霊仙

霊仙(りょうせん、759年?〈天平宝字3年?〉 - 827年?〈天長4年?〉)は日本平安時代前期の法相宗である。日本で唯一の三蔵法師。出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される。

概要[編集]

霊仙の出自については幾つかの説があるが、定かではない。

興福寺で学んだ後、804年延暦23年、唐の貞元20年)には第18次遣唐使の一人として45歳で入唐した[要出典]。同期に最澄空海橘逸勢らがいる。長安で学び810年(唐の元和5年)には醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受[1]・訳語(おさ)[2]を務めた。811年(唐の元和6年)、「三蔵法師」のを与えられる。時の唐の皇帝・憲宗仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移る。

825年(唐の宝暦2年、和の天長2年)には淳和天皇から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に、阿波国千束を支給するよう計らった。その後、828年(唐の大和2年、和の天長5年)までの間に没したようで、一説によれば霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから死ぬまで日本の地を踏むことはなかった。

840年(唐の開成5年、和の承和7年)7 - 8月、霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また、円行常暁が入唐した際には、霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという。


顕彰[編集]

2000年平成12年)、滋賀県出生説を採る滋賀県醒井の松尾寺住職等により「霊仙三蔵顕彰の会」が発足し、「霊仙三蔵記念堂」が松尾寺内に設けられた。霊仙三蔵記念館に寄れば霊仙は、息長氏丹生真人族の中より霊仙山麓の地に生まれ、幼くして仏門に入り金勝寺別院霊山寺、その後興福寺で学んだとされている[3]

脚注[編集]

  1. ^ ひつじゅ。仏教用語の一つ。経典を漢訳する際に、梵語の口述を漢文で筆記する係の者。また、口述筆記することを指す。
  2. ^ 漢語・漢字に置き換える係。現代の「翻訳」に相当する仕事。
  3. ^ 周辺のご案内 霊仙三蔵記念堂(2009年2月17日時点のアーカイブ) - 醒井木彫り美術館

参考文献[編集]

  • さんどう会編 『霊仙三蔵と幻の霊山寺』 サンライズ出版2001年平成13年)。ISBN 4883252159
  • NHK取材班、鎌田茂雄著 『仏教聖地・五台山:日本人三蔵法師の物語』 日本放送出版協会1986年昭和61年)。ISBN 4140084766
  • 澤本光弘著「円仁と霊仙の五臺山」『アジア雑記帳・文化と歴史』東洋文化研究会編、2021年。
  • 籔田藤太郎著 『霊仙三蔵』 サンブライト出版、1982年(昭和57年)。
  • 鷲尾光遍著 『噫霊仙三藏.附石山寺経藏』 大本山石山寺1963年(昭和38年)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]