第二次世界大戦

第二次世界大戦
Infobox collage for WWII.PNG
左上:万家嶺の戦い
右上:第一次エル・アラメイン会戦
左中央:スターリングラード攻防戦
右中央:東部戦線におけるシュトゥーカ急降下爆撃機
左下:降伏文書に署名するドイツ元帥ヴィルヘルム・カイテル
右下:リンガエン湾侵攻英語版
戦争:第二次世界大戦
年月日:1939年9月1日 - 1945年9月2日
場所ヨーロッパアジア太平洋北アフリカ
結果連合国の勝利
交戦勢力
連合国
イギリスの旗 大英帝国(1939-1945)


ポーランドの旗 ポーランド(1939)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦(1939-1945)
自由フランスの旗 自由フランス (1940-1944)
フランスの旗 フランス共和国臨時政府(1944-1945)
フランスの旗 フランス共和国(-1940)
ベルギーの旗 ベルギー(1940)
オランダの旗 オランダ(1940-)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(1941-1945)
中華民国の旗 中華民国 (1941-1945)
ブラジルの旗 ブラジル(1942-1945)
タイ王国の旗 タイ(1945)など


共同参戦国
イタリア王国の旗 イタリア王国 (1943-1945)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国(1944–1945)
ブルガリアの旗 ブルガリア王国(1944–1945)

枢軸国
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国(1939-1945)
イタリア王国の旗 イタリア王国(1940-1943[1])
イタリア社会共和国の旗 イタリア社会共和国 (1943-1945)
大日本帝国の旗 大日本帝国(1941-1945)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国(1941–1944)
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国(1941–1945)
 フィンランド(1941-1944)
ブルガリアの旗 ブルガリア王国(1941–1944)
タイ王国の旗 タイ(1942-1945)
ビルマ国の旗(1943-1945) ビルマ国(1943-1945)など

非宣戦国家
イラク王国の旗 イラク(1941)
満州国の旗 満州国(1945)
フランスの旗 フランス国(1941-1945)

指導者・指揮官
イギリスの旗 ジョージ6世
イギリスの旗 ネヴィル・チェンバレン (-1940)
イギリスの旗 ウィンストン・チャーチル (1940-1945)
イギリスの旗 クレメント・アトリー (1945)
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
フランスの旗 アルベール・ルブラン (-1940)
自由フランスの旗 シャルル・ド・ゴール(1940-)
ポーランドの旗 ヴワディスワフ・シコルスキ
中華民国の旗 蔣介石
アメリカ合衆国の旗 フランクリン・D・ルーズベルト (1941-1945)
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン (1945)
オーストラリアの旗 ロバート・メンジーズ
オーストラリアの旗 ジョン・カーティン
カナダの旗 ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング
イギリス領インド帝国の旗 第2代リンリスゴー侯爵(-1943)
イギリス領インド帝国の旗 初代ウェーヴェル子爵(1943-)
タイ王国の旗 クアン・アパイウォン(1945-)
ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー (1939-1945)
ナチス・ドイツの旗 カール・デーニッツ(1945)
イタリア王国の旗 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
イタリア王国の旗 ベニート・ムッソリーニ
大日本帝国の旗 昭和天皇
大日本帝国の旗 東条英機(-1944)
大日本帝国の旗 小磯國昭 (1944-1945)
大日本帝国の旗 鈴木貫太郎(1945)
ルーマニア王国の旗 イオン・アントネスク
ハンガリーの旗 ホルティ・ミクローシュ
ブルガリアの旗 ボリス3世 (1941-1943)
ブルガリアの旗 キリル (1943-1945)
フィンランドの旗 リスト・リュティ
タイ王国の旗 ラーマ8世
タイ王国の旗 プレーク・ピブーンソンクラーム

イラク王国の旗 ファイサル2世
フランスの旗 フィリップ・ペタン
満州国の旗 愛新覚羅溥儀(康徳帝)

損害
死者
軍人1,700万人


民間人3,300万人
(諸説有り)

死者
軍人800万人
民間人400万人
(諸説有り)
第二次世界大戦
ウィキポータル 関連ポータルのリンク

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、: World War II、略称:WWII中国語: (繁体字)第二次世界大戰ドイツ語: Zweiter Weltkriegイタリア語: Seconda guerra mondialeフランス語: Seconde Guerre mondialeロシア語: Вторая мировая война)は、1939年から1945年までの6年余りにわたって、日本ドイツイタリア日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリスソビエト連邦フランスポーランド中華民国アメリカオランダベルギーやそれらの植民地などの連合国陣営との間で戦われた戦争で、第一次世界大戦以来の世界大戦となった。

1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソビエト連邦によるポーランド侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告によりヨーロッパは戦場と化した。その後1941年12月のマレー作戦による日本とイギリスやオランダとの開戦と、続くアメリカへの真珠湾攻撃と宣戦布告による、いわゆる太平洋戦争大東亜戦争)開戦によって、戦火は全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。また、現時点では核兵器原子爆弾)が実戦投入された史上唯一の戦争である。

概略[編集]

参戦した国[編集]

枢軸国は1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。一方、連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。

すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。

また、イタリアなど連合国に降伏したあとに、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員であるとはみなされなかった。枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。

戦域[編集]

第二次世界大戦の戦域を大別する際、ヨーロッパ北アフリカ西アジアの一部を含むものと、東アジア東南アジア太平洋オセアニアインド洋、東南アフリカ全域を含むものに分けられる。

このうちドイツ、イタリアなどとイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いを欧州戦線、日本などとイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどとの戦いを太平洋戦線と大別する。

欧州戦線はドイツやイタリアを中心とした枢軸国とイギリス、アメリカ、フランス、カナダ、ブラジルなどが戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、同じくドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。

太平洋戦線は太平洋戦争と連合国により呼称され(当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが太平洋の島々とアラスカやハワイを含むアメリカやその領土のフィリピン、オーストラリアなどで戦った太平洋戦域英語版、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った南西太平洋戦域英語版、英領ビルマや英領インド、英領セイロンやフランス領東アフリカで日本がイギリスやオーストラリアなどと戦った東南アジア戦域英語版、そして中国大陸満州国などで日本や満州国が中華民国とアメリカ、イギリスなどと戦った日中戦争に分けられる。

しかし、これら以外に中東や南米中米カリブ海アリューシャン列島アラスカなどでも枢軸国と連合軍の戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため全面的な人的、物的資源の動員、投入が行われた。世界の61か国と当時の独立国の殆どが参戦し、総計で約1億1,000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。

比較[編集]

第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦であったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦ケーブル切断、戦艦を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信空母を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い傍受されるため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた[2]

使用された兵器には、著しく発達した航空機戦車潜水艦などに加え、レーダージェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量殺戮兵器がある。

総力戦も第一次世界大戦より徹底され、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者に対する国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別がなくなり、民間人が住む都市への大規模な爆撃人類史上初の原子爆弾投下により、多くの民間人や捕虜が命を失った。

またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人ロマ障害者に対して組織的大量虐殺を戦争と並行して進めた。これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され[3]、その途上で200万人が死亡している[3]。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた

戦後[編集]

戦争中から連合国では、国際連合など戦後秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパと日本の国力が戦後著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。この両国は戦後世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、その対立は1990年代に至るまでの長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。

また、欧州の白人諸国家の統治下にあったアジア、アフリカの植民地では民族自決そして独立の機運が高まって、大戦終結後数年から十数年後に多くの国々が独立し、結果として欧州列強の地位は著しく低下した。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。

経過(全世界における大局)[編集]

冬戦争, 1939年。タイペレでマキシム機関銃を構えるフィンランド軍兵士(フィンランド軍司令部写真センター)。

1939年9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もドイツの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。

1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェーベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、大損害を被り同年9月には上陸作戦は断念する。その結果ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始める。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。

1941年にドイツ軍はユーゴスラビア王国やギリシャ王国などバルカン半島、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。6月にドイツはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。これによりドイツによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。日中戦争で4年間戦い続けていた日本は、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカのハワイも攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。日本軍は12月中に早くもイギリスの植民地の香港やアメリカのグアムを瞬く間に占領し、アメリカ西海岸で通商破壊戦を開始した。

1942年に入っても戦勝を続ける日本軍は、イギリスの植民地のマレー半島一帯やビルマ、オランダの植民地のインドネシア、アメリカの植民地のフィリピンを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を数度に渡り受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本陸軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。しかし日本軍は勢いを増しインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。日本軍は6月にミッドウェー海戦で敗北するものの、同月にアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島キスカ島を占領、9月にアメリカ本土への空襲を数回にわたり行うなど勢いを増したほか、アメリカ海軍も各地で日本軍との戦いで敗北を続け、年末には稼働空母が皆無になるなど各地で勝ち進んだ。

1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、また各地でイギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、中盤になるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、イタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。ヨーロッパ前線においては同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄。1943年7月に敗色が濃い中イタリアのムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)が北イタリアを支配する状況になる。また日本軍はガダルカナル戦[4] で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年後半には勢いを失い以降劣勢となり、日本軍はついに11月にオーストラリア本土への空襲を中止する。

1944年にはイギリス軍が日本軍にビルマでインパール作戦に勝利し、アメリカ軍が6月に行われたマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、これに対し7月には日本で陸軍が中華民国軍とアメリカ軍に対して中華民国内で行った大陸打通作戦でかつてない大勝利を収めたが、大勢には変わりなかった。ヨーロッパの連合軍はついにフランスに上陸。マーケット・ガーデン作戦など勝利を重ねオランダ、ベルギーなどを開放。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、10月に行われたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫するなど勢いは完全に連合軍に傾き、冬にはアメリカ軍によるフィリピンへの再上陸と小規模ながら日本本土への空襲が始まった。

1945年に日本軍はフランス領インドシナに侵攻し(明号作戦)これに成功したが、もはや劣勢を変えるには至らなかった。連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、同政権は崩壊しイタリア社会共和国も崩壊、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏しヨーロッパ戦争は終結した。日本も5月以降連日アメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権をほぼ失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態にようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。

背景(欧州・北アフリカ・中東)[編集]

ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金[編集]

ヴェルサイユ条約の調印

1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランドチェコスロバキアリトアニアなどの領土に組み込まれた。

しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた[5]

1921年、賠償の総額が1,320億金マルクに定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった。

1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[6]1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行[6]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[7]。これによりハイパーインフレーションが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[6]。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。

国際連盟設立[編集]

1930年、スイスジュネーヴにて開催の国際連盟議会

第一次世界大戦の戦勝国のイギリスフランス大日本帝国イタリアといった列強が、常設理事会の常任理事国となり1920年に国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約サン=ジェルマン条約トリアノン条約ヌイイ条約セーヴル条約の第1編は国際連盟規約となっており、これらの条約批准によって連盟は成立した。

戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものではなく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。

モンロー主義の動揺[編集]

ウィリアム・ボーラヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。

共産主義の台頭[編集]

ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止したい、欧米列強シベリア出兵などで干渉したが失敗した[8]ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉[9]、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国大粛清を行い数百万人を処刑した。

旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴル傀儡政権モンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばす。

ヴェルサイユ体制下の安定[編集]

戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて[10] 勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスやアメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、チャーチルさえも大いに絶賛した。

同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が組織された。1921年にはその原が暗殺されたものの、この前後の1922年に日本はワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、1923年には日英同盟が発展的解消された。1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入され、政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となり、このまま議会制民主主義が浸透して行くかに見えた。

一方、敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、破滅の底に落ちたドイツ経済は戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。

世界大恐慌[編集]

大暴落直後のニューヨーク証券取引所(1929年)

しかし、1929年10月24日から起きた一連ののニューヨーク証券取引所ウォール街から世界に広がった大暴落を端緒とする世界恐慌は、このような世界の状況を一変させた。

ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多いものだった。アメリカは1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況であった。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。

世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。失恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。

ファシズムの選択[編集]

エチオピア戦争で戦うイタリア陸軍砲兵
五・一五事件を伝える新聞

この様な中でファシスト党のムッソリーニ率いるイタリアは、1935年に植民地を獲得すべくエチオピアの植民地化を意図してエチオピア侵攻を行い、短期間の戦闘をもって全土を占領した。

敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対するイタリアは全土を占領している状況を背景に、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。結果として国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国は1937年に脱退した。

政治集会におけるアドルフ・ヒトラー(1930年10月、ヴァイマルにて)

金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況も深刻だった。大恐慌を受けた昭和恐慌となり失業者が激増した。さらに黄禍論が渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌による打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリアやドイツ同様解決策を海外へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国、1932年に中国東北部に建国した満州国は陸軍中枢の言うことを聞かない関東軍のなすがままになり、翌年には国際連盟も脱退、さらに日中戦争が勃発するなど軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカからも大きな反発を食らった。

さらに既存の政党政治や議会制民主主義に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件」や「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、近衛文麿政権とともに政党政治を基にした議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。

総額が1,320億金マルクと、到底支払うことができないと思われた第一次世界大戦の賠償金の支払いを続けながら、アメリカの資金で潤っていたドイツでも失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下においても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[11]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。ようやく1932年には国際社会の援助により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった。

1933年1月にナチ党は、民主的選挙におけるドイツ人の圧倒的な支持を得て政権獲得に成功。ナチ党はその後全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。英仏米など列強は圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定英語版を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行。これによってロカルノ体制は崩壊した。

このような状況下で、日本、ドイツ、イタリアという、イギリスやフランス、アメリカのように莫大な富と雇用を生みだす植民地を殆ど持たず、国際連盟を脱退、もしくは国際連盟からの経済制裁を浴び孤立した、軍国主義(日本)やファシズム(イタリアとドイツ)という共通点を持つ3国は急接近を始める。

宥和政策とその破綻[編集]

1938年9月29日、ミュンヘン会談にて署名直前に撮影された、チェンバレンダラディエヒトラームッソリーニ及びチャーノ

これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。

ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合。次いでチェコスロバキアズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。

しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。

勃発直前[編集]

1939年、独ソ不可侵条約に署名するドイツのリッベントロップ外務大臣。背後に立つのは、ヴャチェスラフ・モロトフ及びヨシフ・スターリン

ヒトラーの要求はさらにエスカレートして、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。

4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約en)を結ぶことでこれに対抗した。

1939年夏、アメリカルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した[12]

独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国フィンランドカレリアルーマニアベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。

経過(欧州・北アフリカ・中東)[編集]

1939年9月1日、ポーランド及び自由都市ダンツィヒの国境検問所を取り壊すドイツ国防軍
1939年9月、ポーランド侵攻時のブィドゴシュチュ付近におけるドイツのI号戦車

1939年9月1日ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスフランス9月3日、ドイツに宣戦布告した[注釈 1]。ポーランドは独ソ両国により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟から非難・除名されたが[13]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。

ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。 その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。

1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。

1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。

1939年[編集]

ワルシャワを守るポーランド兵士(1939年9月)
1939年、ドイツ及びソ連の東ヨーロッパにおける新領土併合後に握手する両国の陸軍将校
フランスに進駐したイギリス陸軍(1939年10月)
スキーに銃を構えるフィンランド陸軍(1939年12月)

9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。

ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。

ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。

ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ不可侵条約秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻カーゾン線まで達した。

一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。

一方ヒトラーも、英仏両国のネヴィル・チェンバレン首相とエドゥアール・ダラディエ首相はそれまで宥和政策を行っていたため、宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。

国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人ゲットーへの強制収容が始まった。

ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がカティンの森事件で殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。

ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず[14]、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。

ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマスまでには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。

11月8日、ミュンヘンビアホールビュルガーブロイケラー」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されたがすべて失敗に終わった。

ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。

しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。

1940年[編集]

2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。

さらにソ連バルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国ベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。

デンマークのオベンローを侵攻するドイツ軍のI号戦車(1940年4月9日)
ベルギー西部を進むドイツ軍戦車(1940年5月)

ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[注釈 2]、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の杉原千畝領事に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。杉原領事の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。

なお、杉原領事同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山[15] や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデス[16] がおり、ともに戦後のイスラエル諸国民の中の正義の人に認定されている。

4月、ドイツは中立国デンマークノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。

5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーオランダルクセンブルクベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府に準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。

ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。

凱旋門を通るドイツ軍(1940年6月14日)

一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、860隻の船舶が急遽手配され、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間にフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊は撤退させることに成功した。この作戦ではさまざまな貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(おもに大型の駆逐艦)へ運んだ。イギリスのウィンストン・チャーチル首相はのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。

さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告。6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[注釈 3]

なお、その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。

一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織するかたわら、ロンドンBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。

なおヴィシー政権には、フランス植民地アルジェリアやモロッコ、インドシナ、マダガスカルなどの主要植民地がつき、それぞれドイツ軍や日本軍との友好関係や軍の駐留を引き受けた。

1940年12月29日、ドイツによるザ・ブリッツ後のロンドン

それに対して7月3日、イギリス海軍H部隊が、ドイツ側戦力になることを防ぐべくフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにもかかわらず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。

西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指した。降伏勧告に近い和平案に対し回答を伸ばすことでイギリスは時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候により港湾や船団へのドイツ空軍の攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れた。同月25日のイギリス海軍駆逐艦の護衛する輸送船団への攻撃では10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。

上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令。このころ、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施した。イギリス国民とともに、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。

イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111ユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。

参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島アルバニアからギリシャへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)が、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。

この年の9月27日、ドイツ、イタリア、日本は日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。

1941年[編集]

1941年8月、北アフリカ戦線トブルク包囲戦の前線の塹壕を受け持つイギリス連邦軍オーストラリアの部隊
ソ連内に攻め入るドイツ軍の戦車
イランに攻め入るイギリス陸軍の戦車(1941年8月)
反撃に備えるソ連軍(1941年12月1日)

イギリスはイベリア半島先端の植民地[注釈 4]ジブラルタルと、北アフリカエジプトアレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島キプロスなど東地中海[注釈 5] を確保し反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。

一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラ英語版まで撤退する。

3月11日に、中立国のアメリカはレンドリース法を成立させ、自らは参戦しない代わりに、ソ連イギリス中華民国などの、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。

4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島バルカン戦線 (第二次世界大戦))、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国ブルガリア王国ルーマニア王国を枢軸国に加えた。

6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリアハンガリールーマニア等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった[注釈 6]。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日、ソ連に宣戦布告した(継続戦争)。開戦当初、赤軍(当時のソ連陸軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナバルト三国等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願した。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。

ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフへ疎開した。ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。また戦場に出現したソ連軍の新型T-34中戦車KV-1重戦車や、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにはモスクワへの進攻を再開し、郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつて無い深刻な敗北を喫した。

8月9日、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を発表した。8月25日、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イランに南北から進撃し、占領した(イラン進駐)。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒否した。 ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離をおいていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊を確保したうえで、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。

一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日に日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連は日本に送り込んだリヒャルト・ゾルゲら、スパイの情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。

ドイツの占領地では、秘密国家警察ゲシュタポナチス親衛隊が住民を監視し、ユダヤ人レジスタンス関係者へ過酷な恐怖政治を行った。特に独ソ開始後、アインザッツグルッペンと呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中で反ヒトラーの陰謀を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。

12月7日(現地時間)、日本軍がマレー半島のイギリス軍を攻撃し(マレー作戦)ここに大東亜(太平洋)戦争が勃発した。またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はアメリカのハワイにある真珠湾のアメリカ海軍の基地を攻撃した。これに対し12月8日にアメリカとオランダ日本に宣戦を布告[17]。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。

1942年[編集]

第二次世界大戦のヨーロッパ戦域の動画
サロニキで集められるユダヤ人(1942年5月)
ディエゴ・スアレス湾での英艦ラミリ―ズ(1942年5月)
ブレスト軍港における日本海軍の伊8潜
1942年12月10日、レニングラード包囲戦のドイツの爆撃による破損家屋を去るレニングラードにおけるソ連の民間人

この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにおいてナチス党の重要幹部が集結し「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議を行われた。

これ以後、ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウトレブリンカダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行した。

ドイツのみならず、ドイツの占領下のポーランドやチェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ノルウェーのみならずイタリアでも行われた大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続された。最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人同性愛者、精神障害者政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、6百万人に達すると言われている。

北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。

同盟国イタリア軍は終始頼りなく、欧州戦域を事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。

さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。

イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した。これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、5月にマダガスカル島へ進出、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃、イギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本軍兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果をあげている。しかしアフリカはドイツ軍の作戦範疇であったため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。

ドイツ海軍カール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋や東南アジアにまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、このころより英米両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。

しかし日本海軍とドイツ海軍は、お互いの潜水艦をドイツの占領下にあるフランスのキール、日本の占領下にある昭南やペナンに送り、ドイツ側は酸素魚雷や無気泡発射管などの最新の軍事技術情報を日本から、日本側からもウルツブルク・レーダー技術や暗号機等の最新の軍事技術情報をドイツから入手したいという思惑があり、また両国武官や技術者の交換をしたいという両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。遣独潜水艦作戦の1回目として、伊号第三十潜水艦が8月6日にフランスのロリアンに入港した。

またドイツ海軍は、大西洋とインド洋の一部地域における連合国の海上封鎖を突破して、同盟国である日本から酸素魚雷や小型船舶エンジン、水上飛行機などの設計図を。また日本がそのほぼ全域を支配していたアジアおよびインド洋水域からゴムスズモリブデン等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械等の軍需品を日本にもたらした。日本海軍はドイツ船舶を「柳船」という秘匿名称で呼び、昭南ペナンなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。

東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラードコーカサス地方の油田地帯を目指す。

一方ドイツ軍に追い立てられたソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。

8月23日からはスターリングラード攻防戦が開始された。まずドイツ軍は空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に冬の装備に弱い枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。

1943年[編集]

1943年2月、スターリングラード攻防戦で反撃に出る赤軍
1943年9月、サレルノに上陸したイギリス陸軍
1943年10月9日、ドイツのフォッケウルフの工場に対するアメリカ第8空軍によるB-17の爆撃

1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。

しかし、3月にはドイツ軍はマンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。

北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。

イタリア戦線と、その後のヨーロッパ戦線での戦いで、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団は、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率31.4%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残した他、対日戦においても暗号解読や通訳兵として貢献した。これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたアフリカ系アメリカ人も多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。

各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。

9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリア降伏を発表した(イタリアの講和)。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。

逮捕後、新政権によってアペニン山脈グラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。

日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にはイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。

なお船員らは日本軍に一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。また、イタリア租界のあった天津港など東アジアで活動していたイタリア海軍の艦船が、イタリア降伏後に日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し、神戸港などで自沈している。

また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリアチュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。

さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14日 - 24日ケベック会談、10月19日 - 30日第3回モスクワ会談英語版、11月22日 - 26日カイロ会談、11月28日 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行った。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。

1944年[編集]

D-デイノルマンディー上陸作戦オマハ・ビーチに接近するアメリカ軍(6月6日)
ドイツの占領に対するパルチザンの暴動を鎮圧する任務を負うドイツのSS武装擲弾兵師団(1944年6月)
解放されたパリ(8月25日)
バストーニュを行軍するアメリカ陸軍第101空挺師団(12月31日)

1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からは夏季攻勢(バグラチオン作戦)が開始され[注釈 7]、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、更にバルト三国ポーランドルーマニアなどに侵攻していった。

1月17日イタリアモンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線におけるグスタフ・ライン英語版の突破およびローマ解放のために戦いが開始されたが、2月15日カッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し修道院は破壊された。しかし5月19日に連合国軍は勝利する。

一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍指揮の元、北フランス・ノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的としたオーバーロード作戦ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出しながら上陸した。ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し[18]、女性たちは強姦された[18][19]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。

敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 8]

またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。

ドイツ軍は、フランス上陸後の連合軍の進撃を食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついに戦線は突破され、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月頭には連合軍はパリ方面へ進撃を開始した。

ドイツ軍も8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命し、ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。しかし8月16日には南フランスにも連合軍が上陸し(ドラグーン作戦)、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。

ドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、国外へ亡命する者もいた。

8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。

また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦でハンガリー全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。

9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。

またこの頃、ドイツ軍は開発中の、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262やジェット爆撃機アラド Ar 234、同じく世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、次々と新兵器を実用化し、実戦投入したが、西からイギリスとアメリカ、東からはソ連を中心とした3か国の圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは、ドイツ1国ではもはや不可能だった。

10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[20]

その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻(バルジの戦い)を試みた。冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、戦線を一時的に約130km押し戻された。また、オットー・スコルツェニー指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる。

1945年[編集]

ベルリンの戦い

1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。

ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太千島列島北方領土の帰属問題が討議された。

西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。

ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが包囲され 1945年2月13日に、残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏した。 ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付く殆どの女性が強姦された [21]。 ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。

これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。

4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリングハインリヒ・ヒムラーカール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンから動こうとしなかった。

ミラノでつるされたムッソリーニの死体
ヒトラーの死を伝える『星条旗新聞』号外

4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(詳細はベルリンの戦いを参照)した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。

ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。

一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラーラ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。

4月30日15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人にマルティン・ボルマン党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。

イギリス軍とアメリカ軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ドイツの犯罪が明るみに出された。なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていたホロコーストを先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダとおもい信じなかった。

またソ連が新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。

5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。女性、果てや8歳の少女までもが強姦され、犠牲者総数は数万から200万と推測されている[22]。 ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた女性のうち、その後、約10の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった[23]。また東プロイセンポンメルンシュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。

政府と軍の無条件降伏[編集]

国防軍代表カイテル元帥と連合軍代表ジューコフ元帥、テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行う(5月8日)

ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏することが決定した。なおこれはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。

アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。翌午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。

これによりドイツ国、イタリア王国の二国の枢軸国が連合国側に無条件降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジア東アジア太平洋地域のみとなった。

停戦後[編集]

観衆に手を振るチャーチル(1945年5月8日)

5月8日午後11時1分に停戦が発効し、8日と9日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様の事であり、戦時法に明らかに違反するものであった。

ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍のUボート「U234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようとした矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫の2名の海軍中佐が腹毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせない「ウラン235」560キログラムが含まれていた。

なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦や船舶、徒歩でバチカンスペインポルトガルノルウェーなどを経由して、アルゼンチンブラジルチリボリビアなどの南アメリカ諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。

ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[3][24]

この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。

ポツダム会談[編集]

ポツダム会談(1945年7月17日)

その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相(会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する)。4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。

この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が7月26日に行われた。一方で、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も英米中の3か国の合意の元行われ(中華民国の蔣介石総統は無線電話での承認。日本と開戦していないソ連は開戦後の8月9日に承認)、日本に向けて送信され、日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。

背景(アジア・太平洋・オセアニア・アメリカ・東アフリカ)[編集]

満州事変と日中戦争、日本の参戦(1931年‐1941年)[編集]

満州事変と満洲国[編集]

満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団
満洲国の溥儀皇帝

1931年9月18日南満州鉄道が爆破されたとして、日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身の関東軍と中華民国軍のあいだで戦闘が勃発。関東軍が奉天、南満州を占領する(満州事変)[25]

12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟では満州での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満州における匪賊の討伐権が日本に認められた[26]

1932年3月に国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項[27] および6項[28] についての条件が成立した。

前後して1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変が勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、満洲国が中華民国から独立して建国宣言をした[25]。3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。

上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・チェンバレンは、労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しないとしたうえで、中華民国には国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたことを指摘し、銃剣はボイコットへの適切な対応ではないとしつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。これを受けて5月5日、上海停戦協定で日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。

国際連盟脱退[編集]

だが1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する国際連盟加盟各国の態度も硬化した。

翌日にはジュネーブで行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、さらに満州国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服としてスイスから帰国し、さらには3月に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となった。

五・一五事件と二・二六事件[編集]

二・二六事件でカメラマンに銃口を向ける兵士(1936年2月)

1932年5月15日に、海軍の軍人らに犬養毅首相らが殺害されるという「五・一五事件」が起きていた。他にも内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった

さらに1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて、首相官邸や高橋是清大蔵大臣私邸、斎藤実内大臣私邸や渡部錠太郎教育総監私邸などを襲い、岡田啓介首相は辛くも大丈夫だったが、高橋大蔵大臣や斎藤内大臣、渡部教育総監・陸軍大将などを殺害したクーデター未遂事件。いわゆる「二・二六事件」が起きた。

この事件の結果廣田弘毅が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務した。また、陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。

なお当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデターを起こして自らの向かう方向に仕向けるという事件(やその未遂事件が)、「三月事件」(1931年)や「陸軍士官学校事件」(1934年)など度々起き、さらに陸海軍が組閣に口を出すということがまかり通るようになった。その結果、1910年代以降日本に浸透してきていた議会制民主主義が、軍人によるクーデター未遂事件が多発した1930年代以降、急激に軍国主義に傾いていく。

盧溝橋事件と日中戦争[編集]

宛平県城から出動する中華民国軍
中華民国軍による上海共同租界への爆撃(1937年)
日本軍による北京占領(1937年)
アメリカ海軍のパナイ号

満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、中華民国政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、日本軍との散発的な戦闘は続いていた。1936年12月7日に中華民国の張学良蔣介石に対し、国共内戦を停止し対日戦に向かうことが救国となると勧告したが、蔣は張学良は中国共産党に惑わされていると一喝した[要出典]12月12日張学良の親衛隊が宿泊先を襲撃して蔣介石を拘束拉致した。蔣介石は中国共産党の周恩来らとの会談で反共姿勢から抗日姿勢への転換を最終的には受諾し、南京に12月26日に帰還した[要出典]

1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[29]。地方軍閥に対しては山西省閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[30]、金融問題によって反蔣介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ[31]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[32]宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[33]

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[34]上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[35]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[36] 対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[37]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[38]

しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし[39]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[40]

盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[41][42]、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[43]。副参謀長張克侠[44] をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[43]

第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月あまり前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に対日抗戦の態勢に入っていた[45]

そしてついに1937年7月7日、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に、日本軍と中華民国軍の衝突である盧溝橋事件が勃発、ここに全面戦争である日中戦争が始まった。

一旦は中華民国側は遺憾の意思を表明し、「責任者を処分すること」、「盧溝橋付近には中華民国軍にかわって保安隊が駐留すること」、「事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など反日暴力団体が指導したとみられるため今後取り締る」という内容の停戦協定が締結されたが、その後中華民国側でも日本軍を挑発し対日武力行使決定が決定、通州事件第二次上海事変北平占領など日中戦争はまたたくまに中華民国全土に拡大していく。

欧米諸国でも中華民国内に租界を置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、アメリカ、イタリア、そして日本と列強はこぞって租界を置いた。そして日本と同盟関係にあるにもかかわらず、租界があるイタリアやドイツなど親中的な政策をとる国も多かった。さらに日中戦争が起きると日本陸軍とこれら列強の駐留軍との間にいざこざが起き始め、例えば上海でのヒューゲッセン遭難事件、揚子江パナイ号事件蕪湖レディバード号事件等がおきたが、近衛内閣の広田弘毅外相(元首相)が何とか善処し、イギリスのロバート・クレイギー大使とアメリカのジョセフ・グルーから高く評価された。

1938年3月におきたドイツオーストリア併合(アンシュルス)の翌週、第1次近衛内閣のもとで野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みた国家総動員法が成立した。さらに日中戦争が激しさを増す中、陸海軍の強い反対を受けて、日本政府はベルリンオリンピックに次いで1940年に開催される予定であったアジア初、有色人種初の夏季オリンピックである東京オリンピックを7月に返上した。

日独伊の急接近[編集]

アドルフ・ヒトラー(中央)のもとを訪問した中華民国の孔祥熙財政部長(1936年/左)

なお上記のように、ナチス政権下のドイツの極東政策は1936年には日独防共協定を結ぶ一方で、中独合作で中華民国と結ばれていた。中華民国は孔祥熙をドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蔣介石の個人顧問としてアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将をドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、日本と中華民国との間で大きく揺れていた。

ナチ党ヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたが、外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。しかし1938年にリッベントロップが外相に就任し、大島浩中将が10月に大使に就任するとドイツ政府内に日本重視の姿勢が決定的となり、中華民国に派遣されていた軍事顧問団は撤収、またイタリアに続きドイツ製武器の供給は停止することになった。

ガレアッツォ・チャーノ外相(1936年)

また天津に租界を持つイタリアも、1930年代中盤には元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問に、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問が中華民国に常駐し、フィアットランチアソチェタ・イタリアーナ・カプロニアンサルドなどのイタリア製の兵器を大量に輸出し日中戦争に投入、日本側から抗議を受けていた。

しかし1935年に始まったエチオピア戦争での対イタリア経済制裁に中華民国が賛同した事に対して、上海総領事として勤務した経験もあったガレアッツォ・チャーノ外相は「遺憾」とし、1937年11月には日独に次いで防共協定に調印し、ここに日独伊三国防共協定となった。

さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満州国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、天皇や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに同年11月にはイタリアは満州国を承認し、両国は公使館を置き正式な外交関係を開始している。

これらの返礼もあり、日本陸軍や満州陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。またイタリアも大豆の供給先として満州国からの全輸出量の5パーセントを占め、アメリカからの輸入をストップするなど、イタリアもドイツも完全に同盟関係にある日本重視となる。

ノモンハン事件[編集]

擱座した赤軍BA-10装甲車の横で機関銃を伏射する日本兵(1939年9月)

1939年5月から同年9月にかけて、関東軍とソ連軍の間で、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)が断続的に発生した。

なお満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満州国軍モンゴル軍に警備を委ねていたが、日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連軍は日本軍の三倍以上の軍事力を有していた。

日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。

8月に発生したノモンハン事件は満州国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。結果的にはソ連側が優勢なまま、9月15日には双方で戦闘終結で合意、戦闘は収まった。

第二次世界大戦開戦と第2次近衛内閣[編集]

近衛文麿首相と第2次近衛内閣の閣僚(1940年)

そのような中で起きた8月23日の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、これを受け当時の平沼騏一郎内閣は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残して8月28日に政治責任を取り総辞職した。また大島浩大使もこの責任を取りベルリンより帰朝を命ぜられ、帰国後の12月27日に大使依願免職し、これ以後のドイツとの交渉は中止となるなど、日本の政界も揺るがす大混乱となった。次の駐独大使にはドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」と言われた来栖三郎が継いだ。しかし続く阿部内閣も短命に終わり、対独同盟派の勢いは停滞した。

さらに9月1日にはドイツがポーランドに侵略を開始し、これに対して9月3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。また、ノモンハン事件が9月15日に終結し日本との戦いの心配もなくなったソ連は、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄し、ポーランドへ東から侵攻した。

その後はドイツとフランス、イギリスの間で戦闘は起きなかったものの、1940年に入りドイツがベルギーやオランダに侵攻したがすぐに降伏するなど、枢軸国の勢力が拡大するに及び、7月には参謀総長閑院宮載仁親王陸軍三長官会議により親英米派の米内内閣は辞任に追い込まれた。そのような中、1940年1月に日米通商航海条約が失効し、日米関係は開国以来の無条約時代に突入し、悪化しつつある情勢の打開が求められた。

日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣のあとを受けた第2次近衛内閣においては、勢いのいいドイツやイタリアなど枢軸国との提携を再度主張する松岡洋右外相らの声が高まった。7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定された。

南京国民政府/汪兆銘政権成立[編集]

タイムの表紙を飾る汪兆銘
汪兆銘主席とドイツのハインリヒ・ゲオルク・スターマー特命全権大使の会合
台湾日日新報の「祝新国民政府成立」の新聞広告(1940年)

日中戦争の勃発に伴い、中華民国の蔣介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も当時の首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。汪兆銘は「抗戦」による民衆の被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[46][47][48][49]。汪兆銘は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[49]

1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、はじめて国民党に総裁制が採用され、蔣介石が総裁、汪兆銘が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[48][50]。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪兆銘としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[48]。一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している[48]。こうしたなか、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった[51]。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[48][49][52][51]

6月に汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪兆銘以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権を維持したうえでの和平工作を考えていた[51]10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立は決定的なものとなった[49]

1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を射殺するという事件が起こった[53]。蔣介石が放った暗殺者は汪をねらったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になった[53]。ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした[53][54]4月25日、影佐と接触した汪兆銘はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日上海に到着した[54][55]。ハノイの事件は、汪兆銘が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった[56]

日本は蔣介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪兆銘の擁立を画策した。しかし1940年1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[57]。最終段階において腹心とみられた部下が裏切ったことに汪兆銘はおおいに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった[57]

汪は日本の軍事力を背景として、北京中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日には蔣介石とは別個の国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」が成立した。

汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。

政府発足後に、イタリア王国フランスヴィシー政権満州国などの枢軸国バチカンなどが国家承認した。しかし蔣介石政権とのしがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月になってからだった[58]。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいたタイ王国が汪兆銘の南京国民政府を承認した[59] のは、対英米戦が始まってからの1942年7月になってからであった。

オトポール事件と命のビザ[編集]

樋口季一郎陸軍少将
杉原千畝領事が作成した通過ビザ(1940年8月)

ドイツはナチ党政権下で国民からの絶大な支持を受けて、国単位で反ユダヤ主義政策を進めていたが、同盟国の日本においてはヨーロッパ各国のようなユダヤ人差別などは皆無であった。

1937年12月に第1回極東ユダヤ人大会が満州国で開催された際に、この席で日本陸軍の樋口季一郎陸軍少将は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と言い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツのリッベントロップ外相は、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。さらに1938年には五相会議でユダヤ難民の移住計画である「河豚計画」が日本政府の方針として決まった。

また同年に樋口陸軍少将は、ユダヤ人18人が害下から逃れるため、満蘇国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、季一郎は南満州鉄道の松岡洋右総裁に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[60]。これは「オトポール事件」と呼ばれることとなる。

さらに、1939年9月に第二次世界大戦の発端となるドイツのポーランド侵攻が始まると、同国のユダヤ人は亡命を余儀なくされ、その一部は隣国リトアニアへ逃れた。だが、翌1940年7月から8月にかけ、今度はソ連はリトアニアを含むバルト三国を次々に併合した。当時、ドイツ占領下のポーランドなどから逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていたが、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちはまだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。

これらのユダヤ人たちは、1940年7月から9月の間にリトアニアのカウナス日本領事館で、杉原千畝領事によって発行されたビザに救われ、1940年7月からシベリア鉄道ウラジオストクおよび満州里[61]経由で、約6,000人が通過ビザを手に敦賀港などを経由して日本に入国した。そして1941年9月には、全員が神戸港などを経由し出国しアメリカ、もしくは上海の国際共同租界にある「上海ゲットー」や虹口地区などに亡命した[62]。また上海ゲットーの存在も、英米開戦から終戦に至るまで、ドイツの再三の抗議があったにもかかわらず日本政府はこれを黙認し、亡命ユダヤ人の滞在を認めていた。

日本軍の北部仏印進出[編集]

日本軍の仏印進駐について協議した富永恭次少将、デクー総督、西原一策少将(1940年8月)
北部仏印進出(1940年9月)

フランスのフィリップ・ペタンは、1940年に入りドイツの猛攻が続くなかマキシム・ウェイガン陸軍総司令官とともに対独講和を主張し、6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日に独仏休戦協定が成立した。その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権が成立した。

これをうけて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[63]。当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー英語版将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関)の受け入れを行った[64]

6月22日に成立したヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクー英語版提督を後任の総督とした[65]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と「西原・マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏に日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。

また、フランス海軍の船舶は武装解除のうえサイゴンに係留されることになったが、日本政府は仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の一括借り上げの交渉を開始していた[66]。フランス側のドクー総督は、イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印とマダガスカル島や上海との自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを理由に難色を示し[67]、交渉は1942年まで持ち越すことになった。

なお、同様に仏印領内に残ったフランス船籍・仏印船籍の商船は、1941年末時点で500総トン以上のものが27隻(計10万総トン)、うち10隻は4000総トン以上の船であった[68]

日独伊三国同盟締結[編集]

ベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)

日独の関係もドイツ軍のヨーロッパ戦線の好調から持ち直し、1940年9月7日には新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。9月27日には日独伊三国同盟が締結された。

これは実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月にハンガリールーマニアスロバキア独立国が、1941年3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が加盟した。また、三国同盟実現には「親米」と言われた来栖では力不足との声が上がり、そこで1940年12月に大島が駐独大使に再任された。

これに対してアメリカのルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。

また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満州は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。中華民国南京政府と防共協定に加盟したスペインフランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、フランコ政権は戦争の前半期においては協力的な関係を持った。

泰仏戦争勃発[編集]

タイのプレーク・ピブーンソンクラーム首相

フランス本国がドイツに敗れたこと、独仏休戦1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した[69]

タイのプレーク・ピブーンソンクラーム政権は、フランスのヴィシー政権に対し、1893年仏泰戦争英語版でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスフランス語版の領土と主権やフランス保護領カンボジア英語版バッタンバンシエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府はこの要求を拒否した。

11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、物量に勝るタイ軍はフランス軍に対して優位に戦いを進め、本国が占領下におかれ武器や兵士の追加もままならないフランス軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。

戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイと同じく友好国のフランスという、友好国同士が戦い国力が疲弊することを憂慮した日本が、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。しかし両国の主張は平行線をたどり、タイとフランスの間の戦いは日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。なおタイ王国が旧領回復し事実上の勝利を収めた。

アメリカの対日禁輸とレンドリース[編集]

レンドリース法案に署名するルーズベルト大統領(1941年3月)

1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、7月26日にはアメリカの日本への輸出切削油輸出管理法成立。8月には石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出許可制。10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止するなど次々と禁輸攻勢を打ち出し、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へのプレッシャーをかけて来ることとなった。

これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、ブラジルアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内には民間ルートでの開拓を断念した。

さらにアメリカは中立法に現れていた非介入主義フランクリン・ルーズベルト大統領がさらに緩和し、1941年3月にはレンドリース法を設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。

アメリカの日中戦争への軍事介入[編集]

中華民国軍の「フライングタイガース」に所属するP-40Cトマホーク(1941年)

アメリカは、1940年8月に蔣介石総統と宋美齢夫人からの軍事支援の要請を受け、ルーズベルト大統領の指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group、AVG)を設立し、ここに日中戦争へのアメリカによる軍事介入を開始した。

シェンノートはルーズベルトの後ろ盾を得て、その後アメリカ軍内でパイロットを募集開始したが、「日本軍の飛行機は旧式である」、「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」と人種差別的な見通しを述べて募集する面接官もいた。

最終的に、カーチスP-40などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、日本を刺激せぬようシェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め1941年3月には中華民国に送った。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。

シェンノートらAVGのメンバーは、日本を刺激せぬようあくまで「民間人」として、友好国イギリスの植民地ビルマに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、英領ビルマのラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。なお、中華民国軍への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蔣ルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権確保がAVGの目的だった。

だが中華民国軍の事故の多さに悩まされた上に、最新鋭の零式艦上戦闘機をはじめとした最新の航空機に、練度が高い戦闘機乗りが多かった日本軍にフライングタイガースは苦戦を強いられ、その上に撃墜の多さによる出来高制の給与に、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。1941年12月に正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日にアメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。

独ソ戦と松岡外相更迭[編集]

松岡外相とアドルフ・ヒトラー(1941年3月)
日ソ中立条約に署名する松岡外相とヨシフ・スターリン(1941年4月)

1941年2月にはアメリカが管理するパナマ運河がアメリカ船とイギリス船のみに使用が禁ぜられたが、4月からは東京とワシントンD.C.で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、近衛首相ら日本政府側はこれを歓迎した。

しかしドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月に日ソ中立条約を結んだばかりの松岡外相は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、松岡外相の強硬な反対で白紙に戻った[70]

さらに松岡外相は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだばかりの独ソ間が、わずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃したことでここに独ソ戦が開かれ、その望みを打ち砕いた。なおこのことは3月にヒトラーと会談した時には伏せられていた。

松岡外相はドイツに合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって暴走状態にあった松岡外相の更迭は、政権存続のための急務となっていた。ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させ、松岡はここで内閣から完全に外された。

しかし、松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は望んでいなかった[71]。松岡は「英米一体論」を強く批判し、イギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた[71]

日本軍の南部仏印進駐[編集]

サイゴン市内の日本軍(1941年)

1941年6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され(南進論)、フランスの同意の元で南部仏印への進駐が決まった。一方、7月には対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。その中で仏領インドシナを日本にとられることを危惧したアメリカは、日本に対する石油の輸出許可制をしくことで日本を揺さぶった。

その一方で、日本は本国がドイツ軍の占領下におかれ、ロンドンに置かれた亡命政府の下にあるオランダ領東インドと石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後オランダ領東インドの供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は6月に交渉を打ち切った。この交渉で鍵となったのが航空機用燃料の量で、アメリカの圧力によってオランダ植民地政府側が供給する量は日本が求めた量の1/4に留められた。このせいで当時の日本では高オクタン価の航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけた。

さらに7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し日米間の航路も遮断、同日日本はフランスの同意の元での南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油の輸出の全面禁止をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。なお現在のベトナムとは違い当時の仏印では油田は見つかっておらず、石油は掘れなかった。

日英米蘭関係の悪化[編集]

大西洋会談のチャーチルとルーズヴェルト(1941年8月9日)
ハワイの真珠湾全景(1941年10月)

8月1日にイギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄。亡命先のイギリスの圧力を受けたオランダ植民地政府は、対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止。アメリカは、南部仏印進駐に対する制裁という名目のもと石油輸出の全面禁止をそれぞれ決定した。

中でも日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、石油輸出の全面禁止は深刻な問題であり、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、日本ではアメリカ(America)・イギリス(Britain)・中華民国(China)・オランダ(Dutch)による経済包囲が行われるとして「ABCD包囲網」と呼ぶ動きが広まった。

なおアメリカは、8月に大西洋憲章を締結した大西洋会談で、イギリス首相のチャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。これをうけて9月3日には御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された[72]

その一方で、8月7日に近衛首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促をうけ、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した[73]。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われたが(ルーズベルト大統領はチャーチル首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[74]。しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうか」と返事をした[74]

また、日英米関係が悪化することを背景に、日本海軍はホノルルやサンフランシスコ、メキシコ、サイゴン、マカオ、マドリードなどににスパイを送っており、例えば3月26日にホノルルに送られた吉川猛夫少尉は「森村正」の変名を名乗りホノルル領事館に勤務した。吉川少尉が収集した情報は、真珠湾におけるアメリカ海軍の艦船の動向など多岐にわたり、喜多長雄総領事の名で東京に暗号にして打電していた。吉川少尉の正体は総領事以外誰も知らされず、吉川少尉の行動は何も知らない現地の日本人移民や日系アメリカ人の善意を利用して行われた。

東條軍事内閣成立[編集]

近衛首相(1941年10月)
東條内閣成立(1941年10月18日)

陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「日米交渉も事実上終わり」と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一荻外荘に呼び「五相会議」を開き、対英米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。

そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性があるとする近衛首相と豊田外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條陸相の間で対立が見られた[75]

近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。(戦争をやるなら指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。近衞首相と東條陸相は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、東條陸相が次期首相となった。

この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」という木戸内大臣の強い期待があったが、その「期待」は、「軍人(=官僚)が選挙の洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という民主主義国家としてはあり得ないことが起き、その結果ますます止まらなくなった軍部の暴走と、さらに日本が近衛首相という「文民( =党人)政権」から、東條陸相兼首相という「軍事政権」への切り替えが行われ、国家を「戦時体制」に舵を向けたと、当然ながらイギリスやアメリカ、フランスやオランダなどの民主主義国家に受け止められるという、2つの点を完全に無視していた。

またこれまで日本では、岡田啓介米内光政桂太郎のように選挙を経ないで選出された軍事官僚が首相になることはあったものの、この様な陸海軍が好きに国をコントロールする軍事独裁体制はかつてなく、しかしこの体制は結局敗戦時の鈴木貫太郎まで続くことになる。

ゾルゲ事件[編集]

ゾルゲの外国通信員身分証明票
尾崎秀実

なお、このような中で9月27日のアメリカ共産党員の北林トモや10月10日の宮城与徳、10月14日の近衛内閣嘱託である尾崎秀実西園寺公一の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕され[76]。その後ドイツの「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙の記者をカバーとして、東京府に在住していたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。

捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。

その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14に逮捕され、東条英機陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼンと妻のアンナ、ブランコ・ド・ヴーケリッチの外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった。

ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることが出来たと言われる。

ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[77]。さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[78]。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。

しかし友邦ドイツの新聞記者という、万が一の時には外交的にも大問題となるケースに対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた。間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員、尾崎や西園寺などの近衛内閣嘱託、宮城や北林らの共産党員が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら近衛の関与も疑われたが、その後の辞職と英米開戦で不問となった。

なお一方のソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた。ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年11月7日、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。

南方作戦準備[編集]

マレー上空を哨戒するイギリス軍のF2Aバッファロー(1941年11月)

東條首相の下で10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[79]。10月14日に日本は対アメリカの最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。(これは当時の日本陸軍ができる最大の譲歩であった。)

11月6日には、日本政府は帝国国策遂行要領に基いて、南方軍イギリス領マラヤやシンガポール、ビルマ、香港など、またオランダ領ジャワやアメリカ領フィリピンなどの攻略を目的とする「南方作戦準備」が指令され[80]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[81]

真珠湾に向けて海軍機を満載して航行する「加賀」(手前)と「瑞鶴」(1941年11月28日)

これを受け、11月26日早朝に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「瑞鶴」、「飛龍」などからなる日本海軍機動部隊の第一航空艦隊は、南千島択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。なおこれは、アメリカの出方により途中で引き返す可能性あることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。

また、太平洋航路の龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定だった。だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦と共に龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。しかし大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。なお日本郵船のロンドン線やハンブルク線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化ですでに運休となっていた。

ハル・ノート[編集]

野村吉三郎大使と来栖三郎遣米特命全権大使(1941年11月)

11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎遣米特命全権大使、に通称「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が手渡された(なお、これの草案を手掛けた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトは、第二次世界大戦後にソ連のスパイであることが判明し、1948年に自殺している)。

この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」と言った譲歩を求める内容もあった。

この文章はあくまでハルの出した「基礎提案(Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし(Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」と明確に書かれてあったが[82]、内容的には日本側の要望はすべて無視したものであったことから、日本側は事実上の「最後通牒」と認識した。

そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否か、また実際に「最後通牒」か否かなど重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定する。

マレー方面出撃[編集]

マレー半島の上空を飛行するイギリス軍機(1941年12月)

そのような中で日本本土から比較的距離の近い対イギリスやオランダ植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日に三亜で作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将は同地から出撃[83]山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マレー半島とオランダ領東インドを目指して進撃を開始した。

外務省はロンドンやシンガポール、マニラや香港などの日本大使館や領事館にはすでに1日に暗号機を廃棄するよう命じ、さらにワシントンD.C.の日本大使館に暗号機を1機残して廃棄を命じた上で、館員が残存文書を焼却した[84]。これに対してイギリスやアメリカ側は、日本の在外公館で機密文書の焼却を行っていることに気づいて報告したものもいたが、それは「イギリスやアメリカが攻撃することを恐れて日本側が機密文書の焼却を行っている」と、一方的に勘違いしているものであった。

この様に対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎と野村吉三郎の両大使にハルとの交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。

対英米開戦と宣戦布告遅延[編集]

コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使(1941年12月7日)

12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は東郷茂徳外相に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。東郷から駐米大使の野村吉三郎宛に、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。

「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃(以下はすべてアメリカ東海岸現地時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日午前7時までに到着したと見られる。

九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にタイピストを利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意な一等書記官奥村勝蔵により修正・清書され、その為に時間を浪費してしまう。その上に館員の多くは6日夜には、ブラジルへ赴任する館員の送別会も兼ねてワシントンD.C.市内の中華料理店「チャイニーズ・ランタン」に向かい、多くはそのまま自宅へ戻ってしまう。

「翔鶴」からハワイに向け発艦する九七式艦上攻撃機(1941年12月7日)

さらに12月6日夜にルーズベルト大統領は昭和天皇に対する親書を送ったものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは開戦直前で手遅れであった[85]

12月7日の朝9時に大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。14分割目も奥村により修正・清書され、そして現地時間午後2時20分に特命全権大使来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省において国務長官コーデル・ハルに手交された。しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。そのためにその後アメリカ政府より、日本政府の宣戦布告の遅延が非難されることになる。

こうして日本はついに12月7日に、中華民国との戦いを続けながら、イギリス(オーストラリアやニュージーランド、英領マレーや同インドなども含む)、アメリカ(アメリカ領フィリピンなども含む)、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。なお本国はイギリスへ亡命)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線から、アジア戦線やアメリカ・太平洋戦線へと全世界に戦争範囲が広がり、まさに第二次世界大戦となる。

経過(アジア・太平洋・オセアニア・アメリカ・東アフリカ)[編集]

1941年[編集]

日本軍の侵攻に備えるイギリス領マレーの、イギリス空軍のブルースター・F2Aバッファロー(1941年12月7日)
炎上するイギリス領マレーのゴム園(1941年12月7日)
日本軍と戦うイギリス軍インド師団(1941年12月8日)

1941年12月8日午前1時35分(日本標準時)、この時間に行われた日本陸軍とイギリス陸軍との戦い(マレー作戦)により、アジア太平洋戦線における戦闘開始かつアジアにおける戦闘が第二次世界大戦へ発展した。

当初予期されたイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況をかんがみ、小沢治三郎中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下奉文中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[86]。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[87]。日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。

マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、イギリス陸軍の水際陣地に苦戦し日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功ししかも多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃した[88]

かねてからイギリス陸軍は国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600人、イギリス領インド帝国兵37,000人、オーストラリア軍15,200人、その他16,800人の合計88,600人に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍やオーストラリア軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスより地中海を避けて喜望峰とインド洋を通りドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。

イギリス空軍については、開戦前に現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ空軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国は、本土防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手いっぱいであり、遠くマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、上記のように陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けてシンガポールなどマレー半島への運搬に時間がかかったため、開戦当時のマレー半島のイギリス空軍の中心は、ブルースター・F2Aバッファローブリストル ブレニムなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。

さらに、日本軍に対する技術研究が不十分なイギリス空軍は「ロールス・ロイスダットサンの戦争だ」と、人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたために、日本軍の零式艦上戦闘機一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。

また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要の香港攻撃を開始したほか、中華民国の上海のイギリスやアメリカ租界を瞬く間に占領した。日本に占領されたものの、イギリスやアメリカ、オランダやオーストリア、デンマークやフランスなど連合国の職員と評議員は、その職から解任されたにもかかわらず、1943年に日本陸軍に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。

炎上するアメリカ海軍太平洋艦隊のウェストバージニア(1941年12月7日)
日本軍による空からの奇襲に遭う真珠湾の太平洋艦隊基地」(1941年12月7日)

日本軍のイギリス軍に対するマレー半島上陸開始の約1時間半後、山本五十六大将指揮の元、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は当時世界最大の空母機動部隊であった。

前日12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍のハズバンド・キンメル大将とウォルター・ショート中将にも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせると判断し、真珠湾に艦隊をそのまま在港させることとした。

また同日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、その「ワシントン時間午後1時」が、「ハワイ時間7時30分」であることを思いつく者はいなかった。さらに結果的に日本陸軍のマレー上陸の報が、イギリス軍からハワイに展開するアメリカ軍に伝達されるのはコタバルへの攻撃開始のはるか後の事になり、その結果真珠湾並びにアメリカ領フィリピンを含む太平洋地域のアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響することはなかった。

日本軍機から魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦群(1941年12月7日)
ハワイから帰投する日本海軍機(1941年12月7日)
日本軍機の攻撃を受けるイギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」(1941年12月10日)
マレー半島の橋梁を破壊するため爆薬を設置するイギリス軍工兵(1941年12月20日)

現地時間の7時10分に日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」から攻撃を受けたが(ワード号事件)、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった。また、その直後には哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し爆雷攻撃を行ったという報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らはワードからの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は警戒態勢の強化を図ることができなかった。さらに、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかった真珠湾のアメリカ海軍の将兵の殆どが、日米間の緊張した状況を知らされず、ほとんどが演習だと信じ込んでいた。

日本海軍の最初の魚雷は8時前に「ウエストバージニア」に命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中した。以降は日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、9時前には第2次攻撃も開始し、「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17など航空機328機破壊をはじめ2,400人以上の死者を出し、これに対しわずか29機の未帰還機と特殊潜水艇5隻の未帰還で終えた。

その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[89] 作戦目的を達成した[90]。なお激しい戦闘の最中に、ホノルル港に停泊していたオランダ海軍の「ヤーヘルスフォンテイン」が日本軍機に向けて搭載している対空砲の射撃を行い、大東亜戦争において最初のアメリカ軍の友軍の参戦となった[91]

なお、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる。なお、当時日本軍は短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイへの上陸は考えていなかった。しかし、ルーズベルト大統領以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイのアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。さらに、7日昼にはサンフランシスコなどアメリカ西海岸に非常事態宣言が出された上、実際ルーズベルト大統領は日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。

また、日本が日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたこと、さらに宣戦布告の遅延があったことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなったが、アメリカもレンド・リース法でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていたことや、自国も米比戦争シベリア出兵、第二次世界大戦以後もベトナム戦争などで宣戦布告なく戦争を行っていたこと、さらに当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであった。なお、先に開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかったうえ、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃も完全に宣戦布告が行われなかったが、このように喧伝されることは無かった[注釈 9]

かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、既に日本と日中戦争支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国中華民国南京国民政府[注釈 10] も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやアッツ島、フィリピンを失い、その上に本土の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。

12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。

なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[92]。戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう[93]。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[94][95]

この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲にイギリス軍は敗走を続けた[96]

ウェーク島で地上撃破されたアメリカ軍の戦闘機(1941年12月23日)
日本軍に降伏する香港のイギリス人(1941年12月28日)

日本陸海軍機がアメリカの植民地のフィリピンのアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。なおグアムにおける戦闘は1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民あわせて650名であった。

12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。

なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河が閉鎖されたために来日し、やむなく神戸港に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一員となり、これらイタリア極東艦隊は日本や満州国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送にも担当し大活躍した。

12月8日にイギリス領香港攻撃を開始した日本陸軍は、ストーンカッター海軍基地などがある中心の九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。さらに12日から攻撃を開始した香港島は、イギリス軍は頑強に抵抗し日本軍にも多くの死者を出したものの、貯水池を占拠され25日に降伏。日本陸軍は香港一帯を占領した(香港の戦い)。

捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了し、東南アジア戦線における日本軍の優位が完全に確定した。しかし日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオと、同じくポルトガル植民地の東ティモールには、中立国植民地を理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった[注釈 11]

アメリカ西海岸沿岸で通商破壊戦を行った日本海軍の伊15

12月23日には同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も占領した。この様な状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9伊10伊15伊17伊19伊21伊23伊25伊26[97]。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコなどの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカやカナダに対する通商破壊戦を展開し、中でも商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、西海岸の住人を恐怖のどん底においた[98]

さらにはカリフォルニア州を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、一斉にアメリカ西海岸沿岸の海軍基地のあるサンディエゴやモントレー、ユーレカやアストリアなど、アメリカ西海岸の複数の都市の軍事施設するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[99]

1942年[編集]

マレー半島を進む日本軍(1942年1月)
クアラルンプールで市街戦を戦う日本軍(1942年1月)

東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出した仏領インドシナでは、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[100]

1月に日本は、母国をドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命及び植民地政府とも開戦し、ボルネオ(現カリマンタン)島[注釈 12]ジャワ島スマトラ島[注釈 13] などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。なお1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、カンタス航空のショートエンパイア機が日本海軍機に撃墜され、乗客乗員13名が死亡する事件がおきている。なおこれは、同社によって2019年までで最大の死亡者が出た事故となっている。

シンガポールにて降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将(1942年2月)
「ロサンゼルスの戦い」を報じるロサンゼルスタイムズ紙(1942年2月)

日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦オランダ海軍とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル[101]、2月10日-11日にバンゼルマシンに上陸しこれを攻略した[102]。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。この様な中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件」が発生している。

日本軍は9日にセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[103]。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[104]

ジョホールに迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールに迫り、2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールに対する攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[105]。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始[106]。11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた[107]。しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後にアーサー・パーシヴァル中将は山下奉文中将に降伏した[108]

日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した[109]。日本の戦死1,713名、戦傷3,378名[110] に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで占領下に置いた。

2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。

2月24日に、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。これで対米戦においては、先に日本がアメリカの本土を攻撃することとなり、アメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。

インド洋で日本軍の攻撃を受けるイギリス海軍の「コーンウォール」と「ドーセットシャー」(1942年4月)
コレヒドール島にて日本軍に降伏するアメリカ軍(1942年5月)
炎上するアメリカ海軍空母レキシントン(1942年5月)

翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が死亡するという「ロサンゼルスの戦い」が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。

また、まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了した。3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝した。日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在のミャンマー)首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領。連合国は連戦連敗により、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊はほぼ壊滅した。

日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[注釈 14]コロンボ、トリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。

イギリス艦隊は、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアキリンディニ港まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 15] へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。

フィリピンの日本軍は、4月9日にバターン半島を攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出したバターン死の行進事件が発生している。もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた[111]

マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた[112]。5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーの姿はすでになかった。3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。

日本によるシドニー湾攻撃で着底したオーストラリア海軍のクッタブル(1942年5月)
マダガスカルに向けた出港準備をする日本海軍の伊10(1942年5月)
日本海軍機の空襲を受けて炎上するダッチハーバーのアメリカ軍基地(1942年6月)

4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母ホーネットから発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。

5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。

日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われた。

伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。

イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃し[113]、南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。

その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載した特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 16][114]

さらに、南アフリカ沿岸のマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日にイギリス軍と陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀拳銃で戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷させるなどの戦果をあげている。

日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。

フォート・スティーブンスの被害を調べるアメリカ兵(1942年6月)
サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月)
日英交換船として横浜に向け航海中の龍田丸(1942年8月)

日本海軍は、同年6月3日から行われたアリューシャン群島西部要地の攻略又は破壊を目的として行われたAL作戦で、アメリカ軍のアラスカダッチハーバーへの空母龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。また6月6日には、アリューシャン群島のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する。

これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかったが、アメリカ軍にとっては自国の本土を取られた屈辱の日となった。

6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を一挙に失った(アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この海戦は太平洋戦線で初の日本海軍の敗北となったが、この後も海戦での敗北やアメリカ本土空襲、本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退はまだまだ続いた。また、この海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴翔鶴のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。

6月20日には乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった

翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25に対する爆撃を行ったものの、損傷を与えることはできなかった[115]。この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争以来、130年ぶりのものであった。

6月には、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。6月29日グイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナザポリージャアラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル包頭に到着した。しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。その後東京へ向かい7月3日から7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウク