン[18]。企業規模による収入格差は、大企業591万ウォンに対し、中小企業286万ウォン[19]

主な社会問題として、世界2位の労働時間、出生率の低下[20]、OECD内で最も高い自殺率[21]物価高不動産バブルによる経済格差の拡大等が挙げられる[22]。社会構造は、急激な経済成長(世界最貧国→先進経済大国)がもたらした教養面における極端な世代間知的格差に特徴づけられる[20]

近年は教育に力を入れており、人間開発指数では『極めて高い』を記録[23]国連教育科学文化機構(UNESCO)によれば、2019年における19歳以上25歳未満の大学進学率は98.4%[24]、大学院進学率は44%[24]

科学技術においては、欧州先進諸国に比肩する急速な成長がみられ、宇宙産業では国産ロケット開発に成功している世界10か国の一つであるほか、とりわけ情報通信工学臨床医学における世界的研究拠点である[25]文部科学省科学技術指標2024によれば、自然科学における論文数で世界8位、引用上位1割の論文数で世界9位である[26]。特許取得数は世界4位[27]

憲法上は「朝鮮半島及び付属島嶼全域」の22万4000km2日本の本州と同規模[28])を領土とするが、北緯38度以北は北朝鮮が実効支配している。森林と農地で国土の約81%を占め、平野部は少ない[注釈 1]。首都ソウルへの一極集中の傾向が強く、2021年における都市圏人口は国民の50 %を超える2604万人である[29][30]

国名

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正式名称

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正式名称は、ハングル表記: 대한민국漢字表記: 大韓民國。読みは、[ˈtɛ̝ːɦa̠nminɡuk̚] ( 音声ファイル) テハンミング。略称は、한국韓國[ˈha̠(ː)nɡuk̚] ( 音声ファイル) ハング)である。

1948年5月10日の総選挙で制憲国会が構成された後、同年6月23日に国号の採決が行われ、独促国民会が推す「大韓民国」が新国家の国号に決定した[31]。大韓民国の国民は自国の国号を「大韓民国」、「韓国」などと呼び、自国を呼称する場合、よく「ウリナラ」(우리나라、[uɾina̠ɾa̠] ( 音声ファイル)、'我が国'の意)と呼ぶ。

ヨーロッパ諸語でのコリアKorea)はマルコ・ポーロの『東方見聞録』における「高麗」(고려 [koɾjʌ]、コリョ)に由来する。現在、大韓民国の公式英語名Republic of Koreaと呼ばれる。一方で、略称としてSouth Koreaと表記されることも多い。

日本における呼称

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日本語表記は、大韓民国。略称は、韓国。またかつての大韓帝国を韓国とも言った。

韓国の建国からしばらくの日本では、「韓国」のほかに「南朝鮮みなみちょうせん」「南鮮なんせん」などの呼称も一般的であった。1965年日韓基本条約締結で国交が樹立されてからは「大韓民国(韓国)」の呼称も使用されるようになるが、メディアなどでは「南朝鮮・大韓民国」と二つ並べて呼称されることが多かった[注釈 2]。1980年代半ば以降、「南朝鮮」「南鮮」の呼称は公式の場面でほとんど用いられない[注釈 3]。また日本共産党では、南北が国際連合へ加盟するまで及びそれ以降数年間は、「どちらかが全体を代表するという響きがない」として用いていたことがあった[32]。現在でも、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府を「朝鮮の合法な政府」として支持する者(朝鮮総聯など)や共産趣味の間では、南朝鮮または南鮮という呼称が使用される。

また、日本語で朝鮮半島を指す異称としては「高麗(こま、「狛」とも表記)」があり、かつて「こまひと(高麗人)」といえば朝鮮半島の人々の異称であった[注釈 4]

韓国と北朝鮮における「朝鮮」の呼称

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北朝鮮政府は、自国や自民族の呼称として「朝鮮」を用いており、かつ韓国を主権国家として正式に承認していない。韓国と北朝鮮は、東西ドイツ基本条約を結んだかつての東西ドイツとは違い、条約に基づく相互国家承認をしていない。1991年南北基本合意書に「相手方の体制を認定し尊重する」(第1条)との規定はあるが、合意書が批准を経たものでないため、法的拘束力を持っていない。このため、北朝鮮の人々は、韓国政府が実効支配している半島の南部地域を南朝鮮みなみちょうせん남조선ナムジョソン)と呼んでいる。韓国政府をアメリカ合衆国の傀儡政権と見なして、「南朝鮮傀儡[33]」と表記することもしばしばである。また、中華人民共和国でも韓国との国交樹立前に教育を受けた世代に南朝鮮の呼称が通じやすい。ただし北朝鮮政府は2023年7月頃より公式声明の場で大韓民国という名称を使用し始めている他[34]、同年8月27日には北朝鮮最高指導者朝鮮労働党総書記国務委員長)の金正恩が演説で大韓民国という言葉を使用し[35]、2024年1月には金正恩の妹で朝鮮労働党副部長の金与正尹錫悦の肩書を大統領と正式名称で呼称したことで[36]、北朝鮮が韓国を事実上、国家として承認したという見方もある[37]

大韓民国建国まで、韓国政府の実効支配区域(38度線以南の朝鮮)に居住する朝鮮民族の間でも、自国や自民族の呼称として「朝鮮」を用いていた。しかし、韓国と北朝鮮は、1948年の両者の建国以来、「朝鮮の合法な政府」としての地位をめぐって対立しており、1950年には朝鮮戦争によって甚大な被害を受けている。このため韓国の人々は、大韓民国建国以降は、敵対する北朝鮮が半島全土の呼称として「朝鮮」を用いていることや、韓国を「南朝鮮」と呼称していることにより、「朝鮮」という表現を避ける傾向が強い。

現代は韓国人が「朝鮮民族」「朝鮮語」などの言葉を日常で使うことはほとんどなく、「韓民族」「韓国語」という表現が主流となっている。また、朝鮮半島を「韓半島」、朝鮮戦争を「6.25戦争」または「韓国戦争」などと呼称するのが一般的となっている。朝鮮の南北についても「北韓ほくかん、ほっかん南韓なんかん」と呼んでいる[注釈 5]。さらに、朝鮮人参も「高麗人参」という[注釈 6]

ただし、ごく一部の民族民主(NL)系人士が自国のことを「南朝鮮」と呼んでいるほか、ホテル名学校名朝鮮日報のような大韓民国成立以前から存在する組織など、ごく少数の固有名詞では、あえて歴史的な事実を尊重して、歴史的感覚から「高麗」「新羅」と同様に「朝鮮」を使用している場合もある[注釈 7]

歴史

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朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 任那
伽耶

42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府
668-756
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
高麗 武臣政権
1170-1270
高麗
東寧府 1269-1290
征東等処行中書省 1287-1356
高麗 -1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

大韓民国臨時政府

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韓国の憲法で大韓民国が日本統治時期に起きた三・一運動の影響で樹立された大韓民国臨時政府を継承したと出ている。憲法憲法草案者であるユ・ジンオまた憲法を制定して樹立する政府がシミヨンに三千万の民意によって樹立した大韓民国臨時政府を継承して再建するものと明らかにし、大韓民国政府が大韓民国臨時政府の建国史的正統性の上で成立したことを明らかにした。彼らは日本の朝鮮併合と植民統治を否定し、朝鮮の独立と民主共和国設立のために活動した。臨時政府の初代大統領は李承晩だった[38]

大韓民国政府成立

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第二次世界大戦の勃発で日本連合国が敵対するようになると、連合国の首脳は1943年に発表したカイロ宣言の中で大戦後の朝鮮に「自由且独立ノモノタラシムル」ことを宣言した[39]1945年2月、ヤルタ協定にて連合国首脳は戦後朝鮮をアメリカイギリス中華民国ソ連の4か国による信託統治下に置くことを決定[40]、ヤルタ会談と米軍との秘密協定に基づいてソ連軍8月9日対日参戦後速やかに朝鮮半島へ侵攻を開始した。1945年8月15日、日本がポツダム宣言の受託を宣言したことで朝鮮の離脱が決定的となった[41]

朝鮮は北緯38度以北(北朝鮮)をソ連軍に、以南(南朝鮮)をアメリカ軍にそれぞれ占領された。アメリカ軍司令部は9月7日に朝鮮における軍政(占領統治)実施を宣言し、独立運動家らが自発的に樹立した朝鮮人民共和国大韓民国臨時政府政府承認を否定した[42]9月9日、アメリカ軍は降伏文書の署名を受け[43]、南朝鮮では新設された在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が統治機構を一部復活させて直接統治を実施した[44]

アメリカ軍軍政下の朝鮮半島南部には幾つかの政治勢力が存在した[45]。このうち、李承晩を中心とする右派のグループはアメリカともっとも近い関係にあった[45]。しかし、李承晩はアメリカ本国との直接のパイプを見せながらアメリカ軍軍政に対して接したため、軍政の当局からは厄介な存在として扱われていた[45]。ただ李承晩には長年本国を離れていたため国内に組織的な支持勢力を持っていないという弱点もあった[45]。右派の政治勢力には李承晩のグループとともに大韓民国臨時政府の中心となっていた金九のグループがあった[45]。さらに右派には宋鎮禹金性洙など韓国民主党(韓民党)を結成した政治勢力がおり、韓民党は財政的基盤では他よりも優位にあった[46]。一方、左派の政治勢力には朴憲永のグループがあった(朴憲永はのちに北朝鮮へ越北)[46]。このほか呂運亨を中心とする中道左派のグループや金奎植を中心とする中道右派のグループが存在した[46]

第二次世界大戦後の朝鮮半島南部では左右対立が激しく、無償農地改革を主張していた左派勢力のほうが優勢だった[47]。しかしソ連が提案した朝鮮半島の国際信託統治案をめぐって左派が「賛託」と呼ばれる賛成派につき、右派が「反託」と呼ばれる反対派についたことを契機に状況は変化した[46]。連合国は1945年12月のモスクワ三国外相会議にて朝鮮半島の信託統治を協定し、翌1946年1月から京城府で信託統治実施に向けた米ソ共同委員会を開催した。しかし、共同委員会は信託統治受け入れに反対する李承晩、金九ら大韓民国臨時政府系の右派の扱いをめぐって紛糾し、米ソ対立から1947年7月に決裂した[42]

アメリカは朝鮮問題を国際連合に持ち込み、国連は1947年11月14日に国連監視下で南北朝鮮総選挙と統一政府樹立を行うことを決定した。翌1948年1月に国連は国連朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮へ派遣し、総選挙実施の可能性調査を行った。ソ連がUNTCOKの入北を拒否したため、アメリカ主導の国連は2月26日にUNTCOKが活動可能な南朝鮮単独での総選挙の実施を決定、金九、金奎植ら大韓民国臨時政府重鎮や北朝鮮人民委員会による南部単独での総選挙反対を押し切って5月10日南部単独総選挙を実施した。

アメリカ軍軍政は、李承晩や金九を絶対的に支持していたわけではなく、中道派を軸に左右の勢力を取り込んだ政権を実現しようとしたが挫折(左右合作運動[45]。結局、李承晩と韓民党の連携による政権樹立が目指された[45]。憲法案では大統領制を採用するか内閣責任制を採用するかが争点となり、強大な権力を理想とする李承晩や金九は大統領制を主張したのに対し、議会に基盤を置いていた韓民党は内閣責任制を主張した[48]。制憲憲法はその折衷案として大統領を国会議員間接選挙により選出する大統領間接選挙制を採用した[49][注釈 8]。選挙によって成立した制憲議会7月12日制憲憲法を制定、7月20日には李承晩を大韓民国大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。この制憲憲法には進歩的な条文も含まれていたが、自由に関しては法律での制限を広範に認める内容で、国内の多くの政治勢力の意向を汲んだ妥協点が反映されたものだった[49]

3年後の1948年8月15日、李承晩が大韓民国政府樹立を宣言[50]。同日独立祝賀会が行われ、実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま大韓民国が独立国家となった[51]

国旗の由来

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韓国国旗
韓国国旗

遡る1948年7月12日に韓国の独立準備をしていた大韓民国制憲議会が韓国の国旗を「太極旗」とすることを決定し[52]、李氏朝鮮の旧国旗に由来する旗の名称は正式に「太極旗」となった。以降、韓国の国旗は「太極旗」であると、「国旗製作法」(1949年- 2007年)及び「大韓民国国旗法」(2007年 -)で明記されている。

白地が国土を、円が国民を、四つの四角い記号が政府を意味する。白は平和の精神、中央の円は太極といって宇宙を表していて、青は陰を、赤は陽を示し、陰陽が一つとなって万物を創造することを表している 記号は易の掛で、乾☰・ 坤☷と坎☵・離☲が一対になって万物の対立と均衡を示している。

南朝鮮単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日、大韓民国の実効支配が及ばなかった残余の朝鮮半島北部は金日成主席の下で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立した。

双方に政権ができてからも南北分断回避を主張する南北協商論は強く、金九や金奎植は平壌で金日成と会談したが、決裂した(南北連席会議[48]。南北間には隔たりがあり、金日成はこの会議を朝鮮半島全体の指導者として印象づけるために利用したという評価もある[48]

1948年の時点では、南北の分断はまだ強固で強靱に制度化されたものとはみられていなかったが、冷戦を背景に南北で非常に対照的な憲法が制定されたことで、南北の分断は次第に固定化された[48]。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張する分断国家はそれぞれの朝鮮統一論を掲げ、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は建国翌日の9月10日最高人民会議の演説で「国土完整」を訴え、他方大韓民国(南朝鮮)の李承晩大統領は軍事力の行使をも視野に入れた「北進統一」を唱えた[53]。 1949年5月18日、韓国政府は統一派議員の逮捕を開始。同年6月29日には金九が暗殺される事件が発生した[54]

互いを併吞しようとする両政府は1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争によって、実際に干戈を交えることになる。

朝鮮戦争

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1950年6月25日朝鮮人民軍(北朝鮮軍)は韓国との境界であった北緯38度線を越えて南下を開始し、朝鮮戦争(韓国動乱)が勃発した。そのころ、弱体である韓国軍は敗退を重ね、洛東江以東の釜山周辺にまで追い詰められた。北朝鮮の侵攻に対して国連安保理は非難決議を上げ、アメリカを中心とする西側諸国国連軍を結成して韓国軍とともに後退戦を戦っていたが、仁川上陸作戦により北朝鮮軍の戦線を崩壊させ、反攻に転換した。

韓国軍・国連軍は敗走する北朝鮮軍を追って鴨緑江近辺にまで侵攻した。これに対し中国義勇軍を派遣して北朝鮮の支援を開始、韓国軍・国連軍を南に押し戻し、一時再びソウルを占領した。その後、北緯38度線付近で南北の両軍は膠着状態になり、戦争で疲弊したアメリカと北朝鮮は1951年7月10日から休戦合意を巡る協議を開始した。2年間にわたる戦協議の末、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定締結をもって大規模な戦闘は停止した。ただし、韓国政府は休戦協定に署名しておらず、戦争自体も協定上は停戦状態のままとなっている。この戦争により、朝鮮半島のほとんど全域が戦場となり、インフラや文化財の焼失、戦闘での死者のみならず、保導連盟事件済州島四・三事件の例にあるように双方とも敵の協力者と見なした一般市民の大量処刑を行うなど、物的、人的被害が著しく、国土は荒廃した。また、38度線が引かれたことにより朝鮮半島の分断が確定的となり、朝鮮統一問題が南北朝鮮の最重要課題となっている。

李承晩時代

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李承晩の独裁を糾弾する市民

1948年に韓国の初代大統領に就任した李承晩は、日本から戦争賠償金を獲得するために「対日戦勝国連合国の一員)」としての地位を認定するよう国際社会に要求したが、連合国からは最終的に認定を拒否され、1951年日本国との平和条約を締結することができなかった。そのため、李承晩は李承晩ラインの設置(1952年)や竹島の占拠(1953年)によって武力で日本の主権を奪う政策に出た。一方、国内では朝鮮戦争という危機的状況下でも権力を維持し、戦争中に釜山へ移転していた政府を休戦後に再びソウルへ戻すことができた。朝鮮戦争後、李承晩は政敵の排除(進歩党事件など)や反政府運動に対する厳しい弾圧とともに、権威主義的体制を固めていった。しかし、経済政策の失敗で韓国は最貧国の一員に留まっており、権威主義的な施策もあって人気は低迷していった。そのため、不正な憲法改正や選挙など法を捻じ曲げての権力の維持を図ろうとしたものの、1960年4月19日の学生デモを契機として政権は崩壊し(四月革命)、李承晩はハワイへ亡命した。

1950年代末には米国系多国籍企業が進出し始め、その後の60年代後半には日本系多国籍企業も加わり、70年代にはこれら直接投資が石油関連化学工業と機械工業に集中して増加し経済成長する[注釈 9]

朴正煕時代

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1961年5.16軍事革命当時の朴正煕.

李承晩の失脚後、張勉内閣の下、政治的自由化が急速に進展したが学生を中心とした北への合流を目指した南北統一運動が盛り上がりを見せるに至り、危機感を抱いた朴正煕少将をはじめとした軍の一部が1961年5月16日クーデターを決行し、国家再建最高会議 が権力を掌握した。第三共和国憲法の承認後、朴正煕は1963年10月に第5代大統領に当選 した。1963年12月5·16軍事政変を主導した朴正煕らによって第3共和国が樹立された。1960年代の開発独裁の一環として政府は軽工業中心の輸出主導型発展とベトナム戦争派兵などを通じた外貨獲得で経済発展を実行した。1970年代には重化学工業電子産業を集中的に育成した。しかし、都市と農村の所得格差、低賃金労働と貧富格差のような問題も残した。

朴正熙は1969年の憲法改正で、大統領の3選を可能とした(3選改憲)。3選目に挑んだ1971年の大統領選挙で野党候補の金大中に約95万票差まで追い上げを受け、さらに直後の総選挙で野党が国会の1/3を超える議席を獲得したことで、朴正熙は不安を感じた。その対応として1972年7·4南北共同声明を発表する一方、政権の合法的延長が難しくなったと判断してその3か月後の10月17日非常戒厳令を発して11月に憲法を改正(第四共和国)、大統領の直接選挙を廃止して、自らの永久政権化を目指した。これによって、大統領の任期を6年再任制に修正したうえ、国会議員を大統領に任命できる法案まで可決させるなど、大統領の権限を非正常に拡大させた。この変更は「統一を準備する」という名目でおこなわれ、維新体制と呼ばれた。これに対して、労働運動界、学生勢力が民主化を求めるが、政府は相次ぐ緊急措置を通じて抑制した。しかし、民主化運動勢力と労働運動家の反発は続いた。米国が韓国の「人権侵害」を批判し始めると、韓米間に外交摩擦が起きた。第2次オイルショックまで経験し、経済危機と内部混乱が大きく加重した。維新体制の時期には、反対派に対する激しい弾圧(金大中事件民青学連事件など)により政治的自由が著しく狭まったが、1979年10月26日、側近の中央情報部長により朴正煕は暗殺された。

朴正煕時代は強権政治の下、朝鮮戦争以来低迷していた経済の再建を重視した。一方で朴政権は人材登用や産業投資に際し、自身の出身地である慶尚道を優遇し、全羅道に対しては冷遇をしたため、慶尚道と全羅道の地域対立、差別の問題が深刻になった。この問題は今に至るまで解決していない。

全斗煥・盧泰愚時代

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1988年ソウルオリンピック

朴正煕の暗殺により、急速に規制が解かれた韓国の政治はソウルの春と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月12日より始まった粛軍クーデターにより、全斗煥陸軍少将をはじめとした「新軍部」が軍を掌握した。新軍部の権力奪取の動きに対して反対運動が各地で発生したが、80年5月17日非常戒厳令拡大措置が発令され、政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。5月18日光州では戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こり、これをきっかけに市民が武装蜂起したが、5月27日、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は戒厳軍により武力鎮圧された(光州事件)。新軍部は朴正煕暗殺後に大統領の職を引き継いでいた崔圭夏8月16日に辞任させ、全斗煥が大統領に就任し、憲法を改正。翌81年2月25日に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。1987年、大統領の直接選挙を求める6月民主抗争が起こり、与党の盧泰愚大統領候補による6.29民主化宣言が引き出されたため、大統領直接選挙を目指した改憲が約束された。しかしながら、12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力な候補が金泳三金大中に分裂したために、全斗煥の後継者である盧泰愚が大統領に当選し、軍出身者の政権が続くこととなった。全斗煥、盧泰愚の時代は、軍政に反対する民主化運動とそれに対する弾圧の激しい時代であったが、朴正熙時代から引き続いた高度な経済成長と、1988年ソウルオリンピックの成功、中華人民共和国ソビエト連邦1990年9月30日)との国交樹立[56]国際連合への南北同時加盟などにより新興工業経済国として韓国の国際的認知度の上がった時代でもあった。

文民政権登場以後

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2002年日韓ワールドカップ.

1990年金泳三が率いる統一民主党金鍾泌の率いる新民主共和党とともに盧泰愚政権の与党である民主正義党と合同(「三党合同朝鮮語版」)し、巨大与党である民主自由党が発足した。金泳三は1992年大統領選挙に民主自由党の候補として出馬し当選した。金泳三は久しぶりに軍出身者でない文民の大統領であったが、旧軍事政権と協力したために実現したものだった。しかしながら、金泳三政権時代に、全斗煥、盧泰愚元大統領らに対する軍事政権下の不正追及が開始された。1997年大統領選挙では、長年にわたって反軍政・民主化運動に関わってきた金大中が大統領に当選した。金大中政権において民主化・自由化は本格化し、国家安全企画部国家情報院(国情院)への改組、民主労総の合法化などが行われた。民主労総を支持基盤とした民主労働党が結成され、のちに国政進出を果たした。対北朝鮮政策も「太陽政策」のもと2000年6月南北首脳会談を実現させ、分断された鉄道の連結や経済協力など南北融和が進み、近い将来の統一の期待を膨らませた。金大中は日本文化の開放も進め、日韓ワールドカップの共催を頂点に日韓の友好ムードは高まった。2002年大統領選挙で当選した盧武鉉は支持基盤的に金大中の後継であり、政策も引き継いだ。

朴槿恵大統領退陣運動

2007年大統領選挙に当選した李明博2012年大統領選挙に当選した朴槿恵により、再び政権は慶尚道系保守勢力へ戻り、各種政策も揺り戻しが起こっているが、民主的政体は大韓民国においてもはや定着していると言える。2017年3月には民主化以降初めての大統領弾劾が成立して朴槿恵が失脚。5月の大統領選挙文在寅が当選し、再び革新系に政権が戻った。

2022年大韓民国大統領選挙では、尹錫悦が当選した[57]

2024年12月3日、尹錫悦政権は野党を反国家勢力とみなして非常戒厳を布告した。これは反国家勢力とされた野党に対して全ての集会やデモを禁じるものであり、布告から約2時間半で無効化されその後解除されたものの、大韓民国での戒厳令の布告は45年ぶりとなる[58]。12月14日、尹大統領の弾劾議案が大韓民国の国会で可決された。尹大統領の職務は停止された[59]。12月27日、大統領権限代行であった韓悳洙国務総理の弾劾議案も国会で可決されたため、韓国務総理の職務も停止された[60]

2025年1月15日高位公職者犯罪捜査処警察庁は大統領警護処側に尹大統領への拘束令状の執行への協力要請を行った。高捜庁と警察部隊は午前7時40分ごろ、大統領警護処側が設けたバリケードをハシゴで乗り越え、公邸敷地内に突入[61]。午前10時半頃に内乱容疑で尹大統領への拘束令状を執行[62]。韓国で現職大統領の逮捕は史上初となった[63]。同年4月4日憲法裁判所は尹大統領の罷免を8人の判事の全員一致で決定した[64]

年表

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大韓民国成立後の歴史は、憲法(大韓民国憲法)による政体の相違によって、七つの時代に区分される。

1945年 - 1948年:アメリカ軍政庁期連合軍軍政期、非独立)
1948年:済州島4・3事件
1948年5月10日:南朝鮮単独での初代総選挙が実施される。
1948年7月12日:大韓民国憲法が制定され、7月17日に公布される。
1948年 - 1960年:第一共和国期
1948年8月15日:第二次世界大戦後の米ソ冷戦の中、アメリカの支援により大韓民国が建国、9月9日にソ連の支援により朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国される。
1948年:済州島4・3事件継続。
1948年:麗水・順天事件
1948年5月14日:瑞穂丸拿捕事件[65]。韓国による日本漁船拿捕、民間人虐待。
1949年:聞慶虐殺事件
1949年:対馬領有宣言[66]
1950年1月12日:アメリカ合衆国国務長官ディーン・アチソンが「アチソンライン」を表明。
1950年6月25日:朝鮮戦争北朝鮮の先制攻撃による朝鮮半島の主権をめぐる紛争。
李承晩
1950年6月27日:保導連盟事件李承晩大統領による韓国民大量虐殺。犠牲者は20万人から120万人と推定[67]
1952年1月18日:李承晩ラインの設定。この海域設定により、竹島を取り込む。海域内での韓国籍漁船以外の漁業を禁止し、違反漁船は拿捕、接収、銃撃、殺害などの被害に遭った(おもに日本国籍)。
1952年2月12日:アメリカが韓国に対し李承晩ラインを認めないと通告するも、韓国はこれを無視。
1953年:竹島近海の日本巡視船への銃撃開始[68]
1953年2月4日:第一大邦丸事件韓国海軍が日本漁船を銃撃後、民間人を虐待・殺害。
1953年7月27日:朝鮮戦争休戦協定国連軍と中朝連合軍間で署名。終戦でなく停戦であり、名目上は現在も戦時中。
1953年10月1日:米韓相互防衛条約米韓同盟が結ばれる。
1954年:韓国沿岸警備隊竹島派遣公表[68]
1955年8月18日:日本との経済関係断絶[69]
1959年12月4日:新潟日赤センター爆破未遂事件
1960年4月27日:四月革命によって李承晩初代大統領が失脚し、第二共和国が始まる。
1960年 - 1961年:第二共和国期
朴正煕少将による5・16軍事クーデターによって国家再建最高会議が設置される。
1961年 - 1963年:国家再建最高会議軍政)期
朴正煕が軍職を辞して大統領となり、第三共和国が始まる。
1963年 - 1972年:第三共和国期
1964年 - 1973年:ベトナムに出兵韓国軍によるベトナム人に対する大虐殺慰安婦ライダイハン問題が生じる。虐殺現場100か所以上、犠牲者数最大3万人との調査結果もあり、強姦売春婦強制妊娠の犠牲者は最小1500人から最大3万人と推定されている[70]
1952年 - 1965年:韓国による日本漁船拿捕328隻、日本人漁民抑留3929人、死傷44人(1968年の『日韓漁業対策運動史』より)。抑留者は大虐待を強いられる。海上保安庁巡視船に向けた銃撃などの事件は15件で、16隻が攻撃された。
1965年1月:竹島密約
1965年6月22日:日韓基本条約締結。同日「日韓請求権並びに経済協力協定」「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」なども結ばれる。これらにより、日韓国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決(韓国の対日請求権放棄含む)、日韓関係正常化などで合意。日本は韓国に対し無償3億ドル、有償2億ドル、および民間融資3億ドル以上、計約11億ドルの経済協力支援を行った(当時1ドル=約360円)[71]
1968年:青瓦台襲撃未遂事件
1971年8月23日:実尾島(シルミド)事件
1972年10月17日:十月維新後の憲法改正で第四共和国が始まる。
1972年 - 1979年:第四共和国期
1973年8月8日:大韓民国中央情報部(KCIA)によって日本国内に滞在していた大韓民国の民主化運動家、金大中を拉致する事件が発生し、この日本への主権侵害によって日韓関係が悪化する。
1974年8月15日:朴正煕大統領の陸英修夫人が在日韓国人文世光によって暗殺される文世光事件が発生する。
1976年8月18日:ポプラ事件
1970年代:コリアゲート事件発覚。
1979年10月26日:朴正煕暗殺事件によって崔圭夏によって第五共和国が始まる(ソウルの春)。
1979年 - 1987年:第五共和国期
1980年:5・17非常戒厳令拡大措置
1980年5月18日 - 5月27日:光州事件
1983年9月1日 - 大韓航空機撃墜事件
1983年10月 - ラングーン事件
1987年6月29日:盧泰愚による民主化宣言により第六共和国が始まる。
1987年 - 現在:第六共和国期
1987年11月29日:大韓航空機爆破事件
1988年 - ソウルオリンピックパラリンピック開催。
1991年:湾岸戦争に参戦。国連加盟国となる。
1997年11月21日:国際通貨基金(IMF) に救済金融を要請[72]
1997年12月3日:IMFによる韓国救済。韓国が通貨危機(国家破綻の危機)に陥り、国際通貨基金(IMF) 資金支援合意書に署名[72]。IMF管理下に入る。韓国の抱えた民間短期対外債務残高は320億ドル(12月12日時点)で、その借入先の日本は118億ドルを担う。
2000年6月13日:「太陽政策」を推進していた金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記国防委員長)による南北首脳会談。6月15日に6.15南北共同宣言を締結。
2001年7月4日:日韓通貨スワップ協定締結。
2002年:アフガニスタンに出兵[73]
2003年:イラクに出兵
2004年9月:イラクアルビール県ザイトゥーン部隊を派遣。
盧武鉉
2005年3月17日:盧武鉉大統領による「対日外交戦争(新韓日ドクトリン)」政策宣言。
2007年10月:盧武鉉大統領と北朝鮮の金正日総書記による第2回南北首脳会談
2008年:ザイトゥーン部隊をイラクから撤収。
2008年 - 2009年:韓国通貨危機ウォンの大暴落。
2010年3月26日:韓国哨戒艦沈没事件
2010年11月23日:延坪島砲撃事件
2011年12月14日:韓国挺身隊問題対策協議会が、韓国内に慰安婦像を設置。以降、韓国系団体が中心となり慰安婦像を世界中に設置(アメリカ合衆国・カナダ・オーストラリア・中華人民共和国中華民国ドイツなど)。韓国には100体以上の慰安婦像が存在(2018年8月現在)[74]
李明博
2012年8月10日:李明博竹島上陸李明博大統領が竹島(独島)上陸後、韓国領であると改めて発言。
2012年8月14日:韓国による天皇謝罪要求李明博大統領が「(天皇が)韓国に来たければ独立運動家を回って跪いて謝罪せよ」と発言。
2014年4月16日:セウォル号沈没事故
朴槿恵
2013年3月1日:朴槿恵大統領が「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わらない」と発言。
2015年2月23日:日韓通貨スワップ協定終了。
2015年12月28日:慰安婦問題日韓合意慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した日韓の合意)。
2017年1月6日:「日韓通貨スワップ協定に関する協議の無期限中断」を日本政府が発表。釜山での慰安婦像設置(2016年12月30日)を慰安婦問題日韓合意違反とみなした抗議措置。
2017年3月 - 5月:韓国史上初となる朴槿恵大統領の弾劾と前倒し大統領選挙で革新系の文在寅が当選。
2018年2月 - 3月:平昌オリンピックパラリンピック開催。
2018年4月 - 9月:文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長による南北首脳会談(2018年4月南北首脳会談2018年5月南北首脳会談2018年9月南北首脳会談)。
2018年10月30日:徴用工訴訟問題
2018年12月20日:韓国海軍レーダー照射問題
2019年7月3日:「和解・癒やし財団(日本政府資金拠出の、元慰安婦支援事業を行う韓国の財団)」を韓国政府が解散。
2019年8月23日:軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を韓国が破棄を発表、韓国側が破棄通告を停止し現在も有効である[75][76]
2020年:新型コロナウイルスのパンデミックが韓国でも起こる。韓国の人口が初めて減少に転じた[77]
2022年8月:国産ロケットタヌリの打ち上げに成功する。
2024年12月3日:大統領により非常戒厳が発令される。しかし6時間後に解除された。
2025年1月3日:尹大統領に対し大統領逮捕令状が執行されるも逮捕に至らなかった。
2025年1月15日:高位公職者犯罪捜査処警察庁から成る合同捜査本部が尹大統領を拘束。
2025年4月4日:憲法裁判所が尹大統領の罷免を決定。

政治

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政治体制

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国会議事堂(右下ドーム状建物)
韓国の政治体制

1948年8月15日の建国以来、大韓民国は共和憲政体制を採用している。国家体制を定める憲法は、建国直前の1948年7月17日最初の憲法を採択して以来、9回の憲法改正を経て現在に至っている。特に、国家体制を大きく変えた5回の改憲は韓国政体の歴史的な一区切りとされ、それぞれの時期に存続していた憲法は第一から第六憲法と呼称されている。それにともない、各憲法に基づいて構成されていた政体も、第一から第六共和国と呼称されている。現在の憲法は第六共和国憲法と呼ばれ、1987年10月29日に採択された。この憲法は、5年毎の直接選挙による大統領の選出を定めているほか、大統領の再選禁止なども盛り込まれており、韓国憲政史上もっとも民主主義的な体制を規定した内容である。第六共和国憲法に基づいた第六共和国は、1988年2月25日盧泰愚大統領の就任以来、今日まで持続している。現在でも役人の権限が非常に強い役人社会である。腐敗があまりにも蔓延しているため、当初はその対象が中央・地方の全公職者・公企業・国公立の教職員のみとされていたが、社会に与える影響力が大きいという点から記者などマスコミに携わる従事者と私立学校教職員、それらの配偶者にまで拡大させた、接待・贈り物を禁止するキムヨンラン法が制定された[78]

2028年までに韓国の行政首都を世宗市に変更し、行政機関を中心とする首都機能を一部移転することが決定している[79]

地方自治

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1990年代以降は地方自治体の選挙も実施されているが、それ以前の広域自治体の首長は政府の任命、基礎自治体の首長は知事や特別市長、直轄市長による任命であった。

警察

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司法

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大陸法を採用している。三審制で最高の司法機関は大法院である。法律の合憲性、弾劾裁判、政党への解散命令、憲法訴願審判については大法院に設置される憲法裁判所で審判が行われる。

司法通訳

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誤訳・意訳が問題になった通訳が再び担当になること、弁護士が用意した通訳者に頼ることなどがあり通訳が不足している。外国人が関係した刑事裁判は2012年の3249件から2014年の3790件と増加傾向にあるが、韓国内の裁判所に2015年に登録されている司法通訳は計約1200人で、英語、中国語、日本語など28言語の通訳が選択可能だが、難しい法律用語を正確に伝えられる司法通訳の数は限られている[80]

加藤達也産経新聞ソウル支局長を含め、メディア側に対する民事・刑事での法的措置も頻発しており、大統領の主張・意向通りで検察が動くなど批判が多い。加藤支局長のときは韓国の検察は、記事に「朴槿恵大統領の名誉を傷つける意図」があったことを立証するためとして、記事を読んで朴氏の男女関係を臆測したインターネット掲示板2ちゃんねるの書き込みを証拠として提出するほど形振り構わない[81][82]名誉毀損の告訴が増加傾向にあり、2005年以降の9年で告訴件数は70 %も増え、年間1万2000件を超えた一方で、検察当局が実際に起訴する割合は下がり、2013年の起訴率はたったの22 %だった。強引な告訴の多さを示している。政府がマスコミや市民への告訴を乱発していることが国民にも影響を与えているとみられ、実際に裁判で無罪となるケースも多い[83]。判決も含め、韓国の司法判断は、時の政権の意向や世論の動向に影響されやすい[84]

酒酔減軽

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韓国刑法10条2項にある「心身障害で事物を弁別したり意思を決定したりする能力が低下している場合には、刑を軽減する(日本の心神喪失・心神耗弱にあたる)」を根拠として酩酊状態だと減刑される。

ナヨン事件を受け性暴力犯罪の処罰などに関する特例法が成立、 飲酒又は薬物による心身障害状態で性暴力犯罪(第2条第1項第1号の罪[管理売春・わいせつ物頒布・公然わいせつ])を犯したときは、「刑法」 第10条第1項・第2項及び第11条を適用しないことができる。[85]」となった[86]

治安

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警察庁の発表による2019年の統計では凶悪犯罪の発生件数は2万6476件であった(韓国の凶悪犯罪の統計は日本と異なり殺人未遂、強制わいせつを含む)。

韓国の警察庁の発表によると2019年の性犯罪は3万6682件で性的自由を侵害する強制性交・準強制性交及び強制わいせつ・準強制わいせつが64%を占める。韓国警察では強姦と強制わいせつを同じ枠で集計するため注意が必要である[87](韓国は強姦+強制わいせつ、日本は強制性交等のみで比較しているため)[88]

2008年には、再発を防止するために、性犯罪前歴者に電子足輪の装着が義務づけられ再犯率は導入前の14.1%から1.86%と1/8に減少した[89]。韓国女性の半数が性犯罪に遭遇している(2012年調査)ことから男性から女性への性犯罪が日常茶飯事であるとされている。

以上のような実態も踏まえて、アメリカ国務省は韓国を「非常に安全な国」としつつも、誤った安心感を持ってはいけないと警告し[90]、イギリス外務省は夜間のバーなどでの性犯罪に注意するよう警告している[91]

軍事

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大韓民国大統領陸軍海軍空軍の最高司令官であり、大統領、国防部長官、合同参謀本部議長のもとに陸海空軍本部が所属する。2020年の国防予算は約50兆1500億ウォン[92]、兵力は陸軍約52万、海軍約6.8万人(大韓民国海兵隊2.8万人含む)、空軍約6.5万人である。18か月から22か月の徴兵制[93]志願兵制を併用しており、すべての男性には兵役義務があるが、近視などの身体的問題やその年度の予算不足のため免除や短縮勤務となる者もある。政治家の息子や有名俳優やスポーツ選手などの中には徴兵逃れをしている者もおり、度々報道されている[94]

大韓民国国軍の主たる国防対象は軍事境界線38度線)を挟んで対峙する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の朝鮮人民軍であり、大半の陸上戦力を向けている。1950年に勃発した朝鮮戦争以来、朝鮮戦争休戦後の1953年に締結された米韓相互防衛条約に基づいた米韓同盟によりアメリカ軍と緊密なつながりがあり、しばしば朝鮮半島有事を想定した米韓合同軍事演習を実施している。協定により平時の作戦統制権は韓国軍が単独行使するが、有事の際の戦時作戦統制権は少なくとも2020年代半ばまではアメリカ軍と共同行使するため米韓連合司令部が置かれている[95]。2008年4月に行われた米韓首脳会談において、在韓米軍を2万8500人体制で維持することが決定された。

情報機関

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核開発疑惑

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1970年代に大韓民国大統領であった朴正煕は、大韓民国独自の核兵器開発を構想しており、大韓民国の核保有を望まないアメリカとの政治問題に発展していた[96]2004年には過去において韓国がウラン濃縮など核兵器開発の研究を行っていた事実が発覚し、国際原子力機関(IAEA)の査察を受けている。

1979年朴正煕暗殺事件以後も、現職の政治家や大統領が核武装を肯定する発言が相次いでいる。ハンナラ党鄭夢準議員や宋永仙議員は北朝鮮への対抗上、韓国は核武装を進めるべきだと述べている[97][98]2013年2月、李明博大統領は韓国国内から核武装論が出ていることについて、「愛国的で、高く評価する」「北朝鮮と中国への警告になり、間違っているとばかり言えない」と述べた[99]

その他にも外国への核拡散関与が発覚することもある。2005年には大韓民国の放射性アイソトープ販売企業であるキョンド洋行が、イラン企業のパトリス社に放射性物質であるニッケル63を売ったほか、フランスからは別の放射性物質である三重水素(トリチウム)を買い入れ、パトリスに売り渡していたことが報道された。

国際関係

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緑色で塗られた国は大韓民国と国交があり、灰色で塗られた国は大韓民国と国交がない。

大韓民国は、国際連合加盟国のうち193か国と国交を結んでいる。2025年4月時点で国交のない国連加盟国は朝鮮民主主義人民共和国の1か国のみである。国交締結国のうち、特にアメリカ、中国とは前者は軍事、後者は経済の面で結びつきが親密となっている。

朝鮮民主主義人民共和国との関係

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1948年8月15日の朝鮮半島南部における大韓民国建国以来、翌月の1948年9月9日に朝鮮半島北部にて建国された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とは「朝鮮唯一の正統な国家」としての立場をめぐり、敵対的な関係が続いた。2013年3月6日付の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が「米帝核兵器を振り回せばわれわれは精密核打撃手段でソウルだけでなくワシントンまで火の海にするだろう[100]」と大韓民国とアメリカ合衆国を並べて非難したように[101]、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国は南韓、大韓民国を「米帝の傀儡」だとみなし(「南朝鮮傀儡」)、特に米韓合同軍事演習実施のたびに関係が悪化する。

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争以後、朝鮮半島の分断は決定的となった。強硬な反共主義者であり、「北進統一」論を掲げていた初代の李承晩大統領は、軍事力による朝鮮半島統一の可能性を断ち切らなかったため、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定国連軍中朝連合軍の間で署名された際も、北側は朝鮮人民軍南日大将が署名したのに対し、南側はアメリカ軍ウィリアム・ハリソン・Jr中将が署名し、大韓民国の要人は休戦協定に署名しなかった。朝鮮戦争休戦後も初代大統領の李承晩や朴正煕、全斗煥らによる軍事政権は強固な反共主義政策を実行し、1987年6月29日民主化宣言まで朝鮮民主主義人民共和国が「対南工作」で派遣したスパイや、大韓民国国内の共産主義者に対しては「国家保安法 (大韓民国)」やその他の法令に基づき厳重な取り締まりが行われた。ただし、1987年の民主化以後は「国家保安法」の存在にもかかわらず、大韓民国にも政治集団として朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮労働党の指導理念である「主体思想」を支持する「主体思想派」が存在する。また、1990年代北朝鮮の経済が崩壊し、北朝鮮で「苦難の行軍」と呼ばれる飢餓が発生したあとには「脱北者」と呼ばれる亡命者が南朝鮮、大韓民国に流入している。

大韓民国政府は1万人を超える「北派工作員」を北朝鮮に送り込み多くの犠牲を出している[102]1971年8月23日に発生した実尾島事件はこの「北派工作員」派遣の過程で発生した事件であった。朝鮮民主主義人民共和国政府もさまざまな手法で韓国に対する「対南工作」を行っており、青瓦台襲撃未遂事件ラングーン事件文世光事件で大韓民国大統領の暗殺を謀ったり、イ・スンボク事件江陵浸透事件などで大韓民国への侵入事件を引き起こしている。また、大韓航空機YS-11ハイジャック事件などで韓国国民の拉致事件を引き起こしており、大韓航空機爆破事件では韓国国民を標的とした無差別テロ事件を引き起こしている。また陸上の軍事境界線や海上の北方限界線をめぐっては、南北分断以降、1976年ポプラ事件1999年第1延坪海戦2002年第2延坪海戦2009年大青海戦2010年天安沈没事件延坪島砲撃事件などの武力衝突が断続的に発生している。

このような中、統一に向けた努力が試みられているが、実を結ぶには至っていない。1960年四月革命によって学生と市民が李承晩初代大統領を退陣させたあと、同1960年8月14日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は南北朝鮮統一のために「連邦制統一案」を発表、両政府代表による「最高民族委員会」の結成を提唱し、初めて具体的な平和統一案を提出したが、大韓民国の張勉首相がこの提案を検討することのないまま、翌1961年5・16軍事クーデターによって朴正煕少将が軍事政権を樹立したため、この提案は流れてしまった[103][104]1972年ニクソン大統領の中国訪問によってそれまで敵対していた米中関係が改善した結果が南北朝鮮に波及したため、同1972年7月4日に大韓民国の朴正煕大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は共同で南北共同声明を発表したが、その後朴正煕大統領が維新クーデターでさらなる権力集中を進め、また1973年金大中事件で大韓民国国内の民主派を弾圧する姿勢を維持したため、以後北側からの南北間の対話は途絶えた[105]。なお、金大中事件直前の1973年6月23日に朴正煕大統領は「平和統一外交宣言」を、金日成主席は「祖国統一五大方針」をそれぞれ提出しているが、国際連合同時加盟問題に対する南北両政府の主張の隔たりの大きさが浮き彫りになる結果に終わっている[106]

1979年10月26日朴正煕暗殺事件が発生したあと、翌1980年5月に5・17非常戒厳令拡大措置によって全斗煥将軍が実権を握ると、同1980年10月10日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席は、軍事政権である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の両国間の政治体制の相違を乗り越えて低い段階での連邦制を実現するため、「高麗民主連邦共和国」創設を提示した[107]

冷戦終結以後は雪解けが進み、1991年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国際連合同時加盟や南北基本合意書に結実した。1993年に大統領に就任した金泳三が「三段階統一論」を提示した[107]1998年に発足した金大中政権は「太陽政策」の名の下、積極的に朝鮮民主主義人民共和国との融和政策を進め、2000年6月には金正日国防委員長南北首脳会談を実施、6.15南北共同宣言を締結し、大韓民国国内に和解ムードが広がっていた。

2003年に発足した盧武鉉政権も太陽政策を引き継ぎ、朝鮮民主主義人民共和国による2006年の核実験以後も、2007年10月に第2回南北首脳会談を実施したが、北朝鮮による日本人拉致問題が発覚し、相次ぐ北朝鮮によるミサイル発射実験北朝鮮核問題をめぐる六者会合の実施など北朝鮮包囲網が国際的に形成されたこともあり、2008年2月25日に発足した李明博政権以降は太陽政策を転換した。李明博政権下では南北間の緊張が高まり、2009年大青海戦2010年天安沈没事件延坪島砲撃事件などの軍事衝突が勃発している。

朴槿恵政権下の2014年には韓国政府から北朝鮮に対して30億ウォン(約3億円)規模の人道支援が実施された[108]

なお、北朝鮮と韓国は対中関係で大きく変化してきており、2014年の北朝鮮による核実験の強行によって建国以来の血盟関係にあった中朝関係は急速に悪化する一方、習近平中国最高指導者が北朝鮮首脳との面会に先だって訪韓するなど中韓両国は急速に接近し、北朝鮮政府は中国に派遣する自国の貿易商に中韓関係の情報収集を命じ、警戒を強めているとされている[109]。2015年2月に北朝鮮は中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加しようと特使を派遣したが中国側の拒否によって失敗に終わったのに対し[110]、韓国は同年3月にアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加した。2015年9月の中国の軍事パレードでは、韓国は大統領の朴槿恵が参加し党総書記である習近平と肩を並べて参観したのに対し、北朝鮮は朝鮮労働党書記である崔竜海を派遣したが席は端に近い位置であった[111]。韓国の聯合ニュースはその写真と1954年に金日成と毛沢東が同じ場所で軍事パレードを参観した写真を並べ、「主人公の変化は、半世紀を超える間に韓中関係と中朝関係がどれだけ変化したかを象徴している」と報じた[111]

中華人民共和国との関係

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反共期

1948年8月15日に建国された大韓民国は、李承晩初代大統領の反共主義の影響もあって、1949年10月1日中国共産党毛沢東主席によって中華人民共和国が建国されたあと、中国国民党蔣介石総統とともに台湾に逃れた中華民国と親交を深めた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、緒戦での首都ソウルの最初の陥落後、臨時首都釜山にまで追い詰められた李承晩政権はダグラス・マッカーサー司令官率いる国連軍の介入によって朝鮮民主主義人民共和国が統治していた38度線以北を北上し、1950年中に大韓民国国軍は一時中朝国境の鴨緑江にまで到達したが、毛沢東主席はアメリカ合衆国(中国語では国)にして鮮民主主義人民共和国をけるため(「抗美援朝」)に朝鮮戦争参戦を決断、彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)はアメリカ軍主体の国連軍を38度線以南にまで押し戻し、一時中朝連合軍国連軍が奪還した首都ソウルを再占領した

1953年7月27日中朝連合軍代表の南日大将と国連軍代表のウィリアム・ハリソン・Jr英語版中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名されたあとも、大韓民国は反共主義から中華人民共和国と敵対した。中華人民共和国も1961年7月11日中朝友好協力相互援助条約締結で示したように、大韓民国よりも朝鮮民主主義人民共和国を重視する姿勢を示した。

しかし、1976年の毛沢東主席の死後、中華人民共和国の実権を握った鄧小平1978年12月にそれまでの経済政策を変更して改革開放路線を歩み、西側諸国からの外資導入への意欲を見せたことと、1990年の東西冷戦体制の崩壊を要因として、大韓民国の対中政策は転換した。

1992年8月24日に盧泰愚大統領は、人口が多く市場として有望で、安価な労働力の提供が可能な中華人民共和国との国交樹立を模索する産業界からの要請もあり、中華人民共和国との国交を正常化し(中韓国交正常化)、「一つの中国論」に基づいて中華民国台湾)とは断交した。

中韓国交正常化後

中韓国交正常化以降、韓国では対中投資ブームが起こり、多くの韓国企業が安い労働力を求めて中華人民共和国に進出した。現在では韓国の対中投資額は日本のそれを上回り、投資額は国家としては第1位となっている[112]。特に山東省青島遼寧省大連吉林省延辺朝鮮族自治州には韓国企業の投資が累積している。また中華人民共和国に留学する外国人学生数で、韓国はトップを占めるほどになっている。

投資額が国家として1位とはいえ、韓国企業の対中投資実行額は2004年の62億5000万ドルから、2007年には1月から11月の段階で32億3000万ドルと、3年でほぼ半減のペースとなっている。要因としては2008年1月より施行された外資優遇を原則廃止した新たな企業所得税法、従業員の待遇を向上させる労働契約法や現地トラブルも重なり「中華人民共和国離れ」が加速している[113]

また、WTO香港ラウンドにおいて、韓国の農業従事者が香港で激しいデモ活動を展開した。香港の警察はデモを行った人々を拘束した。

韓国は2014年3月に中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加することを決定し、韓国の企画財政省高官はAIIBを通じた北朝鮮でのインフラ開発に期待感を示した[114]。また、2015年9月3日に中国が開催した抗日戦争勝利70年記念式典には大統領の朴槿恵が出席した[115]。しかし中国軍にとって脅威になりうるTHAADミサイルシステムの在韓米軍配備をめぐり両国の関係は悪化していき、2016年7月8日に米韓両国関係者がTHAAD配備が最終的に決定したと発表した[116]ことに対し、中国側は「強烈な不満と断固とした反対」を表明[117]。国交正常化25周年となる2017年8月24日の記念式典の共同開催や文在寅韓国大統領の訪中も中国側によって拒否され実現せず、それぞれが主催する式典が北京で別々に開催された[118][119]

ソビエト連邦及びロシアとの関係

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1945年第二次世界大戦終結により、朝鮮半島は北緯38度線を完全な境界線として、8月に進駐したソビエト連邦軍軍政下の北部と、9月に進駐したアメリカ軍軍政下の南部と分断占領された(連合軍軍政期)。朝鮮半島北部では1945年9月11日朴憲永ら朝鮮半島内部で抗日運動を行っていた共産主義者が中心となって朝鮮共産党が再建されたあと、中国共産党八路軍に所属し抗日闘争を戦っていた中国朝鮮族の共産主義者や、ソ連や満洲から帰還した抗日パルチザンが朝鮮半島北部に流入し、こうした社会主義者共産主義者の協同戦線党として1946年8月に北朝鮮労働党が結成され、その中でもソ連軍の士官として朝鮮半島に帰還した金日成は1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任したあと、農地改革を実施する中で徐々に権力基盤を固めた[120]

1948年にアメリカ合衆国主導の南北統一総選挙が国連で決議されたが、北部を軍政統治するソビエト連邦が拒否し、南北分断が確定した。同1948年8月15日には朝鮮半島南部単独で大韓民国が独立を宣言し、追って9月9日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が残余の朝鮮半島北部のみで独立を宣言したため、韓国は建国当初からソ連と敵対関係になった。

ソ連は朝鮮半島北部で朝鮮労働党の指導による社会主義国の建設に成功し、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後は朝鮮人民軍の南侵を支持したが、国際連合安全保障理事会における欠席戦術を逆手に取られてアメリカを中心とした国連軍の編成と介入を許し、朝鮮半島全域への勢力拡大は失敗した。この際、ソ連軍は直接介入を控えたものの、軍事顧問団の派遣や兵器の供給で朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国の中朝連合軍による軍事作戦を支えた。

1950年代

1953年の朝鮮戦争休戦後、朝鮮民主主義人民共和国の執政党となった朝鮮労働党党内では、1950年代金日成首相を領袖とする満州派の権力基盤独占化の過程で、1956年8月宗派事件によって朝鮮労働党ソ連派南日らごく一部を除いて粛清されたが、北朝鮮における親ソ派の粛清にもかかわらずソビエト連邦は1961年7月6日に朝鮮民主主義人民共和国とソ朝友好協力相互援助条約を締結し、朝鮮半島唯一の正統政権と認め、韓国とはまったく外交交渉を行わなかった。

その後のベトナム戦争では、アメリカ合衆国の要請に応じて南ベトナムに出兵した大韓民国国軍北ベトナムを通じてソ連と中華人民共和国の支援を受ける南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と激しい戦闘を行った。朴正煕大統領率いる大韓民国の軍事政権反共主義を唱え、朝鮮民主主義人民共和国の背後にいると考えられていたソ連や中国を強く警戒しており、この1960年代から1970年代の東西冷戦の激しい時期では、韓国とソ連の関係は絶たれていた。

1980年代

1981年、首都ソウル1988年ソウルオリンピックの開催都市に決まると、韓国はホスト国としてソビエト連邦を含むすべての国を安全に招待する義務を負った。しかし全斗煥政権は対ソ強硬姿勢と国内の民主化運動弾圧を継続し、1983年9月1日には大韓航空の旅客機がソビエト連邦領空を侵犯したあとに撃墜された大韓航空機撃墜事件も発生して、両国間の関係はまったく改善されなかった。

この敵対的な韓ソ関係が変化したのは、1985年に登場したソビエト連邦のゴルバチョフ政権が「新思考外交」による冷戦の緩和を訴えて以降である。韓国も1987年大統領選挙に勝利し、翌1988年に成立した盧泰愚政権が民主化を進めつつソビエト連邦や中国との緊張緩和を目指す「北方外交」を提唱した結果、1988年9月17日から10月2日にかけて開催されたソウルオリンピックはソビエト連邦や東欧諸国の参加を得て無事に開催された。この際に両国の接触が本格的に開始され、首脳会談を経て、1990年9月30日に韓国とソビエト連邦は国交を樹立した。1991年にはゴルバチョフが初訪韓(済州島を訪問)し、同年に大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国と同時に国際連合加盟を果たした。また、第二次大戦後に旧日本領の南樺太(その後、ソビエト連邦がサハリン州に編入)に取り残され、無国籍状態やソビエト連邦国籍になっていた残留朝鮮人の韓国訪問・帰還事業や、第二次世界大戦前にヨシフ・スターリンによって極東の沿海地方から中央アジアへ民族全員が強制移住させられたソビエト連邦国籍の朝鮮人(「カレイスキー/高麗人」と称される)との交流が開始された。

1990年代

1991年12月にソビエト連邦が崩壊したあと、後継国家としてロシア連邦やその他の独立国家共同体(CIS)諸共和国が完全な独立国家として成立しても、韓国側からの積極的なアプローチは続いた。現代自動車はロシアの外国自動車市場で最大のメーカーとなり、LG電子も家電市場で3割のシェアを獲得したと伝えられている(ジェトロレポートより[121])。巨大財閥以外の韓国企業もロシアに進出し、ウラジオストクを重要な拠点としてシベリア開発にも関与している。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は社会主義体制を放棄した現在でも北朝鮮との友好関係を維持し、南北等距離外交を推進していることから、北朝鮮の核開発問題をめぐる六者会合への参加国に含まれている。

ソ連崩壊後に新たに中央アジアに独立したカザフスタンウズベキスタンにも、韓国企業が進出している。両国には韓国からの直行便が就航し、高麗人(カレイスキー)への朝鮮語教育の支援などを含めた関係強化が進められている。

アメリカ合衆国との関係

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2013年5月7日の二国間首脳会議における朴槿恵大統領およびバラク・オバマ米大統領

第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国(米国)を盟主とする西側諸国ソビエト連邦(ソ連)を盟主とする東側諸国の間で東西冷戦体制が形成される中、朝鮮半島南部は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による連合国軍政に置かれた。1948年5月10日左派や朝鮮半島北部の反対の中で実施された朝鮮半島南部単独での初代総選挙を経て、同1948年8月15日李承晩初代大統領の下、アメリカ軍軍政下にあった朝鮮半島南部に右派を中心とする大韓民国が成立し、1948年11月20日に大韓民国国会でアメリカ軍の無期限駐留要請が決議された。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍が大韓民国の首都ソウルを攻略したあと、釜山に逃れた李承晩政権の防衛には、ダグラス・マッカーサー元帥率いるアメリカ合衆国を中心とする国連軍が大きな役割を果たした。1953年7月27日朝鮮人民軍南日大将とアメリカ陸軍ウィリアム・ハリソン・Jr中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名されたあと、同1953年10月1日に調印された米韓相互防衛条約によって大韓民国はアメリカ合衆国の同盟国となった。

1960年代

朝鮮戦争休戦後の1950年代の大韓民国は軍事的、経済的にアメリカ合衆国に依存していたが、李承晩政権の末期にはアメリカ合衆国からの援助が減額されるようになった。1961年5・16軍事クーデターにより軍人出身の朴正煕軍事政権を設立した韓国は、ベトナム出兵の承認をアメリカ合衆国に求めたが認められなかった。1963年11月22日民主党ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され(ケネディ大統領暗殺事件)、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領に昇格すると大韓民国国軍のベトナムへの出兵が認められ、朴正煕大統領はアメリカ軍に次ぐ大部隊を南ベトナムに派遣し、民間人を含む多くのベトナム人を殺戮した[122]大韓民国軍のベトナム派兵は、1968年2月12日に発生した「フォンニィ・フォンニャットの虐殺事件」のような戦争犯罪を伴い、ベトナム戦争終結後の越韓関係にしこりを残している。ベトナム出兵によりアメリカからの経済援助も増額され、戦争特需によって三星・現代などの財閥が形成された[122]。アメリカは、韓国が導入した外資40億ドルのうち、およそ20億ドルを直接負担、その他の負担分も斡旋し、日本からは約11億ドル、西独などの西欧諸国からは約10億3000万ドル調達した。また、戦争に関わった技術者・軍人・建設者・用役軍納などの貿易外特需(7億4000万ドル)や軍事援助(60年代後半の五年間で17億ドル)も韓国の高度成長を支えた[123]。こうして韓国は、ベトナム参戦を契機に急成長を遂げていく(「漢江の奇跡」)[注釈 10]。また、韓国人のアメリカへの移住が許可され、在米韓国人は200万人に達している。しかしながら、ベトナム派兵によって強化されたあとの米韓関係も、1970年代に入ると朴正煕大統領の核武装構想によって韓国の核兵器保有を望まなかった民主党ジミー・カーター大統領との間で軋轢を起こしている。1970年代にはKCIAが関与したアメリカ合衆国下院議員買収工作が発生し、米韓両国の政治問題と化した(コリアゲート事件)。

1980年代

1987年6月29日民主化宣言と、翌1988年盧泰愚政権の発足、朴正煕、全斗煥両大統領の軍事政権による開発独裁下で実現した韓国経済の躍進(漢江の奇跡)、1990年以降の東西冷戦体制の崩壊は、この構図を転換する要因となった。韓国はソ連、中国、ベトナム社会主義共和国とそれまで反共主義から対立していた社会主義国との国交を樹立し、これら諸国に対する経済投資も拡大した。また、1991年に勃発した湾岸戦争に際しては、多国籍軍に大韓民国国軍を派遣している。

1990年代

1998年金大中政権成立後は太陽政策によって朝鮮民主主義人民共和国との関係も金泳三政権期に比べて改善された。一方、1999年老斤里事件報道後、在韓アメリカ軍に対する反感が強まり、2002年にアメリカ軍車両に韓国人女子中学生が轢き殺された事件(議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件)によってアメリカ軍に対する反感がいっそう高まった。同時にアメリカ軍兵器の近代化と展開能力の向上により、想定される戦闘の様相が、アメリカ軍が駐留し始めたころとは異なってきているため、アメリカ軍が韓国に駐留する必要性は減少している。このため、アメリカも在韓アメリカ軍を削減する政策を打ち出している。

2000年代

2003年2月25日に発足した盧武鉉政権はイラク戦争に際してアメリカ・イギリス軍主導の有志連合大韓民国国軍を派兵し、2004年にはイラクアルビール県ザイトゥーン部隊を派遣した一方、金大中政権以来の太陽政策を引き継ぎ、特に2006年の北朝鮮の核実験後も北朝鮮との宥和政策推進のために2007年10月に第2回南北首脳会談を行う親北反米政策をとったため、アメリカとの関係は悪化した。

2008年2月25日に発足した李明博政権は金大中政権以前の親米路線に方針を転換したため、対米関係も改善されると見込まれていた。しかし4月、BSE問題に端を発するアメリカ産牛肉の輸入をめぐり反発する野党、市民と政権の対立が激化しており、今後もアメリカとの良好な関係が維持できるのか不透明な状態が続いている。

アメリカとは固い絆を築いているとされ、アメリカ軍への慰安婦[124][125]として数十年にわたって提供された女性たちが謝罪と補償を求めているが[126][127][128]、日本を相手とした場合とは異なり、韓国政府は女性たちを支援しないこととしており[126][129]、韓国人とアメリカ人によってアメリカ各地の公共施設に建立が進められている慰安婦追慕碑については、アメリカ軍慰安婦や韓国軍慰安婦は対象外としている[130][131]

2010年代

しかし、2014年2月末以降、日韓の歴史問題をめぐるアメリカのシャーマン国務次官の発言、韓国国内でのリッパート駐韓米大使襲撃事件の発生、中国主導のアジアインフラ投資銀行への韓国の参加表明などにより、米韓関係には不協和音が生じていると報道されており、4月には米韓連合軍の防衛力強化を主要議題として米韓国防相会談がセッティングされたが、中国への配慮からアメリカが求めている最新鋭ミサイル防衛システム「終末高高度防衛ミサイル(THAAD)」の在韓米軍への配備は議題に含まないとされた[132]

2020年代

2020年6月11日、ドナルド・トランプ大統領の側近、リチャード・グレネルが「在韓米軍撤収計画」を示唆した[133]

2021年、アメリカの大統領がジョー・バイデンに変わると、従来どおり在韓米軍は維持される事になった[134]

日本国との関係

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日本では、朝鮮民主主義人民共和国国家として承認しておらず、[135]日本が承認していない国一覧も参照)、大韓民国を朝鮮半島内唯一の合法政府と認めている[136]

日韓の歴史的経緯や歴代政権の政策により、韓国国民の反日傾向は高い[137][138][139]

韓国は1965年に朴正煕大統領佐藤栄作内閣総理大臣との間で批准された日韓基本条約に基づき、日本国朝鮮半島の唯一の正統国家として承認している国家であり、隣国であるだけでなく、日本と朝鮮地域は千年を超える長い間交流があったという歴史的背景もあり、両国の関係は政治・経済・文化などあらゆる分野で比較的緊密である。

連合軍占領期と大韓民国建国後

1945年第二次世界大戦終結後、日本軍の武装解除のために連合軍の一員であるアメリカ軍が日本統治下にあった朝鮮半島南部に上陸し、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による軍政が敷かれた[42]

1948年8月15日の大韓民国建国直前に発生した済州島4・3事件では、南朝鮮政府の弾圧から逃れるために済州島民が日本に移入することとなった[140]

李承晩政権下では反民族行為処罰法に基づき、1949年反民族行為特別調査委員会が組織され、親日反民族行為者が法的に認定された。

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では、連合軍占領下にあった日本は、韓国を助けるために海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年間だけでも56名が命を落としている[141]。韓国政府は1950年のソウル会戦で北朝鮮軍に敗北すると、亡命政府を設けるために山口県を提供することを日本政府に求めている(仁川上陸作戦の成功により亡命政府が立ち消えになったため実現せず)[142]

一方で、韓国政府は犯罪者や密入国の韓国人の強制送還の大半を拒んだため、日本政府は抑留された日本人の返還と引き換えに韓国人の密入国者・犯罪者の送還を諦め[143]、日本国内で釈放した。1959年には在日朝鮮人の帰還事業を阻止する目的で在日米軍立川飛行場経由で工作員を日本に送り込み、新潟日赤センター爆破未遂事件を起こしている。

日本が自国領土とする竹島(韓国名は独島:독도)を韓国は自国の領土と主張して武力占拠、日本海上に李承晩ラインを設定、この線を越えて操業する日本漁船を拿捕・抑留してきた。1965年に国交が回復するまでに、韓国によって日本漁船328隻が拿捕、日本人44人が殺傷、3929人が抑留された[144]

日韓基本条約締結後の国交樹立

李承晩政権期は国交断絶状態であったが、1960年四月革命で李承晩政権が打倒され、1961年5・16軍事クーデター朴正煕帝国陸軍士官学校第57期生にして、日本名は高木正雄であった)政権が成立したあと、両国の国交正常化交渉が本格化した。国交正常化交渉の過程では請求権問題がもっとも紛糾した。

1965年サンフランシスコ平和条約と国際連合総会での採択決議第百九十五条を想起して、日韓基本条約が締結された。サンフランシスコ平和条約では沖ノ鳥島の存在が明記されている[145]。ともに締結された財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定に基づいて、日本が朝鮮に投資した資本および日本人の個別財産のすべてを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助することによって、日韓間の両国間および国民間の請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決されていることが確認された[146]。日本政府への新たな補償を求める訴えや抗議活動がなされ続けていたが、2009年8月14日にソウル行政裁判所による情報公開によって韓国人の個別補償は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないことが韓国民にも明らかにされている[147]。なお、韓国はその資金をインフラの整備に充て、戦時徴兵補償金は死亡者1人あたり30万ウォン(約2.24万円)であった[148]

1970年代

朴正煕政権時代の1973年8月8日には大韓民国中央情報部(KCIA)が日本国に滞在していた大韓民国の民主化運動家である金大中を拉致し、金大中拉致事件を引き起こしている。

1990年代

1997年アジア通貨危機により、韓国の経済は危機に瀕した。発足したばかりの金大中政権は国際通貨基金の支援とその経済政策を受け入れ、新自由主義的傾向をもつ構造改革政策によって危機を乗り切った。この時期、首相は金大中と立場を異にするものの経済通と呼ばれた金鍾泌であった。IMF支援の際、日本は韓国に対する緊急支援のうち最大の100億ドルの準備を行った[149][150][注釈 11]

1999年には新日韓漁業協定が発効し、日韓暫定水域が設定された。これにより、竹島周辺海域も日本漁船が操業できる海域に設定されたが、暫定水域は日本側に大きく食い込む形で設定されたため、日本の漁業は大きなダメージを受けている。

2000年代以降

※2000年代以降の、慰安婦や竹島など個別問題と関連した日韓関係の記述は後述する。

2003年に発足した盧武鉉政権は、当初「歴史問題に言及しない」と発言するなど両国関係の改善が期待されたが、国内においては日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法および親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定され、実際に「親日派」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収する[151]、など実行された。2006年に韓国政府は親日反民族行為者財産調査委員会を設置し、2010年までに親日反民族行為者の子孫の資産約180億円を没収した[152]

日本では2000年代の小泉純一郎政権時にG4諸国を結成し、国連常任理事国入りを目指したが韓国は日本の歴史教科書の記述や、竹島問題や小泉総理の靖国神社参拝を持ち出し、日本の常任理事国入りに反対する国際運動を行った。小泉政権時の2004年から2005年にかけては、靖国問題や歴史教科書問題や竹島問題を理由とした日本に対する抗議デモの影響により、韓国側が民間交流行事をキャンセルする事態がいくつか発生し、その後もソウルの日本大使館前で韓国人の老人が焼身自殺を図ったり、安倍晋三首相の写真や人形に火をつける過激なデモが発生している。

金乙東
文喜相

2010年代に入っても韓国の要人が歴史問題に関して日本を非難する発言を繰り返しており、2013年3月に朴槿恵大統領が日韓関係について「加害者と被害者という歴史的立場は1000年の歴史が流れても変わらない」[153]2015年4月には柳興洙駐日本韓国大使が「加害者は100回謝罪しても当然。何回したかは関係ない」[154]、2015年に韓国与党セヌリ党の金乙東(キム・ウルドン)最高委員が「日王(天皇)はひきょうにも命乞いして生き残った」と述べ[155]、2019年2月に文喜相国会議長が明仁天皇を「戦争犯罪者の息子」と呼ぶなどしている(後述)。

2013年1月、韓国は日韓間で締結した犯罪人引渡し条約を無視して、靖国神社に放火した刑事犯の中国人の日本への引渡しを拒否して、「政治犯」として中国に送還した。これに対して安倍晋三首相は抗議声明を発表した[156]。同年3月11日、韓国は日本政府主催の東日本大震災二周年追悼式を中国とともに欠席した[157]

2015年、産経新聞ソウル支局長名誉毀損起訴事件などを受けて、日本の外務省は韓国について「報道の自由」などに疑念があるとし、2014年版外交青書にあった「自由、民主主義、基本的人権などの基本的な価値を共有する」という表現を2015年版外交青書では削除した[158]

2017年9月、平昌冬季オリンピック公式ホームページ内の世界地図に日本が存在しない画像が使用[159][160]され日本政府から是正を求められた。平昌オリンピック組織委員会はデータ移行での不備と釈明し修正された[161]

共に民主党は2024年に尹大統領弾劾訴追案を提出し、1回目の訴追案では、尹政権の価値観外交に基づく親日政策が「日本中心の奇異な外交政策」とされ、北東アジアでの孤立を招いたとの批判が盛り込まれた[162]。この文に対しては日韓両国で批判があり、2回目の訴追案ではこの文は削除された[163]

徴用工訴訟問題に関する関係
2018年10月に韓国大法院が、1965年の日韓請求権協定に基づいた両国間での長年にわたって続いてきた政治的合意を覆し、日本への個人請求権を認める判決を下した。これにより日韓関係が極度に悪化し、1965年の日韓国交正常化以降で最悪といわれるまでの状況になった。
慰安婦問題に関する関係
韓国政府は、日本軍慰安婦は日本軍により組織的に拉致・監禁・強姦された「性奴隷」だったとして、日本への謝罪と賠償を求める運動を世界各国で行っており[164][165][166][167][168]、その結果、世界各国の議会で対日謝罪要求決議が可決され[164][169]、米国の複数の公共施設で韓国人によって日本軍の慰安婦への追慕碑の設置が行われている[130][131]2011年には、韓国の市民団体が駐韓日本大使館正面に13歳の少女慰安婦と称する像を建立し[170]、訪日した李明博大統領が野田佳彦首相に対し、日本国が韓国の求める誠意を示さない限りさらなる銅像の建立がなされると述べた[171]
2015年12月28日、日韓政府の間で日本軍の従軍慰安婦問題を最終かつ不可逆的に決着させることを目的とした、慰安婦問題日韓合意が結ばれた。しかし、2017年5月に文在寅政権が発足するとこの合意を覆そうとする動きが活発になった[172]
国土と海洋(竹島・対馬・日本海呼称など)問題に関する関係
2008年7月21日、韓国国会議員50名によって対馬島返還要求決議案が韓国国会に提出された。同年11月、日本は大陸棚限界委員会に対し、沖ノ鳥島を基点とする海域を含む七つの海域を大陸棚の延長として申請したが、韓国は「沖ノ鳥島は、島に該当せず岩にあたる」という抗弁を2009年2月に大陸棚限界委員会へ提出した。しかしながら大陸棚限界委員会が沖ノ鳥島を起点とする大陸棚を日本の大陸棚の延長として認定した。
韓国は官民をあげて世界各国で、竹島問題、日本海呼称問題への主張を行っている[173][174]。日本政府は、このような竹島問題や日本海呼称問題などの外交案件に関わる韓国側の宣伝工作活動に対しては抗議を行っている[175][176]
2012年8月、李明博大統領が竹島に上陸し、天皇への謝罪要求を行うと、日韓関係は一気に悪化した。
2012年12月、韓国政府は東シナ海での韓国の大陸棚を、同国沿岸から200海里(約370キロ)を越えた沖縄トラフ付近まで拡張することを求める大陸棚境界画定案を国連の大陸棚限界委員会に提出した[177]
2015年7月には韓国与党セヌリ党金乙東最高委員が「韓国の領土である対馬を取り戻そう」と主張した[178]
文化財問題に関する関係
日韓間では、文化財についても問題となっている。韓国政府は、日本にある朝鮮半島から流出した文化財の「返還」を日本政府や民間機関に求めている。菅直人内閣はこれに迎合する形で日韓図書協定を結び、1200冊あまりの図書文化財を引き渡した。
軍事問題に関する関係
2010年韓国哨戒艦沈没事件では日本政府は韓国を強力に支持した[179][180]
2012年6月、日韓間で結ばれる予定だった軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の締結が、締結1時間前になって突然韓国側からキャンセルされた。
2018年12月、韓国海軍レーダー照射問題が発生し、慰安婦問題や徴用工訴訟問題などの歴史認識問題で悪化の一途をたどる日韓関係をさらに悪化させる事態となったが、これは親北朝鮮の文在寅大統領の影響もあると分析されている[181]
経済的関係
韓国木浦市の「ボイコット・ジャパン」ステッカー(日韓貿易紛争における日本製品不買運動
経済面において、韓国は日本との関係が深い。韓国から日本への電子部品や工作機械などの輸出も増大している。韓国の対外輸出の増加に伴い、日本からの部品輸入や日本への特許使用権料の支払いも増加しており、戦後一貫して韓国の対日貿易は赤字が続いている。
2020年の貿易収支では208億4000万ドルの赤字であった[182]。原因として拡大していった半導体産業の素材・部品において日本に依存している点と国が日本に黒字を出している品目は代替可能な物である点にある[183]。「韓国が世界貿易で稼いでも、その半分以上を日本へ引き渡している構図である」[184]と指摘されている。対日輸入の金額自体は増加しているが、輸入に占める割合は2005年には18.5 %、2006年は16.8 %、2019年は9.5 %[185]と全体的に減少傾向であり、また輸出でも同様の現象が起こっている。
韓国の対日貿易赤字は日本の経済政策における為替変動が問題であるとして、2013年2月のロシアモスクワにおいてのG20では「円安は日本政府の意図的政策によるもの」として問題提起[186]、続いて同年4月米国ワシントンでのG20においても「日本の量的緩和は韓国輸出競争力に打撃と懸念する」として声明を発表、公式会議において名指しで日本を非難する立場をとっている[187]
過去の李承晩政権時代には外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月から翌年1月と1959年6月から翌年4月の2度にわたり通商断交を宣言したことがあるが、2回とも韓国側の要請で1年以内に通商再開をしている。2003年に両国首脳は自由貿易協定(FTA)締結を目指すことで合意したが、交渉は難航している。
2020年日韓を含めたアジア地域の国々でRCEPが署名された、日韓では初めてのFTAとなる[188]
2008年韓国通貨危機では日本は韓国と300億ドルの通貨スワップの協定を締結した[189]
2002年の日韓ワールドカップ以降、日本女性を中心に韓流ブームが起こり、2010年から2012年にかけてK-POPブームが起こると、女性にとどまらず音楽CDや化粧品などの韓国製品が消費されるようになった。

ベトナムとの関係

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ベトナム戦争では南ベトナム陣営として参戦し約5000人の韓国人兵士が戦死し、ベトナムのために戦った英雄とされている。この戦争で一部の韓国人帰還兵は枯葉剤の影響によって後遺症に苦しめられることになった。一方で韓国人兵士による民間人への性暴力や虐殺行為も発生した。南ベトナム崩壊のためベトナム人との間に出来た子供(ライダイハンと呼ばれる)はベトナムに残される事となった[190]

これらの問題についてベトナム政府は経済大国である韓国との関係を考慮し公論化しない路線を取っている[191]、一方被害者は補償を求めており2023年に一審勝訴となった[192]

ベトナムは韓国の主要な輸出先のひとつであり、戦略的パートナー関係にある[193]。ベトナムに対し多額の投資と技術協力を行っており、ベトナム最大の企業は韓国資本のサムスン・ベトナムで、2021年におけるベトナムへの直接投資額は世界1位であり、韓国で働く外国人労働者の7 %にあたる約15万人がベトナム人であるなど経済的な結びつきも強い[194][195]。2015年には両国間でFTAが発効した[196]

2019年時点でベトナムの総輸出の25 %がサムスン電子のものであり、コロナショックではサムスンの技術者が14日の隔離措置を免除された[197]。ベトナムからの労働者受け入れも盛んで[198]、2020年では21万人のベトナム人が在留しており中国に次ぐ数となっている[199]

経済・主要産業

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現況の概観

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28色のカテゴリに分けられた韓国の輸出品目
経済の中心江南区。(2009年)

主要産業は、エレクトロニクスIT化学製品自動車造船鉄鋼である。2023年における韓国平均世帯所得は7,185万ウォンで、可処分所得は5,864万ウォン[16]。2020年の国内総生産は世界10位[11]。2021年の貿易輸出額は世界6位[200]。2020年の国連工業技術力指数は世界3位[201]。巨大財閥が経済に対して強大な影響力を持っており、中でもサムスン電子は、半導体スマートフォンテレビ家電製品において世界シェア1位である[202][203][204][205]。また、韓国は新興途上国への積極的な開発投資を行っており、一例として世界最高高度の建築物「ブルジュ・ハリファ」の建設は、韓国のサムスン物産ベルギーアラブ首長国連邦の企業とジョイントベンチャーを組んで施工した。経済複雑性指標は世界4位[206]

主要な企業としては、上に挙げたサムスン電子の他に、現代自動車キア自動車LGエレクトロニクスSKハイニックスネイバー、ロッテ、ポスコHD現代重工業などがある。

韓国経済史

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1962年から1994年までの間、韓国の経済は年20 %の輸出の伸びにより加速し、毎年平均10 %成長した。この期間は漢江の奇跡と呼ばれる。

韓国の経済は朝鮮戦争の激戦でインフラが破壊されたことによって1960年代前半までは大きく立ち後れていたが、1965年の日韓基本条約を機に、日本からの円借款などの資金協力や技術援助を受け、安い人件費を活かした製造業が発達し、1962年から1994年の間、年20 %の輸出の伸びを記録し、毎年平均GDPが10 %成長した[207][208][209][210][211]。この急激な経済成長は、「漢江の奇跡[注釈 12]」と呼ばれる[208]。高度経済成長期、新興工業経済地域(NIEs)に数えられた時期を経て、1996年にOECD(経済協力開発機構)加盟。日本に次ぐ、アジアで2番目の先進国となった。

1997年にはアジア通貨危機により韓国経済は大きな危機に直面し、大量倒産や失業と財閥解体が起こり、外資導入と市場の寡占化が進んだ。大手輸出企業や銀行の株主の多くは外国人になった。2000年ごろには一時的な経済の立ち直りがあったものの、政府の金融政策のためクレジットカードを大量に発行した余波もあり、2003年ごろには個人破産が急増して国内での信用不安が高まり、金融が危機的状態となった。深刻な就職難に陥り、2009年大卒者就業見込みは55万人中4万人だけであった[212][213]

2000年に入ると、富裕層向けの高層マンションブームとなり、2002年から2012年までの10年間に不動産価格は68.5 %上昇した(日本のバブル景気とほぼ同率)。これらは一時低迷したものの2018年には再び不動産高騰によるバブル経済に突入し、2022年におけるソウルの一般マンション平均価格は1億6000万円前後を推移、年8 %の継続的な物価高騰が続くものの、いずれも賃金上昇率に見合わないため社会問題化している。

2007年ごろには、韓国の製造業が、技術的に先行していた日本と、大量生産により追い上げる中国の存在に追い込まれるのではないかとする「サンドイッチ現象」への懸念が持ち上がっていたが、リーマン・ショック以降、ウォン安政策によって輸出が伸び、2011年には韓国の貿易依存度は対GDP比96%となった。また、2010年ごろから2012年末までに続いた超円高や、2011年東日本大震災などの災害により、日本の製造業が低迷する中、競合の韓国の技術企業は大きく業績を伸ばした[214]。特に好調なサムスン電子は売り上げ高と利益を伸ばし、さらには自社内の基礎研究にも力を入れたことで、世界最大のエレクトロニクス・テクノロジー企業となっている。電化製品においては、品質にこだわり保守的な日本企業に対し、コストパフォーマンスに優れ消費者に訴求するデザインや機能性を追求した韓国製品がシェアを拡大し、テレビの世界シェアは3割と日本を大幅に上回っている[215]。また現代自動車は欧米先進国における自動車販売台数を急激に伸ばし世界3位の自動車メーカーとなった。

2018年文政権政権によって大幅な最低賃金引き上げが行われ、直後は失業率が上昇したがその後は安定、生産性の向上も起こり同年の経済成長率は2.7%となった[216]。2020年最低限の住宅基準以下の世帯は4.6 %に改善[217]、2010年の10.6%の半分以下になる[218]2018年時点での国内総生産は世界10位であり、近年は知的財産への投資も増加している(韓国の知的財産権問題も参照)。

大手製造業である財閥系輸出企業は好調であるが、韓国全体の雇用に寄与しておらず、内需はきわめて停滞しており、韓国国内においては財閥系企業の寡占が問題となっている[219]。2021年時点で、韓国の国内総生産の14%を三星財閥ひとつで占めていた[220]。このため、社会では「二極化」という言葉がよく使われるようになり、経済的格差の拡大が問題となっている。その他恒常的な問題として、徴兵義務回避や留学志向のため、優秀な若者は韓国国内の経済状況に関わらず、アメリカを中心とした国外の企業・研究機関に就職する傾向が高まっており、頭脳流出が懸念されている。

半導体・電子部品

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世界最大の半導体スマートフォン、物理テクノロジー企業であるサムスン電子

DRAMでは世界シェアの約半数近くを占める。1997年のアジア通貨危機で、当時、単なる主要企業にすぎなかった韓国の半導体メーカーらは一時的に倒産寸前にまで追い込まれるが(SKハイニックスは、2001年に一度経営破綻している)、韓国政府からの公的資金注入による韓国の将来をかけた半官半民体制や、破綻を避けるための広範な構造改革、効率的な経営計画の実行、大規模投資、日本の電機メーカーとの相互協力(ソニーとの液晶パネル製造の合弁会社設立や、相互特許使用契約の締結。東芝との光ディスク装置の合弁会社設立。古くはフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約の締結などもしている)などを経て著しく躍進し、グローバル企業への成長を加速させる。半導体技術力向上の一環として、世界中から人材を集めるのが特徴で、サムスン電子などは韓国政府のバックアップのもと、1991年の日本のバブル崩壊時に大がかりにリストラされた東芝松下電器三洋電機シャープNECなどの日本人技術者を高給でヘッドハンティングし、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めるなどの環境下で、最新技術を取得。それらの要因と日本の電気メーカーの緩慢さ・展望の見誤りもあり、1990年代まで日本が優位にあったDRAM業界のシェアを韓国が塗り替えることになった[221]。これに対し日本や他国の企業は技術流出の対抗策として、自社技術者の監視、生産技術の内製化を進めている。一方で韓国企業でも同様に他国への技術流出対策を積極的に行っている。フラッシュメモリーは日本や米国にも輸出する反面で部品を輸入し、水平分業が盛んである。パソコンや携帯電話などで使われる汎用品の液晶パネルでもDRAMと同じ産業構造であり、韓国が世界トップのシェアを占めている。

家電・情報通信製品

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スマートフォン世界シェア1位であるGalaxyシリーズの折り畳み可能なディスプレイを搭載した端末。
白物家電世界最大手LGは、テレビ用OLEDディスプレイでも世界シェア1位。

韓国の家電・情報通信製品は2021年、世界最大の販売シェアを得ており、液晶テレビ携帯電話の分野ではサムスン電子が、冷蔵庫、洗濯機、エアコンなどの白物家電の分野ではLG電子が世界的に有名である。

特にサムスン電子の製品は、新興国のみならず欧米でも高いブランド価値も得ている。デジタルカメラプリンターなど日本企業が健闘していた製品領域での伸びも著しい。携帯電話の分野では国際マーケットでノキアモトローラなどと熾烈な競争を続けている。基幹部品のフラッシュメモリーや液晶パネルのシェアで世界トップであることが強みであり、第三世代携帯電話 を中心に韓国製のシェアが伸びている。この分野についてはOEM(相手先ブランドによる生産)やEMSなどが広範に行われており、いわゆるブランドシェアと実際の国際マーケットにおける貢献の詳細については不明な点も多い。クレジットカード照会機、PCPOSシステムと周辺機器、複合クレジットカード照会機をはじめとした各種の電子機器の海外輸出も行われている。

自動車

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現代・起亜自動車は単独売上台数で世界第3位の自動車メーカーである[222]
起亜自動車のEV6
2022年ドイツカーオブザイヤーを受賞した自動運転電気自動車ヒョンデアイオニック5[223]

2020年時点の韓国の独立系自動車資本は現代-起亜自動車グループだけであり、その他の自動車メーカーは外国企業の傘下である。韓国の自動車産業の歴史は日本企業との提携から始まった。現代自動車三菱自動車工業、現在では現代自動車の傘下に入っている起亜自動車マツダ大宇自動車(GM大宇を経て現在は韓国GM)はトヨタルノーサムスン自動車日産自動車と提携していた。韓国国内では1988年に自動車の輸入が自由化されたが、「輸入先多辺化(多角化)制度」と呼ばれる事実上の対日輸入禁止品目において自動車が指定されていたために、日本車の輸入・販売は1998年7月に至るまで禁止されていた[224]

現代-起亜自動車グループは、2000年代中盤までには日本以外の世界市場ですでに一定の低・中価格帯の車種のシェアを獲得し、2000年代後半にはさらなる高価格帯への参入を企図し、2008年に初めて海外の高級車マーケットにヒュンダイ・ジェネシスを投入した。一方、趣味性の高いスポーツカーはほとんど販売しておらず、数々の特色のあるスポーツカーを市場に投入してきた日本の自動車メーカーとこの点で異なる。2002年、現代・起亜はアメリカで、エンジン出力水増し広告が発覚し、集団訴訟され、補償金を支払った。2012年、今度は燃費水増し広告が発覚し集団訴訟が起こされ2億1000万ドルの支払いで和解した[225]

韓国車のデザインは2000年代前半ごろまでは日本車の影響が強かったが、2000年代後半からその影響を脱し飛躍的に向上している。これは現代-起亜自動車グループが、生産効率よりもデザイン優先に経営方針を定め、起亜がアウディのチーフデザイナーだったペーター・シュライヤーを獲得して最高デザイン責任者に、現代がBMWのチーフデザイナーだったクリストファー・チャップマンを獲得してデザイン責任者に据えたことが影響している[226]。現代起亜グループの立役者となったペーター・シュライヤーは2012年12月に現代起亜グループの社長となった。また品質の向上も著しく、世界金融危機以降の円高ウォン安の影響もあり、特に米国や欧州市場で販売シェアを伸ばしており、2011年の現代-起亜自動車グループの現代自動車と起亜自動車の合計販売台数は660万台で世界4位であった[226]

ディスプレイ

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韓国は世界最大のディスプレイ製造国であり、世界シェアは50%を超える[227]

日本は市場に出せる商品を開発・事業化し、液晶産業の創造・成長をリードしてきた[227]。しかし、1996年ごろから韓国が液晶産業に参入すると、半導体産業での学習・経験と、日本企業からの意図した技術移転により、液晶産業を 急速に立ち上げた[227]。そして、近年両国は大きく液晶の生産量シェアを拡大し、日本を追い越した[227]

韓国素材部品企業の技術開発や素材部品-パネル企業共同の国産化努力により、偏光板、BLU、フォトマスク、有機材料(EML、HIL)などは国産化に成功した[227]。しかしながら韓国素材部品の国産化率はLCD 65 %、OLED 57 %水準である。韓国を代表する素材部品企業は偏光板、有機材料などを生産するLG化学サムスンSDI、Wet Chemicalを生産する東進セミケム・ENFテクノロジー、フィルムを生産するコーロンインダストリー・未来ナノテック・暁星・SKCハイテクアンドマーケティング、有機材料を生産するトクサン・ネオルックス(DS Neolux)などがある[227]。韓国の大半の素材部品企業は、韓国のサムスンディスプレー、LGディスプレーのみならず、中国、台湾にも輸出している[227]

IT・情報通信インフラ

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アジア最大のメタバースプラットフォームZEPETO。韓国はメタバースで世界最先端を走る。

韓国ではブロードバンドが普及しており、インターネット放送や通信型ゲーム、サイワールド[注釈 13]などのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)やオーマイニュース[注釈 14]などの市民参加型インターネット新聞サイトなど多様なサービスを展開している。近年では世界初の映像付きオンラインゲームの開発とPUBGをはじめとする大ヒットタイトルの制作(後述)、SNOWLINEをはじめとするアプリケーションコンテンツの開発もその代表である。メタバース市場では、ファッション分野で高い世界シェアを得ており、特にネイバーのZEPETOは、GUCCIラルフ・ローレンまた、ZARAのメタバース参入時にプラットフォームとして採用された。

建築・土木・プラント

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韓国サムスンが建設した世界で最も高いビルブルジュ・ハリファ
ソウルにロッテワールドタワーが建設される様子。(2015年)

韓国の建築・土木企業は1990年代ごろまで、「手抜工事」が多く、三豊百貨店聖水大橋KB橋の崩落事故などにより多数の死者を出したことから安全性に疑問を持たれることもある[注釈 15]が、近年は韓国建設業界の発展は目覚ましく、世界への進出を加速させている。

2000年以降、韓国建設業界は単純な土木工事から脱却し石油化学などのプラント受注などに力を入れており、中東地域やアジアからの受注が多い。また、リゾートやニュータウンの建設にも力を入れており、サムスン建設がドバイで完成時点で世界一の高さになったブルジュ・ハリファを外国企業と共同で建設した。

韓国の建築企業は、発電所や淡水・発電プラントなどの大型プロジェクトを一括(ターンキー方式)受注している。おもな企業は、斗山重工業HD現代重工業サムスンエンジニアリングサムスン物産現代建設サムスン建設SK建設SKエンジニアリングGS建設大宇インターナショナル韓電KPSハンソルEMEなどである。

造船

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2000年に建造量と受注残(いずれも標準貨物船換算トン数)で日本を抜き世界1位の造船大国になった[228]

韓国最大の造船企業であるHD現代重工業は、2021年において世界シェア1位。HD現代重工業の世界最大の造船設備を有する蔚山広域市は、1人当たりの地域別総生産(GDP)がアジア1位で、これらの要因の一つとなっている[228]

プラザ合意以降の日本の円高による競争力低下とアジア通貨危機を受けてのウォン安が、韓国造船業界の発展の追い風となった。