瀬戸團治

増田甲子七先生之像』(長野県筑北村、1983年)

瀬戸 團治(せと だんじ、1905年9月13日 - 1991年7月1日)は、日本彫刻家[1][2]

経歴[編集]

長野県上伊那郡朝日村[3](後の辰野町の一部)に生まれる[2][4]。伊北農商学校(後の長野県辰野高等学校の前身)を卒業後、地元で酒屋へ奉公に出たが程なくして辞め、1924年に上京し、鶴田吾郎中川紀元[4]曽宮一念の下で画家を目指したが、1929年に小学校教員となるため帰郷し[1]、郷里の小学校の教員として11年間勤めた[4]

この頃から斎藤素巌の下で、彫刻にを学び、1936年から日展に出品を始め、毎年出品し続けた[4]1933年構造社展で初入選し、第二次世界大戦後には1949年から1951年にかけて、日展で3回連続特選となり[4]、後には日展の審査員、評議員などを歴任した[2]

日展出品を含む代表作数十点は、辰野美術館に寄贈されている[2]

4男の瀬戸剛も彫刻家である[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b 瀬戸團治”. 東京文化財研究所 (2015年12月14日). 2016年1月20日閲覧。
  2. ^ a b c d 所蔵作品”. 辰野美術館. 2016年1月20日閲覧。
  3. ^ 東筑摩郡朝日村とは異なる
  4. ^ a b c d e 信濃毎日新聞社 編「まねでなく 創造を 瀬戸団治」『百人百話』信濃毎日新聞社、1972年2月20日、293-241頁。 
  5. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『瀬戸剛』 - コトバンク