民法典論争
民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)の日本において、旧民法(明治23年法律第28・98号)の施行の是非を巡り展開された論争。
延期派の穂積八束の論文「民法出テゝ忠孝亡フ」が有名だが、その題名から連想された、実態とかけ離れた俗説的説明の蔓延が深刻化している[1]。本項では民法 (日本)#概説の区分に従い、民法典編纂の歴史と併せて扱う。
概要[編集]
と主張。
断行論者が申しまするに延期論者は為にする所あって延期論を吐く、又延期論者が申しまするに断行論者は綱常…(中略、以下同じ)経済を撹乱し国体を蔑視すると云って殆ど叛逆人の如く申す…殆ど其極端に走って…両方の論者共に左様の心底ではなからう…断行論者…も決して綱常を撹乱するものでもございますまいし、延期論者も必ずしも私利のためにすると云ふ様な事もなからう…共に是は国家を思ふの念慮よりして出たに相違ございますまいが、唯其中途にあって見る所を異にして居る位であらう…去ながら…新法が不完全なると云ふ一点に於きましては双方とも異説のない様でございます[4][史料 1]。 — 木下広次、第3回帝国議会貴族院演説、1892年(明治25年)
断行派は、
と反論(#民法典論争の争点)。
論者又曰く民法の体たる法学の教科書に類すと。我民法規定の精密を求めたり、蓋 外国民法の脱漏あるを見其覆轍を避けんと欲してなり、故に或いは零細に渉り条項を増し以て解説講義に類するヿ なきに非ず、此事に関しては論者の評或は全く当たらざるに非ざるに似たり[8]。 — 今村和郎・亀山貞義『民法正義 財産編』1890年(明治23年)、原文旧字体片仮名表記を修正、以下同じ
延期派勝利の結果、
- 1.ドイツ民法第一草案を始めとする比較法研究を踏まえ、旧民法(特に財産法)の形式上の欠点を克服して成立したのが現行日本民法典である[10](#財産法の修正内容)。
- 2.内容面では、保守的な延期派の反対論の結果、戸主権の強化を中心に半封建的に修正して成立したのが明治民法(明治29年法律第89号、明治31年法律第9号)であった[11]
との理解がマルクス主義法学者平野義太郎や玉城肇、青山道夫、法制史学者星野通らによって主張され、歴史上の全ての闘争は「階級闘争[12]」だとするマルクス主義的歴史観の強い影響により一時通説の地位を占め[13]、徹底・単純化されて歴史学者・教育者[14]にも広く受け入れられた。
しかし、むしろ旧民法の方が保守的[17]とする少数説もあるが、
とするのが法制史学上の通説である[19](#民法典論争の評価を巡る論争)。
親続編調査の方針は…弊害なき限りは従来の制度慣習を存することにし、又一方に於て…社会の状況が少しく変れば直ちに法典を変へねばならぬと云ふやうなことにならないこと…既成法典は此二点から見れば多少修正を加ふべき点はありませうけれども、根本的に改正を加へねばならぬと云ふ程の点はないやうに思ひます[20][史料 4]。 — 富井政章、第124回法典調査会、1895年(明治28年)
解説[編集]
本頁を要するに、旧通説を含む通説的見解によれば、政府の性急な法典施行に反対し、不完全だから修正のため一時延期せよという延期派(≒英法派と議会多数派)と、無いよりは良いから施行後に修正すべきとする断行派(≒仏法派と政府主流派)の争いであり、起草者の努力が空転し、委員会による調整も不調で、法典(特に商法)の不完全は統一法典施行の必要とともに起草者自身を含むほぼ全当事者の一致した意見だったから論争終結後に修正され完成度を高めたが、家族法批判はプロパガンダ的要素が強く、延期派の総意でもなかったから、学説上ニュアンスの差異はあるが妥協的修正にとどまり、明治民法施行後に論争を持ち越したというものである。
ところが背景・事実関係が「極めて複雑[24]」なため、各論者の歴史観も反映してそのニュアンスの差異につき後世激しく争われ、学者・教育者による誤記の横行も指摘・批判[25]されている。旧民法に賛成=進歩派、反対=保守派という理解を徹底するあまり、政府山縣内閣が公布を強行した明治23年法律第98号の存在を否定する日本史教科書すら存在する(#諸法典の公布)。典型的な俗説的説明「ボアソナードが起草した家族法草案における戸主権・家督相続の有無を巡る、フランス民法典の導入を支持する梅謙次郎と「民法出でて忠孝滅ぶ」と述べて反対した穂積八束の論争であり、ボアソナードの進歩的草案は政府に受け入れられず廃案にされた。新民法ではプロイセン法やドイツ民法典に倣いパンデクテン方式を採用。独法系の絶対的戸主権を新設し、家督相続制の導入により長男以外は遺産相続の権利を失った」は評価以前の事実誤認。
定義[編集]
法典論争[編集]
この論争と前後して、商法典・刑法典の制定とその是非を巡る論争(商法典論争・刑法典論争)があり、旧商法の施行延期・一部施行(#商法典論争の顛末)と旧刑法改正の着手が行われた(#刑法典論争との関係)。
民商両法典につき「法典論争[26]」または「法典争議[27]」と呼称するが、文脈によってはもっぱら民法を指す[28]こともある。
従来の日本史教科書では商法典論争はほとんど無視されたが、民法典論争でなく「法典論争」という語を採り、民商両法典が対象になったことを明記した上で穂積八束「民法出でて忠孝亡ぶ」への言及を避け、単に「日本の慣習との調整が不十分だったことから」生じた論争とするもの[29]も出現した。
旧民法・明治民法[編集]
「民法典論争とは、ボアソナードが作成した民法典をめぐる論争である[30]」と定義されたり、「親族・相続」を含む民法全編の編纂者が「ボアソナード」と記述[31]されることがある。しかし論争の対象となった明治23年法律第28・98号、いわゆる「旧民法」の内、最も激しく争われた家族法(98号)は磯部四郎ら日本人の起草である[32](#旧民法家族法の起草者)。
したがって全体を「ボアソナード民法」などと呼ぶのは不当と批判[35]されている。
家族法は財産法と異なり固有の風俗慣習に基づき起草すべきとの政府とボアソナード双方の考えから(#家族法の起草方針)、草案はあくまで日本人が起草したことを明記する歴史学者[36]は極めて稀で、前述のようにボアソナードが家族法を起草したために起こったのが民法典論争であるという事実認識に立つものが多い。もっとも彼の査閲を経て正稿になったとの法史学者石井良助の推測[37]もあることから、全くの誤りとも言えないとも考えられる[38]。しかし実際に意見を仰いだ記録は無く、当初予定されていた査閲はボアソナード多忙のため省略された可能性が高い[39]。また日本人委員による原案の大修正を無視して、全体が彼の意思通りに成立したかの印象を与えミスリーディングだとも批判される(中村菊男)[40]。ボアソナードの間接的影響が当然視[41]されることもあるが、熊野らの家族法指導教授は別人(#英仏両派の形成)。そこで家族法起草はあくまで日本人主導と理解する立場[42]からは、「ボアソナード民法」を意識的に財産法に限定して指称される[43]。本項では旧民法で統一。
また旧民法の意味でボアソナード草案と言われることもあるが、主権者が正式に公布した法律であり、かつ明治民法により廃止されるまで事実上施行されたのとほぼ同じだったため、政府に採用されず廃案になったというのは誤りである[44]。
一方1898年(明治31年)に施行された新民法は、形式上は今なお現行法だが、財産法(明治29年法律第89号)は部分的修正に止まるのに対し、家族法(明治31年法律第9号)は戦後根本的に修正されたため(#民法典論争延長戦の決着)、文脈によっては昭和22年改正法との対比の意味で改正前の条文を「旧民法[45]」と呼ぶこともある(本項では明治民法で統一)[46]。
民法典論争理解の焦点[編集]
21世紀に入ってなお論争の全貌は判明せず、史料発掘が続いている[47]。本質論も激しく争われ、平野らの説の衰退後、確たる通説の確定を見ない[48]。
理解を困難にする原因は、旧民法・明治民法、仏・独民法の理解に大きな差があること[49]、何をもって進歩的というか確定しないことである[50]。巷説の中には、旧商法の方が先に激しく争われた事実や[51]、戸主権が旧民法に存在する事実を無かったことにしようとするなど、偏見に基づく粗雑な説明をするものがあることは強く非難[52]されている。
旧民法の性質[編集]
旧民法が「フランス民法をそのまま再現したもの[53]」、「フランス民法(code civil)の日本語版[54]」とみるときは、延期派の反発は、仏民法典およびフランス法思想に対する反発と同一視[53]される。
しかし、両者をほぼ同視する理解は論争当時からあったとされるが、仏法派・断行派も批判している。
宮城から名指しで批判された延期派の安部井磐根も、1876年(明治9年)の恩給令が仏法の模倣だったことや、日本の法典に仏人からの批判があったことを指摘するにとどまる[史料 6]。
一方、ボアソナードも日本の伝統を尊重した人であり西洋法理との調和を目指したとみるときは、努力が不完全だったために民法典論争が起きたと理解[55]される。旧通説の論者も、旧民法もまた戸主を中心とした家制度を採り、明治民法とさほど異ならないかに見えるが実は違う[56]と主張するに過ぎず、批判説と全然相容れないわけではない[57]。
旧民法人事編243条[史料 7]
- 1.戸主とは一家の長を謂い家族とは戸主の配偶者及び其家に在る親族、姻族を謂う
- 2.戸主及び家族は其家の氏を称す
人246条[史料 8]
- 家族は婚姻又は養子縁組を為さんとするときは年齢に拘らず戸主の許諾を受く可し
旧民法の妥協的性格を根拠に、大井憲太郎(仏法派[58]・断行派[59])を引用してボアソナードすらも「保守主義の法律家[60]」と評するのはマルクス主義者平野義太郎である。
仏民法の性質[編集]
仏民法典を旧民法と同一視しつつ「市民革命の結果として成立し、人間の自由と平等を旨とした[54]」「男女平等[53]」「博愛[61]」の進歩的法典とみるときは、民法典論争の本質は延期派=半封建派のイデオロギー的反発[62]と解される。
一方、妻の地位の低さを重視し典型的な男尊女卑の法典とみる、さらにはフランス革命も有産市民階級(ブルジョワジー)が利益最大化のために封建制を排除したに過ぎないとみるときは、保守対進歩という図式に単純化すべきでない[63]ことになる。
仏民法旧213条
- 夫は妻を保護する義務を負ひ、妻は夫に従ふ義務を負ふ[64]
旧通説支持者の青山道夫も植木枝盛を引用して仏法の男尊女卑を認め[65]、星野通(民法学者星野英一は別人)も人事編の排外主義を指摘[66]。「博愛」は革命精神の一つでありながら、フランスの法律上は実現されていなかった[67]、あるいは仏語のfraternité(博愛/友愛/兄弟愛/同朋愛)に女性は最初から含まれていなかった[68]などの主張が有力である(#ナポレオン法典の家族観)。財産法は明治初期に導入済み(#法典制定前の民法)。
明治民法の性質[編集]
明治民法で初めて、またはより強く封建的規定が現れたとみる立場からは、穂積八束の「民法
特に戸主権が「強力[70]」(玉城)だったか、「空虚[71]」(我妻)だったかは重要[72]だが、マルクス主義者玉城肇も次の指摘には同意する[73](#戸主権強化の実例)。
戦前は個人主義の極端と非難されていたが[75](#民法典論争延長戦)、戦後は正反対に評価[76]されることが多くなっている。
論争全体の理解[編集]
旧民法と明治民法の家族法が大同小異だとしても、八束のスローガンが延期派の決定的勝因だったとすれば、論争の本質はやはり保守対進歩の戦いとも考えられる[77]。
しかし、家族法だけに法典論争を言うのは実態に合わないとして編纂手続の是非[5]や商法・財産法を巡る論争を重視するなら、「民法出でて忠孝亡ぶ」の一言では語り尽くせないことになる[78]。
旧通説は必ずしも前者のような理解を採らず、星野は、八束論文は珍奇の題名が後世に与えたインパクトが大だったに過ぎず、それが旧民法の死命を決したというのは俗説だと主張[79]している(#延期派の勝因)。
論争開始から旧民法廃止までの経緯の概略は次の通り[5]。
時期 | 出来事 | 内閣 |
---|---|---|
1889年(明治22年)5月 | 法学士会意見書により法典論争開始(#法典論争の勃発) | 黒田内閣 |
10~12月 | 江木衷「民法草案財産編批評」発表(#公布前の英法派の主張) | |
1890年(明治23年)4月 | 21日財産法公布、26日商法公布(#旧民商法の完成) | 第1次山縣内閣 |
10月 | 家族法公布(#旧民法家族法の特徴) | |
11月 | 帝国議会開会 | |
12月 | 第1議会で旧商法延期法案可決(#商法典論争の決着) | |
1891年(明治24年)2月 | 第1議会貴族院で「民法及商法ニ関スル建議」可決(#民法典論争の激化) | |
4月 | 穂積八束「国家的民法」発表(#主張の骨子と評価) | |
8月 | 穂積八束「民法出テゝ忠孝亡フ」発表(#穂積八束の延期論) | |
1892年(明治25年)5月 | 第3議会で旧民商法延期法案可決(#民法典論争院内戦) | 第1次松方内閣 |
11月 | 延期法公布(#法典論争最終戦) | 第2次伊藤内閣 |
1894年(明治27年)5月 | 法典修正のため法典調査会会議開始(#民法典論争の顛末) | |
1896年(明治29年)3月 | 第9議会で民法前3編につき「民法中修正案」可決、旧民法財産法廃止(#明治民法の完成) | |
12月 | 第10議会で残余部分につき再延期法案可決 | 第2次松方内閣 |
1897年(明治30年)12月 | 第11議会に民法中修正案が提出され、衆議院解散により審議未了 | |
1898年(明治31年)6月 | 第12議会で民法後2編につき「民法中修正案」可決、旧民法全廃 | 第3次伊藤内閣 |
以上につき、第1議会で旧民法延期が議決(第3の誤り)、第9議会で明治民法全編が可決したと記述[80]するなど(第12議会の脱落)、学者の不正確な記述が少なくないことが指摘・批判[5]されている(#院内論戦の決着)。
商法典論争との関係[編集]
旧商法は、旧民法に歩調を合わせて形式上は仏法系だったが内容的には大半独法系であり、両者の矛盾を懸念されたことが法典論争の発端であった[81]。特に商法の不出来は顕著で、断行派の梅でさえ批判が起きたのは必然だったと批判している[82]。
論争終結当時「人事編民法を延期せしめ、民法商法を延期せしむ」と風評されたと伝えられるが[83]、「民法出でて忠孝亡ぶ」に象徴されるイデオロギー的闘争の影響を受けて商法までもが延期された、との見方には批判もあり、
- 第3回帝国議会での論争は民商両法典が対象だった事実を重視すべきであり、第1議会の商法典論争も実質的には両法典が対象だったから、両者は不可分一体であり、民法典論争とは旧民法のみならず旧商法の施行を巡る論争と解すべき[84]
- 商法典論争は穂積八束論文(1891年)よりも前に、第1回帝国議会(1890年)を舞台に争われた事実を重視すべきであり[85]、商法典論争をして法典論争の「関ヶ原」、民法典論争をして「大阪の陣」と穂積陳重によって評されたように(#商法典論争)、商法典論争こそ法典論争の主戦場であり、その時点で大勢は既に決し、民法典論争は延期派の追討戦に過ぎなかった[86]
などの主張がある。
論争論争当事者[編集]
当事者として「法学者[87]」のみが挙げられることがあるが、純粋な法学者はごく稀で、民間の免許代言人が主力であった[88]。政府や国会、一般のジャーナリズムでも論戦が繰り広げられ[89]、教育者や宗教家も参戦している(#法典論争最終戦)。延期派の有名人、穂積八束も法制局や文部省など官僚との兼任[90]。一方、皇族の参戦は確認されていない(#第3議会議員内訳)。
穂積八束の理解[編集]
旧通説を含む通説的理解では「民法出テゝ忠孝亡フ[史料 11]」は民法典論争「中期[91]」の一論文に過ぎないが(星野)、それが論争を惹き起こした[92]との理解も根強く主張されている。「滅[93]」ぶは誤字。
穂積陳重によれば題名の発案者は八束ではなく江木衷であり[94]、延期派の中心も八束ら独法派と断定[95]されることがあるが、江木ら英法派[96]とするのが通説的理解である(#仏法派と英法派の対立)。江木は反独法[97]。
近代個人主義を全否定した時代錯誤的議論に過ぎなかったかは学者の意見が大きく分かれ[98]、儒教的立場からの封建制復古論という理解にも異論[99]がある(#絶対主義の法典編纂、#ゲルマン法学の確立)。また独民法第一草案への批判を旧民法批判に転用しており[100](#ドイツ民法典論争)、仏法でなく独法を範にすべきというのは八束の主張ではない(#穂積八束の延期論)。明治民法に最も不満を抱いたのは、ほかならぬ彼であった[101](#穂積八束の批判)。
独民法の性質[編集]
ドイツとプロイセンの法思想を同一視して独民法典を仏民法典の反動法とみるときは、民法典論争を経た仏法から独法への転換は日本の後進性の現れと理解[54]される。例えば、独法思想の本質を反自然法主義・プロイセン軍国主義と捉えた上で、仏法の自然法思想・人権尊重論への反対が明治民法起草者の本質だったと主張[102]される。
しかし独法=プロイセン法とみることには批判もあり、ドイツの多様性や、プロイセンですら法文化は東西で大きく異なることを無視すべきでないとも主張[103]されている。独民法に影響を与えた法典の内、プロイセン法典(代表的な自然法法典。パンデクテン方式ではない)とザクセン民法典は異なる設計思想に基づいており、明治民法起草者が旧民法とともに批判・克服の対象とするのは前者、高評価するのは後者である[104](#ドイツ法学の理論状況)。またドイツ私法を保守反動の法と当然視することへの批判[105]もある。
一方仏民法の進化発展版とみるときは、明治民法が不徹底ながら独民法に依ったこと自体は肯定的に評価[106]される。
旧通説の論者(平野[108]、星野[109])も、独民法(特に第一草案)は強烈な個人主義・自由主義の法典だったとの理解を示す(#ドイツ民法典論争の顛末)。両法典はどちらもローマ法・ゲルマン法・教会法の混合に近代精神を加味した民法典であり、仏法がその名に反してゲルマン法寄りなだけで正反対の性質というわけではない[110]と考えられるが(#比較法の不足)、実態を無視して明治政府が独法=ゲルマン法系の保守法と解したのであれば、論争のイデオロギー的要素は否定できないことになる[111](#独法派の動向)。伊藤博文を通じて明治憲法に影響を与えたドイツ人法学者ルドルフ・フォン・グナイストやローレンツ・フォン・シュタインに学んだ松岡康毅は旧民法家族法の編纂に進歩的立場を採り法典論争でも断行派のため、星野も独法派=保守派・延期派の理解は採らない[112]。
なおドイツ法に戸主権は存在しない[113]が、戦後の教育者の中には戸主権を独法由来と当然視するもの[114]が散見される(#戸主権は絶対的か)。しばしば混同されるが、近代西洋法の家父権と日本の戸主権は別概念(#ヨーロッパの家族観)。また独民法典は当時としてはかなり進歩的立場に立脚しており、女性の法的地位は仏法よりも高かったことが指摘[115]されている(#ドイツ民法典論争の顛末)。
進歩的とは何か[編集]
自由主義と平等主義は社会の一態様に過ぎず、それ自体が尊いのではない[118]。ナチスに反対=進歩的という固定観念から、全体主義と社会主義を混同して自由主義を絶対視する論者もいることは強く非難されている(我妻)[119]。
近代西洋個人主義=進歩的、家族主義=後進的とする図式も冷戦終結以降見直され[120]、近代法が解放した個人とは家長だったことが指摘・強調されている[121](#団体主義と個人主義)。
明治維新前の状況[編集]
維新の事業と云ふものは…数百年続いてきた所の封建制…を廃して郡県制に戻し王政復古となって…欧羅巴 の文明を…極急激にどんどん入れて行くと云ふ主義を取ったのである。 …けれども…我々も頭は散髪であっても和服を着けまするし甚だしいのは洋服を着て下駄を穿く者もある位で…どれだけのことは欧羅巴主義を入れ…なければならぬと云ふことは余程六 つかしいことである[122]。 — 梅謙次郎「法典ニ関スル述懐」1893年(明治26年)
一国の統一法典があるというのは当然のことではない[123]。1887年(明治20年)の条約改正交渉で西洋主義の法典を公式に日本に求めたのは英独だったが[124]、イギリスは法典構想が実現せず、ドイツにはあったが全国的に統一されておらず、英米独仏露の列強五か国の内、明治維新の時点で完備していたのはフランスだけであった[123]。
明治以前の日本にも「民法」という名の統一法典が無かっただけで、古くは701年の大宝律令(中国法系)には多くの民法規定があったが、施行の実態は不明[125]。
律令制衰退後統一法典が無かったのは、基盤の中央集権体制を欠いたためである[126]。
郡県制から封建制へ[編集]
秦の始皇帝が創始した郡県制は中央政府から官憲を派遣して法による統治を行う中央集権体制だったが、儒学の発達に伴い諸侯が地方に分散して各自独立の統治単位を形成する封建制(周王朝創始)が仁政に適すると理論化され定着。以後日本国内の統一法制定の基盤となる中央集権確立は、明治維新の版籍奉還を待つことになる[127]。
上世法の中核だった養老律令に代わって中世社会で重きをなしたのが自然発生的な慣習法であり、成文法は特定の重要事項の明文化が任務であった(御成敗式目など)[128]。明治民法起草時にも参照されている[129]。
鎌倉中期には分割相続で所領を細分化すると自己防衛や封建領主への義務履行に支障をきたすことから、土地の有限、新田開発の行き詰まりを背景に長子相続制が自然発生し[130]、室町時代頃に確立[131]。
近世(江戸時代)も同じく地方慣習重視だが、徳川百箇条などの小法典のほか、商工業の発達に対応して単行法が激増[132]。しかし裁判制度は未整備で、後期は訴訟の増加遅延が目立った[133]。もっとも為替手形・小切手・船荷証券につきイタリアと並ぶ世界最古・最高峰の慣習法体系を有していたことが外国人研究者によって明らかにされており、当時の日本法が遅れた、野蛮なものだったとは言えない(福島正夫)[134]。その他の判例法的民法については身代限、吟味方参照。
封建制から中央集権へ[編集]
フランス、イタリアの法典編纂は、旧弊の刷新よりも中央集権国家形成事業の要素の強いものであった[135]。
絶対主義の法典編纂[編集]
ローマ帝国崩壊後のヨーロッパでも封建制が各国で確立していたが、マルティン・ルターの宗教改革(1517年~)において、カトリック教皇権に対抗して世俗的君主権の強化が説かれたことから絶対主義が確立[136]。
1532年、グーテンベルクの活版印刷術によるローマ法学の普及の成果として、諸侯や都市当局による不当な逮捕・処刑を改善すべく、刑事訴訟法分野につき神聖ローマ帝国最初の統一法典『カール5世の刑事裁判令』(カロリーナ法典)が成立。しかし諸侯の抵抗が強く法の統一には至らず、啓蒙主義の影響を受けた君主が官僚を利用して法典編纂事業を本格化させるのは18世紀中葉以降である[137]。
封建時代に於ては一郡一村毎に君主のやうなものが有りました。…尤も…オホアタマが無かったといふ国は有りませぬ。フランスには…国王があり、…日本にも…天皇陛下といふものが有ります。ドウして封建が立ったかといふと、蒸気…電信…鉄道もなく…オホアタマの適用する権力もなく、また方法もないから、君主を配る必要が起ったので有ります。…君主権は…分ったにしても、互にイクサをしていけませぬ…然れば…幼年…女…でも無く…長子に与へるといふことが…封建制の長子権の起る原因で有りませう。…封建政体を…ブチコワスに付ては四百年の星霜を要しました。アナタの国では両三日でおコワシなすったが…エウロッパの大名が非常に強くって、日本のお大名は大変に弱かったからでありました。
能く人がフランスの封建政体は百年前の大革命に因って倒れたと…言いますが…全くはルイ14世…の時に倒れたものであります[138]。 — ボアソナード(通訳磯部四郎)明治法律学校性法講義、1887年(明治20年)
君権の脆弱な封建制への回帰を主張しないのが穂積八束の立場である(長尾龍一)[139]。
1748年、フランスの啓蒙思想家モンテスキューが『法の精神』を著し、各地の自然文化風俗に応じた法形態を指摘、自然法の具体的適用を理論化[140]。この頃諸州を旅行したヴォルテールによると、山や河を一つ越えれば法や慣習が変わる有様だったという[141]。
ルイ14世は、絶対王政を背景に1767年と1772年に北部ゲルマン法系慣習法・南部ローマ法系成文法の廃止・統合を試みたが、諸地方の抵抗に合い王令は全国的には適用されなかった[142]。法典論争議会演説でもその名は登場し、自然的な慣習法の明文化でない、政府による上からの法典編纂という意味で日本と共通することが指摘されている(穂積陳重)[143][史料 14]。
明治維新の本質を封建制から絶対主義への移行と理解し、その半封建性を強調するのが平野・玉城ら講座派マルクス主義である[144](半は絶対王政期の意[145])。
ナポレオン法典の成立[編集]
1789年のフランス革命を経て、1793年には革命の熱狂を背景に仏民法第一草案が成立したが、後の修正で大きく反動化[146]。
マルクス主義法学に理解を示しつつも、明治維新もフランス革命に準じる市民革命だったと主張する論者もいる(松本暉男)[147]。日本資本主義論争も参照。
1799年、ナポレオン・ボナパルトがクーデターにより権力を掌握、既存の草案を破棄し、1800年から本格的に法典編纂を開始[148]。
1804年3月、フランス民法典成立。1789年に始まった長子権の廃滅を継承[149]。5月、ナポレオンが即位しフランス第一帝政開始。
民事訴訟法典(1806年)、商法典(1807年)、治罪法典(1808年)、刑法典(1810年)も続いたが[150]、革命後の社会の混乱を統一する妥協の法としての側面を持ち、必然的に、新し過ぎるという批判と、古過ぎるという批判とに晒される運命にあった[151]。
ナポレオンは従属国に法典施行を強要したから、日本の蘭学者にはその知識を持つ者もいた[152]。従属国の一つ、イタリアは後述(#イタリア民法典論争)。
自由主義から社会主義へ[編集]
1814年、フランス王政復古。仏民法典の自由平等はフランス人ブルジョワジーの男性だけの自由平等だとの批判[153]が高まる中、1848年にはイギリスで『共産党宣言』出版。日本に浸透したのは後世であるため法典論争への影響は間接的[154]。
フランス第二共和政を経て、1852年にナポレオン3世が即位しフランス第二帝政開始。1866年には英国との貿易紛争を機に国内の大規模農業調査を行い、民法典と農村社会が衝突する実態が判明[155](#相続制の衝突)。
トルコ法典論争[編集]
東洋法で裁かれることを嫌う欧米列強は、現地の国が西洋的法典を持たず裁判の予測可能性が無いことを治外法権の名目にしていたが、主権の侵害であり、各国で領事裁判制度撤廃の動きが台頭[156]。
先鞭をつけたのはオスマン帝国のタンジマート(1839年~1876年)だったが、日本と異なり伝統法が宗教的戒律(シャリーア)と密接な関係があったため、西洋法受容の可否は深刻な「民法典論争」を巻き起こした。結論的にはイスラム慣習法の成文化にとどまるものとされたが[157]、制定された法典は人民に支持されず改革は失敗。トルコ革命を経て世俗主義に転じた1926年にはスイス民法典(1907年公布、1912年施行)のほぼ直訳を法典化したが、農村での運用に支障をきたした[158]。
タイ王国のチャクリー改革における仏法系から独法系への転換は#外部リンク参照(日本民法典論争との近似性が指摘されている)。
法典編纂の理由[編集]
国内法の統一と、不平等条約改正が法典編纂の動機である[159]。明治初期では前者による富国強兵に比重があった[160]。
内的要因[編集]
1868年(明治元年)、五箇条の御誓文において「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」が新政府の基本方針の一つとなり、人民の権利を確保して不公平を無くすこと、各地方の法制度を統一し、不便を無くし社会基盤を整備することが意識された[161]。江藤新平、大隈重信、清浦奎吾らが強調したように、法典による国内法統一は当時かなり重視された要素であった(星野)[162]。
外的要因[編集]
日本が法典編纂を急いだのは、不平等条約を背景にした一部外国人の行状が国民感情を悪化させており[164]、一日も早い条約改正は悲願だったが、治外法権撤去には泰西(西洋)の主義(ウェスタンプリンシプル)に基づく諸法典の制定が必要条件として要求されたからである[165](#井上馨の法典編纂事業)。
1871年(明治4年)の岩倉使節団以後、西洋法を範とする法典編纂の不可避という認識は広まりつつあった[166]。使節団員では後述のように渡辺洪基・山田顕義・田中不二麿・今村和郎・岡内重俊が断行派、平田東助が商法断行派。山口尚芳は裁判所を利用しづらい地方の実情を理由に商法延期派[史料 15]。伊藤博文は後述のように時期により態度が異なるが(#法典論争前哨戦、#法典論争政府内論戦)、仏法派・断行派の梅[167]、西園寺公望を一貫して重用[168]。
もっとも宮本小一[史料 16]、三浦安[史料 17]、金子堅太郎(英法派・明治憲法起草者)によると明確に意識されたのは井上馨が条約改正に取り組んだ明治13-15年頃である[169]。またボアソナードも指摘していたように、外国人に原則適用されない家族法は条約改正の必須条件ではない[170]。財産法などについても明治21-22年の大隈重信の条約改正案では泰西主義条項は撤廃され、日本独自の法典編纂が認められていた(米・露・独が調印)[171]。憲法典については、条約改正の一要件だったとする理解[172]と、西洋から期待され求められた形跡は無いとする理解[173]がある。内外どちらに重きを置くかは早くから争われ(#法典論争前哨戦)、条約改正のみを法典編纂の目的とする理解には断行派[174]、延期派[175]ともに批判している。
仏法導入の歴史的経緯[編集]
1858年(安政5年)、米・露・蘭・英・仏との間で、列強の軍事力を背景に関税自主権放棄と治外法権の不平等規定を含む安政五カ国条約締結[177]。以後も西洋諸国と類似の条約を締結。
1862年(文久2年)、幕府はオランダに津田真道・西周を派遣、西洋法への関心が高まる[178]。津田は「民法」の訳語の創始者[179]。民法典論争では延期派[180]。
1867年、ポルトガル王国民法典公布。仏法系だがオランダ民法(1829年)、イタリア民法(1865年)に比べ独自規定が増加[181]。
同年(慶応3年)2月、フランス(第二帝政)の援助を頼みとする幕府は、パリ万国博覧会に徳川昭武、箕作麟祥らを派遣[182]。この時迅速な裁判を目にした外国奉行の栗本鋤雲によって、儒教的な聖賢の道に通じるとしてナポレオン五法典が高く評価され(『論語』顔淵第12、『大学』第2章4の句)、翻訳が計画されていたことが1869年(明治2年)出版の『暁窓追録[史料 18]』で明らかにされており、明治政府にも影響を与えた[183]。ただしそのまま日本に適用することの不可が指摘されている[184]。なお後に養子の栗本貞次郎によって民法の注釈書[史料 19]が翻訳された[185]。
1869年(明治2年)、維新政府は箕作に仏国法典の翻訳を命じた[186]。
仏法導入の理由[編集]
明治政府がまず仏法に依ろうとしたのは、
- 特にその刑法・民法が世界的に模範法典とされていたから自然だった(箕作[187]、牧野英一[188])
- ナポレオン1世への崇敬を通じて、フランスを兵制・法制の模範とする江戸時代からの動きがあった[189]
- 仏法が中核とする自然法思想が、旧弊を脱し新しい時代を創ろうとする日本人の思想に合致した[190]
- ほかに選択肢が無かったうえ、当時は日本の国民性に最も類似するのはフランスというのが国内外の共通認識だった[191](#その他の説明)
- ナポレオン3世の親日政策がフランス文化への関心憧憬に拍車を掛けた(星野)[192]
- 先進的なフランスのブルジョワ法制を継受することで、日本資本主義の封建的障害を打破しようとした(平野)[193]
- 仏法輸入=進歩的とする平野らの説は妥当でなく、法典の進歩性ではなく、中央集権的画一性が評価された(遠山茂樹)[194]
などの説明がある。
旧民法以前の編纂事業[編集]
ボアソナードの前に法典編纂の中心となったのは、江藤新平と箕作麟祥である[195]。
この時期の史料には矛盾や不明点が多い[196]が、主要な民法草案として、
- 明治4年頃の制度局『民法決議[史料 20]』
- 明治5年司法省明法寮『皇国民法仮規則』
- 明治6年3月司法省『民法仮法則』
- 同年後半左院『民法各規則草案』
- 明治10・11年成立の司法省『民法草案』
があり、前三者が江藤の法典編纂事業の産物である[197](前二者は星野文献から脱漏[198])。
学習的要素が強く、法典よりも単行法の基礎になった[199]。
法典制定前の民法[編集]
当時の日本が無法状態だったわけではなく、大政奉還後も裁判所は幕府や各藩の法を暫定適用[200]。以後様々な法令が制定・改正されており、一部は民法典や特別法にも継承された[201]。成文法が無い場合は慣習により、慣習も無い場合は条理に依る(明治8年太政官布告第103号裁判事務心得3条)[202]。
民法施行前にはどうして裁判をして居ったか…私も大学を出てすぐ4年間裁判所に居った経験から観ても、所謂裁判法・判例法と云ふものが自づから在った。…前に判決例がなければ斯うであるべきだと云った考へで裁判をしたものです。…英法又は仏法の思想かと云ふと必ずしもさうではない…自から裁判所の考方と云ふものがあった。尤も大体にはフランス法の思想が行はれたと思ふのです。それは司法省の法学校を出た連中が相当に裁判所に入って居たからでしゃう。世の中が幼稚で…難しい問題は起らぬと言って良い位ですから夫 で済んだのです。只人事上の問題に就ては従来の慣例があるからそれに依って居った[202]。 — 仁井田益太郎(明治民法起草補助委員)「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」1938年(昭和13年)
つまりあくまで副次的ではあるが、仏民法典(財産法)はほとんど事実上の日本現行法だったのである[203]。
英法習得者の多くは免許代言人になり裁判官は少数派だった上、上級裁判所では合議制だったため、裁判所内部では英法と仏法の抵触はさほど問題にならなかったとの推測[204]もあるが、非法典時代の裁判実務を悲観視する立場からは法典断行論に結び付くことになる[205]。
江藤新平制度局時代[編集]
1869年(明治2年)、副島種臣(法典論争中立派?[史料 21])が『新律綱領』(刑法)の編纂開始。同時期に箕作に仏刑法典の翻訳を命じている[207]。新律綱領は法典論争院内論戦でも言及がある[史料 22]。
9月、明治政府の脆弱を背景に、オーストリア=ハンガリー帝国との間で安政の条約よりさらに不平等な通商条約締結[208]、治外法権が確立[209]。列強も最恵国待遇を受け、日本の法律は外国人は守る義務が無いとの見解さえ採られ[210]、麻薬の密輸や密猟に伴う殺人すら処罰できない有様であった[211]。
1870年(明治3年)、太政官の制度取調局で民法編纂会議が開催された。会長は江藤。局員の津田真道、加藤弘之(独法派[212]・延期派[213])、田中不二麿(断行派[214])、副島種臣・森有礼・福羽美静らがそのまま参画した[215]のではなく、津田・田中・副島・森の不参加と、渋沢栄一・水本成美らの参加が判明している(小早川欣吾)[216]。
方針は「我国に行ひ難き条項を除き」箕作に翻訳させた仏民法典をそのまま日本民法にしようというものであった[217]。
実に五里霧中で、翻訳をして居る中に、明治新政府は、頻に開明に進み、其翌年、明治3年には、太政官の制度局と云ふ所に其時、江藤新平…が中弁をやって居りましたが、民法を、2枚か3枚訳すと、すぐ、それを会議にかけると云ふありさまでありました。これは変は変だが、先づ、日本で、民法編纂会の始まりました元祖でございます、(喝采) 其時分「ドロワ、シビル」と云ふ字を、私が民権と訳しました所が、民に権があると云ふのは、何の事だ、と云ふやうな議論がありまして…幸に、会長江藤氏が弁明してくれて、やっと済んだ位でありました[218]。 — 箕作麟祥、明治法律学校始業式演説、1887年(明治20年)9月15日
「民権」に反発したのは国学者の福羽と推測され(星野)[215]、民に権利があるとは思いもしなかった日本の後進性を表すエピソードだとの見解(平野)[219]と、仏語のdroits civilの訳語は自由民権運動にいうような「民権」ではなく「私権」(旧民法人事編1条、明治民法1条)が適当であり、実際誤訳だったとの見解(石井)[220]がある。
民法決議8条
- 国人戸籍に連なりたる者
たる者は悉く民権を有すことを得べし17条を参考すべし
仏民法7条(谷口知平訳)
西洋法律用語の訳語の無い時代であり、難儀した箕作は留学を願い出たが政府は許可せず、仏人法学者ジョルジュ・ブスケを招聘して援助させた(ボアソナードと混同する文献があるが誤り)[222]。
9月、普仏戦争に敗れたナポレオン3世が退位しフランス第三共和政開始。
民法決議[編集]
1871年(明治4年)頃、制度局において『民法決議第一』(全80条、1944年(昭和19年)に石井良助発掘)と、『民法決議第二』(全108条、1959年(昭和34年)に利谷信義発掘)から成る『民法決議』が成立[224]。
仏民法典はナポレオンの軍事体制を背景に軍人の身分に詳細な規定を置いていた[225]が、国外在住の兵士についての規定はさすがに採用されず、華族についての規定も若干あり、江藤が文字通りそのまま仏民法を直輸入しようとしたというのは不正確である(石井)[220]。
そのほか1965年(昭和40年)に手塚豊が発掘した『御国民法』は『民法決議』の修正版と推測される[226]。
戸籍法との衝突[編集]
仏民法典の冒頭主要部分は、日本では戸籍法、ドイツでは身分証書法による別法律で制定されており[227]、『民法決議』も後世の目から見るときは民法というより戸籍法草案の性格が濃厚であった[228]。
ところがこの身分証書は、教会の身分統制の独占に対するアンチテーゼを背景に、個人を基本単位に出生・婚姻・死亡を別々に登録するもので、日本では歴史的根拠が無く、実務上も不便であった[229]。
1871年(明治4年)4月、民部省(民部大輔大木喬任、断行派)が作成した戸籍法が公布される[230]。「戸」すなわち現実の世帯を基本単位として、住所地を同じくする人々の身分関係を一括して記載するものである[231]。
日本固有法である戸主権は、江戸時代以前の旧慣や民法典制定ではなく、この法で初めて成立したと解する論者もいる(福島、利谷)[232]。
講座派マルクス主義からは、戸籍法の制定は「封建的政治を全国的規模で継承せんとしたもの」と評されるが(平野)、あくまで全国の戸口調査、浮浪人取締による治安の回復・維持が目的だったとの批判がある(松本)[233]。
プロイセンの台頭[編集]
5月、普仏戦争終結。日本が戦勝国のプロイセン王国に着目する契機になったが、独語習得者の人材難に加えて国情・国民性の差異が大きいとみられ、フランスを制度や学問の模範国とする方針の変更に至らなかった。もっとも国民の慢心が敗因とみられたため、風俗までは学ぶべきでないと考えられるようになった[234]。仏・普両国を視察し後者の教育制度の充実が勝因とみて高く評価したのは田中不二麿だったが[235]、法典論争では断行派(#民法典論争院内戦)。
同戦争を勘案してなおあえて留学した大山巌(旧民法公布署名者[236])に代表されるように、強兵の小国とみてスイスを模範国の一つとするのが明治の日本人の特徴であった[237]。
なお幕府の蕃書調所でも蘭語に加えて英・仏・独・露語の科目があったが[238]、1881年(明治14年)に獨逸学協会が設立されるまで独語を解する日本人は極めて稀であった[239]。
江藤新平左院時代[編集]
7月、廃藩置県。1885年(明治18年)の内閣制まで存続する太政官制が確立。江藤の建議により、立法機関として左院設置。江藤は副議長(実質議長)[240]。
8月、制度局を吸収合併。江藤時代の左院は短期で民法典編纂の成果は不明[241]。
同年、楠田英世が提唱し、後藤象二郎(断行派[242])や江藤、山内容堂らの賛同を得て、司法省内に法学研究考査の目的で明法寮設置[243]。後の司法省法学校、東大法学部仏法科[244]。
磯部四郎・熊野敏三・井上正一・栗塚省吾・岸本辰雄・宮城浩蔵(以上断行派[245])、木下広次(延期派[246]、後の京大創立者)、関口豊・小倉久・加太邦憲が大学南校(後の開成学校、東大)から転学[247]。
なお明法寮を明治5年創立とする文献[248]もあるが、仁井田益太郎の調べでは明治4年9月太政官布告による[244]。
江藤新平司法省時代[編集]
1872年(明治5年)4月、江藤が司法卿になると民法編纂事業は司法省に移管。顧問はブスケとアルベール・シャルル・デュ・ブスケ(ジブスケ)[249]。
江藤の基本方針[編集]
明治5年に、江藤新平が司法卿でやって来て…西洋と日本とは風俗も違ひ、慣習も違ふけれども、日本に民法と云ふものがある方がよいか、無い方がよいかと云へば、それはあるに如かずと云ふ論で、それから仏蘭西民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい[250]。 — 磯部四郎
南白の転じて司法卿と為るや、初めて組織ある法典編纂局を設けて五法の編纂を完成せんことを期したりき。…箕作に命じて訴訟法、商法、治罪法等を翻訳せしめたり。而して箕作少しく翻訳に難んずるや、南白之を促して曰く「誤訳も亦妨げず、唯速訳せよ」と。箕作は南白の命に依り、拙速主義を以て翻訳に従事せしが故に、其の翻訳稿中、往々誤訳あるを免れざりき。而も南白は此の訳稿を基礎として、急に日本の民法を制定せんとて、先づ『身分証書』の部を印刷に附したりき[251]。 — 的野半介『江藤南白 下』
この「誤訳もまた妨げず、ただ速訳せよ」発言は、穂積陳重『法窓夜話』に引用されたことから人口に膾炙したが(61話)、磯部証言ではなく情報源不明の的野の伝聞に依るもので、信憑性は疑問視[252]もされる。
司法卿時代の江藤は、仏法は「天理人道[253]」に基づき、国情の異なる日本でも実施に支障無しとのブスケからの回答を得て初めて編纂に着手しており、制度局時代に比べ若干慎重であった[254]。
皇国民法仮規則[編集]
8月、中国法系に加え、欧州各国法を斟酌した刑法典『改定律例』成立[255]。
10月、司法省明法寮で、確認される限り二度の改訂を経て『皇国民法仮規則』が成立[256]。2085条(欠番あり実質全1185条)で終わる大法典であり、日本最初の本格的民法草案と考えられる[257]。
原案起草者はブスケだったとする証言もあるが(楠田)、2月に来日して10月に草案を完成するのは非現実的なため真相は不明[258]。楠田ら明法寮と左院の合作とする推測[259]もある。
財産法はほぼ仏民法典の模倣だが家族法では取捨選択し、家督につき長子相続を採用[260]。
相続制の衝突[編集]
相続制については、封建制を捨て郡県制に移行した以上仏法流の分割相続制を徹底して経済発展を図るべきとするブスケと、富国強兵により諸外国に対抗するには資本の集積を行わねばならず、日本の国力では採りえないとする江藤の主張が対立していた[262](ただし江藤は家父長制に批判的[263])。
もっとも単独相続制といっても全ての場合に跡嗣ぎ以外の取り分が無いわけではなく、実質は特権的相続制と称すべきものである[264]。日本固有法の家督相続と西洋法の遺産相続の折衷・二元主義は民法典論争でも論点になったが(#相続の性質)、明治民法#相続法でも継続。
旧民法財産取得編286条
- 相続に二種あり家督相続及び遺産相続是なり
取287条
- 家督相続とは戸主の死亡又は隠居に因る相続を謂う
取288条
- 1.家督相続を為すは一家一人に限る
取312条
- 遺産相続とは家族の死亡に因る相続を謂う
ボアソナードによれば、ユダヤ・キリスト・イスラム教圏の長子権は古くは旧約聖書に由来し、キリスト教以前の古代ギリシャ・ローマでは男子は平等分割、一方北部フランスに侵入したゲルマン人(フランク人)には長男子権が有ったと推測されるが、封建制の庶民は柔軟な相続形態を採っていた[265]。
「 | その子たちに自分の財産を継がせる時、気にいらない女の産んだ長子をさしおいて、愛する女の産んだ子を長子とすることはできない。 必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。 | 」 |
日本には既に封建制維持の必要性も確たる宗教的理由も無いから、長子相続制維持の理由は無いことになる[267](#郡県制から封建制へ)。
ところが1860年代のフランスでも、遺言者本人の意思を重視する遺言自由主義の立場が台頭、平等の観点から均分相続制を維持徹底すべきという立場との論争が起こっていた[268]。
小土地所有者増加により農業生産が増加した地域もある一方で、商工業にも集約農業にも適さない南仏山岳地域では分割相続の弊害が深刻であった[270]。
仏民法は1906年以降、現物による平等分割を避ける方向に転換[271]。家督相続を廃止した戦後の日本でも農地につき特別法で対処しているが[272]、遺留分に対する零細農の過大な負担という農政上の難問は残る[273]。実態は農地継承者以外の相続放棄が多く、平等の理想は貫徹されていない[274]。フランスにも類似の問題がある[275]。
法治主義との衝突[編集]
極端な法治主義は「人間不信[278]」の裏返しである。仏民法典は、裁判の迅速・画一性の反面、契約の解除(1184条)・無効(1304条)に裁判所の判決を要し、弁済の提供にすら公証人などの関与を要する(1258条7号[史料 23])などの特殊性があり、特に協議離婚制度[史料 24]は、後継者問題を抱えつつ王朝の創始を目論むナポレオンの事情と、離婚の絶対的禁止を主張するカトリック勢力の妥協の産物として庶民には到底利用しがたいものだったから(#キリスト教の家族観)、特殊仏法的要素を削ぎ落とすことは早くから意識されざるをえなかった[279]。
政府の法律万能論に反発した渋沢栄一は大蔵省を退職[280]。商法典論争では延期派[281]。
民法仮法則[編集]
江藤は皇国民法仮規則にも満足せず、民法編纂会議を明法寮から司法省本省へ移管。1873年(明治6年)1月、江藤が司法卿を辞任[282]。
3月、戸籍法に代わるべくブスケも参与して『民法仮法則』が完成[283]。箕作は通訳[284]。婚姻に必ず父母の同意と媒酌人を要求するなど(46・49条)、僅かながら独自色もある[285]。
同月、壬申戸籍が完成。戸主が家族の身分変動を届け出るとされた[286]。
最終的には主催者を失って自然消滅したとも(星野)[287]、参議に転身した江藤が法典起草権を取り上げたことで司法省の法典編纂事業は頓挫した[288]ともみられている。
江藤の功罪[編集]
江藤の拙速主義は、ついにブスケからも批判された。
法律というものは、ある土地から他の土地へ移植されるものではない。法律は、すでに生まれている要望…本能…習俗に、正確に答えるという条件においてのみ、永続もし効果もあるものなのだ。…日本の大臣たちは…フランス法典こそがすぐれて文明諸国民の法律であるように思われ…翻訳し公布すること以外にはとるべき道をほとんど認めていなかったのである。…私は間もなく…性急な仕事の空しさを認識…するようになった…革命的なやり方では…国民を結合させずに…途方に暮れさせるだけである。…この企ては、一言で言うなら、熟していず、それには長い忍耐強い準備を必要とする[289]。 — ジョルジュ・ブスケ
津田も「江藤は太閤秀吉の尾張城普請の様に一夜で日本五法を作り上げようとしたが…到底できるものではない。私にもやれと言ふたが、私は出来ぬと断った[290]」と証言している。
仮りに仏国の五法に何等の修正を加へずして我帝国に之を実施するとした所で、元来法律と云ふものは独りで運用して行くものではない…どんなに立派な法律が布かれても之を施行することに付て巧みなる所の判官が居なくてはいけないが、司法卿は何処から其判官を御連れなさる積りであるか[291]。 — 津田真道
津田の批判を是としつつも、江藤が外国法調査を鋭意率先したからこそ法典編纂に資したとの評価もある(穂積陳重)[292]。
井上毅の仏民法批判[編集]
1872年(明治5年)4月、江藤は欧米の司法制度の視察を希望、政府の辞令を得たが、多忙のため随員のみの派遣を決断[293]。
出立前には次のように訓示。
諸君洋行の要は、各国の…長を採りて短を捨つるに在り。徒 に各国文明の状態を学びて、悉く之を我国に輸入するを趣旨とすべきにあらず…之を観察批評するの精神を以てせざるべからず。…悉く彼に心酔して其欠点を看過せずんば…却て国家を毒するに至るべし[294]。 — 江藤新平
1873年(明治6年)、パリでボアソナードに憲法・刑法の講義を受けた官僚の内、ボアソナードいわく通訳無しで講義を理解できたのが井上毅、名村泰蔵、今村和郎である[295]。
ベルリンにも旅行して法学研究に努めた井上は、仏刑事法の導入に支障は少ないが、仏民法典は中央集権に過ぎ地方慣習への配慮を欠く、整備された裁判制度はかえって公証人などの特権階級化・訴訟費用の高騰を招き庶民の怨嗟の的になっているとの報告書を日本に送った。「民心安堵[296]」のために民法典編纂を急いだ江藤と、人民の利益のために反対した井上は、一見相反するようで根底で共通していたとも考えられる(坂井雄吉)[297]。
この時井上が着目したのはプロイセンではなく、あくまで領邦の多様性を内包した連邦国家としてのドイツであり(#ドイツ法学の理論状況)、国情・国民性が大きく異なると当時考えられたプロイセンの法典を模範法に考えたというのは後世の誤解だとの主張がある(山室信一)[298]。またドイツ一辺倒ではなく、行政は仏国流の中央集権を支持している[299]。
井上はその後も終生ボアソナードと強い絆で結ばれていたが(#民法典論争後日談)、法典論争では延期派[300]。論文は1890年(明治23年)の「法律ハ道理ニ対シテ不完全ナルノ説」「民法初稿第三百七十三条ニ対スル意見」[301]がある(星野の著書では言及無し)。名村・今村は断行派[59]、ただし名村は明治民法に反対(#帝国議会の批判)。
左院の法典編纂事業[編集]
左院では、明治六年政変により江藤が下野した後も『皇国民法仮規則』を再検討、同年後半から翌年にかけて、家族法につき『左院民法草案』が成立。新副議長伊地知正治を中心に、日本固有法を基礎に仏法を斟酌した結果、戸主による統率や家督相続制など、明治の全時代を通じて最も家族主義の強い草案になった[302](1946年(昭和21年)に石井良助により復刻[303])。
ただし婚姻や戸主以外の死亡時の遺産相続など、分野によってはもっぱら仏法準拠の上、左院の憲法草案は西洋法の模倣に過ぎるとして廃棄された側面がある[304]。
木戸孝允の仏法批判[編集]
岩倉使節団で欧州の現実を目にして漸進主義に転じた木戸孝允は、左院や司法省が当のフランスですら問題視する法典を範に編纂を急ぐことを批判[305]。
大木喬任の法典編纂事業[編集]
1873年(明治6年)、大木喬任が司法卿に就任。省内部にも江藤の強引な民法編纂への反発があり、大木も慎重派の性格だったことや、箕作および来日直後のボアソナードが台湾出兵の後始末に追われたことから、司法省の民法編纂事業は約2年停滞[306]。
台湾問題につき国際法の知見を活かしたボアソナードの貢献は著しく、明治天皇からも賞され、一介のお雇い外国人とは一線を画するようになる[307]。磯部が法律界の「團十郎[308]」に例えたほど、彼の言は権威を持った[309]。
英仏両派の形成[編集]
1874年(明治7年)、ボアソナードが刑法・治罪法起草を依頼される[310]。また明法寮の後身司法省法学校(後の東大法学部仏法科)において、物権法・債権法・刑法・行政法の講義を開始。商法・家族法は日本滞在歴の長いブスケが担当[311]。
同年、開成学校(後の東大法学部英法科)で英法学の講義開始[312]。ただし仏語・仏法も2、3年次に教授されることが当初から決まっていた[313]。
英法導入の理由[編集]
- 大学南校および後身の開成学校の中心人物フルベッキの影響に依るもの(星野)[314]
- 当時の大英帝国が世界最多の人口を支配しており、東アジアに占める政治・通商上の地位を無視しえなかった(牧野英一)[315]
- 明治政府は、帝国大学で学ぶ未来の官僚群に英法(後に独法)を教えることによって、仏法学のブルジョワ自由主義に対抗できると考えた(松本、宮川澄)[316]
などの説明がある。
立憲主義の形成[編集]
1869年(明治2年)に岩倉具視が『政体論』を著した時、君主の個人的資質に依存する絶対君主制ではなく、為政者の恣意を予防する政治制度が遠想されていた[317]。
1875年(明治8年)3月、井上毅は西洋法継受による諸法典編纂を提言[166]。
4月、木戸らの大阪会議を受けて、漸次立憲体制へ移行する詔勅が出る。元老院および地方官会議を置き国会開設を準備、大審院の設置、参議と各省卿を分離して天皇への輔弼責任と行政事務を分離など、近代的な三権分立体制を確立する基本方針が決定され、法典整備もその一環になる[318]。
左院は廃止され、法典編纂は司法省管轄になる[166]。
戸主の家族統制[編集]
12月、当事者の合意があっても戸籍に登録しない身分変動は無効とされ(太政官第209号達)、届出権を持つ戸主による家族統制が強化される[319]。
ただし戸主は絶対的な権力者ではなく、家族団体のために働くことを要求され、浪費などにより家の利益を害するときは地位を追われ(廃戸主)、全財産をも失う弱い存在である[320](#団体主義と個人主義、#中田説参照)。
社会倫理の混乱[編集]
1876年(明治9年)2月には、徳川家光家臣土井大炊頭に大判小判を預けたという古証文を譲り受けた代言人(弁護士の前身)が土井利興に返還請求の訴えを提起する珍事件が起こり(2月14日横浜毎日新聞)、これを機に債務者の承諾の無い債権譲渡を無効とする法律が成立(明治9年7月太政官布告)、世論も支持した。後に旧民法がこれを変えたことは、延期論の理由の一つとなった[322]。
この頃官民を問わず、悪質な代言人や商人・高利貸しに対する強い反感があり、月5~8分という「古今未曾有万国に其例なき」高利の横行を受け(細川潤次郎元老院議官発言)、翌年には利息制限法が成立[322]。
1877年(明治10年)1月、不平等条約により関税収入を得られず、財政難に苦しむ政府が過度の地租負担を農民に課したことを背景に(ビンガム)、西南戦争が勃発[323]。前年の陸軍恩給令はフランス恩給法を模倣したもので、戦死者の父母は対象外とされており世の非難を浴びたが、陸軍卿山縣有朋(断行派)は西洋がそうだからというだけの理由で改正論を却下(6年後に元老院で改正)、抗議して切腹する者まで現れるなど遺恨を残した。後に民法典論争で延期派が蒸し返し、貴族院では谷干城[史料 25]、衆議院では安部井磐根[324]が西洋追従・民情無視の例として槍玉に挙げている。
3月、ブスケ帰国[325]。
諸法典の編纂[編集]
司法卿の大木喬任は、司法省に5局22課を置き、民法・刑法・治罪法・商法・(民事)訴訟法の編纂に着手。1876年(明治9年)から翌年7月までの間にボアソナードが刑法原案を起草、治罪法も1878年(明治11年)末までの間に起草し、ほぼ完成[326]。
ボアソナードは厳罰主義の仏刑法典[史料 26]に批判的だったため、ベルギー、ドイツ、イタリア刑法なども参照され、鶴田皓ら日本人委員の努力もあり、西洋法理と日本社会の調和が図られた[327]。一方当時の仏治罪法典は、革命の反動法の性格強烈な国家主導型(糾問主義)の法典だと英米の法学者から批判されていた原始規定が改正により穏健化したもので、母法とするのに支障は無かった[328]。後に延期派の山田喜之助がこれを捉え、当の仏国でさえ法典が変遷するのに、仏法派・断行派が時と場所を越えた万国共通の法理を安易にいうのはおかしいと主張している[329]。
1877年(明治10年)、太政官に刑法草案審査局(総裁伊藤博文)を設置して草案を修正、ボアソナード独自説の立法化を回避[330]。1880年(明治13年)には元老院の審査に付され、激論の末妾規定や官吏讒毀罪を削除[331]、法律上の一夫一婦制が確立[332]。法典論争延期派の村田保を妾公認主義であり典型的な保守派とみる論者もいるが(松本)[333]、ここでは伊藤・大木とともに廃妾論者の主力であった[334]。後には皇室に対する罪をも含む死刑全面廃止論を主張している(第16帝国議会)[335]。
一方、商法起草は1876年(明治9年)にオランダ人に委嘱、アダム・ラパール(Adam Rappard)がこれに当たるとみられるが(高田晴仁)[336]、イタリア商法典のオランダ語訳を作った程度で、起用は失敗した[337]。
明治11年民法草案[編集]
民法については、司法省の機構を再編し、箕作麟祥・牟田口通照に編纂させた[338]。
明治9年になりまして大木君が司法卿になられました。そのとき民法草案を編纂してみるがいいと云ふことで一人の相手と粗末ながら草案を作りましたが其れも其の儘 になりました。併し今日から見れば其の儘になりましたのが幸ひで有って若 し其れが行はれたら其れこそ大変でありませう[339]。 — 箕作麟祥、1887年(明治20年)
実際に大木が司法卿になったのは明治6年のため、講演の速記録であることも踏まえ、「明治9年」は草案開始時期を述べたものとも推測される[340]。
大木は各地(主に農村[341])の民事慣例を調査させ、1877年(明治10年)5月『民事慣例類集[史料 27]』が成立[342]。
9月、箕作・牟田口の民法草案の一部が上程され、翌年4月に完成[343](1937年(昭和12年)に星野が発掘[344])。明治11年草案[345]、明治10-11年民法草案[346]、箕作牟田口草案などと呼称され、日本初の全編完成民法典法案であるが[343]、誤訳や省略を含む仏民法典のほぼ引き写しに過ぎず、箕作も認めたように、実際の施行に耐えない完成度の低さであった[347]。もっとも「実施など思ひもよらない恐るべき不完全翻訳法典[348]」との酷評がある一方で(星野)、一部の論者は廃棄されたのは近代市民法の影響が強い進歩的草案だったからだと主張している(井ヶ田良治)[349]。独自規定は188条の「妻は其夫の姓を用ふ可し」の夫婦同氏規定が知られる[350](皇国民法仮規則40条[351]、および当時の仏法・オランダ民法は氏名不変原則による夫婦別氏[史料 28])。
なお後に箕作は西洋礼賛を戒め、特に民法人事編における日本慣習との適切な調和の要を説いている(明治20年明治法律学校始業式)[352][史料 29]。
11月、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺される。ボアソナードは前述の台湾出兵以来大久保の信を得ており、有力な庇護者を失ったことは法典論争に向けて不利な材料となった[353]。
同年には駐独公使青木周蔵の周旋によりドイツ人国家学者ヘルマン・ロエスレルが外務省の公法顧問として来日[337]。後に憲法典成立にも貢献した[354]。
家族法分離論[編集]
1878年(明治11年)6月、モンテネグロ公国一般財産法典を起草中のロシア人法学者ヴァルタザール・ボギシッチと松方正義(断行派[355])がパリで会見、仏民法典の全面継受に反対し、親族・相続法は民法典から分離すべきとの主張は直接には採用されなかったが、その日本人起草に反映した可能性がある[356]。
この主義は、その後の欧州やイスラム教国にも支持するものがある。もっとも農業国かつ部族社会だったため、南スラヴ人伝統の家父長制・大家族制(ザドルガ)に基づく家族共同体を社会の基本単位に据え、それに基づく若干の家族法規定を置いている[358]。
後世では、民法典で規制される家族生活の範囲を最小限にすべきというのがまさに延期論の中核だったとの理解[359]が主張される一方で(#親族法法典化の是非)、家族法を含むことは仏独両民法典がそうであるため新旧両民法の起草者に当然視され全く問題にされていないと主張[360]する法学者もいる。
なお結局民法典から外されていない上、明治初期の時点で既に親族法は日本の旧慣を反映して制定すべきという考え方は当然に存在したと理解する立場からは(#江藤新平司法省時代)、日本政府が自説を採用したというボギシッチ本人の主張にもかかわらず旧民法への影響は疑問視もされる[361]。相続法は#家族法の起草方針参照。
大木喬任の旧民法編纂事業[編集]
1879年(明治12年)1月、民法会議で11年草案を修正すべきと決定されたが、結局使い物にならないと結論された[362]。
2月、パリ大学で法学士を取得した磯部四郎が帰国[363]。6月には司法省修補課委員として刑事裁判に代言人を許すべしとの意見書を提出するも、大木や山田顕義司法大輔らは拒否。にもかかわらず翌年の治罪法で刑事弁護制が規定されたのは、司法省に極端な外国人崇拝・日本人軽視の風潮があったためと評される(穂積陳重)[364]。
9月、井上馨が外務卿に就任[365]。
1879年(明治12年)2月、梅謙次郎が東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業。司法省法学校に入学し、ジョルジュ・アペールに仏法を学ぶ(ボアソナードではない)。同期(二期生)は寺尾亨・飯田宏作(以上断行派[366])、田部芳・富谷鉎太郎・河村譲三郎など[367]。
編纂開始[編集]
大木は、外国の立法・学説を参酌して最も整った新法典を制定したいと考え、刑法・治罪法の起草を終えたボアソナードに草案起草を依頼した[368]。
委嘱の経緯・時期は史料が少なく、当事者の記憶違いを推測して明治13年説[369]もあるが、12年説[370]が通説である。
概ね明治13年から15年の間に財産法一次案ができ、明治20年までの間に修正・完成されたと考えられる[371]。
民法草案の構成[編集]
原型であるローマ法大全の『法学提要』(Institutiones)の構成は、
- 第1編、人事
- 第2編、財産
- 第3編、訴訟[372]
プロイセン一般ラント法(1794年)では公法が取り込まれる一方で訴訟法(1781年)が分離。
- 第1部、物の法(財産法)
- 第2部、人の法(親族法・公法)[373]
フランス民法典では不徹底ながら公法・訴訟法が分離し、
- 第1編、人事
- 第2編、財産
- 第3編、財産取得法
プロイセン法典を経て、仏民法典が確立した法典形式をインスティツティオーネ(インスチチュート[374])方式という[375]。
旧民法草案ではさらに細分化され[376]、
- 第1編、人事編(主に親族法)
- 第2編、財産編
- 第3編、財産取得編(相続法を含む)
- 第4編、債権担保編
- 第5編、証拠編
人事編を首部に置いたため、財産法のみを先行して成立させることは困難になった(村田)[377]。公布段階では編番号は外され、各編ごとに1条から起算する形式になっている[376]。なお「ボアソナードが編纂した」民法が「総則・物権・
明治民法ではパンデクテン方式を採用し、物権と債権、財産法と家族法の分離を明確化。
従来は相対立するものとみられていたが、プロイセン法典は起草者説明によると第1部自然法、第2部は修正原理としての社会法とみて原則・例外の関係に対置したもので、パンデクテン方式の萌芽とも考えられ[379]、また後者においても人・物・変動の体系を民法総則に維持しつつ、権利の主体につき親族、変動につき相続で細則を置くという意味で、前者の発展形態とみることができる[380]。
大木時代の起草体制[編集]
1880年(明治13年)4月、民法編纂局を置き、草案を検討[381]。この原案は、条文にボアソナードによる注釈を加えたものがProjet de code civil pour l'empire du Japonと題して仏文のまま出版されており(いわゆる『プロジェ』)、その後も二版、新版と版を重ねている[382]。
この中には誤訳のために内容的に逆転して旧民法に結実した例(財347条[史料 30])も指摘されており、研究には仏文の原案を重視すべきとの主張もある(池田真朗)[383]。
6月、大木の主導の下、民法編纂局が司法省から元老院(左院の後継)中に移設される。主な委員は、箕作麟祥・黒川誠一郎・磯部四郎・杉山孝敏・木村正辞など[384]。
7月、刑法・治罪法を公布(太政官布告36号)、1882年(明治15年)から施行[385]。福澤諭吉(延期派)の時事新報も、福島事件公判に際して両法を高く評価している[386]。また明治10年成立の『民事慣例類集』の補遺を追加整理した『全国民事慣例類集[史料 31]』が成立[342]。長子相続制(特権的相続制)が全国の農村に様々な形態で行われている実情が明らかになった[387]。
同年には山脇玄・平田東助によってローマ法学者ベルンハルト・ヴィントシャイトの著書の和訳が出版され、独法への注目を高めている[388]。
財産法の起草方針[編集]
ボアソナードの方針は[389]、
- フランス民法典(1804年)を基礎とし、欠点は判例学説を採用して修正する。
- イタリア王国民法典(1865年)[史料 32]にも従う。仏民法典の改良点が多いからである。
- 仏・伊両民法と異なる規定を置く場合は、理由を明示する。
- この独自規定は概して不評であり(#用益権、使用権・住居権、#法律取調委員会の旧民法批判)、仏法学への信頼をも損うことになった[390]。
- ベルギー民法の特別な規定(不動産譲渡登記と1851年抵当法による修正)は利用する。
- ドイツ民法典が完成すれば、参照する(起草中に完成せず)。
- 日本の「よき有益な旧慣」を保存する。
概して申しますと決して悪く出来て居ると云ふことは云はれない。さりながら…実質上に於ても或る慣習をば充分に取ていなかったと云を謗りを免れ難い点もあるであらうし、又学説に於ては…今日欧羅巴の学者が悪いと認めて居る学説が法典の上に現はれて居ると云ふことも稀にあるやうに見えます[394]。 — 梅謙次郎「法典ニ関スル述懐」1893年(明治26年)
家族法の起草方針[編集]
家族法部分(人事編と財産取得編の一部)は、固有の民族慣習を考慮するため日本人が起草すべきと考えられた[395](#家族法分離論)。もっとも、起草者らは個人主義の財産法との調和に意を払ったことから(#団体主義と個人主義)、原案段階ではかなり個人主義に寄った内容になっている[396]。
ボアソナードも、憲法・親族法は自然法ではなくもっぱら各国の事情を基礎とすべきとの立場だったが、相続法は財産法の延長と考えており、均分相続制が経済上有利であり、家産分割の弊害は会社の活用や賃貸借で経営を維持できると主張、財産法案中にもそれを予定する規定を設けたが、後に削除された[397](#相続法との衝突)。後世からは、そのような相続法論は理性万能論に過ぎ現実的でない、後に西ドイツやスイスなどで農地単独相続が再評価されたことも説明できないとの批判がある(我妻)[398]。
明治14年の政変[編集]
1881年、明治十四年の政変。ボアソナードは政府の諮問に応えて、大隈重信が主張するイギリス流の議院内閣制の採用は時期尚早と主張、政府の方針決定にも影響を与えた[399]。
政変後、フランスを参考に参事院(現内閣法制局)が設置され、民法編纂総裁が伊藤議長に代わる可能性があったが、元老院議官の水本成美や津田真道の働きかけにより、大木がその地位に止まった[400](商法・訴訟法からは撤退[401])。
その後、商法はロエスレルに(明治14年)、民訴法はヘルマン・テッヒョーに(明治17年)、裁判所構成法はオットー・ルードルフ(明治21年)に、いずれもドイツ人に起草が委嘱されたのを政変に起因する政府の方針転換の現れとする見方[402]があるが(#独法導入の理由)、ルードルフは急進的立場の戸主制全廃論者[403](#家族法第一草案)。ロエスレルも反ビスマルク・反ドイツの危険人物と目され、伊藤も承知していたが引き続き重用され、憲法草案をも起草したという側面がある[404]。また民訴法に関しては、テッヒョーが判事・検事として実務経験があり、自国法にも固執しない立場だから適任だったに過ぎない(染野義信)、あるいは仏民訴法典は民法と比べても革命の反動法の性格濃厚であり、ルイ14世時代の王令のほぼ焼き直しに過ぎないという悪評を伊藤が察知していたからだとする見方もある(鈴木正裕)[405]。
同時代人による説明では、ボアソナードの手が空いておらず、ほかにフランス人の適任もいなかったのみならず、仏法が古過ぎ、商法・訴訟法は最新の法律を模範にすべきとの趣旨からドイツ人に委託したとされる(志田鉀太郎、明治商法起草補助者)[406]。
仏法派も引き続き重用され、岸本辰雄・長谷川喬らは報告委員として商法編纂に参加[407]、磯部も民訴法の審議で重要な役割を果たした[408]。
旧商法編纂開始[編集]
1881年(明治14年)、太政官に商法編纂委員を置き、ロエスレルが草案起草を開始[409]。
純粋な法学者ではなく、日本の経済学教授に相当する彼が起草を担当したことは断行派の梅にも批判されたが、条約改正事業の一環として商法典編纂が位置付けられつつあったから、外務省顧問であり、商法の学識もある程度あった彼が前任者ラパールのリリーフとして起用される必然性があったと説明される(高田晴仁)[410]。
一部教育者は商法にもボアソナードが編纂に関与したと主張[411]するが、詳細不明。
自然法学の理論状況[編集]
同年1月に明治法律学校(仏法派・断行派)が創立されている[412]。自然法思想の支配的傾向は1887年(明治20年)頃まで続く[413]。
近世自然法論の二大潮流[編集]
1625年、オランダで長引く宗教戦争を背景に、グローティウスは主著『戦争と平和の法』で古代以来神学と密接した自然法の世俗化を主張[140]。
彼の影響を受けた学者中には暴君放伐論を主張した一派があり、フランス革命の理論的中核となる。君主の暴政は社会契約違反だから、反逆は人民の当然の権利という主旨である[414]。パリ大学のエミール・アコラスは、当時の法学者中例外的に急進共和主義者だったが、西園寺公望(仏法派・断行派、法典調査会副総裁)ら日本人留学生を通して法思想が日本に流入しており[415]、植木枝盛もこの系統[416](#日本の仏法派の家族観)。
一方、同じく自然法論および社会契約論を採る学者の中でも、イギリスのホッブズは国権の絶対化による人類の保全を主張、契約の絶対性を強調することで所有権および契約の自由を樹立、1804年のフランス民法典に結実した[414]。英米系の社会契約説に立ち封建制を批判しつつ、国権強化を説くのは福澤諭吉である[417]。
自然法や天賦人権説は共和制や反国家思想に当然には結び付かないが、ルソー流思想を採るときはアナキズムに陥ると警戒されることになる[49]。
自然法学の受容[編集]
仏民法典が基礎とした自然法思想は、日本でも、儒学を介して理解されることにより、キリスト教特有でない普遍的なものとして受容されていた[418]。
西周・津田真道や、井上操(仏法派・断行派[419]、関西法律学校創立者)が自然法と言わず「性法」と訳したのはその現れである[413]。
グローティウスの国際法論は孟子の性善説や王陽明と通じるものとして受容され[420]、天賦人権論も、自然法思想と儒教の天思想の混淆による独自の概念である[421](#天賦人権論論争)。司法省法学校の入学試験は論語ほかの漢学であり[422]、仏法派も当時の教養人の常として儒学の知識を有していた(#法典実施断行ノ意見)。
ボアソナードの自然法論[編集]
ボアソナードの法思想は政教分離の近世自然法論とは異なり、トマス・アクィナスのスコラ学を基盤とする宗教的自然法思想であった[423]。
もっとも、離婚の認容や死刑廃止論など伝統カトリックと異なる面も有していた[424]。仏教・儒教にも敵対せず、法典論争ではキリスト教やモンテスキューの法思想との共通性を指摘している[425]。
彼は、人間を全生物の長とするカトリック神学を背景に、人間は自然的に善であると考える[426]。つまり悲観主義のカール・マルクスに対比される、人間の善性を信じる楽天主義の立場にあり、アダム・スミスの流れを汲む自由主義経済の信奉者であった[427]。
1880年(明治13年)の官営事業民間払い下げ決定を受け、2年後には労働問題を見越して農商務省で工場条例(現労働基準法)制定に着手。明治政府が労働者の「悲惨状態の救世主」になろうとしたことは講座派マルクス主義からも高く評価[429]されるが(#風早説)、これに反対したのがボアソナードであった。
ボアソナード…氏の経済説は法律上の思想に於けるが如く第18世紀の臭味を帯び今日の経済学上既に陳腐に属する[430]。 …ボ氏は成年男子の労働に対して論じて曰はく…成年男子に対して労働の制限を設け特別の保護を与へるが如きは無用の干渉にして一個人の自由を妨害するの甚しきものにあらずや、寧ろ之を自由競争に任せ自然的の経済調和に委するに若かずと…個人に無限の自由を許し少しも制限する所なくむば是国家なきに等とし、是れルーソー類の理想的自然社会に立帰りたるものなり…自然の調和なるものは社会上経済上の地位…対等…の間に於てのみ之を見る可し、労働者と資本家企業家との間に於ては…絶対的の自由は結局実際の不自由を来すものと謂う可し[431]。 — 金井延「「ボアソナード」氏ノ経済論ヲ評ス」1891-92年(明治24-25年)
このために彼は延期派のみならず、後世の共産主義者からも激しく批判された[432]。
必ずしも普遍的とは言えない制度に自然法の名目を与えて固執する近世自然法論の弊を踏襲していたのである[434]。
延期派の胎動[編集]
1881年(明治14年)、穂積陳重が英独留学から帰国し東大教授に就任。この時点ではボアソナードや仏法学にも好意的であった[435]。
翌年、仏文の財産法草案(プロジェ)を検討[436]。
以後、江木衷や奥田義人が延期派の中核を担う[438]。三崎亀之助も院内論戦で活躍した(#衆議院)。
1882年(明治15年)、加藤弘之は『人権新説[史料 33]』を出版し、前年に絶版にしていた自著『国体新論[史料 34]』で採っていた天賦人権論を妄説として激しく批判[439]。
旧民法草案の一部完成[編集]
1882年(明治15年)には「条約改正予備会議」が発足、民法編纂事業にも影響を与えたと推測され、拙速主義を危惧したボアソナードの提案により草案が再検討される[440]。
家族法は編纂局中に日本人委員の主任(該当者不明[441])を定めて起草を開始したが、起草は難航した[442]。
1883年(明治16年)、参事院が刑法修正案を上申[443]。富井政章[444]、熊野敏三が留学先のフランスから帰国[445]。また英仏両派の協力により法律用語の日本語訳が整備されたことから、東大で最初の邦語での法学講義が開始[446]。
1885年(明治18年)3月、財産編および財産取得編(家族法以外)の草案が完成、内閣に提出される[447]。
家族法起草の継続[編集]
財産法二編完成を受けて元老院民法編纂局は廃止され、家族法起草は司法省で継続。起草委員は磯部四郎・高野真遜・熊野敏三、菊池武夫(英法派・延期派[246])・小松済治・今村信行、南部甕男、井上正一・光妙寺三郎(任命順)[448]。
井上馨の法典編纂事業[編集]
1885年(明治18年)8月、井上を委員長とする法律取調委員会が設置される。各法典の矛盾抵触が実際の適用に支障をきたすことを危惧した列強の要請を背景に、司法省は非公式な支援にまわった[449]。
委員は、ボアソナード、ロエスレル、ウィリアム・カークウッド(モンテーギュ・カークード)、ルードルフ、アルベルト・モッセらお雇い外国人や、西園寺公望・陸奥宗光・箕作麟祥、三好退蔵(断行派[史料 36]、慶應卒)、今村和郎・栗塚省吾・都築馨六など[450]。
法典論争前哨戦[編集]
1885年(明治18年)12月、初代第1次伊藤内閣が成立。外相井上馨、法相山田顕義。山田はときに司法省法学校に出席し、学生とともにボアソナードの仏法講義を受けていた[453]。日本法律学校創立者。同月には東京大学教員の梅謙次郎がフランス留学に出発[454]。
1886年(明治19年)9月、司法省に独法を高評価する勢力のあることが報道される(毎日新聞)。翌年9月には法科大学に独法部門が創設される[455]。
10月、ノルマントン号事件が起こり、領事裁判権への国民の反発が沸騰。
12月、元老院で財産法案の審議が行われたが、条約改正優位論への不信感が示されており[456]、以後一貫して慎重討議を希望した元老院は編纂過程に不満を募らせた[457]。
1887年(明治20年)3月、「泰西主義」に基く裁判所構成法・刑法・治罪法・民法・商法・民事訴訟法を完備し、条約批准交換後16か月以内に英訳正文を各国に「通知」すべきことが、正式の外交文書によって認めさせられた(後に撤回)[458]。列強の要求はさらにエスカレートし、真にウェスタンプリンシプルか列強の「査定」をも要するとされた[459]。
4月、法律取調委員会は諸法典を統一整理すべきと決議し、井上は草案議定中止を稟議、内閣も承認し、元老院の猛反発を押し切って民法二編を一旦廃棄[460]。批准後2年内の法典制定が要求されたため、井上は一事項に結論が出るまで会議を中止せず食事も出さない"兵糧攻め"をしてまで編纂を急がせた[461]。
ところが内地雑居・外国人判事受け入れを内容とする条約改正に対し、ボアソナードや谷干城らが反対運動を起こす[462]。
激怒した井上馨はボアソナードの解雇を主張[463]。
6月に欧州から帰国した谷農相は外国人におもねる法典編纂を主権の侵害と非難する意見書を政府に提出。また山田法相も「法典を泰西主義に拠り編纂することは、我国情に即応せず、且不測の変を生ずることを」おそれると慎重論を述べた(ボアソナードの強い影響が指摘される)。伊藤首相と井上外相は長文の意見書で反論、井上は「今日文明人民の所要に適[史料 37]」する近代法典の必要性を説き、伊藤も条約改正のための法典編纂ではないと主張[464]。
維新以来、新法を創施する、多くは欧米文明諸国の法律を取り之を取捨折衷して、我に適するものと為す…然るに我法律を改正するは、外人の歓心を買はしめんと欲するの致す所なりは、攘夷家も未だ云はざる所なり。…条約改正に基因して、外国法律家を傭入たるにあらざるは衆の知る所にして、明治4、5年以来、新政府の法律を…範を英仏に取る…は、今更蝶々を要せざるべし、今俄 に風俗習慣を殊にする…不都合を訴るは、死児の年を数ふるが如し。…建国以来の大事は、条約改正にあらずして…終に開国…に至りたるにあらずや…今や…国も…人民も…進みたるに相違なし。…然れども…欧米文明の基礎ある諸国と比肩せんとするには、前途尚遠し。…法律の人民に適切必用なるは、民法、商法、訴訟法等を以て第一とす。然るに…僅に刑法、治罪法を…実施したる而巳 。此法も…仏人ボアソナード…の起草したる法律に、聊 か変改を加へて発布したるものなり。論者、此法も…廃せんとするか…代ゆるに何等の良法我に適するものあるか[465]。 — 伊藤博文「谷将軍の条約改正意見を駁す」1887年(明治20年)
福澤諭吉の時事新報も国情を無視した法典編纂の強行を非難したが(6月20日社説)、政府の弾圧を受け発行停止にされた(内務大臣山縣有朋)[466]。
明治天皇は井上外交の支持者だった[467]が、外務省主導の編纂事業は井上外相の辞任により頓挫、成果は裁判所構成法草案の完成のみに止まった[468]。
ボアソナードの反対論は仏法派に理解されず、仏法派内部での信望を低下させた[469]。
伊藤博文の動揺[編集]
条約改正は一時中止が決まったが、明治初期以来の法典編纂を司法省で継続すべきと伊藤が主張し、渋る山田を説得[470]。
もっとも10月5日付け書簡では、財産法案はelabolate、商法案はcomplicatedに過ぎ、内容も学説理論の実験場のようであり「共に学問上の高尚論に流れ、日本の現況に不適当なる新工夫を提出したるの謗」を免れえないと批判、お雇い外国人の草案を放棄して、独自に「ナポレオン法を基礎とし、日本に適否を考慮し修正」すべきと主張している[471]。
なお伊藤は条約改正のため西洋法輸入を急ぐべきだが、最終的には日本の詳細な慣習研究に基づく法改正が望ましいと独自に準備しており、1909年(明治42年)に暗殺され途絶した[472]。
山田顕義の法典編纂事業[編集]
1887年(明治20年)10月21日、法律取調委員会は司法省に移管され、山田が委員長に就任[474]。
山田の基本方針[編集]
山田は、先に性急な法典編纂に反対したのと同一人物とは思えないような態度で委員会の運営にあたった[453]。
草案放棄は時間が無いことを理由に拒否[476]。財産法の残余、債権担保編・証拠編を引き続きボアソナードに、商法もロエスレルに継続させた[477]。
組織編成では、西洋法に精通するからこそ草案に異議を唱えそうな磯部ら若手法律家を報告委員に任じて議決権を与えないことで審議促進を図った(磯部)[478][史料 38]。
原案内容の変更は禁止され、1日15条ずつの議了、直訳調の法文にすることも要求されたが、それでもなお、草案の枠内手直しをする努力が行われた[479]。この修正にボアソナードは大いに不満であった[480]。
法律取調委員会の旧民法批判[編集]
旧民法の欠点は編纂当事者にも認識されていた。審議過程で財産法案の体裁・文体・内容(特に物権法分野)への異論が続出したにもかかわらず基本的枠組みは維持され、委員会の中に大きな不満を残した[481]。
特にフランスの少数説を立法論的に採用して賃借権を債権でなく物権としたことは深刻な論争を生み出し[482]、ボアソナードの元門下生たちでさえ批判的であった[483]。多くの日本人委員は、賃借権に対抗力を与えて賃借人を保護することに異論は無かったが、賃借権の譲渡・転貸・抵当権設定を可能にすることを不当な慣習無視と考えたのである[484](賃貸人が不測の損害を被る危険があるため)。
旧民法財産編134条[史料 39]
- 1.賃借人は賃貸借の期間を超えざるに於ては其賃借権を無償若しくは有償にて譲渡し又は其賃借物を転貸することを得
- 但し反対の慣習又は合意あるときは此限りに在らず
但書は妥協の産物である[485]。
仏法派委員の批判[編集]
栗塚省吾は、直訳・速訳の方針に反対し、日本語の文章として読みやすい法文にすべきと繰り返し主張[486]。
今村和郎は、報告委員組合は草案の用収権(用益権)規定[史料 40]を全廃すべき旨一致したことの説明として、日本には類似の慣習は絶えて久しく、実施の弊害が大きいと主張[487]。対象物の荒廃を招くというのである(#用益権、使用権・住居権)。
箕作麟祥ですら、山田の命を受けて松岡康毅とともに財産法案の内容的変更を含む『別調査民法草案』の起草に着手、一時は原案の全面廃棄が検討された[488]が法典速成が優先され、ボアソナード独自説の強引な立法化は後に「新法典ハ威力ヲ以テ学理ヲ強行ス」と批判される原因になった(#法典実施延期意見)[489]。
尾崎三良の批判[編集]
元老院議官兼任の尾崎三良は、財産法案が晦渋難解なこと、日本の実情に適さないこと、委員会による修正も小手先に過ぎないことを批判し、財産法の根本的修正が必要だとして、法典論争に先駆けて、伊藤博文や大隈重信らへ働き掛けていた[491]。ただし、家族制度強化には松岡とともに反対であった[492]。大審院長兼任の尾崎忠治とは別人(委員会の議事録では元老院の尾崎という意味で「元尾崎」表記[493])。
法律取調委員会の限界[編集]
民商両法典に多数の重複・抵触があることは山田委員長らにも認識されており議論は紛糾したが、保険法・海商法の商法への一本化を除き、両起草者への遠慮から放置された[494]。
旧民法家族法の起草者[編集]
磯部は自身と熊野の名しか挙げていないが、民法草案『理由書』から推定される起草者は以下の通り[395]。
- 第1編、人事[史料 41]
- 1章、私権の共有及び信用(熊野)
- 2章、国民分限(熊野)
- 3章、親属及び姻属(熊野)
- 4章、婚姻(熊野)
- 5章、離婚(熊野)
- 6章、親子の分限(熊野)
- 7章、縁組(光妙寺三郎)
- 11章、禁治産者(光妙寺)
- 12章、戸主及び家族(黒田綱彦)
- 13章、住所(熊野)
- 14章、失踪(熊野)
- 15章、身分証書(高野真遜)
- 第2編、財産獲得[史料 42]
- 13章、相続(磯部)
- 14章、包括名義に於ける生存者間の贈与及び委嘱贈遺(磯部)
- 15章、夫婦財産契約(井上正一)
ただし、完成した第一草案は報告委員合議の結果である。ほかの参加者は今村和郎・栗塚省吾・宮城浩蔵・本多康直・寺島直など(未確定)[495]。明治民法は法典調査会#民法起草体制に譲る。
旧民法家族法の参照法[編集]
財産法と異なり日本慣習を採り入れ、独自の体系で編纂すべく苦心されており(#家族法の起草方針)、外国法についても第一草案の編纂に際して『民法草案人事編九国対比[史料 43]』が作られている[496]。しかし主に仏・伊民法のほか、ベルギー民法草案が参照されたと説明[497]されるに止まっており、民法理由書の記載も同様である。
ヨーロッパの家族観[編集]
比較法的にみれば、家族制度が日本特有というのは俗説誤解に過ぎない[498]。
古代ローマの家族観[編集]
キリスト教以前の古代ローマの家族制は、家父長の家族員に対するタテの関係を中心とする。祖父の家長権が孫にも及び、家長でない父母の子に対する親権の併存は認められない(家長権の排他性)[499]。初期ゲルマン、ヘブライの家長権も同じ[500]。
家長権が同一家屋に住む夫婦とその未成年の子に止まらず複数世帯間に及びうる点で日本の戸主権と共通する[501]が、戸主権は隠居の尊属にも及び[502]、旧民法・明治民法は親権の併存を認める[503]点で異なる。女性が例外的に家長たりえるのも日本の特徴である[504]。
奴隷制の発達した中期ローマでは、家族団体の構成員には所有奴隷が含まれ、家長は文字通り家族員に対する生殺与奪の権利を有した[505](家長権の絶対性[506]、アントニヌス勅令により制限[507])。家族員の稼ぎは家長個人の所有に帰し、財産の帰属が明確で処分も容易なため、商工業および都市生活に適合する[508]。
ローマの大家族制は近世西欧法には継承されなかったから、ドイツ民法典に戸主権類似の制度は存在しない[113]。
日耳曼 では…段段時勢の変化するに従って成年に達して独立の生計を営む者は最早家長権には服さぬことになった…父の権力には服するけれども祖父の権力に服することはない…此点に付ては羅馬 法の本元たる伊太利 すらも日耳曼法の主義に従うやうになって…それで今日欧羅巴 には…父権と云ふものは認めて居ますけれども戸主権と云ふものは認めていない[509]。 — 梅謙次郎「家族制ノ将来ヲ論ス」1902年(明治35年)
婚姻については極端な契約的婚姻観に立ち、手紙などで意思の合致さえあれば一度も会ったことが無くても婚姻が成立・解消するが、私通・秘密婚の弊害が横行した[510]。もっとも八束によれば、キリスト教以前の欧州の家族は祖先教を本源とした点で日本と共通するという(#穂積八束の延期論)。
民法家が我国に行はんとするが如き家とは一男一女の自由契約(婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は絶て古欧に無き所なり…欧土の古法は祖先の祭祀を同ふする者を家族と云ふ…之を我国非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり[511]。 — 穂積八束「民法出テゝ忠孝亡フ」、1891年(明治24年)
キリスト教の家族観[編集]
家庭を伝道および信仰生活の単位として重視したイエス・キリストにおいては、婚姻関係は親子関係から独立して、社会の一個の新しい基本単位を為すとされた[512]。
「 | 創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた…人はその父母を離れ…ふたりの者は一体となるべきである[513]。 …だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない…モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許した[514]のだが、始めからそうではなかった。 …不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである。 | 」 |
「不品行のゆえ」は文語訳聖書では「淫行のゆえ」。妻の姦通による離婚を例外的に認めたこの文言は、カトリック神学者により後世の挿入だと主張され、別居および教皇の婚姻無効の宣言のみ認められて、不正の温床になった[516]。新共同訳では「不法な結婚でもないのに」、聖書協会共同訳聖書では削除。
キリスト教の家族観を確立したのは、性的衝動の克服を目指した聖アウグスティヌスであった[517]。男を惑わせ道を誤らせる「女は罪深きもの」、婚姻は「必要なる悪」だから、肉体と不純を浄化するため教会の秘蹟が不可欠と考えられ、世俗的な事実婚を否定して、法定手続を婚姻の成立要件とする方式主義(要式主義)が確立[518]。加えて、使徒パウロの言にも重きが置かれた[519]。
「 | また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。 | 」 |
—コリントの信徒への手紙一11章9節[520] |
「 | 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。 | 」 |
—エフェソの信徒への手紙5章22節[521] |
このようにキリスト教社会は男性優位だったから、西洋法で女性の権利は何らかの形で制限されていた[522]。
前述のホッブズは自然状態における母権論を提唱したが、父権を当然視する17世紀のキリスト教社会に受け入れられなかった[523]。
ルソーの家族観[編集]
フランス革命の理論的指導者ジャン=ジャック・ルソーは、カトリックやプロテスタント以上の徹底した男性優位思想であり、家父長制擁護論者であった[524]。
女をして価値あらしめるのもやはりわれわれ男である。さればこそ女自身には何の価値もない[524]。 — ジャン=ジャック・ルソー
ナポレオン法典の家族観[編集]
仏民法典が近代的といわれるのは財産法であって、家族法では必ずしもそうではない[525]。婚姻を民事契約と宣言する革命憲法が教会による身分行為の独占や離婚の絶対的禁止を否定したに止まり[526]、一部過激派によって兄弟姉妹間の近親相姦の自由すら主張された革命の熱狂期に対するカトリック的反動と、ナポレオンの軍事体制のために、原始規定では男権優越・家父長制を当然の前提とし[527]、1970年代に根本的に修正されるまで、旧時代の価値観を温存していたことが多くの学者により指摘[528]されている。
旧213条1項前段(1938年改正法)
- 家族の首長たる夫は家庭の住居を選定する権利を有す[529]
旧214条
- 1.妻は夫と同居する義務を負ひ、夫が居住するに適せりと為す如何なる地へも夫に従ふべき義務を負ふ[530]
旧374条
- 子は、満18年以後に、志願兵として入営する為に非ざれば、父の許可なくして父の家を去ることを得ず[531]
旧376条
- 1.子が16年以下なるときは、父は裁判所の権力に依り其教育場収容を命ぜしむることを得[532]
これらの家父権は公権力により強制執行できる[533](日本の通説・判例は反対、人身への直接執行はできず、期間中の扶養義務免除のほか損害賠償・離婚原因になり得るに止まる[534])。
妻に自由を与へることはフランスの国風に反する。夫は妻の行為を監視し、外出すべからず、劇場へ赴くべからず、この人かの人と交際するべからず、と命じることができなければならない[535]。 — ナポレオン・ボナパルト
独創的であることが必要なのではなく、明晰であることが必要なのである。なんとなれば、われわれが作るべき立法は、一個の新興国民のためではなく、齢10世紀以上もの古い社会のためなのだからである[536]。 — フランス民法起草委員ポルタリス
その仏民法典も急進的に過ぎると考えられたために、王政復古期の1816年には離婚制度は全廃された[537]。法定離婚(強制離婚)は1884・1886年に復活したが[538]、協議離婚復活は1975年である(積極的破綻主義採用)[539]。1985年には財産関係における男女平等が実現した[540]。
家の中で不貞行為をした妻の殺害の免責規定[541](仏刑法旧324条[史料 44])も1975年に削除されたが、21世紀のフランス社会に影響を残している[542]。
近代西洋市民法の基礎が、妻に対する優越的な夫権を定める家父長制だったことは、21世紀では法学上の通説の地位を占め[543]、仏法と日本の家制度の共通性を指摘・強調する傾向が有力である[544]。
イタリア民法典論争[編集]
イタリアでは1870年の統一まで多数の王・公国が乱立していたが、ナポレオンに征服されて仏民法典が施行され、民事婚や離婚制度も導入された。カトリック教会は体制崩壊後に諸国と協調・妥協しつつ婚姻統制権の奪還に努めるが、イタリア統一運動の一環として現れた1865年の民法典からの民事婚主義の追放には失敗。教会婚は法的意味を失った。しかし庶民には教会婚が浸透しており、法律婚の手続きを怠る者が多く非嫡出子や事実上の重婚が増加。教会婚に何らかの法的意味を持たせなければならないことが明らかになった。また逆に民事婚主義(契約的婚姻観)を徹底して離婚を認めるべきとの主張もあったが、法律婚と教会婚の調和を志向しつつも婚姻不解消主義維持を主張するレオ13世 (ローマ教皇)らの強力な反対論があり、修正法案は不成立。このように社会の実情に合わない規定もあったにもかかわらず、法典改正は大事業のため容易に実現できず、ファシスト政権樹立まで解決を待つことになったのである[545]。
日本の仏法派の家族観[編集]
明治初期の日本では、かつての開国派かつ佐幕派の旧士族を中心に、キリスト教(新約聖書)の一夫一婦制思想が特殊カトリック的要素を捨象した上で受容され、断行派中の一派にも影響を与えた[546]。
人事編の起草者熊野敏三は男女不平等のフランス社会に対して批判的であり[547]、ボアソナードも、仏民法の妻の行為無能力制に批判的であった[548]。
因襲の久き欧州諸国に於ても未だ夫婦同権の制を立つるに至らず、況 んや我国男尊女卑の風俗に於てをや[549]。 — 熊野敏三・岸本辰雄『民法正義』
断行派の岸本も、完全夫婦平等論を説く森有礼の思想的系譜にあったと考えられ(松本)[550]、彼の翻訳したフランスの急進共和主義者エミール・アコラスの著書は、家族制度全廃と男女平等を説く植木枝盛に影響を与えた[551](民法典論争議会演説でもアコラスの名は登場する[史料 45])。
ただし女性のみ出産能力があるため、岸本も一定の不平等は認める[552]。
旧民法人事編81条
- 離婚は左の原因あるに非ざれば之を請求することを得ず
- 第一 姦通但夫の姦通は刑に処せられたる場合に限る
仏民法229条
- 夫は妻の姦通を理由として離婚の訴えを提起することを得[553]
仏旧230条
- 妻は夫が共同の家に其の情婦を引入れたる場合に、夫の姦通を理由として離婚の訴えを提起することを得[554]
反面、女性の男性に対する性的自由は(妊娠の危険がある分)強力な保護を要するため、日本刑法は強制わいせつ罪と異なり強姦罪の被害者を女性に限定[555]していた。
植木枝盛の仏民法典批判[編集]
植木の民法論の本旨に関わるのは、ナポレオンが決して女性の保護者ではなかったという逸話である[556]。
我輩は…法典の編纂すべきことを信ずる…外交のために…草案を社会に公示…もなさず、未だ国人をして十分に自由の言論を以てこれを討議することもなさず、世論…も揆 らずして卒 かにその事を果たさんとする者あらば拍手してしかして賛すること能わざるのみ。…数年前より邦司法省において作成せられたる民法草案もし親族編に至りては…仏律に学ぶことを潔しとせざるもの無きにあらざるなり。
「天性より論ずれば婦人は即我が奴隷なり…妄りに男女同権の説を唱うる汝等婦人の思想はこれ狂暴なり。何となれば婦人汝等こそすなわち我輩男子の所有物なれ我輩丈夫は決して汝等婦人の所有物に非ざればなり」と。 — 植木枝盛「如何ナル民法ヲ制定ス可キ耶」『国民之友』1890年(明治23年)8月(家永三郎編『植木枝盛全集』岩波書店、1974年、189-198頁)拿破崙 …かつて叫んで曰く、
旧民法公布後の態度は不明[557]。
家族法第一草案[編集]
1888年(明治21年)、モンテネグロ一般財産法典公布[559]。既に議会が成立していたにもかかわらず、審議が省略された経緯は不明[560]。
2月、大隈重信が外務大臣に就任。
4月、黒田内閣成立。法相山田、外相大隈は留任。
家族法第一草案は10月頃までに完成[561][史料 46]。法技術的に仏民法典に多くを学びつつその差別的規定を批判する急進的な内容であった[547]。
- 全ての人に権利能力を保証する。
- 戸主・家族は形式上存在するが、戸主の家族員への権利義務は無い。
- 婚姻に対する両親の承諾は仏法と異なり、未成年者のみ要する。
- 姦淫による法定離婚について、夫婦間で性差別を設けない。
- 仏民法1884年改正法がこの立場[562]。
- 人事編理由書によると、親権は戸主でなく両親が有する。
- 家督相続は存在するが、家督相続以外の普通相続人を認め、実質的に均分相続に近くする。
- 家督保有者以外の死亡時の遺産相続は完全に平等。
- 明治民法も同じ。家督相続とは異なる[563]。
- 基本的に身分証書の制度を採用し、戸籍は付随的な地位しか認めない[564]。
草案の内容は、植木枝盛の思想に合致するものだったと言われる(井ヶ田良治)[565]。
仏民法旧148条
- 男25歳未満、女21歳未満は父母の同意を要し、意見一致せぬ場合には父の同意あれば足りる[566]
旧民法第一草案47条
- 1.成年に至らざる男女は父母の承諾を得るに非ざれば婚姻を為すことを得ず
もっとも、妻の夫に対する従属義務を仏民法典から輸入しており[567](草案100条、仏民法旧213条[史料 47])、妻の女戸主は一切認めず、常に夫が戸主になるという側面がある(草案397条)[568]。3年後の仙台市の戸口調査では、士族の家の4%、平民の家の12%が女戸主だったから、日本の実情に合わないのは明白であり、後の修正で削除された[569]。
妻の行為能力については、食料品の買い出し(日常家事)さえ妻単独ではなしえないとする仏民法の建前(判例により死文化)[570]は採らず、重要事項にのみ夫の同意を要求するイタリア民法の主義を採用、明治民法にも継承された[571]。
仏民法旧217条
- 妻は、共有財産制の下に在らざるときは、又は別産制の下に在るときと雖も、行為に於ける夫の協力又は書面に依る同意なくして贈与、有償又は無償名義に依る譲渡、抵当権設定行為、取得行為を為すことを得ず[572]
仏民法旧215条
- 妻は、商人たるとき、共有財産制の下に在らざるとき、又は別産制の下に在るときと雖も、夫の許可なくして訴を為すことを得ず[573]
旧民法第一草案104条
- 婦は夫の允許を得るに非ざれば贈与を為し又は受諾し不動産を移付し書入し又は質入し借財を為し元本を譲渡し質入し又は領収し保証を約し及び使役の賃貸を為すことを得ず並びに右の諸般の行為に関して和解を為し仲裁を受け及び訴訟を起すことを得ず
子を含む家族全体の利益保護を目的とし、一家の浮沈を左右する行為につき夫婦の意見不一致のときの最終的な決定権を夫に与えて紛争防止を図るか、訴訟増加を甘受するかの選択に前者を採った趣旨と説明されている(熊野は批判的)[574]。なお延期派の江木衷も、明治民法についてではあるが批判的であった[史料 48]。
全国の司法・地方官などからの意見が求められたが、多くは批判的であった[575]。
第一草案401条
- 家督相続に因り戸主と為りたる者は他家の入夫と為り又は婦と為ることを得ず
児島は最終的には断行派(#大審院の動向)。
家族法の変容[編集]
草案には政府内からも異論が多く、徐々に手が加えられ、特に元老院は「慣習にないこと」(三浦安)、「美風を損しますること」(小畑美稲)を徹底的に削除する立場から修正した結果、原案と立法精神を大きく異にする半封建的法典が出現したと指摘されている(#手塚説)[579]。
元老院で逐条審議に当たった特別委員は、渡正元・岡内重俊・楠本正隆(以上断行派[580])、槇村正直(法典全廃論→断行派[581])、村田保(原案維持派→延期派[582])、三浦・小畑・細川潤次郎・津田真道・尾崎三良・清岡公張・津田出・建野郷三・森山茂など(本会議は一括審議)[583]。村田・槇村が戸主権強化を主張し、尾崎が反対した[584](三名とも議決権を有する法律取調委員との兼任[585])。
また確定案のはずだった元老院議定案は政府によって改変され、村田・三浦らが延期派に立つ一因になったと推測される(手塚・中村)[586]。
元老院で削除された草案の個人主義的規定が明治民法で復活を試みられたことは後述する(平野もこれを認める)[587]。
憲法典公布[編集]
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)公布。
現行憲法との比較の視点からは、見せかけの立憲主義であり保守的法典と評されるが、天皇すらも議会の「翼賛」(advise)ではなく「協賛」(consent、同意)によってのみ立法権を行使しうるとしたことなど(大日本帝国憲法第5条)、植木枝盛ら民権派にとっても「意外の良憲法」であり、むしろ当時世界最先端の画期的進歩的法典だったとも評される[588]。前者のような理解を採るときは憲法成立は自由民権運動の敗北となり、後者では一応の勝利になる[589](#政府内商法論戦)。民権運動の本質を、天皇絶対主義への抵抗であり挫折したブルジョワ革命運動とみるか(講座派)、国民国家確立を求める運動であり困民党の運動などとは本来別次元とみるか(安丸良夫)の問題でもあり[590]、福澤諭吉の法典延期論の理解にも大きく関係する[591](#星野・中村論争)。
6月、雑誌『日本人』は高島炭鉱の奴隷的労働条件を報道し社会問題化、2年後の鉱業条例制定に繋がる。労働争議はその後工場に比重を移す[592](#ボアソナードの自然法論)。同誌関係者では杉浦重剛が穏健延期派(#教育界の動向)。
法典論争の勃発[編集]
法典論争の発端は、公布前の1889年(明治22年)に、延期派が意見書を総理大臣・枢密院議長に提出したことに始まる[593]。
4月27日[594]、英法派の開成学校、およびその後身東大法学部の出身者で組織される法学士会は、完成間近の民商両法典に対し、全会一致で延期の決議をした[595]。同会に仏法科の卒業生が排除された経緯の詳細は不明[596]。
この決議に従って意見書が起草され、発表したのが5月である(星野文献では総会期日と混同され不正確)[597]。
欧州諸国に於て所謂法典編纂なる者は専ら既存の法令を編集するに過ぎず、仮令に変改する所あるも亦只旧慣習法を修正加除するに止まる、然るに我邦の法典編纂は…大体は新規の制定なるを以て彼我編纂の難易得失決して同日の談にあらざるなり。且聴く商法訴訟法は独乙人某々氏の現按にして民法は仏国人某氏の現按なりと。我々
政府が法典編纂委員を設けて、法律取調に従事せしめらるるは、我々の非議する所に非らず、唯其成功発布を急にせざらんことを希望するなり、惟ふに我邦社会は、封建の旧制を脱し百事改進の際にして変遷極りなきが故に、今例規習慣を按じて法典を大成せんとせは、封建の旧制に依る可からず、又専ら欧米の制度に則る可からず、其事業実に困難にして、強て之を遂ぐる時は、民俗に背馳し、人民をして法律の煩雑に苦しましむるの惧あり、故に今日に於ては、必要不可欠所の者に限り、単行法律を以て之を規定し、法典全部の完成は、暫く民俗風俗の定まるを固 より邦の異同により是非の評をなすにあらず、唯恐るる所は充分の協議なきが為め彼此互に相抵触を来すのみならず其学派亦異なりたるが為に法典全部に対する主義の貫通せざるに在り。俟 つに若かざるなり…法典をして円滑に行はれしめんと欲せば、須 らく草案の儘にて之を公けにし…広く公衆の批評を徴し、徐ろに修正を加へて完成をきすべきなり。 — 法典編纂ニ関スル法学士ノ意見[史料 50]
意見書の起草者は岡村輝彦・菊池武夫(以上法律取調報告委員[598])、山田喜之助・元田肇・合川正道など。英吉利法律学校創立者[599]。山田が中心人物とする文献[600]もある。
- あくまで政府の拙速主義を批判した穏健な慎重論であり、法典そのものに反対したわけではない(星野[601]、福島[602])
- 法技術論が主題であり、封建の遺制に従うことを危険とする点が大切である(松本)[603]
- 法典編纂の方法として旧慣参酌の有名無実がやむをえないと認めるもの[604]
などといわれるが、一般書では民法のみを対象に天賦人権論批判を行ったもの[605]と記述されることもある(コトバンク「民法典論争」もこの理解を採用)。
日本の思想状況[編集]
1889年(明治22年)、キリスト教系の同志社英学校において、天長節に祝意を示さない学校方針に学生が反発。明治学院でも類似の事件が起こり、民間の中にキリスト教への反感が強まりつつあった[606]。
同年にはジャーナリズム運動から新思潮が生み出される。素朴な復古主義や排外的な攘夷論ではなく、近代化の必要性は認めつつも、鹿鳴館に象徴される政府の極端な欧米化政策に疑問を呈し、日本の在り方を見つめ直そうというものであり、平民主義を唱えた徳富蘇峰(同志社中退)や、国民主義を唱えた陸羯南らが代表的論者である[607]。このような思想的背景から、自然法思想に疑問を投げかけ、西洋法系の旧民商法につき日本の国情を慎重に考慮すべきという議論が起きたと考えられる[418]。
この内徳富が創立した国民新聞(現在の東京新聞)は陸の『日本』と対決しつつ断行派[608]。後世の評価は分かれ、ブルジョワ自由主義派[609]とも政府松方系[610]ともみられる。日露戦争時は典型的な御用新聞(日比谷焼き討ち事件)[611]。
一方司法省法学校を法学履修前に中退した経歴を持つ陸は(賄征伐)、終始冷静な延期論を展開している[612]。
此の問題は保守的思想に因りて惹き起こされたるものにあらずして、唯だ現に発布せられ居る民商二法典の実施期限を是非する問題に過ぎざるのみ…是とする論者と雖も敢て此の法典を無欠視するにはあらず、非とする論者も亦た此の法典を不要視せざるなり。…裁判上の見解…の統一を得ることは…論理的順序に従って編纂した…法典が最も…便益なることも、亦た我輩の固より認知する所なり。然れども…法典なければ社会乱れ国家破ると云ふほどの必要を知らざるなり[613]。 — 陸羯南「法典是耶非」1892年(明治25年)5月
仏法派と英法派の対立[編集]
民商両法典の争議において、英法派の法律家は大半延期派、仏法派は概ね断行派に属していたから、論争は英仏両派の争いという一面を有していた[614]。
明法寮…に次いで帝国大学の前身たる東京開成学校では、明治7年からイギリス法の教授を始めることとなった…我邦の法学者が二派に分れる端緒である。その後ち司法省の学校は、明治17年に文部省の管轄となって一時東京法学校と称したが、翌年に東京大学の法学部に合併されてフランス法学部となった。明治19年に帝国大学令が発布せられ、翌年法科大学にドイツ法科も設けられた。…民間にも…イギリス法律を主とする東京法学院…東京専門学校…等があり、また一方にはフランス法を教授する明治法律学校…和仏法律学校…等があって、互に対峙して各多数の卒業生を出しておった。当時…ドイツ法律家はまだ極めて少数であったから…我邦の法律家は英仏の二大派に分れておったのである。 かくの如き有様のところへフランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが発布せられ、しかも商法の如きは千有余条の大法典でありながら、公布後僅に8箇月にして、法律に慣れざる我商業者に…実施しようとしたのであるから…一騒動の起るのは固より当然の事であった[615]。 — 穂積陳重「法典実施延期戦」『法窓夜話』97話
ただし仏法派の黒川誠一郎は開成学校[616]、磯部・梅・本野一郎は東京専門学校でも教鞭を取り、英法派の岡村・山田も明治法律学校や和仏法律学校で講義を行っていた側面がある[617]。
上の私学四校に専修学校または日本法律学校を加え五大法律学校と称されている[618]。後者は箕作麟祥・穂積八束など関係者に両派混在し断行派寄り中立派[246](日本法律学校#創立に関わった人物参照)。日本の法律を教える建前であった[619]。現日本大学。
其の断行派の本拠が和仏法律学校でなしに、明治法律学校であったと云ふのには、特別な理由があると思ひます。 — 平野義太郎
それは明治法律学校にはフランス法を修めた人が大部分行って教鞭を取って居たからです。東京法学校の主催者中富井さんは延期論者で、梅さんは断行論者であったから東京法学校は学校として活動していません。 — 仁井田益太郎
(※私立東京法学校は和仏法律学校の前身)
断行派の中心人物は誰ですか。今伝わって居るのは梅先生のやうになって居りますが。 — 穂積重遠
私共の観る所では仏法出の岸本辰雄と云ふ人等が主宰し教鞭をとってゐた明治法律学校が主力であった。梅さんは東京法学校の方で、此の方は学校としても元々大した活動はしないのですから、梅さんはあまり背景は無いと思ふ。明治法律学校は全体として断行論を唱へておった。 — 仁井田
…英吉利法律学校の方ではどんな人人でしたか。 — 穂積重遠
それは江木衷とか山田喜之助、松野貞一郎、奥田義人…。 — 仁井田
…穂積八束なんかがどう云ふ理由で加ったのでせうか。例の「民法出でて忠孝亡ぶ」とまで反対した…。 — 穂積重遠
穂積八束さんに就ては余り知りません。同氏個人の考へに依ることと思ひますが、英吉利法律学校に教鞭を採って居た人々との関係もあったと想像します[621]。 — 仁井田益太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」
仏法派の動向[編集]
1889年、スペイン王国民法典公布。仏法系だが、仏法を介さず直接ローマ法に依った規定や自国慣習など独自色が強くなっている[181]。法典の出来が仏法を凌駕したことに争いは無い[622]。
私学仏法派[編集]
1889年(明治22年)5月、東京法学校と東京仏学校が合併され、和仏法律学校と改称(現法政大学)[412]。
8月、梅謙次郎が仏独留学から帰国、帝大教授兼和仏法律学校学監に就任。伊藤博文にもブレーンとして重用される[623]。明治天皇の信も得ていたことが死後明らかになっている[624]。
1890年(明治23年)3月、井上操の「法典編纂ノ可否」は、「昔日は民法」のみならず民事「訴訟法の編纂に付」いても「草案を見るに我国の風俗慣習に適せず外国の法律を模倣したるものなり」として「之を不可とするの論」があったとし、仏民訴法を参酌した従前の民事手続に不備が多いことを理由に、独法系の民訴法典にも断行論を主張(法政誌叢103号)[625]。
1891年(明治24年)3月、明治法律学校(現明治大学)の校友を中心に法治協会が結成され、機関誌として『法治協会雑誌』を発行、法典即時断行・法治国家実現をスローガンとした。会長に大木喬任、副会長に名村泰蔵、評議員に磯部・箕作・岸本・井上正一・栗塚省吾・今村和郎・亀山貞義ら断行派の主力が名を連ねるほか、大井憲太郎(大学南校卒、仏法派[58])、鹽入太輔などの自由党員、立憲改進党員も加わっていた[59]。
同月には飯田宏作・富井・梅・栗塚・熊野・黒川らが和仏法律学校を本拠地に法律経済研究団体明法会を結成。封建慣習打破・法律改正をスローガンとし、機関誌『明法志叢』を通じ断行論を展開[59]。ただし仏法学者富井・木下広次は独自の立場から延期派に属した[595]。
明治法律学校機関誌『法政誌叢』や時習社の『法律雑誌』[626]、『プロジェ』の発行元博文社の『日本之法律』も断行論を主張した[627]。
仏法派の内紛[編集]
ボアソナードは大隈の条約改正にも反対したが、賛成派の東京法学校では孤立気味であった[628]。
またパリで学問上の対立関係にあったアコラスを師と仰ぐ明治法律学校の政治姿勢を危険視したこともあり(#近世自然法論の二大潮流)、仏法派団結の必要な時期にもかかわらず、講義出向は単年に止まっている[629]。
官学仏法派[編集]
官立東京法学校の後身の帝国大学法科大学仏法科(後の東大法学部仏法科)でも、岡田朝太郎・若槻禮次郎・岡村司・織田萬・安達峰一郎などの学生9名が断行意見書を発表している[630]。
ただし岡村は本人曰く消極的断行派[630]、戸主制および経済的自由主義を克服の対象と捉える立場[631]。また岡田はボアソナードの正義論には実証主義の見地から反対[632]。
英法派の動向[編集]
英法派の延期論者は高橋健三(英吉利法律学校創立者)らを中心に、政府要人をはじめとする朝野の有力者に働き掛けることを基本戦略とした[633]。
断行論者としては、法律取調報告委員(商法担当[407])の加藤高明、外交官の栗野慎一郎などがいる[634]。
私学英法派[編集]
英吉利法律学校は1889年(明治22年)1月、機関雑誌『法理精華』を発行、以後一貫して延期論を主張[59]。
10月、同校が東京法学院に改称し、英法から日本法に方向転換[635]。現中央大学。
一方、東京専門学校(現早稲田大学)と専修学校(現専修大学)は、五大法律学校の中では当時あまり振るわなかったから、法典論争では目立った動きは無い[636](延期派寄り[637])。江木証言では東京法学院が「天下唯一の活動の中心」だったとされる[638]。
官学英法派[編集]
延期派の本陣はあくまで東京法学院であり、穏健派の官学は前記法学士会意見書を除き存在感希薄だった[639]との見方と、法学士会は後述の江木ほか「#法典実施延期意見」の主体[640]とする見方がある。
大学機関誌『法学協会雑誌』は法典論争中立派[641]。梅・富井・穂積陳重の旧法批判が掲載されているが、星野の著書では言及が無い。
1889年(明治22年)2月には穂積八束が帰国、3月に帝国大学教授に就任したが、「天皇即国家」論や議院内閣制の否定などの主張は露骨な権力迎合と受け止められ、同じく国学系の家出身かつドイツ留学者の有賀長雄からも批判されている(最初の天皇機関説論争)[642]。
公布前の英法派の主張[編集]
1889年(明治22年)6月、増島六一郎(英吉利法律学校創立者、代言人)の「法学士会ノ意見ヲ論ズ」は法律学の普及発展、人材育成こそ急務と主張[643]。彼はその後実業界で商法延期論多数派工作に活躍したが、民法に対しては存在感希薄であった[644]。
一方、鳩山和夫(外務省官僚、翌年7月東京専門学校校長[645])は意見書に反対し、少しずつ単行法を出すより一度に法典を編纂すべきで、草案に賛成すべきかは別問題と主張(法学協会雑誌63号)[646]。結論的には延期派[246]。
7月の岡野敬次郎「英法ノタメニ妄ヲ弁ズ」も、法学士会意見書は法典編纂そのものへの批判ではなく、あくまで施行の時期尚早論と強調[647]。
イギリス法派の主張が、イギリス法に在るから法典を主にしない慣習法論・判例主義であるといふわけでもないのですね。 — 平野義太郎
延期派は元来がフランス法派の法典を嫌ふのですから、法典を編纂する事に就ては少しも反対ではない。結局フランス法の臭ひのある法典が嫌ひなのです[648]。 — 仁井田益太郎
民商法につき純粋な非法典論を主張したものとしては、花井卓蔵「新法典ニ対スル余ノ意見」があり、「私権」は「人民相互の間に止まり」、「国家の権力」で干渉すべきでないとする[649]。英吉利法律学校第3回卒業生[650]。
7月、山田喜之助(英吉利法律学校創立者、大審院判事→代言人)は「立法ノ基礎ヲ論ズ」を発表。西洋諸国の多様性を指摘し、歴史法学派の立場から、立法の基礎は外国法の模倣ではなく、当該国の人情慣習に依るべきと主張[651]。
江木衷(英吉利法律学校創立者、内務省官僚)は、10月から12月にかけて『法理精華』に「民法草案財産編批評」を発表、古風な定義が多いこと、物権と人権(債権)の区別の不明瞭を批判[652]。財産法案中の「無形人」を改めて「法人」とすべきというように内容的には説得的なものを含む反面、挑発的文体は論争混迷の一因となった[653]。
草案第6条には、物に有体なるあり無体なるありと云ひ、無体物中には物権は勿論、人権其の他有体物を包含すと謂ふことなれど、財産権を分って人権物権の二種と為しながら…其の言の葉の未だ乾かぬに、夫れは嘘ぢゃ、物権も人権も区別はないと云ひたるは、我輩に「スカ」若くは「ポカン」を食わせたるものか、冗談にも程がある…狐狸に化かされて蛞蝓を赤飯と味ひ、馬糞を団子と心得へたるの趣あり。 …然りと雖も…少年の法学生徒をして、法律上所謂物なる語の意義を…通俗の意義と混同すべからずと…教へ示すが為めと推察し奉るなり[654]。 — 江木衷
旧民法財産編1条
- 1.財産は各人又は公私の法人の資産を組成する権利なり
- 2.此権利に二種あり物権及び人権是なり
この「人権」とは基本的人権ではなく、人に対する権利「即ち債権」の意味である(財3条[史料 51])。
財6条[史料 52]
- 1.物に有体なる有り無体なる有り
- 3.無体物とは智能のみを以て理会するものを謂ふ即ち左の如し
- 1.物権及び人権
なお「物」の定義はローマ法の伝統的立場[655]とほぼ同じ(奴隷を含めない点は異なる)。しかし、独自の説明的規定を入れてかえってわかりづらくなる、特に財産編冒頭の「財産」の定義が次条以下と矛盾する問題は非難され続け、法典編纂報告委員の今村和郎(仏法派・断行派)すら修正論を主張したほどであった[656][史料 53]。
ナメクジ・馬糞呼ばわりに憤慨[657]した磯部の反論「法理精華ヲ読ム」は、最新草案では「法人」を採用しており情報が古いという指摘のほかは江木を嘲笑するもの、これに憤慨した鳥居鍗次郎「法律ノ学士磯部ノ四郎大先生ノ五議論ヲ評ス」は、磯部への罵倒に終始したもの[647]。
両者の遺恨は残り、翌年4月の財産法公布の際には「江木が早く死んで仕舞へば宜しいとは有名なる某法律学士が長大息の嘆息なり[659]」と江木がコメントする有様であった。
なお万国共通の法理≒仏法によって編纂されるべきとする磯部も仏法絶対視ではなく、仏法を介してローマ法を摂取する立場(#比較法の不足)。
1890年(明治23年)3月、穂積陳重(英吉利法律学校創立者)は『法典論』を刊行、欧米各国の法典編纂の歴史・方法を網羅し日本法典の拙速主義を批判、断行論者をして反省させるに足るものがあったといわれ[660]、後に明治民法制定の理論的基盤となった[661]。宮崎道三郎(日本法律学校創立者)、伊藤悌治も富井政章らとともに情報提供の形で執筆に協力している[662]。
英米法学の理論状況[編集]
1236年、イングランド議会はコモン・ローの伝統固持を決定、ローマ法の影響を間接的に止める[663]。
15~16世紀にかけては、判例法が土地賃借権に第三者への対抗力を認め、ローマ法の「売買は賃貸借を破る」の原則が退けられる(所有者が替わっても賃借権が継続する)[664]。旧民法もこの立場(#法律取調委員会の旧民法批判)。
一方でフランス革命の影響も限定され、不動産法では単独相続制(特権的相続制)が維持されていた[665]。
ジェレミ・ベンサムは、1789年の主著『道徳及び立法の原理』などで法典編纂を理論化[666]。穂積陳重にも大きな影響を与えた[667]が、後にイギリス領インド帝国が植民地政策のため英国人法律家の起草により諸法典を早急に整備したに止まった[668]。
英法派の男女平等論[編集]
英法派の延期論は論争を経る内に保守的色彩を強めたが、英法の理論が保守的だったわけではない[669]。フランス革命政府が当初採り入れようとした刑事訴訟法は英法であり[670]、男女平等論が主張されていたのも主に英米であった[671]。
宗教改革でもルターが妻の姦淫による法定離婚を認め、カルヴァンが夫にも貞操義務を認めたに止まり家父長制はかえって厳格化したが、イギリスの清教徒たちは婚姻を罪とは見ず、人間完成に必要な制度と考えた[672]。一時は江戸時代の日本[673]やナポレオン法典をも凌駕した男性優位の法制度はウィリアム・グラッドストンによって1870年に改められ、妻の訴訟能力や特有財産を認めて欧州諸国を驚かせた[674]。
英米の男女平等論は明治初期の日本にも影響を与え、男女平等を徹底すべきとの論が一世を風靡、植木枝盛にも影響を与えた[675]。
一方ベンサムは、男尊女卑を批判しつつも形式的平等の弊害を指摘し、親権や後見人制度と同じく一定の限度で上下関係を設ける方が合理的と論じ(男女殊権論)、小野梓(東京専門学校創立者、戸主制全廃論者[676]、法典論争勃発前に死去)などに影響を与えていた[677](ベンサムは後に夫婦同権論に改説[540])。
英法派・保守派の法典延期論者としては江木のほか奥田義人[678]、元田肇の名が挙がる(星野)[679]。増島六一郎も商法典論争で非常に反動的な論を吐くが、法典反対論の政略的便法に過ぎなかったとも言われる(福島)[680]。東大英法派は英法の民主的思想に影響を受けた者が多く、立憲改進党の設立およびその学識的性格の形成に中心的役割を果たす。また弁護士の地位の高い英米の影響で代言人になる者が多く、増島や鳩山らの活躍でその社会的地位は大きく改善した[681]。
近代英法学の二大潮流[編集]
法典論争時最も有力だったのが、オースティンの分析法学と、ヘンリー・メインのイギリス歴史法学である[682]。
オースティンはドイツ留学者であり、歴史法学のサヴィニーや自然法学のティボーとも交流してローマ法やドイツ法学の影響を受けていた[683]が、結論としては古い自然法学説に対して現行法主義(法実証主義)を主張するもので、仏法を輸入せずとも日本の慣習法があるという一種の国粋論と結び付いたとの主張がある(岩田新)[684]。ただしオースティンもメインもコモン・ローの法典化を主張する立場であった[685]。
アメリカでも分析法学が有力であり、特に東大教授ヘンリー・テイラー・テリーは強烈な反自然法論者であった[686](法典論争期には日本におらず、再来日は1894年(明治27年)[687])。
このような思想に育てられた日本の英法派が、自然法を基礎とする仏法派に批判的になることは自然であった[688]。
穂積陳重は、英国留学中オースティンにドイツ法学の影響を認めドイツ転学の理由の一つとなったし、分析法学の法実証主義は、仏法派の富井政章にも一定の影響を与えた[683]。
もっとも陳重が最大の影響を受けたのが、オースティンに批判的なメインによるイギリス歴史法学である[683]。法は主権者の命令によって作られるものではなく、歴史的に生成するという立場である[689]。英国で独立に成立したものではなく、その歴史的方法がサヴィニーに遡ることも、陳重がドイツに転学した理由の一つである[690]。また商法延期派の岡山兼吉(英吉利法律学校・東京専門学校創立者)も、衆議院演説でメイン(メーン)の言を引用している[691][史料 54]。
ただし慶應義塾大学法律学科の礎を築いたアメリカ人法学者ジョン・H・ウィグモアも歴史法学的要素に加えて分析法学を重視し自然法に批判的[688]だったが、日本の慣習法を研究する彼が旧民法を擁護したことはボアソナードを勇気づけた[692]。
独法派の動向[編集]
法典論争の時点では、1887年(明治20年)に設立された帝国大学法科大学独法科(東大法学部独法科の前身)のほか、私立の獨逸学協会学校(現獨協大学)があって平田東助(商法断行派)などが独法の講義をしていたが、独法派の法律家は極めて少数だったので、法典論争では独立一体の活動をしていない[693]。
「独逸法学が我国に入ったのは日が浅かった為独逸法学派と云ふが如きものは特に存在しなかった[694]」とまで断ずるのは、明治民法起草補助委員仁井田益太郎である(明治26年東大独法科卒、卒業生7名。明治30年は1名[695])。
…みな民法ぢゃないのですね。 — 平野義太郎
前に述べた人々は民法に就てドイツ法の思想を鼓吹するとか云ふ方には努めても居らないし、又ドイツ法の思想が是等の人から伝はったと云ふ程ではないのです[696]。 — 仁井田
横田国臣の断行論[編集]
横田国臣(現行刑法典起草者、慶應中退?[697]、ドイツ留学)は、民法の個人主義や天賦人権論は憲法と矛盾するとの延期論者の主張に対し(#自然法説立法化の是非)、臣民に参政権を与えて自立を促すのが憲法の本旨であり、専制の法とみるのは不当だと反論している[698]。
なお横田は井上外交時代、司法省から条約草案起草に参加している[699]。
ロエスレルの意見書[編集]
1887年(明治20年)頃、伊藤博文に提出されたとみられるロエスレルの意見書では、フランス民法は個人主義に傾き過ぎたためにアナキズムに陥って社会が混乱したが、ドイツ民法は親族関係を厚く保護するなど保守的性格を持ち、立憲君主制と親和的であり、当時の日本により適合すると主張されていた。このドイツ民法というのは1888年の第一草案ではなく、農村を基盤とするゲルマン法の意味であった[700]。
夫れ泰西の民法は之を大別して二類と為すを得べし。一に曰く仏蘭西、羅馬 民法、二に曰く独逸民法即ち是なり。而て余が独逸民法と称するものは独逸本国の民法を云ふにあらず、何となれば独逸連邦の民法は多く羅馬法の浸潤する所たればなり。…余は該草案の適否如何は姑 らく捨て之を論ぜずと雖も…単に該草案のみに依て日本将来の民法を断定せらるるが如きあらば、必ず重大なる困難と不便とを感ぜざるを得べし。…仏国の如きに於ても亦一の法律を制定するに当ては先づ数個の草案を調整するを常例とす。 — 伊東巳代治訳「民法ニ付キロエスレル氏意見[史料 55]」
しかし、独民法典のゲルマン法からの離脱とそれに伴う団体主義の崩壊は、親族法で最も顕著である[113]。
ドイツ法学の理論状況[編集]
近代ドイツの基盤は神聖ローマ帝国である[701]。帝国はローマ私法の継受に努めたが、ローマ的家権力や奴隷制は継承されていない[702]。
神聖ローマ帝国の分裂[編集]
1226年、ポーランドのプロイセン地方(バルト海沿岸)にドイツ騎士団が招聘される[703]。
1466年、ドイツ騎士団国は西プロイセンを喪失、ポーランド王領プロイセンが成立。後のポーランド回廊問題の遠因[704]。
1525年、宗教改革により騎士団国が世俗化してプロイセン公国が成立。世界初のプロテスタント国であり、カトリックの守護者を自認するオーストリアとの決裂の遠因になった[705]。
1618年、公国が神聖ローマ帝国ブランデンブルク辺境伯領との同君連合になる(ブランデンブルク=プロイセン)。
1648年、ヴェストファーレン条約締結。以後ドイツの法典編纂事業は、独立の国家主権を認められた各領邦を中心に行われる(領邦絶対主義)[706]。
1671年、ライプニッツがオーストリア統一法典編纂を主張。帝国法典の構想もあったが実現せず[707]。
1692年、ザクセン選帝侯領にあるハレ大学のシュトリックが『パンデクテンの現代的慣用』を著し、ローマ法の条文を抽象化して「現代」に相応しく適用するパンデクテン法学の手法が確立。ゲルマン法の影響が強いことからローマ法を絶対視しないザクセン法思想と結び付き発展、民法のみならず独民訴法の基礎となった[708]。
1701年、プロイセンは王国に昇格。首都は東プロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)。辺境伯領は建前上帝国の一部のまま[709]。
1751年にはバイエルンで刑法典、1753年に訴訟法典、1756年には民法典が成立[710]。
1772年、第一次ポーランド分割で西プロイセンを獲得したプロイセン王国は、帝国との分断状態が解消された[711]。
プロイセン法典論争[編集]
旧民法は説明的な法文の啓蒙教科書法典であり、強い批判を受けた[712]が、1794年公布・施行の巨大法典プロイセン一般ラント法は、近世自然法の影響を受けた啓蒙教科書法典