日本

日本国[注 1]
日本国
日本の国旗 十六八重表菊
国旗 国章(慣例上)
国の標語:特になし
国歌君が代
日本の位置
公用語 日本語事実上[注 2]
首都 東京都(事実上[注 3]
最大の都市 東京都区部[注 4]
政府
天皇 徳仁
内閣総理大臣 菅義偉
国会衆議院議長大島理森
国会参議院議長山東昭子
最高裁判所長官大谷直人
面積
総計 377,976.41km262位[1]
水面積率 0.8%
人口
総計(2020年 1億2581万人(11位
人口密度 334.5人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2020年 名目526兆3662億[2]
GDP(MER
合計(2020年4兆9106億[2]ドル(3位
1人あたり 39,048[2]ドル
GDP(PPP
合計(2020年5兆2361[2]ドル(4位
1人あたり 41,636[2]ドル
建国諸説あり
日本神話による初代・神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)をグレゴリオ暦に換算すると紀元前660年2月11日[3][注 5]
通貨 JPY
時間帯 UTC +9(DST:なし)
ISO 3166-1 JP / JPN
ccTLD .jp
国際電話番号 81
  1. ^ 令和元年全国都道府県市区町村別面積調(10月1日時点)2020年” (日本語). 国土地理院 (2020年12月25日). 2021年1月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, October 2020”. IMF (2020年10月). 2020年12月26日閲覧。
  3. ^ 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)

日本国(にほんこく、にっぽんこく、: Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置し、日本列島[注 6] および南西諸島伊豆諸島小笠原諸島などからなる民主制国家[1][2]。首都は東京都[3]

気候四季の変化に富み、国土の多くは山地で、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本民族アイヌ民族外国人系の人々などが居住し、事実上の公用語として日本語が使用される[4]

内政においては、明治維新後の1889年大日本帝国憲法を制定し立憲国家となった。その後、1947年には現行の日本国憲法を施行。先進国の一つとして数えられており、OECDG7G8およびG20の参加国である。外交においては、1956年から国際連合に加盟しており、国連中心主義を採っている[4]

概要

日本語を通用する日本人国民の大半を占める。自然地理的には、ユーラシア大陸の東縁に位置しており、環太平洋火山帯を構成する[5]島嶼国(とうしょこく)であり、領土に囲まれているため地続きの国境は存在しない。日本列島本州北海道九州四国沖縄島(以上本土)も含めて6,852のを有する[6]。気候区分は、北は亜寒帯から南は亜熱帯まで様々な気候区分に属している[7]

日本は古くから中国大陸朝鮮半島との関係が深く、飛鳥時代奈良時代には遣隋使遣唐使といった交易を通して制度・仏教儒教漢文等を輸入し、国家体制の構築に役立てている。また、正倉院ペルシアインドを由来とする文化財が複数含まれることを例に取れるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じてアジア・シルクロード文化も流入している。律令体制樹立後の平安時代末期より武家政権が成立し、幾度も交替する。江戸時代に至って交際国を限定する「鎖国」を行ったが、外圧を受けて開国し、アジアで2番目の憲法となる大日本帝国憲法を制定し、近代国家としての歩みを始めた。

日清戦争日露戦争第一次世界大戦での勝利を経て軍国主義へと走り、第二次世界大戦枢軸国として参戦、連合国軍と対戦するも太平洋戦争の敗戦により、連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けて国民主権基本的人権の尊重平和主義を謳う日本国憲法が制定され、民主主義国家となった。戦後復興ののち、1960年代から高度経済成長期に入り、工業化が加速し科学技術立国が推進された結果経済大国にもなったが、1980年代末のバブル経済崩壊後は経済停滞期に入った[5]。現代日本社会は少子化が進んでおり、超高齢社会であるとされる。また、従来の中間層が貧困化し、格差社会にもなっている。

文化面では、和食日本庭園神道仏教を始めとした伝統文化漫画アニメゲーム可愛い(カワイイ)といったポップカルチャー英語圏の文化と極めて異質な文化として海外の一部から注目されている[注 7]家庭用ゲーム機分野では、1990年代までに任天堂ソニーセガの3社が世界的シェアの大部分を獲得。

政府クールジャパン戦略を実行するなど、観光立国を推進している。2021年には東京オリンピック[8]2025年には大阪万博が開催される予定で、国際的イベントの招致にも力を入れる。2020年USニューズ&ワールド・レポートの 2020 Best Countries ランキングで第3位となった[9]

国号

富士山から昇る日の出。「日の本」、「日出処」は日が昇る地域を意味する
韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。文中に「大日本國」「大日本帝國」と書かれている
日本国憲法の本文。冒頭に「日本国憲法」とある
日本国旅券。国名として「日本国」、英称として「JAPAN」の文字が記されている

「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するという説がある[10]。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない[11]。ただし、日本工業規格(Japanese Industrial Standard)では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本の外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊[12] を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず「日本」「日本国」「本邦」「わが国」などが混在している。

日本語の表現

発音

にっぽん」「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[13]

7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[14]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。

室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[15]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[16]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。

近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし、『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした[17]

その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は、「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している[13]

現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣切手などには「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)ているほか、日本テレビ[18]ニッポン放送日本武道館全日本空輸近畿日本鉄道西日本鉄道日本体育大学日本郵便NEXCO東日本NEXCO中日本NEXCO西日本[注 8]日本電気日本電信電話日本郵船日本通運NTT東日本[18]NTT西日本[18]日本特殊陶業日本車輛製造などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、

「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学日本航空日本経済新聞日本たばこ産業JR東日本JR西日本日本ユニシス日本相撲協会日本交通日本オリンピック委員会日本セラミック日本ガイシなどがある。日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている[19]。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている[20]。日本国憲法制定の際、読みについての議論で、憲法担当大臣金森徳次郎は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかに決められることはなかった[17]

日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の『JAPAN』としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピック選手団のみ『NIPPON』の表記を使っていた[21]

東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京(及び旧江戸)の日本橋は"にほんばし"、大阪の日本橋は"にっぽんばし"とそれぞれ読む。

日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。

「ニッポン」
「ニホン」

明仁上皇)は、一貫して「にほん」と読んでいる[17]

別称

古くから多様である。

和語
  • あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
    • 「秋津島」
    • 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
    • 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
  • あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
    • 葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)
    • 「豊葦原(とよあしはら)」
    • 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
    • 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
  • うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
    • 「浦安国」(日本書紀・神武紀)
  • おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
    • 「大八島」「太八島」
    • 「大八洲」(『養老令』)
    • 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
  • くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
    • 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)
  • しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
    • 「師木島」(『古事記』)
    • 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
    • 「敷島」
  • たまかきうちのくに
    • 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)
    • 「玉垣内国」(『神皇正統記』)
  • ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの。
    • 「日出処」(隋書)
  • ひのもと - 雅語でこう読むこともある[22]
  • ほつまのくに
    • 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)
  • みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
  • やまと - 大和国奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[23] が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。
漢語
「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」[24]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[25]。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[注 9]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[注 10]
倭漢通用
江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[26] に、倭漢通用の国称が掲載されている。
  • 「倭国」
  • 「和面国」
  • 「和人国」
  • 「野馬台国」、「耶摩堆」
  • 氏国」、「女王国」
  • 「扶桑国」
  • 「君子国」
  • 「日本国」

その他の言語

マルティン・ベハイムが想像した欧州大陸西側の詳細。アメリカ大陸の存在が認識されておらず太平洋と大西洋が一つの大海として表現されている。中央上部左にCipanguとある。
英語での公式な表記は、Japanジャパン)。形容詞はJapaneseジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAPジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である[注 11]Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(: an tSeapáin)、ヤーパン(: Japan)、ジャポン(: Japon)、ヤパン(: Japan)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(: Giappone)、ヤポニヤ(: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注 12]: Япония)、イープン(: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング (Xipangu/Zipang/Zipangu) ないしジャパング (Japangu) を語源とすると考えられる。
漢字文化圏においては、リーベン(: Rìběn;日本[注 13]、イルボン(: 일본;日本)、ニャッバーン(: Nhật Bản;日本[注 14] など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。
9世紀半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地をワクワク(الواق واق)と呼んでいた。この呼称の由来として、倭国が訛ったとの説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についてもジパング伝説と一致する。
欧州発行の古地図上での表記
  • 「CIPANGU」1300年頃[27]
  • 「IAPAM」1560年頃[28]
  • 「ZIPANGRI」1561年[29]
  • 「IAPAN」1567年頃[30]
  • 「IAPAM」1568年頃[31]
  • 「JAPAN」発行年不明[32]
  • 「IAPONIAE」1595年[33]
  • 「IAPONIA」1595年[34]
  • 「IAPONIÆ」1595年[35]
  • 「IAPONIA」1598年[36]
  • 「IAPONIA」1598年[37]
  • 「IAPAO」1628年[38]
  • 「Iapan」1632年[39]
  • 「IAPONIA」1655年[40]
  • 「IAPON」発行年不明[41]
  • 「Iapan」1657年[42]
  • 「IAPONIA」1660年頃[43]
  • 「NIPHON」1694年頃[44][注 15]
  • 「JAPAM」1628年[45]
  • 「YAPAN」1628年[46]
  • 「IAPON」17世紀[47]
  • 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[48]
  • 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃[49]
  • 「IAPONIA」18世紀初[50]
  • 「IAPON」1720-30年[51]
  • 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[52]
  • 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃[53]
  • 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[54]

国号の由来

概説

日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国朝鮮は日本を「」と呼んできた。石上神宮七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗広開土王碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[55]

しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している[56]。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。

この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない[57]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[58]

詳細

『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。

新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[23]

「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立したが勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。

具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は以下の2説に絞られる。

(1)天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説[59]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[60][注 16]

(2)701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[61]。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[62]

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[63]。後代に成立した『旧唐書』[64][65]、『新唐書』[66] にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[注 17]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。

これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[注 18]。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[67]

旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある[68]平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[注 19]

『隋書』東夷伝に、倭王が皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[69]

歴史

通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[70]

人類の歴史よりも日本列島歴史の方が数千万年以上長く、日本列島には長らくヒトが住んでいなかった。日本列島の形成が始まったのは、哺乳類が現れた始新世(5600万年前 - 3400万年前)と推測されている。そして、アフリカにヒトが現れた時代は始新世よりも遥か後の更新世末期である。

時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。

(1)考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。

一方、(2)歴史学上は、古代古墳時代から・飛鳥時代奈良時代・平安時代)、中世鎌倉時代室町時代戦国時代)、近世安土桃山時代・江戸時代)、近代明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である[71]

建国をめぐる議論

日本の初代天皇とされる神武天皇

国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。

『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された[72]

公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。しかし1966年建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として「建国記念の日」が定められた。神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。戦後、皇紀の使用は、一部を除きほとんど見られなくなった[73]

建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。

日本の黎明期

日本列島における人類の歴史は、人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる[注 20]。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで[注 21]、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった[74]。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。

紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀2世紀前後に倭の代表の座を巡って各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。王権の首長)はのちに大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。

律令国家の成立と貴族政治の展開

朝鮮半島における覇権争いが倭国の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。また古墳時代後期の日本列島には、倭国の他に沖縄諸島に「流求国」が存在した。しかしとの関係が悪化した結果軍事侵攻を受け、610年に滅亡した[75]

日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした武家政権成立後も、13世紀元寇16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。

成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。

9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏清和源氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長し、やがて政権を巡って対立することとなる。

また、中央政治においては11世紀藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くに譲位し、太上天皇(上皇)となって政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。

武家政権の時代

当世具足を身に着けた
手彩色写真。元の写真はフェリーチェ・ベアトによる1860年代の撮影。

10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に武士の清和源氏北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝・貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した(荘園公領制職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[76]1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったがほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。

14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に豊臣秀吉によって日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀シャクシャインの戦いロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩島津氏琉球王国に侵攻して、かつて北条氏得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた[77] が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。

一方、豊臣秀吉が李氏朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役の失敗後、1603年徳川家康が開いた江戸幕府は薩摩を通じた琉球侵攻以外はおおむね消極的な外交政策をとり、「鎖国」とも称される海禁政策によって外国文物の流入が強く制限された。18世紀末以降、江戸幕府は千島列島などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道の復権をもたらし、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。

明治維新と近代日本の展開

19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。

1853年に起きたアメリカ合衆国マシュー・ペリーによる黒船来航以来、江戸幕府は「開国」政策に転換したが、不平等条約による経済危機や尊王攘夷による討幕運動に抗しきれず、1867年(慶応3年)に大政奉還を行って自ら幕を下ろした。1868年以降、明治天皇を戴きながら長州藩や薩摩藩出身の中下級武士が実権を掌握した新政府の元で明治維新が遂行され、近代化・欧米化路線による国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年に小笠原諸島の領有を宣言[78] し、また、琉球処分を行うとともに1885年大東諸島1895年尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。

帝国主義への傾倒

「平譲(ママ)大捷清将生捕ノ図」(右田年英画)。
日清戦争 年月日:1894年 – 1895年
昭和金融恐慌時の取り付け騒ぎ

自由民権運動を経て1885年に内閣制度を確立し、1889年に大日本帝国憲法を制定し、1890年に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法議会とを持つ、近代的な立憲国家となった[79]。(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された)

19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。日露戦争の勝因として1902年イギリスと日英同盟を締結したことが大きかった。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州租借権を獲得した。その後、1910年韓国併合が実施された。

1914年、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。ドイツの租借地であった青島ドイツ領ニューギニアを攻略した。青島占領の後、日本は対華21ヶ条要求袁世凱政府に提示し、中国側の反発を招いた。日本は戦勝国として1919年パリ講和会議に参加し人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟において常任理事国となり、旧ドイツ領の南洋群島委任統治することとなった。一方、このパリ講和会議に際してアメリカから出された十四か条の平和原則は日本が併合した朝鮮で三・一運動を誘発した。時を同じくして大正デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。一方で日本はロシアでの社会主義革命成功を強く警戒し、ロシア内戦に乗じたシベリア出兵では極東ロシア地域や北樺太などを一時占領した。1925年、男子普通選挙の成立と同時に制定された治安維持法は設立間もない日本共産党や社会主義勢力、後には自由主義なども広く弾圧した治安機関、特別高等警察の法的根拠となった。

1926年昭和天皇が即位すると、翌1927年に昭和金融恐慌1929年には世界恐慌が起き、日本経済は大きな打撃を受けた。世界恐慌以後、植民地を「持てる国」である英米仏などがブロック経済化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。対支一撃論を主張する関東軍は日本が権益を持つ満洲(中国東北部)への侵略を強め[80]1934年満洲国を建国して一定の支配権を得るに至った[81]若槻礼次郎内閣は不拡大方針を打ち出し事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする軍部の台頭を抑えきれなくなった。若槻内閣が総辞職すると、犬養毅に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、五・一五事件で過激派海軍青年士官達によって暗殺された。これによって、憲政の常道は幕を下ろした。1937年盧溝橋にて日本軍と蔣介石国民革命軍が衝突すると(盧溝橋事件)、双方の軍事行動により支那事変日中戦争)へと発展した。翌1938年には、新体制運動を主導する近衛文麿首相のもと、国家総動員法が制定され議会は有名無実化した。1940年日独伊三国同盟締結で特にナチス・ドイツとの協力関係を強め、第二次世界大戦において枢軸国陣営への参加を明確にした日本の対外志向は、特に南進論に基づいた進駐によって、アメリカとイギリスを筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突した。この当時、東條内閣の下に戦争のシミュレーションを行う戦力計算室が設置され、アメリカとの戦争で日本の敗戦は確実であるとの試算結果が出ていたが、東條英機が戦力計算室を視察した当日に試算結果に激昂して戦力計算室を廃止している。もっとも、戦力計算室にも非はあり、試算結果の扱いや東條英機に対する伝え方が杜撰であった。

太平洋戦争

日本軍奇襲により炎上する真珠湾アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島の港から撮影)
同盟締結を記念してベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)

1941年にはイギリス領マレーおよびアメリカ自治領ハワイ準州(真珠湾)以下各地を攻撃し(南方作戦)、太平洋戦争へ突入した。一時期は北は満洲とアリューシャン列島の一部、西は中国内陸部やビルマ、南はニューギニアの一部やソロモン諸島、東はギルバート諸島まで広がる地域まで進出・占領したものの、1942年半ば以後は敗走を重ねた。真珠湾攻撃の奇襲に成功しながらドックや補給タンクを放置したことがミッドウエイ海戦での米軍の戦力回復を助けたことなど、自国側の兵站計画だけでなく、敵対国の兵站を断つことへの認識の甘さを指摘する説もある[82]。ミッドウエイ海戦の敗戦により、太平洋の中央から押し返されると、それ以降は元々のGDP差によって時間が経つほどに戦力差は拡大していった。戦況の悪化後は形勢逆転のために召集令状の乱発で国民を次々に戦地に投入したが、アメリカ軍の戦力を上回ることは出来なかった。また、国民の士気の低下を防ぐことを目的とした戦果の誇張、もしくは存在しない戦果を広報する大本営発表や、特別攻撃隊による自爆攻撃なども行われていった。追い詰められた日本兵によるバンザイ突撃も各地で行われている。その後、1945年沖縄戦東京大空襲をはじめとした全国各地への空襲、広島長崎に人類史上初めて有人都市への原子力爆弾による攻撃等では軍人ではなく大量の民間人が犠牲、もしくは殺戮の対象となった。日ソ中立条約の残存期間中にも関わらず戦争終結後の利権を睨んだソビエト連邦による対日戦への参戦(対日宣戦布告)後の1945年8月14日にアメリカ、イギリス、中華民国の名によるポツダム宣言の受諾を連合国側に通知、9月2日に降伏文書に調印した。戦争が継続された場合、本土決戦としては日本側では決号作戦、アメリカ側ではダウンフォール作戦[注 22]が準備されていた。一連の戦争で軍人と民間人合わせ約300万人の日本人が命を落とし、日本経済の破綻と社会の混乱はその後にも深刻な影響を与えた。また戦中に日本が諸外国に与えた被害は多大なものであり、アジア諸国との信頼関係回復や戦時賠償問題が戦後の重要な問題として残された。

戦後復興

1945年東京大空襲の結果として瓦礫の山と化した東京都

アメリカ・イギリスなどの連合国により、日本は史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の全てを失った。日本の占領統治は、日本政府に対して連合国総司令部(GHQ)が指令を出し、日本政府がその指令に沿って統治するという間接統治によって行われ、中央政府が有効に存続したため、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたドイツ国とは異なり、戦前と戦後とで同一の国家としての継続性が認められており、帝国憲法下で制定された一部の法令は戦後においても有効とされる。GHQの指令のもと、国制の改革が進められ、大日本帝国憲法の改正手続きによって日本国憲法を制定し、1947年施行の同憲法によって「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原則を確立した[注 23]。これによって主権は天皇から国民に移行し、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」と規定された一方、国会は「国権の最高機関」とされた。昭和天皇の戦争責任論は棚上げされ、退位論もあったものの、結果的にその地位に留まった。この体制は後に戦後民主主義と呼ばれた。

国共内戦における中国共産党の優勢が明らかになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるドッジ・ラインの強行により、中小企業の倒産が増大するなど深刻な不況に陥ったが、1950年に勃発した朝鮮戦争は戦場の後背地である日本で朝鮮特需を生み、経済復興への足がかりとなった。同時にレッドパージが実施されて共産党が衰退し、親米反共主義を掲げる吉田茂首相を中心とした保守勢力が政権を独占し、戦前の政治・経済指導者も次々と公職追放から復帰した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効によって日本は全権を回復し、資本主義陣営(西側諸国)の一角として国際社会に復帰したが、同時に成立した日米安全保障条約によって日本への在日米軍駐留は継続された。1955年に講和条約への対応を巡り分裂していた社会党の再統一が実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、自由民主党が成立した。これにより形式的に二大政党制が実現したが、その後の日本社会党の弱体化や多党化にも助けられた自由民主党優位の政治体制はその後も続いた(この体制を55年体制という)。1956年、日ソ共同宣言によりソビエト連邦との国交を回復し、同年国際連合に加盟した。対ソ国交回復では1945年にソ連が占領した地域の一部返還を求めた日本側の要求が実現せず、その後も北方領土問題として両国関係の改善を阻害した。一方、1960年岸信介首相は日米安全保障条約の改定を実現させたが、目標としていた日本国憲法の改定は果たせずに退任し、その後の自民党政権は池田勇人による所得倍増計画に象徴される「経済中心路線」を採った。一方、東京通信工業(現在のソニー)によるトランジスタラジオ対米輸出の大成功などは「安くて粗悪」というかつての日本製品の海外イメージを払拭し、外需拡大は経済成長をさらに加速させた。

戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ、日本は世界有数の経済大国となった。1964年には経済協力開発機構(OECD)に加盟すると1968年には西ドイツを抜いて世界第2位の国民総生産(GNP)を計上し、アジアでは唯一の先進国として特に経済面で大きな影響を世界に与え、多くの開発途上国(発展途上国)から経済建設の先行モデルとされるようになった。1964年には東京オリンピックが開催され、1970年には日本万国博覧会大阪府で催された。交通網の整備も急速に進み、1964年には東海道新幹線が開通、1965年名神高速道路1969年には東名高速道路が完成した。マイカーブームの到来により、モータリーゼーションを迎えるとともに、トヨタ自動車日産自動車など国産自動車メーカーの品質が向上し、先進国への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間で貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られ、国際競争力を持てない農山漁村地域やエネルギー革命に直撃された産炭地域での急速な過疎化と、大規模製造業の存在と都市化による商業活動の急拡大が連動した三大都市圏での過密化も進行した。自民党政権は全国総合開発計画新産業都市政策で重工業拠点の全国展開を進め、経済格差の是正をめざした。農村部でも多くの工場が建設され、一方で公害問題の拡大が深刻となり、住民運動の高まりも見られた。一連の高度成長は1973年オイルショックで終止符が打たれ、日本経済は低成長時代へと移行した。

1952年から1953年にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰沖縄返還)。アメリカ施政下の日本領土は解消されたが、ソビエト連邦との北方領土問題は解決の目処が立たず、冷戦を背景とした両国間の厳しい対立は続いた。朝鮮半島に対しては、1965年に南部の大韓民国との間に日韓基本条約が締結されて国交が回復したが、経済関係の強化とは裏腹に竹島問題は解消されなかった。また、北部の朝鮮民主主義人民共和国との間では国交回復交渉が難航し、在日韓国・朝鮮人の地位や権利の確認、さらには後に発覚した北朝鮮による日本人拉致問題などもあり、両国関係は改善しなかった。1972年の日中国交正常化で国家承認をした中華人民共和国とは1978年に日中平和友好条約を締結し、緊密な外交・経済協力関係を結んだが、日華平和条約を終了した後も実務関係を維持した中華民国(台湾)との関係や、1970年代から中国側が領土主張を始めた尖閣諸島問題は、戦争についての歴史認識問題などと合わせて日中間の懸案として残った。

現代

21世紀に至り、少子高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じている。日本特有の問題としては産業のガラパゴス化があり、従来日本経済を支えていた自動車メーカーや電機メーカーがデファクトスタンダード確立に失敗して凋落したことが大きな痛手となっている。特に現代社会の中枢を担うIT産業では、GAFAファーウェイサムスン電子等を筆頭として、海外企業が世界シェアの殆どを獲得する中で、日系IT企業は日本国内でもシェアを奪われた。その上、日本では官民問わず科学技術への投資が減額され、給与も減額され続けたため、外資系企業への技術人材流出を招いた。ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏により、現代日本は強大になり過ぎた企業が労働者を安く買い叩くmonopsony(モノプソニー)と呼ばれる状況に陥って、生産性の低下や財政の弱体化が起きている可能性が指摘されている[83]インターネットスマートフォンの普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、ガラパゴス化した日本文化へのアクセスを容易にし、訪日外国人旅行の増加に寄与したが、経済効果は限定的である。1979年以降の改革開放路線を皮切りに中国経済は急成長を続け、2010年に日本は中国に抜かれてGNPでソビエト連邦時代以来となる世界3位に後退した。経済力と軍事力を背景にした中国の対外進出は尖閣諸島問題の激化や日本の同盟国であるアメリカ合衆国との対立を招き、日中関係はかつての「蜜月」から大きく様変わりした。さらには情報工学(IT)分野におけるアメリカ産業の復活や韓国・台湾・中国企業のシェア拡大、インドブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、日本は相対的に不利な立場に立たされている。その後、2019年12月に新型コロナウイルスの感染拡大が始まり、日本社会にも否応なく根本的な変革を求められた。

1993年から1994年にかけて史上初の下野を経験した後に与党へ返り咲き、2001年に首相となった小泉純一郎が進めた新自由主義政策によりその経済政策を大きく変えた自民党は、2009年民主党に政権を奪われたが、2012年安倍晋三によって公明党との連立政権を復活させた。その間、東日本大震災に関連した福島第一原子力発電所事故が発生し、処理水問題を始め日本は現在も事後対応の途上にある。安倍は自らの名を冠したアベノミクスによる経済再生を掲げ、憲法改正の意欲も強く示したが、経済格差の拡大を指摘し、集団的自衛権の容認などにも反対する国民も多く、政権の是非を巡る議論や対立が続いた。その中で、観光立国推進も兼ねて2020年に行われる東京オリンピックを目標とした新たな技術やサービスの開発も各分野で進められていたが、新型コロナウイルスのパンデミック発生により、経済におけるヒトとモノの移動が難しくなり、東京オリンピックは1年延期と開催規模縮小を余儀無くされた。それ以後、世界的にパンデミック収束の見通しが立っていないため、先行き不透明な状況となっている。また、IT後進国となっていた日本であるが、コロナ感染のリスク増大により、IT業界を中心に通勤からテレワークへの転換が急ピッチで進められた。世界的な災禍の煽りを受けて日本経済も大きく混乱し、資金繰りの悪化から日本企業の連鎖倒産の危険性が大きく高まるなど、コロナ禍後のV字回復が難しくなる可能性が指摘された。憲政史上最長の安倍政権の終焉により、2020年9月16日菅義偉が首相に就任した。菅内閣を「働く内閣」として位置づけ、コロナ禍への対応、縦割り組織の是正やデジタル化のための改革といった政策を打ち出している[84]

災害対応としては、1995年阪神淡路大震災2011年東日本大震災などの予想を遥かに上回る巨大地震の発生は福島第一原子力発電所事故を含む甚大な被害をもたらした事、2010年代には記録的な豪雨や非常に強い台風も増加した事で、防災減災行政の整備は目下緊急の課題となっている。

地理

日本の衛星写真
日本列島の地形図。国土は6,852の島から構成され、約70%が山岳地帯である。

日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった[87]。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。

地勢

日本最高峰「富士山」(標高3,776メートル)

日本の領土は、6,852の本土5島+離島6,847島)からなる[88]

アジア・東アジアの中でも東方にあり、ユーラシアの東端近くにあたるため、東洋極東などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、島弧をなす日本列島である。これは本州・北海道・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、および北東に位置する北方四島(北方領土)なども有する。

領土面積は約37.8万平方キロメートル(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。

埋立地は古くから造成されてきたが、その多くは港湾を形成・整備することが目的であった。これによる埋立地ポートアイランド六甲アイランド神戸空港などである。最近では関西国際空港横浜八景島和歌山マリーナシティなどがあり、総面積は国土の約0.5%に相当する。また、諫早湾干拓事業八郎潟のような大規模事業のような例もある。

離島が多数存在し、その中には様々な理由で(多くは私有地や重要な施設があるため)立入禁止の島もある。琉球諸島伊豆諸島は離島の内でも交通の便が良く、南方の島々は亜熱帯気候あるいは熱帯雨林気候となっているため「日本のハワイ」等と称され、日本人観光客に人気である。

最東端
東京都小笠原村 南鳥島 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
最西端
沖縄県八重山郡与那国町 トゥイシ[89][90] (北緯24度27分05秒・東経122度55分57秒[90]
日本最西端は長らく与那国島西崎(いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった[89][90]
最南端
東京都小笠原村 沖ノ鳥島 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
最北端
北海道稚内市 弁天島 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の実効支配下にある領域の最北端)
北海道蘂取郡蘂取村 択捉島カモイワッカ岬 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端)

周囲を太平洋日本海東シナ海フィリピン海オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。陸上の国境線が無く、ロシア北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流日本海流(黒潮)、対馬海流寒流千島海流(親潮)、リマン海流が流れる。

領土問題のある地域が数箇所存在する。

自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレートフィリピン海プレート太平洋プレート北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯環太平洋火山帯環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの破局噴火が起きていたことが分かっている。

 
穂高連峰(上)と北穂高岳の尾根(下)
燕岳の尾根

山岳は、最高峰は富士山(標高3,776m)の他、南アルプス北アルプスなど、2500m超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山磐梯山阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。

河川は、利根川最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。

周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万km2である[91]

日本政府が主張する日本の排他的経済水域 (EEZ) は領土面積の約12倍である約405万km2、領海とEEZを合計すると約447万km2であり世界では第6位となる[92]。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。

EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した[93]

国土の変遷

古代

古代日本国家の北限、阿武隈川

弥生時代後期、西日本の各地に広域の地域勢力が勃興した[94]。2世紀末には畿内を中心として、西日本広域を支配する邪馬台国連合が創設された。邪馬台国連合は3世紀には東海・北陸のほか東日本も支配下に置き倭国が成立した[95]古墳時代前期前半には、現在の九州の宮崎県から東北宮城県の範囲まで国土が拡大されたことが、古墳造営の消長から明らかになっている[96][注 24]。ただし倭国は東北など各支配領域を確保・維持しようとする考えを持っておらず[97]、6世紀には、経済基盤が脆弱な阿武隈川以北を倭国の支配地から切り離し[98] 古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部、日本海側では現在の新潟県中部までが倭国の支配領域となった[99]。 またこの間、400年(履中天皇元年)と404年(履中天皇5年)に倭は朝鮮半島で百済・加耶諸国と共に高句麗・百済連合軍と2度にわたって合戦を行っている[100]

奈良平安時代の日本国は、北は津軽海峡まで、南は喜界島までを国土と認識していた[101]。しかし東北地方に対しての関心の希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性は感じていなかったため[102]、実際には大崎平野までが8世紀における日本国の北限であった[103]。9世紀、陸奥・出羽からの徴税の京進が行われなくなると[104] 関心は更に希薄になり、東北北部の経営は現地の官人任せになっていった[105]。また、南西諸島への関心も薄れていった[106]

古代の日本では、畿内と言われる行政区が設けられていた。大化の改新によって設置された当時から機内は支配者にとっての特別な地域と認識されていたが[107]、律令制施行後は直轄地として国家を支える役割を担った[108]

中世

15世紀前半、帰属を巡って日本と朝鮮の間で揺れた対馬島

中世後期の日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍を頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界が引かれていた[109]。将軍に反逆し命令の届かない地域は支配権の外に置かれ、<主‐従の関係>の有無によって境界が明瞭化された[110]

歴史学において室町幕府3代将軍・足利義満の治世は初の公武統一政権と評価されている[111]。しかし室町幕府は地方への関心を殆ど持たない政治権力であり[112]、自らが統治すべき範囲は畿内近国・瀬戸内・中部地域と考えており、幕府にとって東北・関東・九州は辺境でしかなかった[113]

15世紀前半、永享の乱によって将軍と鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、 幕府は日本国の東側の境界は駿河国までであると規定するようになり、東国を日本国から切り離した[114][115][116]。一方で当時は独立国だった琉球国は室町将軍との間に<主‐従の関係>を結んでおり、将軍による<主‐従の関係>は国家間においても成立しうる概念でもあった[117]

1419年(応永26年)、李氏朝鮮倭寇の拠点壊滅を目的に対馬を攻撃したが作戦は失敗に終わった(応永の外寇)。その後対馬を李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉は不調に終わり対馬は引き続き日本国に所属することになった[118]

文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」で、中世後期の日本国の範囲は現在の近畿・東海・北陸・中国・四国の各地域であるとしている[119]。一方、戦国時代末期の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国・西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)が合戦し西国を討ち果たせば本朝(日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国の範囲を規定している[120]

近世

豊臣秀吉の時代、日本国の支配は初めて本州の北端に到達した

織田政権を継承した豊臣政権は、四国平定九州平定を経て1588年(天正16年)日本国の統一を成し遂げた[121]。豊臣政権はその後東日本にも支配を拡大し[122]、1590年(天正18年)の奥羽仕置により初めて本州北端までを日本の国土に組み込んだ[123]。更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島に2度に亘って攻め込むが、中国大陸・朝鮮半島へ支配を拡げるには至らなかった(文禄・慶長の役)。

豊臣政権を継承した徳川幕府は、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び[124]、長崎・対馬・琉球(薩摩)・松前の4地域を窓口として対外交渉を行った[125]

1609年(慶長14年)、薩摩藩が琉球に侵攻し冊封関係を築き支配下に置いたが、琉球は中国とも朝貢関係を持ち続け、日本国と中国()との間で両属的な関係を維持した[126]。また、徳川政権期、蝦夷地(北海道)は松前藩が支配する渡島半島の南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた[127]

近代以降

辺境地域の領土確定を課題としていた明治新政府は1870年(明治3年)、北海道を日本国に組み込み、1879年(明治12年)にはとの帰属交渉が未決のまま、琉球を沖縄県として公式に日本国に編入した[128]

19世紀末以降、日本国は対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模に拡大した。1895年(明治28年)に日清戦争の結果、清から台湾を獲得(下関条約)し[129]、1905年(明治38年)には、日露戦争後の交渉で、ロシアより南樺太の割譲を受けた[130]ポーツマス条約)。更に1910年(明治43年)にはそれ以前より日本国の保護下にあった朝鮮を併合した[131]。その後、1922年(大正11年)には南洋諸島の委任統治も開始し[132]、太平洋側へも支配地域を拡大させた。

1932年(昭和7年)には満州国を建国し[133]。1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに開戦した日中戦争により中国大陸に占領地を拡大。1940年(昭和15年)9月、フランス領インドシナ北部へ進駐を開始し(仏印進駐[134]、翌年7月には南部仏印進駐、翌年7月には南部にも進駐を開始した[134]

1939年(昭和14年)2月、台湾総督府は海軍と共に海南島を占領した[135]。台湾総督府は台湾の重工業化を企図し、「台湾の植民地」として海南島を支配下に置くことを目論んだものだった[136]。だが占領後の海南島支配は海軍が主導することになり、台湾総督府は海軍に協力することでしか関与できなかった[137]

1941年(昭和16年)12月、日本は太平洋戦争の開戦と共に南方作戦を発動し、翌年5月には東南アジア一帯を国土に組み込んだ[138]。しかし太平洋戦争に敗れると、日本はそれ以前からの各植民地を失い満州国も消滅。1951年(昭和26年)に締結されたサンフランシスコ条約により南樺太、千島列島の領有権も放棄することになった[139]

1972年(昭和47年)には、太平洋戦争末期からアメリカの占領状態にあった沖縄が日本に返還され[140] 現在に至っている(沖縄返還)。

気候・動植物

日本の気候区分
気候
ケッペンの気候区分によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が温帯多雨夏高温気候 (Cfa)、宮古諸島・八重山列島(石垣島西表島・与那国島・波照間島)・沖大東島などでは熱帯雨林気候 (Af))に属する一方、北海道などが亜寒帯湿潤夏冷涼気候 (Dfb) を示す[141]モンスーンの影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には海洋性気候のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。飛び地海外領土などを別にすれば、一国の領土内に熱帯から亜寒帯までを含む国家は珍しい。北半球では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く)
冬季は、シベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。
夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。
比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美地方は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmで地域差が大きい。南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。
生態系
南北に長く、また、森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する動物植物の種類が豊富である。津軽海峡以北の北海道の生態系は沿海州の生態系に似ており、ブラキストン線という境界が提唱されている。屋久島と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系の分布境界線である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。
四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島のイリオモテヤマネコ奄美大島徳之島アマミノクロウサギをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ外来生物により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。
植物・森林
熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山ツンドラに生育する高山植物に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物シダ植物などが特に豊富。大陸から離れた地形から、スギなどの日本固有種が広く分布する。慣習的に国花と同等の扱いを受ける。この他、各自治体でも独自の木や花を制定している。
陸地の約3分の2が森林(森林率66%[注 25]・森林面積:2,512万ha・2009年現在)である。亜熱帯から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の植生は、南の約3分の2が常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、北の約3分の1が落葉広葉樹林ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に常緑針葉樹林、一部に落葉針葉樹林がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはマングローブが発達する。
この森林面積の内訳は、天然林が53%(1,335万ha)、人工林が41%(1,036万ha)、その他(標高などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・ヒノキ林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれる花粉症の蔓延を招いている。
動物
雪の中温泉につかるニホンザル長野県地獄谷野猿公苑)。
哺乳類
100種強が生息し、その内、固有種が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島との間にある渡瀬線で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。
大型哺乳類では、北海道のヒグマエゾシカ、本州のツキノワグマニホンジカニホンカモシカなどがいる。
固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミエゾオオカミニホンアシカ、日本のラッコ個体群、および、ニホンカワウソは絶滅。
鳥類
日本の国鳥のキジ
500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、東南アジアなど南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る渡り鳥が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による干潟の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要な37の湿地が、ラムサール条約に登録され保護されている[142]
渡りをしない留鳥としては、国鳥キジなどがあげられる。人家の近くには、カラススズメハトツバメハクセキレイなどが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近ではヒヨドリムクドリが人家周辺に多い。
固有種は、メグロなどがある。トキの個体群は、絶滅。現在、佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
爬虫類両生類
いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、サンショウウオ類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。
魚類
近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つこと、などが好条件となっている。淡水魚の種は、大陸に比べて河川の規模が小さいため、多くない。古代湖である琵琶湖などに多彩な種が棲息するものの、アユなど食用に供される種の人為的な放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。
また、2010年に海洋生物センサス (Census of Marine Life) が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった[143]。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。
昆虫
亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代頃からスズムシコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。
メガソーラーとして建設された米倉山太陽光発電所

環境問題

1950-60年代、四大公害病に代表される大規模な公害の発生から、1967年の公害対策基本法を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、オイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は公害対策と経済成長を両立させた」と言われる[144]
しかし、日本列島改造論が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの公共事業リゾート開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃やダム建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。
高度経済成長期以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、東京一極集中、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、耕作放棄地の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。

地域区分

都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、市町村や、町村をまとめた、特別区等がある(日本の地方公共団体一覧参照)。一部のは、行政上、別途政令指定都市中核市施行時特例市に定められている。

沖縄県鹿児島県宮崎県熊本県大分県長崎県佐賀県福岡県高知県徳島県愛媛県香川県山口県島根県鳥取県広島県岡山県兵庫県京都府大阪府和歌山県奈良県三重県滋賀県愛知県静岡県山梨県長野県岐阜県福井県石川県富山県新潟県千葉県神奈川県東京都埼玉県茨城県栃木県群馬県福島県山形県宮城県秋田県岩手県青森県北海道
日本の各都道府県の位置(クリックでリンク先に移動) / 表示 
北海道地方
1.北海道
東北地方
2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県
関東地方
8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県
上記は「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を、「広域関東圏」には関東地方1都6県に親不知浜名湖線以東の新潟・山梨・長野静岡の4県を、それぞれ加える。
中部地方[145][146]
北陸地方[147][148][149]
15.新潟県 - 16.富山県 - 17.石川県 - 18.福井県
福井県嶺南地域を近畿地方に含める場合がある。
新潟県を北陸地方に含めず、長野県、山梨県とともに甲信越と称する場合も多い。
東山地方[150]
19.山梨県 - 20.長野県
中央高地[注 26] ともいう。岐阜県飛騨地域を加える場合もある。
東海地方
21.岐阜県 - 22.静岡県 - 23.愛知県
普通、「東海3県」というと、静岡県ではなく三重県を含めることが多い。なお、静岡県については関東甲信越各県と併せて広域関東圏とする場合も多い。
近畿地方
24.三重県 - 25.滋賀県 - 26.京都府 - 27.大阪府 - 28.兵庫県 - 29.奈良県 - 30.和歌山県
但し、三重県は近畿地方に含めず中部地方もしくは東海地方に含まれることも多い。なお、近畿地方のことを「関西地方」と呼ぶ場合は通常、三重県を除く2府4県のことを指す(場合によっては三重県のうち伊賀地域を加えることもある)。
中国地方
31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県
鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、山陰と呼ぶ。岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、山陽と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。また、山口県を九州地方と併せて九州・山口地方とする場合もある。
四国地方
36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県
四国山地より北を北四国、南を南四国とする。また、中国地方とあわせて中国・四国地方(中四国地方)とする場合もある。その場合、山陽と北四国とをあわせて瀬戸内と呼ぶ。
九州地方
40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県
山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。
奄美群島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い[151][152][153] ため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
沖縄地方
47.沖縄県
沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。
沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近い[154][155] ため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。

都市

法定人口による政令指定都市の順位付け
参考のため、東京都区部を併記
順位 都道府県 市(区) 法定人口 推計人口 増減率 (%) 種別 推計人口の
統計年月日
00 東京都 特別区部 8,949,447 9,658,345 +7.92 特別区部 2020年12月1日
01 神奈川県 横浜市 3,689,603 3,757,630 +1.84 政令指定都市 2020年9月1日
02 大阪府 大阪市 2,666,371 2,750,812 +3.17 政令指定都市 2020年11月1日
03 愛知県 名古屋市 2,263,907 2,327,689 +2.82 政令指定都市 2020年11月1日
04 北海道 札幌市 1,914,434 1,961,519 +2.46 政令指定都市 2020年11月30日
05 兵庫県 神戸市 1,544,873 1,515,590 -1.90 政令指定都市 2021年1月1日
06 京都府 京都市 1,474,473 1,457,032 -1.18 政令指定都市 2020年11月1日
07 福岡県 福岡市 1,463,826 1,603,043 +9.51 政令指定都市 2020年9月1日
08 神奈川県 川崎市 1,425,678 1,539,522 +7.99 政令指定都市 2020年9月1日
09 埼玉県 さいたま市 1,222,910 1,319,630 +7.91 政令指定都市 2020年12月1日
10 広島県 広島市 1,174,209 1,198,356 +2.06 政令指定都市 2020年11月1日
11 宮城県 仙台市 1,045,903 1,092,253 +4.43 政令指定都市 2020年12月1日
12 福岡県 北九州市 977,288 935,084 -4.32 政令指定都市 2020年9月1日
13 千葉県 千葉市 962,130 982,357 +2.10 政令指定都市 2020年12月1日
14 大阪府 堺市 842,134 824,871 -2.05 政令指定都市 2020年11月1日
15 新潟県 新潟市 812,192 792,520 -2.42 政令指定都市 2020年11月1日
16 静岡県 浜松市 800,912 788,881 -1.50 政令指定都市 2021年1月1日
17 熊本県 熊本市 734,294 738,661 +0.59 政令指定都市 2021年1月1日
18 神奈川県 相模原市 717,561 722,973 +0.75 政令指定都市 2020年9月1日
19 静岡県 静岡市 716,328 686,544 -4.16 政令指定都市 2021年1月1日
20 岡山県 岡山市 709,584 720,221 +1.50 政令指定都市 2020年11月1日

政治

法制

日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令各省庁が制定する省令などの命令地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。この他、日本国憲法改正以前の勅令や大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達は新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である[注 27]。2019年現在において国立国会図書館のデータベースである 日本法令索引 は、有効な勅令としては本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年勅令第51号)、s:閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)など57件、太政官布告・太政官達は改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)など9件を収録している。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲法令審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、憲法判断に関する統治行為論を代表として司法判断を控えることが多い。

憲法

現行の憲法は日本国憲法であり、国家形態および統治組織作用を規定する[156]1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年昭和22年)5月3日に施行された[156]

形式的には大日本帝国憲法第73条を適用して、大日本帝国憲法改正手続を経て制定された。以降、2019年現在に至るまで、改正されたことは一度もなく、硬性憲法に分類される。

日本国憲法の根底には第13条個人の尊厳」の理念があり[157][158]、以下の三つを三大原理とする[159][160][161]

長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた第9条自衛隊の存在意義などを巡って憲法改正論議が行われている。なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。

法律

明治維新以来、信託等一部の民法の規定を除き、大陸法系(特にドイツ法及びフランス法)を基礎としているが、立憲君主制議院内閣制英国法、最高裁判所以下司法についての規定につき米国法の影響を強く受けているなど、憲法を中心として英米法の影響も見られる[162]。日本国憲法、民法、商法刑法民事訴訟法刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑懲役禁錮罰金拘留科料没収刑罰として定められている。私法分野においては一定の範囲内で慣習法は効力を有するが(法適用通則法3条)[注 28]、刑法については罪刑法定主義を採り、慣習法を排除する。

死刑制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(死刑存廃問題#日本での動きを参照)。ただし、判例は死刑制度を合憲としており(死刑制度合憲判決事件)、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている[163]。2009年より、刑事事件につき重大な犯罪について裁判員制度が導入されている。

報道の自由

戦後、憲法によって表現の自由報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しない。

記者クラブ制度によって加盟しているマスメディアのみが記者会見を独占し政府や行政機関などからの情報を受けるメリットを享受している。記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとフリージャーナリストや外国メディアなどからの批判が多い。テレビ放送・ラジオ放送については放送法により、中立な内容が義務付けられており、政府が発行する免許が必要である。総務省所掌の公共放送である日本放送協会(通称:NHK)の予算は、国会の承認が必要である。新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、スポンサーとなりうる大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ経済的に大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。一方、一部団体の抗議の対象になるのを避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。

なお、近年に発生した報道機関を狙ったテロとしては、未だ解決に至っていない赤報隊事件がある。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングでは、調査対象国180か国中、第61位(2015年)である。各国を5段階に分けた分類では、上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされる。国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていること、「東日本大震災で発生した津波原発事故に関しての過剰な報道規制」などを挙げている。また2007年度の調査では「過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた[164][165]。また、2018年には放送法第4条(政治的公正・事実の報道・多角的な報道について規定されている)の撤廃が検討されている[166]

元首

日本国憲法に「日本国の元首」についての規定がないため、現在元首については様々な見解がある[167]政治学者の田中浩憲法学者の芦部信喜、総合政策学者の長野和夫によると学説の多数は、権限を持つ内閣または内閣総理大臣を元首としている[167][168][169](内閣・内閣総理大臣元首説)。また、現行憲法施行後も変わらず天皇が元首であるとする説(天皇元首説)、国権の最高機関たる国会の長である衆議院議長を元首とする説(衆議院議長元首説)や、そもそも日本には元首が存在しないという説さえある。

天皇

天皇徳仁皇后雅子2019年令和元年〉撮影)

「天皇」は、日本国憲法第1条に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人[170]。現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と記載されている。大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には天皇を元首とする旨の規定はない。『日本大百科全書』は、天皇には通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[171]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[172]

『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という[173]戦後に「社会科学用語として定着」したとされる[173]。憲法で天皇を「象徴」と称することから、「象徴天皇制」ともいう。「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる[174]。憲法学者の野中俊彦中村睦男高橋和之高見勝利の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主の定義による[175]。民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した[175]。こうなると、君主制か共和制かの区別は無意味に等しい[175]。天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている[175]

東洋史学岡田英弘の『倭国』および『日本史の誕生』によると、720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向宮崎県)の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ニニギノミコトの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる[176]。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている[177]。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立[178]、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している[179]。『NEWSポストセブン』では、「現存する世界最古王室としてギネスブックに登録される日本の皇室」と記述されている[180]

内政

日本は単一国家であり、その政治体制としては、「議会制民主主義体制」・「象徴天皇制[181][注 29]・「議院内閣制」を採るとされる。

中央政府

日本国政府統治機構)は、憲法上、立法権を国会に、司法権裁判所に、行政権内閣に、それぞれ分配する権力分立制(三権分立)を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。41条は、国会を「国権の最高機関」と定めるが、この意味につき学説は分かれ、国政の中心的位置を占める機関であることを強調する政治的美称であるとする説(政治的美称説)[182]、「国家諸機関の権能および相互関係を解釈する際の解釈準則となる」とする説(総合調整機能説)[183] が有力である。

日本国憲法下の権力分立
立法府

国会は、衆議院下院)と参議院上院)との二院から構成される二院制の議会(立法府)である。「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙衆議院議員総選挙参議院議員通常選挙)により選出された国会議員(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。

行政府

行政府である内閣は、その首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣から構成される合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。なお、日本国憲法施行以来、慣例として衆議院議員が内閣総理大臣に指名されている。国会から指名された人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散権(解散決定権)を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。

人目 内閣総理大臣 生年月日 年齢 内閣 在任期間 日数 所属政党
99  63 菅義偉 すが よしひで
菅義偉
 1948年
昭和23年)
 12月6日
72歳 菅義偉内閣
 
2020年令和2年)9月16日 - 0 自由民主党

国会では、国会議員のみが法案提出権を保持する。国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、世襲政治家が多い。1970年代以降は中曽根康弘小泉純一郎といった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。

55年体制とその後
国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(通称:自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。同年に統一された日本社会党(通称:社会党、現在の社会民主党)と共に、両政党が結党した西暦年の下2桁をとって「55年体制」と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁(党首)を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組織し、社会党が野党として自民党と対立・協調しながら、国政を運営するものである。新自由クラブ連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間、自民党の単独政権が続いた。
1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産連立政権である細川内閣細川護熙首相)が成立したことで自民党が政権を離脱し、これをもって戦後長年の日本政治を構築してきた「55年体制」が崩壊した。翌1994年(平成6年)6月に自民党・社会党・新党さきがけ自社さ連立政権である村山内閣村山富市首相)が成立して自民党が政権に復帰した。次の橋本内閣橋本龍太郎首相)以後、自民党は連立相手を組み替えながら総裁が内閣総理大臣に就任する時代が再度継続されたが、2009年(平成21年)8月の衆議院議員総選挙で大敗、衆議院第1党から転落し、翌9月に民主党社会民主党国民新党からなる民社国連立政権鳩山由紀夫内閣鳩山由紀夫首相)が成立。民主党を中心とする連立政権は野田第3次改造内閣野田佳彦首相)を最後に2012年(平成24年)12月の衆議院議員総選挙での敗北で終焉を迎え、自民党と公明党の両党が再び政権に復帰し、自公連立政権が復活した。
司法府

日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及び法律に定めるところの下級裁判所)が行使する。各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(高等裁判所地方裁判所家庭裁判所簡易裁判所)が裁判を行う。また、日本国憲法により特別裁判所皇室裁判所軍法会議など)の設置は禁止されている。

司法制度として、刑事裁判に市民感覚を反映させる陪審制参審制を折衷した制度である裁判員制度や、検察官公訴権に民意を反映する検察審査会制度などがある。

地方政府

地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体地方政府)が担う。

市区町村
市が795、が743、が183、合計1718[184][注 30]。北海道と沖縄、および一部の離島地域を除く日本国内では1889年(明治22年)にこの市町村制が施行された。他に、特別地方公共団体として、2016年10月10日現在、首都たる東京都に23の特別区(東京都区部)が設置されており、これらは市に準じた権限を持つ(地方自治法第281条第2項・第283条)[185][186]。かつては1万を超えた市町村数は、1950年代後半の昭和の大合併と2000年代の平成の大合併によって激減し、市町村の再編が進んだ。
執行機関たる市町村長議決機関たる市町村議会[187] が置かれ、いずれも住民から選挙される。
財産を管理し、地域の事務を取り扱い、行政を執行する。法律の範囲内で条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、農林水産行政に関する権能などを除いて都道府県並みの権限を有する。
「市」は「し」と読まれるが、「町」は「まち」・「ちょう」、「村」は「むら」・「そん」の読みが混在している。
都道府県
都が1、が1、が2、が43、合計47都道府県。1871年(明治4年)の廃藩置県により全国に行政区画として府・県が置かれた。市町村と異なり、県自体の合併・分立は1888年(明治21年)を最後に行われていない[注 31]
都は特別区に関する一定の調整機能を有するが、府県の間には法律上の違いはなく、名称の差異は歴史的なものである[188]。道も地方自治法上は府県と同格であるが、特別法に道について若干の特例を定める(警察組織につき警察法第46条・51条など)。
執行機関たる都道府県知事、議決機関たる都道府県議会が置かれ、いずれも住民から選挙される。
市町村を包括し、より広域的な行政を行う。法律の範囲内で条例を定める。

現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。また、大阪都中京都のように特別区をつくる運動もある(大都市地域特別区設置法)。

外交

日本国在外公館が設置されている国
日本の旅券(パスポート)は国交数や偽造の難しさから世界で最も信頼度が高い[189]

現在、世界の195か国に日本の大使館が設けられており、155か国が日本に大使館を設け39の国際機関が日本に事務所を設けている[190]

2019年には日本からビザなしで渡航できる国の数が190ヶ国でシンガポールと並び世界一位となった。調査対象となった200の国と地域の中で最多だった[191]

唯一の軍事同盟国であり、国内に軍隊の駐留(在日米軍)をさせているアメリカ合衆国との関係を最も重視し、世界中の国と友好関係を築いているといわれている。外交の基軸として国際連合(通称:国連、UN)を中心に各国と幅広い外交を展開し、援助や貿易を実施している。伝統的に地理的に近距離にある東アジア各国と強い関係を保持してきた。更に、第二次世界大戦敗戦後から日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)締結・発効までに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を通してして日本の間接的占領統治を担った主要国で、その解除後も軍隊の駐留継続をはじめとして多大な影響力が行使されるアメリカ合衆国日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)を最重視している。その他、アジア太平洋経済協力(APEC)の参加国の一国として、東南アジアのASEAN(東南アジア諸国連合)諸国やオーストラリア、かつての冷戦下の西側諸国の一員として西ヨーロッパ各国、欧州連合(EU)主要構成国との関係も深い。また、日本はG7G8G20経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)加盟国であり、いわゆる列強に数えられる国家の一つである[192][193]

現在、日本は国際連合加盟国のうち、朝鮮民主主義人民共和国を除いたすべての加盟国に加え、バチカン市国コソボ共和国クック諸島ニウエを国家として承認し国際関係を有している。

国際連合

国際連合の旗 国際連合:日本はかつて第一次世界大戦の戦勝国である連合国の一国として、国際連盟(League of Nations)の原加盟国ならびに安全保障理事会常任理事国を務めていたが、やがて脱退し、連合国(United Nations)を相手に枢軸国の一国として第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。国際連合は戦後も継続し、日本は敵国条項によって現在もあくまで「敵国」の位置づけである。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し加盟を果たした。これまでに国際連合安全保障理事会非常任理事国として最多選出されている。また敵国の位置づけにありながら世界第2位の国連分担金を拠出するという矛盾した状態になっていたが、2018年に決定された2019年からの国際分担金比率は中華人民共和国に抜かされ世界第3位の位置付けになった。しかしながら、敵国の位置付けにありながら高い国連分担金を負担している現状に変わりはない。国連改革の一環としてドイツインドブラジルなどのG4諸国常任理事国入りを訴えているが中国や韓国の反対で実現していない。また、国連では約800人の日本人専門職員が働いているが、G7諸国は職員数が1000人以上なのを踏まえると日本人職員の数は少ない。事務局では望ましい職員数の197名に対し事務局で働く日本人職員数は79名となっている。日本の知識層の多くは多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受ける以前に敵国条項すら削除されないと指摘している。

長く国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与するという慎重姿勢を取り、湾岸戦争でも巨額の戦費負担をしたが戦力を出さなかった。しかし近年、PKO協力法などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。

東アジア

東アジアでは、古来地理的に近距離で隣接する中国朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽水墨画陶磁器禅宗書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治期以降、文明開化により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのは、明治維新以降である。中華民国台湾)や大韓民国(韓国)は、かつて(日本領)台湾(日本領)朝鮮として大日本帝国により統治されていた経緯から、現在でも重要な貿易相手である。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、同国の建国以来一貫して国交がなく、日本は同国に対して経済制裁を実施している。中華民国(台湾)とは、日華平和条約に基づき1972年(昭和47年)まで国交を有していたが、日中国交正常化に伴い正式な国交を断絶。その後は非政府間の実務関係として官民交流が継続されている[194]

日本、韓国、台湾は、それぞれアメリカ軍と同盟関係・安全保障関係にあり、相互に緩やかな協力関係にある。一方、建国由来(社会主義国)から朝鮮戦争以降、北朝鮮と中国(中華人民共和国)は同盟関係にあり、中国とロシア(旧ソビエト連邦)も協力関係にある。

中華人民共和国の旗 中華人民共和国:日本は1972年(昭和47年)の日中共同声明および1978年(昭和53年)日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。改革開放政策の後、経済成長を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[195]靖国神社問題に関連して関係が悪化した。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、また、2008年6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。2010年以降、GDPで日本を抜いて、無視できない存在となっている。

軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能な弾道ミサイル東風21型を推定100発、精密攻撃が可能な巡航ミサイル東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている[196]

朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮:現在、国交は存在しない。北朝鮮は、韓国併合(旧李氏朝鮮大韓帝国大日本帝国への併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本国政府は、日韓基本条約に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に実施している。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出した。2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法(朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)に核保有国と明記した。軍事面では西日本を射程に収める短距離弾道ミサイルスカッドERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンミサイルを推定200発保有しており、日本の安全保障上深刻な脅威となっている[197]

大韓民国の旗 大韓民国:建国当初より一般国民における反日感情が強く、朝鮮戦争中には韓国を支援するために警察予備隊(現在の自衛隊の前身組織)の掃海部隊や港湾労働者を韓国に派遣するとともに日本国内での韓国軍(大韓民国国軍)の軍事訓練を受け入れるなどしたが、1952年(昭和27年)には韓国が一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占拠したことによって多くの日本人漁師が殺害・拿捕され、竹島問題が発生した。また、日本に潜入した工作員によって新潟日赤センター爆破未遂事件金大中拉致事件などの事件が起こされている。四月革命により李承晩独裁政権を打倒し軍事政権を樹立した朴正煕は国民多数の反発を押しきって日韓基本条約を締結し、日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠蔽していたために後に日本統治下植民地支配の賠償をめぐる紛争が起きる原因となった。韓国では近年まで日本の大衆文化禁止政策が実施されていたが、金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日本への親近感を抱く人々の増加も見られた。盧武鉉政権では当初は日本との融和姿勢を見せたものの、間もなく強硬な外交方針に転じ、日本との領土問題や歴史問題にも強硬姿勢で臨んだ。2005年(平成17年)、盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本を仮想敵国として想定するように提案した[198]。政権時代後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた[199]李明博政権では、前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも比較的穏健な姿勢で臨む方針を当初は見せたが、天皇への謝罪要求や知的財産や漁業権の侵害や竹島問題など根本的な改善の兆しは見られなかった。韓国軍は日本全土を射程に収める巡航ミサイル玄武-3ミサイルを配備している。これに伴い韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつある[200][201]。2010年(平成22年)9月、日本の女性アイドルグループであるSKE48が日本語で歌唱する姿が韓国の地上波テレビで初めて生放送された。両国間で日韓犯罪人引き渡し条約を締結しているが、靖国神社に放火した犯人を政治犯として釈放したことについて、内閣総理大臣安倍晋三は「条約を無視する行為である」と述べ韓国側の対応を批判した[202]

Flag of the Republic of China.svg 中華民国台湾中華民国)は、日清戦争大日本帝国に割譲されて以来第二次世界大戦終結まで50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦中国共産党軍(現在の中国人民解放軍)に敗北した中国国民党1990年代まで独裁政治を敷いてきた。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なしていたが、1970年代の日中国交正常化の際、日本は中華人民共和国を正当な国家として認定し、中華民国とは国交を断絶した。2020年現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部を置く。なお、日中平和友好条約では台湾が自国領土の不可分の一部であると主張する中華人民共和国政府の立場について「十分理解し尊重する(understand and respect)」と表現されており、中国の主張を承知しつつも認めているわけではないという態度を取っている[203]。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後は国民党と民主進歩党との二大政党である。日本統治時代を経験した多数派の本省人が親日的傾向が強いのに対し、少数派の外省人は抗日戦争の経験から日本に対して厳しい歴史認識を持っている[204]。1990年代には本省人である李登輝が総統に就任するなど融和が進展した。安全保障面において台湾は、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない。人的・経済的な交流は、一貫して盛んで、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震東日本大震災では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された。また、交通面において海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用した。


東南アジア

歴史的には日本と東南アジア地域との関係は朱印船貿易が盛んだった16世紀末から17世紀ごろまでさかのぼる。日本が鎖国をした江戸時代の間に、タイ王国を除けば東南アジア地域は欧米列強(アメリカイギリスオランダフランス)の植民地になっていった。第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出した。しかし第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。タイフィリピンマレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろからASEAN(東南アジア諸国連合)を通じて深めており、1997年からASEAN+3に参加している。また自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。自衛隊PKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアへ、また東ティモールへも派遣された。東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また、この海域(特にマラッカ海峡)は、中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。

タイ王国の旗 タイタイ王室皇室との関係も良好で、日本とタイの貿易結合度は第一位となっており、世界とタイとの平均的な結合度の4倍となっている[205]

フィリピンの旗 フィリピンフィリピンの主要貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する。16世紀にはスペインが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、日本を追放された高山右近も受け入れたが、江戸幕府鎖国政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。太平洋戦争では当時アメリカ自治領だったフィリピンに日本軍が侵攻し、現地住民を巻き込んで激戦地となった経緯があり(フィリピンの戦い)、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったが、経済支援などによって徐々に改善が進められた。

 ベトナム:1905年(明治38年)、フランス領インドシナとしてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達は日露戦争勝利後の日本に留学する東遊運動を行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結の日仏協約によって運動家を追放した。第二次世界大戦でフランス第三共和政が崩壊した後、日本は日中戦争支那事変)の一環として1940年(昭和15年)に仏印進駐を北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した。1945年(昭和20年)3月にベトナム帝国を成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立したベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争において日本と安全保障面で協力関係にあるアメリカ合衆国と交戦したベトナム共産党による独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。ベトナム戦争終結前、まだ南ベトナム政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立し、日本はベトナムに多額の開発援助を続けてきた。近年も日本の国際連合安全保障理事会(通称:国連安保理)への常任理事国参入をどのような圧力を受けたとしても支持すると表明するなど日本に協力的である[206]。一方、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってボートピープルとなったベトナム難民(インドシナ難民)の一部を日本は受け入れている。

ベトナム政府の国策による労働輸出と日本の人手不足もあって多くのベトナム人労働者を受け入れている。ベトナム人労働者は2019年時点で約40万人[207][208]、そのうちの21万人は技能実習生として受け入れており[209]2019年に新設された在留資格である特定技能の覚書を交わすなど日本にとってベトナムは重要な労働者の供給地となっている[210][211]

シンガポールの旗 シンガポールイギリス領マラヤの中心都市だったシンガポールは1942年(昭和17年)にシンガポールの戦いによってイギリス軍を破った日本軍が占領すると昭南島と改称され(日本占領時期のシンガポール)、1945年(昭和20年)の日本の降伏まで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた。1966年(昭和41年)にシンガポールがマレーシアから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。2002年(平成14年)には日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国である。

カンボジアの旗 カンボジア:旧フランス植民地のカンボジアでは、日本からは経済面での支援や地雷撤去の活動なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。カンボジアは日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている[206]。一党独裁化を強め欧米から批判を受け支援を打ち切られているカンボジアに対し日本だけが支援をしており日本は経済支援と民主化の同時進行を促す立場をとっている[212]。しかし日本がカンボジアに選挙の資金援助した2018年の選挙ではカンボジア政府が最大野党の解体を決定、全議席が与党のものとなり民主化は逆行している[213]

 インドネシア:旧オランダ植民地で、独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降のスハルト体制は再び日本との関係を強めた。2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシアや中国との関係強化をすすめ、多極外交を展開している。日本との関係は良好で、LNG貿易をはじめ日系企業も多数進出し、また日本の政府開発援助 (ODA) はハード