屋上の狂人

屋上の狂人
訳題 The Housetop Madman
作者 菊池寛
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 戯曲
幕数 1幕
初出情報
初出 第四次『新思潮1916年5月号・第1年第3号
刊本情報
収録 『心の王国』
出版元 新潮社
出版年月日 1919年1月8日
初演情報
場所 帝国劇場
初演公開日 1921年2月
主演 14代目 守田勘彌2代目 市川猿之助
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
テンプレートを表示

屋上の狂人』(おくじょうのきょうじん)は、菊池寛の戯曲。京都帝国大学卒業を目前にした1916年(大正5年)5月に発表した一幕物で、それまでの筆名「草田杜太郎」を廃し、本名の「菊池寛」を用いた初めての作品である[1][2][3][4]

狂人を無理やりに常人にすることが、必ずしも幸福になるとはかぎらず、狂人のままでいる方が幸福かもしれない、という逆説を主題にした作品で[2][5][6]、条理を超えた肉親間の情愛を描いた『父帰る』と並ぶ、菊池の戯曲を代表する作品である[2][6][7][8]

発表経過[編集]

菊池寛が京都帝国大学英文科を卒業する年の1916年(大正5年)の2月に同人誌の第四次『新思潮』が復刊され、その5月号・第1年第3号に「屋上の狂人」は掲載された[1][4][9]。その際に、それまでの第三次『新思潮』で使用していた筆名「草田杜太郎もりたろう」から、本名の「菊池寛」を用いるようになった[1][2]。本名に変えた動機に関しては特に語られておらず不明であるが、卒業を間近にひかえていた時期であることから、今後文壇に乗り出すためには文学青年風の筆名よりも本名の方がいいと思ったからではないかと推察されている[2]

『新思潮』時代、菊池の戯曲はほとんど注目されなかったため、京大を7月に卒業し時事新報社社会部の記者の職に就きながら、戯曲より小説の方の執筆に重きを置くようになった菊池は、1918年(大正7年)に『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」で文壇に認められ、その後芥川龍之介の伝手で大阪毎日新聞の客員となり1920年(大正9年)に新聞連載した通俗小説「真珠夫人」で流行作家として世間に広く認知された[10][11]。それを機に無名新人時代の戯曲「父帰る」などが舞台上演され、その流れで「屋上の狂人」も翌年1921年(大正10年)2月に帝国劇場で初上演された[2][4][8][9]

単行本の刊行は、新潮社から1919年(大正8年)1月8日に上梓された『心の王国』に収録され[4][7][12]、翌1920年(大正9年)4月10日に同社から刊行された『藤十郎の恋』にも収録された[4][12]

全集収録は、春陽堂から1921年(大正10年)5月21日刊行の『菊池寛戯曲全集 第1巻』に収録された[4]。その後は平凡社から1929年(昭和4年)6月10日刊行の『菊池寛全集 第3巻』、中央公論社から1937年(昭和12年)6月21日刊行の『菊池寛全集 第1巻』に収録された[4]

あらすじ[編集]

明治30年代のある初夏の日、瀬戸内海讃岐に属する小さな島に暮らす屈指の財産家・勝島家の長男である義太郎は、屋根の頂上にうずくまって海を見ていた。

太陽が照りつける焼け石のような屋根瓦にいる狂人の息子が暑気あたりにならないか心配する父の義助や下男の吉治が、すぐ降りてくるように裏庭から呼びかけるが、義太郎は駄々をこねて嫌がり、「金比羅さんの天狗さんの正念坊さんが雲の中で踊っとる、の衣を着て天人様と一緒に踊りよる、わしに来い来い云うんや」と無邪気なことを言うばかりであった。

義太郎は幼い頃から高いところに登りたがる癖があった。成長すると庭の公孫樹の大木のてっぺんの枝に腰かけていたこともあり、両親はハラハラしたものだった。そのため庭の大木は、今は全部切ってしまっている状態である。しかし義太郎をずっと座敷牢の中に閉じ込めておくことも不憫に思う義助が息子を出してやると、隙を見てたちまち屋根に登ってしまうのだった。

義助に命じられ下男の吉治がハシゴを取りに行った後、隣家の藤作がやって来た。藤作は、狂人の息子の行動に悩む義助に向って、昨日から島に来ている金比羅巫女に祈祷して見てもらったらどうかと勧めた。義助はそれを頼み、家の中にいる妻のおよしを呼んだ。ハシゴで屋根に登った吉治が義太郎をなんとか下に降ろし、やがて中年の巫女がやって来た。

巫女は、自分に反抗的態度をとる義太郎に狐が憑いていると言い、呪文を唱えて奇怪な身振りで狂ったように廻った後に昏倒するが、再び立ち上がると「我は当国象頭山に鎮座する金比羅大権現なるぞ」と声音を変えて話し出した。義太郎を除く一同が「へへっ」と腰を屈めて低頭する中、巫女は、この家の長男に憑いている狐を祓うため、木で吊して青松葉で燻べてやれと告げた。そして再び昏倒した後に普通の声に戻った。

義助とおよしは、そのお祓い法がいくらなんでもむごいと思い少し戸惑うが、すぐにやらないと罰があたると巫女から脅され、義助は吉治に青松葉の用意をさせた。不満顔の義太郎は「金比羅さんの声はあなな声でないわい。お前のような女子おなごを、神さんが相手にするもんけ」と全く相手にせず、自尊心を傷づけられた巫女はますます義太郎を狐扱いにして罵倒する。

義助は巫女に急かされ、吉治と協力して義太郎の顔を燻べた松葉の煙の中へ入れようとした。義太郎は「厭やあ、厭やあ」と大声をあげて激しく抵抗し、母のおよしは息子を可哀想に思いオロオロするばかりであった。

そこへ、義太郎の弟・末太郎が学校から帰ってきた。義太郎は救主を得たように弟に助けを求めた。状況を理解した末太郎は松葉の火を踏み消して巫女を詐欺師だと喝破し、藁にもすがる思いで馬鹿なことをしている父親たちを諭し始めた。末太郎は、兄が屋根の上で幸福そうにしている様を「兄さんのように毎日喜んで居られる人が日本中に一人でもありますか。世界中にやってありゃせん」と言って、苦しむためにわざわざ正気になることもないと断じた。

末太郎が藤作に、巫女を連れて帰ってくださいと頼むと、侮蔑され憤慨した巫女は再び先ほどと同じような呪文を唱えて神が乗り移ったふりをしながら、弟は兄の病気が治ると家の財産が全て兄のものになるため利欲の心よりなり、と告げた。末太郎は詐欺師の巫女を突き倒し、「きさまのようなかたりに兄弟の情が分るか」と罵倒し退散させた。

内心、巫女の祈祷を怪しいと思っていた両親はほっとしたようになるが、「お前兄さんは一生お前の厄介やぜ」と末太郎を心配した。すると、末太郎は「何が厄介なもんですか。僕は成功したら、鷹の城山の頂辺へ高い高い塔を拵えて、そこへ兄さんを入れてあげるつもりや」と言った。

そんなふうに一同が話している最中、義太郎はいつの間にか再び屋根の上にいた。下の4人は義太郎を見上げて微笑み合った。空を見ている義太郎は、弟の末太郎に向って「末やあ! 金比羅さんに聞いたら、あなな女子知らん云うとったぞ」と言うと、末太郎は「そうやろう。あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや」と応えた。

その頃はもう両親らは家の中に戻って、庭には末太郎だけがいた。雲が動いた空が金色の夕日に輝くと、向こうの雲の中に金色の御殿が見えると義太郎ははしゃぎ、「綺麗やなあ」と感嘆した。末太郎は自分が狂人でないことの悲哀をやや感じているかのように「ああ見える、ええなあ」と同調した。「ほら! 御殿の中から、俺の大好きな笛の音がきこえて来るぜ! ええ音色やなあ」と義太郎は歓喜した。

登場人物[編集]

勝島義太郎
狂人。24歳。勝島家の長男。屋根の上に登って海上の空を眺めるのが好き。小さい時から高いところに上りたがり、4、5歳の頃は床の間、仏壇、棚の上に上り、7、8歳になると猿のようにスルスルと木登りをし始め、15、6歳になると山の頂上まで登っては独り言で天狗や神と話すようになる。屋根から降ろされそうになると、外道が近寄るのを怖れる仏徒のように嫌がり抵抗する。屋根から落下し右足を負傷したことがあり、びっこになっている。「勝島の天狗気違」という噂が高松の町まで広がっている。
末次郎
義太郎の弟。17歳の中学生。町の学校に行っている優等生。兄思い。色の浅黒い凜々しい少年で、おかしな祈祷をする巫女を詐欺師と喝破する。
義助
義太郎と末次郎の父。狂人の長男・義太郎がいつも屋根の上に登る有様を世間体を気にして苦にしている。
およし
義太郎と末次郎の母。最初は巫女の祈祷で息子の病が治ることを期待するが、巫女の手荒な療治法を「そななむごい事が出来るもんかいな」と、息子を可哀想に思う。
藤作
隣の人。家人の「清吉」とともに網でなどを捕って暮らしている。巫女に怒る末次郎をなだめながら、巫女を連れて帰っていく。
吉治
下男。勝島家の召使い。義太郎を「若旦那」と呼ぶ。吉治が小さい頃には庭に大きな公孫樹の木があった。
巫女と称する女
50歳くらい。陰険な顔色をした妖女のような女。金比羅の巫女と名乗り、前日から島を訪れている。勝島家を去り際に、「神さまが乗り移って居る最中に私を足蹴にするような大それた奴は今晩迄の命も危ないぞ」と捨て台詞を吐く。

作品背景[編集]

※菊池寛の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

京大で触れたアイルランド戯曲[編集]

1913年(大正2年)4月、同級の友人・佐野文夫の身代りとなって第一高等学校第一部乙類を退学となった菊池寛は(詳細は「マント事件」を参照)、同校の友人・成瀬正一の助け舟で彼の家に寄宿しながら学資の援助も受け、同年9月に京都帝国大学英文科の選科に進学した(翌年からは本科)[1][3][13][14][15]。菊池は成瀬ら一高の友人たちが進む東京帝国大学文科に自分も行きたかったが、文科学長の上田萬年の認可が下りず叶わなかった[14][15]

一高の文芸第一主義に比べて京大は文学的には〈いなか〉であり、ことに1年生の頃の菊池は選科生であることに屈辱や孤独を感じていた[1][16][17]。京大には芥川龍之介久米正雄のような、文学について意見を交換できる刺激的なライバルの友もいなかった[1][16][18][注釈 1]

東京にいる友人たちから1人だけ取り残されたような焦燥感や孤独を紛らわすため、入学当初から菊池は研究室や図書館に入り浸って内外の様々な読書に熱中した[1][17][18][20]。京大の研究室には東大よりも近代文学に関する書物が豊富だった[1][17][18][20]。そのため菊池は東京にいた時よりも〈二倍か三倍位多くの本〉を読むことが出来た[1][15][17]

以前から興味を持っていたイギリス文学江戸文学のほか、菊池は同校教授の上田敏から聞いたジョン・ミリントン・シングに強く惹かれ、他にもロード・ダンセイニオーガスタ・グレゴリーなどのアイルランド(愛蘭)戯曲のほとんどを読破した[1][17][18][21][22]

私は研究室にあつた脚本は、大抵読んだ。それは、東京の文科の図書室などには決してない新しいものばかりだつた。それが、京都大学にゐた第一の収穫だつた。 — 菊池寛「半自叙伝」[18]

アイルランド戯曲に傾倒した菊池は、〈愛蘭アイルランド人の民族的覚醒〉を築いたウィリアム・バトラー・イェイツ、シング、グレゴリーなどの〈郷土芸術〉に注目し[23][24]、彼らの〈愛蘭土国民文学運動〉である「アイルランド文芸復興運動」をモデルに、京都をダブリンに重ねて〈京都の芸術復興ルネッサンス〉を、「草田杜太郎」名義で『中外日報』で呼びかけたこともあった[24][25][26][27]

菊池は、欧州各国の中で一番日本に似ているのはアイルランドだと感じ、外国の中でアイルランドを最も好きになった[28][29]ケルト民族のアイルランドは、アングロサクソンのイギリスとは人種も歴史伝統も異なる〈全く違つた別な国〉であり〈英文学と愛蘭土文学とは豌豆真珠のやうに違つたもの〉だと菊池は比較した上で、〈欧州の人種の中で「物のあはれ」を知る国民は唯ケルト人〉だけだとしている[28][29]

愛蘭土は凡ての点に於て日本そつくりである。愛蘭土の戯曲に出て来る人物は孰づれも初対面とは思はれぬ程、日本人には馴染みの人達である。(中略)愛蘭土の戯曲に出て来る母親は欧州の戯曲に見るやうな自我的イゴチスチックな母親ではなくて、常に自分以外の人の事のみを心配して居る優しい母親である、兄弟喧嘩も日本そつくりのものである。 — 菊池寛「シングと愛蘭土思想」[28]

日本人と似た感情の動きや自然崇拝観を持つアイルランド人の中でも〈真に愛蘭土の生活を語り真に愛蘭土の思想を語るもの〉はシングであり、シングをアイルランドの劇作家の中で〈最も天才的で世界的な劇作家〉だとする菊池は[28]、シングの芸術の第一の特徴を、〈彼の作物には自然主義抒情主義乃至はロマンチシズムが微妙な混合を示して居る事〉だとしている[28]

また、菊池は〈シングは人生の戯曲的成分を掴み取る事を解した真正の戯曲家〉だとして、真実と同時に〈歓喜ジョイ〉を重んじたシングの戯曲は、英国の戯曲のような旧道徳の〈かび臭〉や新道徳の〈ペンキの悪臭〉とは無縁だと論じ、道徳主義から自由なだけでなく、なおかつ象徴主義からも自由で離れた作風であるとして、シングへの傾倒をみせている[30]

シングの人物は鋳掛師でも漁夫でも皆詩人であつてその台詞は皆詩である、がその言葉が不自然にも嫌味にも響かない、之は愛蘭土に生れたシングの特権である、此事はシング自身も認めて居る、(中略)シングは好んで醜悪な人生をも題材とする。そしてその醜悪な内から美を漁らうとする、彼の戯曲は美と醜との配列である。(中略)が、シングが大名を成した所以は彼が愛蘭土的である為ではなくして、今迄誰人もが探究しなかつた人間性のある方面を描き出して居る為である事は無論である。 — 菊池寛「シング論」[30]

シングは27歳から30歳まで(1898年から1902年)の毎年夏にアラン諸島イニシュマーン島英語版に滞在し、アラン諸島の風光や島民の暮らしぶり、民間伝承から創作の題材を得たが[31][32]、そのシングの『聖者の泉』(The Well of the Saints)や『海に騎りゆく者たち』(Riders to the Sea)などから作劇上の暗示を受けた菊池は、自身の故郷であり地方色豊かな讃岐香川県)を舞台にした『屋上の狂人』や、土佐高知県)の佐田岬に近い海岸を舞台にした『海の勇者』を書き上げた[1][2][22][27]

一幕物へのこだわり[編集]

シングの作品から多くを学んだ菊池寛は、作者の力量が試される一幕物の戯曲に惹かれ、登場人物の台詞の中の〈予備説明エキスポジション〉が力強く、極めて自然であるシングの『海に騎りゆく者たち』(Riders to the Sea)を〈近代劇中屈指の一幕物〉〈近代劇の名一幕物〉と絶賛した[33][34]。そして自身が創作する戯曲もできるだけ幕数を増やさないよう心がけ、一幕物の戯曲を理想としていた[2][35][36][37][38]

なるべくムダな台辞を云はせるな、なるべくムダな情景を描くなと云ふことは、戯曲創作の一番よい心掛であらう。戯曲その物が、人生のすがたのエッセンスである。人生をコンデンスすることである。その意味で、短くかければかけるほど、これに越したことはないのである。 — 菊池寛「戯曲研究 十、幕数」[35]

幕数の多い長編の戯曲でも劇的な事件が展開されるのはほぼ最後の幕であり、それまでの幕は境遇説明や性格描写などの準備的な場面の〈非劇的な部分〉が主であると菊池は説明しながら、〈大抵の題材は、作者に充分な手腕があれば、一幕に盛り得るもの〉だとし、戯曲を劇場で見物する立場からも一幕物の方が近代の繁忙な生活に適していると考えた[35][36]

ある主人公なり、また一団の人々の生活に於て、真に劇的な事件と云ふことは、さう度々起りはしない。我々の生活を考へて見ても、劇的な事件は、半生に一度一生に二三度しか起らない。そんな意味で、劇的な事件は、稀にホンの短時間の裡に起るのである。(中略)劇は劇的瞬間を書きさへすればいゝ訳であるから、いかなる劇的葛藤も一幕位しかの時間をしか要さないし、従つて、一幕で描き得ればこれに越したことはないのである。 — 菊池寛「一幕物に就て」[36]

しかし、一幕物は〈境遇説明〉と〈性格描写〉を表現するのが難しく、かといって〈筋を売るやうな台詞を、一言でも言わせることは、戯曲家の恥〉と考える菊池は、〈自然な会話の裡に、見物に些かの疑念をも起さずして境遇説明をやらねばならない〉とした[35][36]。また、一幕の中で登場人物の性格や個性を活写するには、〈片言隻句の中にも、出来る丈その性格の片鱗をでも現はさうと〉努力する必要があるとして、一幕物を書くことの困難さを〈一刀で相手を仕止める〉ことに喩えて語っている[35][36]

一幕物を書くことは、三幕物を書くよりも、もつとむつかしい。たゞ、一幕物と云へば、きはめて手軽にきこえるので、世に一幕物を志す人達が多いが、一幕物にこそ、凡ての劇の本質が宿つてゐること、あたかも一刀流に於て、「打込む太刀は真の一刀」を重んずるのと同じだ。一幕を以て、人生の一角を切り取ること、一刀で相手を仕止めるのと同じことだ。決してたやすく思ひわたるべきことではない。 — 菊池寛「一幕物に就て」[36]

こうした苦心を要する一幕物へのこだわりは、『屋上の狂人』『海の勇者』『父帰る』などの、主題を明確に出し、幕切れが印象的で鮮やかな作品に反映されている[2][35][37][38]

「幻影」「夢幻」勝利の主題[編集]

菊池寛は、日本の文壇で戯曲の創作がなされ始めた1909年(明治42年)頃に、欧州近代劇の正統な素地もなく、いきなりヘンリック・イプセンバーナード・ショーなどの〈思想劇問題劇〉が多く移入されたことは、日本の創作劇にとってあまり良くなく〈正当なる発達を妨げた〉とし[39][40]、さらにもう一つ、日本の創作戯曲の発達を阻害したものとして、アクションの稀薄な〈メーテルリンクなどの脈を引く気分劇情調劇〉を挙げ、なにも近代思想など盛らなくてもシングやロード・ダンセイニのような良い戯曲はいくらでも書けるはずだと考え、〈国民生活の中核に隠れて居る力強い深刻な題目〉を掴むことを戯曲創作の主眼とした[39][40]

イプセンやショオやハウプトマンなどの思想劇問題劇などは、うも本道を歩いて居る戯曲だとは思はれない。戯曲は、思想だとか問題などゝ云ふそんな不快な雑音に煩はされて居ない。純な人生の戯曲的表現ではないかと思ふ。戯曲には新しい思想を盛られなければならないと云ふやうな考へ方は、どれほど良い戯曲の発達を毒して居るか分らないと思ふ。(中略)戯曲と云ふものと生半可な近代思想と云ふものとが、同一不可分のものゝやうに思はれて居る。が所謂近代思想などゝ云ふものと少しも交渉しないでも、良い戯曲は幾何でもかけると思ふ。その例としては、シングやダンサニイなどを挙げてもよいと思ふ。日本の創作劇が変な新しがりを捨てゝ、もつと国民生活の中核に隠れて居る力強い深刻な題目を掴むやうに努力しなければ、とてもよい創作劇は発達しないと思ふ。 — 菊池寛「劇及劇場に就て」[39]

また、戯曲を創作する第一歩である〈主題テーマ〉を掴むことの重要性を語る中、〈主題が一歩進むとそれが一の思想にまで進む〉とした上で、『屋上の狂人』を創作する際に影響を受けたシングの『聖者の泉』(The Well of the Saints)の主題と思想について菊池は論じており、その主題を以下のように要約している[27][41]

幻影はある人々には生活の糧である。幻影を奪ふことは、さうした人々の生活を壊すことである。 — 菊池寛「戯曲研究 五、主題と人物」[41]

シングの『聖者の泉』のあらすじは、村人たちから美男美女だと嘘で褒められ、施しを受けながら暮らしている盲目の夫婦が、ある日村にやって来た聖者が飲ませた泉の奇蹟の力で目が見えるようになるが、夫婦が見たものは醜悪な現実だったため、奇蹟の効力が消えて再び盲目になった時に、再度聖者の奇蹟を受けることを拒否するという話で[27][30][41]、現実よりも幸福な〈幻影〉〈夢幻〉を望むという主題となっている[27][41][30]

こうした〈愛蘭土特有の空想の勝利、現実に対する夢幻の勝利〉や〈幻影復興現実忌避〉が描かれているシングの『聖者の泉』の主題は[30][42]、最後に、常人になることより狂人のままの人生をよしとする『屋上の狂人』の逆説的な主題に通じている[27][42]

作品評価・研究[編集]

※菊池寛の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

『屋上の狂人』は菊池寛の戯曲を代表する作品であるが[2][6]、第四次『新思潮』発表当時には、同人の久米正雄などが個人的に褒めていたくらいで、特に何の反響もない作品であった[1][43][44][45][46]。翌年に同誌に発表した『父帰る』も弘田親愛が感心していたという話を菊池は久米から間接的に聞いたのみで[45][47][注釈 2]、菊池の戯曲自体がほとんど無視されていた[1][45][46]

菊池は当時を振り返って、「『屋上の狂人』は久米が感心してくれたと云ふだけで、まだ原稿が売れさうな曙光はおろか一縷の望みもなかつた」と述懐している[43]。当時、『新思潮』の同人では芥川龍之介がいち早く文壇に認められ、その次に久米が続いていたが、菊池はまったく認められていなかった[48][49]。そのため、その後菊池は戯曲よりも小説の執筆に重点を置くようになったが[49][50]、それを勧めたともされる友人の江口渙は、当時の文壇には戯曲をあまり尊重しない傾向があったと語っている[10][49]

それは彼が小説よりもより多く戯曲をかいていたせいでもあり、その頃の文壇では戯曲をあまり尊重しない傾向がつよいためでもあった。だから『父帰る』や『屋上の狂人』のような名作を誰ひとり問題にする人がいなかった。そして、菊池寛は少なからず不遇であった。 — 江口渙「その頃の菊池寛 二 『忠直卿行状記』その他」[49]

しかし、菊池が小説家として文壇内で確かな地位を築いた後の1921年(大正10年)2月に『屋上の狂人』が舞台劇として14代目 守田勘彌2代目 市川猿之助らにより25日間の興行で初上演されると、高評価を博し一躍人気演目となっていった[2]歌舞伎でもなく新派でもない、新しい現代劇が長期興行の対象となるのは当時珍しいことであった[2]田中良による屋根などの舞台セットも当時としてはリアルで、三宅周太郎から好意的に劇評され、新鮮な感動を観客たちに与えたことが伝えられている[2]

江口渙は『新思潮』誌面で読んだ時には『父帰る』よりも優れていると思った『屋上の狂人』の初演舞台に関しては、俳優の演技のまずさもあり、あまり感動しなかったとして、非常に感激した『父帰る』の初上演を上回るものではなかったとしている[51]

巫女になった村田嘉久子のふん装が、へんにこぎれいすぎて、まるで奈良の春日神社のみこみたいで、原作にあるような田舎っぽい野性的な素朴なすごみを出せなかったのは失敗だった。その上、守田勘弥の屋根の上の狂人も、原作にあるような人間社会から一歩天上の世界へ逸脱したようなあの狂人のもつ独特な人間性の美しさがなく、むしろ、何か痴ほう症みたいな感じがつよかった。 — 江口渙「その頃の菊池寛 三 『父帰る』の初上演」[51]

菊池自身は初上演前から、『屋上の狂人』を〈自分として得意な作〉だとしており[52]、自分の戯曲の中で〈厭でないもの〉としても、まず『屋上の狂人』を筆頭にあげ、続いて『茅の屋根』『時の氏神』『恩讐の彼方に』『義民甚兵衛』『父帰る』を挙げている[53]

「屋上の狂人」は、自分として得意な作である。「藤十郎の恋」や「敵討以上」で自分の「戯曲家としての価値」を判断して呉れては困まる。が、「屋上の狂人」は、自分が戯曲家として立つ時の、第一の礎石である。自分が、どんな戯曲を書かうと思つて居るかは、これを読んで呉れゝば解ると思ふ。 — 菊池寛「自作序跋」[52]

森田草平は、『屋上の狂人』初上演から5年後に批評した中で、この作品を菊池が書くにあたって「人生の幸福は幻影の中にあらずして真実を見る所に在り」という真理に気づいていなかったのは情けないと批判した[27][42][54]

菊池はこれに対して〈いくら先輩でも無礼である〉とし、その「真理」を持つ近代劇の基調を知った上で、そうした〈現実過重〉の弊害の反動としてイェイツシングなどの〈幻影復興現実忌避〉の戯曲が出てきたことを指摘しながら反駁した[27][42]

こんな真理は近代劇の基調であり、殊にバアナアド・ショウの如き幻影破壊を以て第一の信条にしてゐるではないか。さうした現実過重の弊に対して起つたものが、幻影復興現実忌避のイエイツ、シングの徒ではないか。この二つが近代劇の第一波第二波ではないか。第二波に乗じてゐるものに、第一波を知らないだらうなどと、めちやくちやである。二階にゐるものは当然一階を通つてゐるのだ。 — 菊池寛「劇壇時事」(大正15年5月)[42]

また自然主義作家の田山花袋が、菊池のその後の戯曲『恋愛病患者』(1924年8月)について、「作者は父親の方に重きを置いてゐるが、あゝでなしに若い時代の方に共鳴した方が、ぐつと力を持つて来はしないか」と、父の立場ではなく、若き恋愛者の立場から書いたらもっと力強い作品になっただろうと批評したことにも菊池は触れて、若き恋愛者の立場で書かれた近代劇が多いことへの〈反動〉で書いたものが『恋愛病患者』なのだと反論し[42][55]、『屋上の狂人』もシングの〈反動〉に習ったものだと述べている[27][42]

「人生の幸福は幻影の中に在らずして真実を見るに在り」と、いかに、それについて多くの近代劇が作られたゞらうか。シングが「聖者の泉」をかき自分が(不倫をゆるせ)「屋上の狂人」を書くのはその反動だ。二階に居ないからと云つて、一階にゐるのぢやないのだ。三階へ上つてゐるのだ。 — 菊池寛「劇壇時事」(大正15年5月)[42]

鈴木暁世は、森田草平や田山花袋など、社会や人間の「真実」をそのままあからさまに自然主義的に描くことを信条とした作家らの立場からは『屋上の狂人』は、それに逆行するものとして捉えられたと解説し、森田や田山に対する菊池のこうした反駁や、シングに対する菊池の〈幻影復興〉への共鳴をみた上で、日本の近代劇に〈現実過重の弊〉を感じていた菊池が、それを超克するため〈幻影復興現実忌避〉のイェイツやシングの劇を「理論的支柱とした」と考察している[27]

翻訳者のグレン・W. ショーにより菊池の戯曲集『Tōjūrō's love and four other plays』が1925年(大正14年)に出版されると[注釈 3]、翌年3月のモーニング・ポスト紙に「A Dramatist of Japan」と題する菊池を紹介する記事が掲載され、「日本独自の伝統を継承」している菊池の独自性が好意的に評価されて「西洋はこれらの驚嘆すべき小戯曲から何かを学ぶべきであり、偉大な芸術の意義と美とがそれらにつまっている」と報じられた[27][57]。菊池はその評価に対して、自身の戯曲がシングの影響を受けていることを述べている[27][58]

矢野峰人1926年(大正15年)秋に初めてイェイツに会った際に、イェイツが「今最も深い興味を以て眺めて居る戯曲家は世界に菊池とピランデルロ二人あるのみだ」と言い、特に『屋上の狂人』に感心した旨を告げられたことを述懐しながら[22]、後日イェイツ夫妻が主宰する小劇団で『屋上の狂人』の英訳劇が上演されて成功を収めたことを語っている[22][27]

イエイツが特に「屋上の狂人」に感心したのは、この作の中に、真の叡智とか天啓とかは、現世的な理知に煩わされざる霊に宿るという彼一流の哲学を発見したためであるかも知れない。ともかく、イエイツがこれを非常に高く評価していた事は、その翌年私がダブリンを訪れた時、これが彼夫妻の主宰する素人玄人協同の小劇団によって上演された事実を発見した事によっても知られよう。 — 矢野峰人「菊池寛氏を憶う」[22]

イェイツは矢野に会った年の11月29日にアビー座でダブリン・ドラマ・リーグ公演として『屋上の狂人』を上演した[59]。ダブリン・ドラマ・リーグは街の商業劇場が取り上げないような「同時代のすぐれた外国の劇作家の作品をアイルランドの人々に紹介することを目的」としたもので[59]、菊池が日本的な劇作家としてイェイツに高評価されたことを意味するものであった[27]

テネシー・ウィリアムズも菊池の『屋上の狂人』を非常に気に入っていた外国戯曲家の1人で、1959年(昭和34年)9月に来日し三島由紀夫と対談した折に、『屋上の狂人』を自分が演出してアメリカで上演したい旨を伝えている[60]。ウィリアムズは菊池の『屋上の狂人』と、三島の『近代能楽集』の中のどれか1曲を三島が自作演出したものとを同時に併演すれば面白いのではないかと話をもちかけ、三島も菊池の戯曲の「シンプリファイされているところ」が好きだと応じている[60][注釈 4]

三島:菊池寛の芝居は、非常にシンプリファイされているところが好きです。たしかにテネシーの好きそうな芝居ですね。あの狂人の感受性の純粋性と、それを守ろうとする弟の純情とは、あなたの芝居のモチーフとしても決しておかしくない。
ウィリアムズ:「屋上の狂人」は読んだばかりなのだけれども、大へん気に入った。読みながらぜひアメリカで上演したいと思った。 — テネシー・ウィリアムズ・三島由紀夫の対談「劇作家のみたニッポン」[60]

ドナルド・キーンは、菊池の『父帰る』と『屋上の狂人』では、初演の成功がイプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』に匹敵するほどの感動を日本の観客たちに与えた『父帰る』の方が日本の近代劇として一般的には人気が非常に高いが、作品テーマや芸術性では『屋上の狂人』の方が優れていると評価しながら、「夕日の美しさを堪能できる狂人は、正気の男よりも幸せである」としている[6]

早川正信は、シング同様に菊池が傾倒した作家グレゴリーの喜劇『ヒヤシンス・ハルヴエィ』(Hyacinth Halvey)の後日譚作品『満月』(The Full Moon)の中で描かれている「狂人」と、菊池のいくつかの作品の中で描かれている「狂人」の主題との関連性について、菊池が〈愛蘭土劇場の教母〉と賞揚したグレゴリーへの「深い理解と愛情」を検証しながら[注釈 5]、『満月』に見られる「狂気」と「正気」といった世俗的価値観を逆転させる「位置の逆転」「立場の逆転」の手法が、菊池に戯曲創作にもたらした影響を論じている[64]

早川は、まず『屋上の狂人』より前に執筆された菊池の『恐ろしい父、恐ろしい娘』(1914年9月)や『狂ふ人々』(1915年2月)での「狂人」の主題を見た上で、その「狂人」をめぐる主題がより一層まとまった形で仕上がっている『屋上の狂人』における、グレゴリーの作品から菊池が感得した「位置の逆転」(人生や人間をみる視点の逆転)を解説し、結末部での「狂人」の美しい幻想や「『狂人』という幻覚に生きることへの幸せ」の両者の共通主題を看取している[64]。そしてそのグレゴリーから受けた逆転視点の発想は、その後に書かれる菊池の小説(『身投救助業』『病人と健康者』など)にも、多少変形されながらも生き続けていると論考している[64]

井上ひさしは、菊池の前半生に除籍や退学など様々なハプニングがあったものの、その際に必ずと言っていいほど「ところが」の幸運や助け船の出現によって運命が好転していったことに触れながら、「そのうちなんとかなるだろう」という処世訓を菊池は読者と共有していたと解説し、菊池のテーマ主義的作品に共通する「結末の明るさ」を指摘している[65]

そして井上は、菊池が自身の作品を読む人たちが「ごく普通の生活者」であることを知っていたとして、そうした大正近代の「教育を受けた大衆」が、文学青年の悩みのひけらかしのような自然主義の私小説を好まず、どんなに悲しい話でもおもしろく語られ結末に「一条の光明」がさしている菊池の作品を好んだ背景を語り[65]、当時の時代から『父帰る』や『屋上の狂人』などの戯曲に方言の讃岐弁を使用していたことに感心している[66]

菊池寛の芝居は、どんなに悲しい話でも、最後は人間を信じられるところがあるんじゃないですか。『屋上の狂人』のような悲惨な話でも、弟がきっと一生お兄さんの面倒をみながら何とか頑張って行くに違いないという救いがある。『父帰る』でも、父親を引き取ることに徹底して反対していた長男が、最後に「お父さんを探して来い」と叫ぶ。そういうのが好きなんです。「人間というのは信用出来ないよ」と言いながら、最後は、それでも信用しようと決断する。これが菊池寛の基本的なドラマツルギーです。別に言うと、これは、観客を不幸のまま帰さないというドラマツルギーで、これに僕は賛成なんです。 — 井上ひさし「菊池寛の今日的意味(解説にかえて)」[66]

小久保武は、『屋上の狂人』や『父帰る』などの菊池の戯曲が当時大人気となった理由について、それらが従来の歌舞伎劇や新派劇からは得られなかった「現代的なリアリズム」や、新劇に欠けていた「大衆性」を「簡潔な構成、平明なテーマを通じて観客に提供したから」だと考察し、そうした人生の問題に触れた主題を持つ菊池の『屋上の狂人』や『父帰る』は「大正後期において新鮮に感じられたのと同様に、現代においてもなおその新鮮さを失わずにいる」と評価している[2]

『屋上の狂人』や『父帰る』は、菊池の戯曲を代表する作品となり、中学や高校の演劇部などの素人舞台などでもよく演じられていた戯曲であるが、昭和の時代にも文士劇の定番演目にもなり、三島由紀夫石原慎太郎らも舞台で演じていた[61][66][67][68]

舞台公演[編集]

テレビドラマ化[編集]

おもな収録刊行本[編集]

  • 『心の王国』(新潮社、1919年1月8日)
  • 『藤十郎の恋』(新潮社、1920年4月10日)
  • 『父帰る・屋上の狂人』(新潮文庫、1952年10月)
  • 『ちくま日本文学027 菊池寛 1888-1948』(ちくま文庫、2008年11月10日)
    • 解説:井上ひさし「接続詞『ところが』による菊池寛小伝」。付録:年譜
    • 装幀:安野光雅
    • 収録作品:「勝負事」「三浦右衛門の最後」「忠直卿行状記」「藤十郎の恋」「入れ札」「ある抗議書」「島原心中」「恩讐の彼方に」「仇討三態」「仇討禁止令」「新今昔物語より」「弁財天の使」「好色成道」「好色物語より」「大力物語」「女強盗」「屋上の狂人」「父帰る」「話の屑籠」「私の日常道徳」
  • 『父帰る・藤十郎の恋――菊池寛戯曲集』(岩波文庫、2016年10月)
    • 編集・解説:石割透。付録:初出・上演について
    • カバー装画:細木原青起「恩讐の彼方に」(『漫画に描いた 文豪名作選集』三弘社、1938年12月)
    • 収録作品:「屋上の狂人」「奇蹟」「父帰る」「藤十郎の恋」「敵討以上」「時勢は移る」「岩見重太郎」「玄宗の心持」「袈裟の良人」「小野小町」「時の氏神」「入れ札」
  • 英語版『Tōjūrō's love and four other plays』(北星堂、1925年)
    • 英訳:グレン・W. ショー(Glenn W. Shaw
    • 収録作品:藤十郎の恋(Tōjūrō's love)、敵討以上(Better than Revenge)、屋上の狂人(The Housetop Madman)、父帰る(The Father returns)、奇蹟(The Miracle

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、京大に入学した翌年の1914年(大正3年)2月には、久米正雄成瀬正一らに誘われ、1人京都にいる菊池も第三次『新思潮』創刊同人に参加できた[17][18]。第三次『新思潮』創刊号の表紙は、山宮允の紹介でウィリアム・ブレイクの神秘幽玄の絵『日の老いたる者』となった[19]。菊池と芥川龍之介とは一高時代はそれほど親密ではなかったが、菊池が上京した折に江戸文学や海外文学に対する共通の興味で話が盛り上がり意気投合した[1][16]
  2. ^ 弘田親愛は『帝國文学』に短歌を寄稿していた人物である[1][47]
  3. ^ グレン・W. ショー(Glenn W. Shaw, 1886年1961年)は、アメリカ出身の教育者・翻訳者で、1913年(大正2年)に初来日し、大阪高等商業学校山口高等商業学校などで英語教師を務めながら、芥川龍之介の作品の翻訳などを行なった[27]。戦後の1950年(昭和25年)から1957年(昭和32年)にはアメリカ大使館文化情報官を務めた。日本名は「尚紅連」[56]
  4. ^ 三島由紀夫1955年(昭和30年)11月に文藝春秋祭りの文士劇で『屋上の狂人』の弟・末太郎の役をやっているが[61]、この1955年(昭和30年)頃、目黒区の三島の自宅を写真撮影のために師の林忠彦とともに訪問したカメラマンの齋藤康一は、その際に三島が『屋上の狂人』の主人公のポーズをとろうとしたことを述懐している[62]
    撮影は二階の書斎だったが、そのうち突然三島さんが立上がり、「屋上の狂人」をやりましょうかと、出窓の向うの玄関の屋根瓦に足を掛けた。「危いからいいですよ」と林さんと編集の人があわてて止めた。「青の時代」や「仮面の告白」から受けるイメージとは全然違ってチャメっ気のある人だなあと思った。折角なのにと残念でもあった。 — 齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」[62]
  5. ^ 菊池は、仲木貞一が1914年(大正3年)5月の『早稲田文学』に載せたグレゴリー作品の翻訳「喜劇ヒヤシンス・ハルヴェイ」(1914年)に誤訳が多数あるのをすぐさま発見し、〈グレゴリー夫人虐殺される〉と題する憤慨の言を表明しつつ指摘して彼女の作品に対する並々ならぬ思い入れを見せた[1][63][64]
    仲木貞一氏はヒヤシンス・ハルヴェイを飜訳する事に依て、グレゴリー夫人を虐殺した。否虐殺でなくて虐殺以上の恥辱を与へたのだ、美しいグレゴリー夫人の顔に五十四ヶ所の傷を附けてそれ芸術座と云ふ舞台でさらし物にするさうだ。ヒヤシンス、ハルヴェイは百や二百に誤訳を包容して然かも平然たるダンヌンツィオの諸作や、厖大なる露西亜物とは違ふ。一つの僅かな傷さへ堪へがたい四十四頁の小曲である。児役の心臓のやうに繊細な脚本なのだ。(中略)我等愛蘭文学愛好者の為に泣く。 — 草田杜太郎(菊池寛)「『ヒヤシンス・ハルヴェイ』誤訳早見表」[63]
    これ以降「草田杜太郎」という名は翻訳をする者の間で恐慌を巻き起こし、菊池の存在は一目置かれるものとなった[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「第一編 菊池寛の生涯 三、作家修業時代」(小久保 2018, pp. 51–70)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「第二編 作品と解説――屋上の狂人」(小久保 2018, pp. 152–161)
  3. ^ a b 「学生時代――友と友の間」(アルバム菊池 1994, pp. 16–27)
  4. ^ a b c d e f g h 「解題」(菊池・戯曲1 1993, p. 598)
  5. ^ 「屋上の狂人」(第四次・新思潮 1916年5月号・第1年第3号)。菊池・戯曲1 1993, pp. 70–78、ちくま027 2008, pp. 402–422、父帰る 2016, pp. 5–22に所収
  6. ^ a b c d 「演劇――新派と新劇 『新思潮』の劇作家」(キーン現代9 2012, pp. 101–109)
  7. ^ a b 「第二編 作品と解説――父帰る」(小久保 2018, pp. 116–129)
  8. ^ a b c 石割透「解説」(父帰る 2016, pp. 315–330)
  9. ^ a b c 「初出・上演について」(父帰る 2016, pp. 331–333)
  10. ^ a b 「第一編 菊池寛の生涯 四、新進作家からジャーナリストへ」(小久保 2018, pp. 71–93)
  11. ^ 「第十五章 菊池寛『文藝春秋』を創刊 〈8〉-〈10〉」(文壇史 2010, pp. 64–72)
  12. ^ a b 「作品案内――戯曲『屋上の狂人』一幕物」(小林 2007, pp. 161–164)
  13. ^ 「第一編 菊池寛の生涯 二、青春放浪時代」(小久保 2018, pp. 31–50)
  14. ^ a b 「第十五章 菊池寛『文藝春秋』を創刊 〈2〉-〈7〉」(文壇史 2010, pp. 46–64)
  15. ^ a b c 「半自叙伝」(文藝春秋 1928年12月号、1929年1月号)。菊池・随想23 1995, pp. 41–48、半自叙伝 2008, pp. 80–95に所収
  16. ^ a b c 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年2月号、5月号)。菊池・随想23 1995, pp. 48–52、半自叙伝 2008, pp. 95–105に所収
  17. ^ a b c d e f 「京洛」(杉森 1987, pp. 86–111)
  18. ^ a b c d e f 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年6月号-8月号)。菊池・随想23 1995, pp. 34–37、半自叙伝 2008, pp. 105–119に所収
  19. ^ 「大正文学の展開(『奇蹟』『仮面』第三次・第四次『新思潮』)」(大正アルバム 1986, pp. 58–67)
  20. ^ a b 「無名作家の日記」(中央公論 1918年7月号)。菊池・短編小説2 1993, pp. 162–181、半自叙伝 2008, pp. 155–196に所収
  21. ^ 「愛蘭土劇手引草」〈改題後:愛蘭土劇紹介〉(新思潮 1916年10月号)。菊池文学・6 1960, pp. 527–534、菊池・評論22 1995, pp. 317–321に所収
  22. ^ a b c d e f 矢野峰人「菊池寛氏を憶う」(世界人 1948年5月号)。半自叙伝 2008, pp. 263–284に所収
  23. ^ 「大阪芸術創始」(不二新聞 1914年2月11日号)。菊池・評論22 1995, pp. 31–33に所収
  24. ^ a b 「京都芸術の為に」(中外日報 1914年5月8日号)。菊池・評論22 1995, pp. 42–43に所収
  25. ^ 「二個の感想」(中外日報 1914年6月6日-7日号)。菊池・評論22 1995, pp. 47–48に所収
  26. ^ 片山宏行「《菊池寛文学のおもしろさ》作品のうしろ影 十」(菊池・感想24 1995月報「菊池寛全集通信・18」pp.1-9)
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 鈴木 2011
  28. ^ a b c d e 「シングと愛蘭土思想」(新潮 1917年12月号)。菊池・評論22 1995, pp. 334–338に所収
  29. ^ a b 「愛蘭土人と日本人」(新小説 1920年6月号)。菊池文学・6 1960, pp. 164–165、菊池・評論22 1995, pp. 442–443に所収
  30. ^ a b c d e 「シングの戯曲に対するある解説」〈改題後:シング論〉(帝國文学 1917年11月号)。菊池文学・6 1960, pp. 535–551、菊池・評論22 1995, pp. 323–333に所収
  31. ^ 「第一部-第四部」(アラン島 2005, pp. 5–260)
  32. ^ 栩木伸明「訳者あとがき」(アラン島 2005, pp. 261–275)
  33. ^ 「戯曲研究 七、予備説明エキスポジション――舞台以前」(『文藝講座』文藝春秋社、1924年9月-1925年5月)。菊池・評論22 1995, pp. 113–121に所収
  34. ^ 「文壇春秋――月評とシング」(新潮 1921年6月)。菊池文学・6 1960, p. 156、菊池・評論22 1995, p. 461に所収
  35. ^ a b c d e f 「戯曲研究 十、幕数」(『文藝講座』文藝春秋社、1924年9月-1925年5月)。菊池・評論22 1995, pp. 127–129に所収
  36. ^ a b c d e f 「一幕物に就て」(演劇新潮 1924年2月号)。菊池文学・6 1960, pp. 485–487、菊池・評論22 1995, pp. 567–568に所収
  37. ^ a b 「一幕物戯曲論」(『新文藝思想講座』文藝春秋社、1928年9月-12月)。菊池・評論22 1995, pp. 176–238に所収
  38. ^ a b 佐伯彰一「『劇的人間』のドラマチックな青春」(菊池・評論22 1995, pp. 632–648)
  39. ^ a b c 「劇及劇場に就て」(解放 1919年6月号)。菊池文学・6 1960, pp. 513–518、菊池・評論22 1995, pp. 538–542に所収
  40. ^ a b 川端康成「解説」(『現代日本小説大系 31巻』河出書房、1949年10月)。「芥川龍之介と菊池寛」として川端随筆集 2013, pp. 291–324に所収
  41. ^ a b c d 「戯曲研究 五、主題と人物」(『文藝講座』文藝春秋社、1924年9月-1925年5月)。菊池・評論22 1995, pp. 107–111に所収
  42. ^ a b c d e f g h 「劇壇時事」(演劇新潮 1926年5月号)。菊池・評論22 1995, pp. 592–593に所収
  43. ^ a b 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年8月号)。菊池・随想23 1995, pp. 57–59、半自叙伝 2008, pp. 114–119に所収
  44. ^ 「続・半自叙伝」(新潮 1947年5月号)。菊池・随想23 1995, pp. 67–72、半自叙伝 2008, pp. 136–145に所収
  45. ^ a b c 「僕の戯曲について」(『菊池寛全集 第3巻』平凡社、1929年6月)月報。菊池・随想23 1995, pp. 88–89に所収
  46. ^ a b 「仮面を剥ぐ」(杉森 1987, pp. 192–224)
  47. ^ a b 「『父帰る』の事」(文藝春秋 1923年3月号)。菊池文学・6 1960, pp. 132–137、菊池・随想23 1995, pp. 76–79
  48. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年10月号)。菊池・随想23 1995, pp. 61–63、半自叙伝 2008, pp. 124–127に所収
  49. ^ a b c d 「その頃の菊池寛 二 『忠直卿行状記』その他」(江口 1995, pp. 124–132)
  50. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年11月号-12月号)。菊池・随想23 1995, pp. 63–67、半自叙伝 2008, pp. 127–136に所収
  51. ^ a b 「その頃の菊池寛 三 『父帰る』の初上演」(江口 1995, pp. 133–139)
  52. ^ a b 「自作序跋」(『藤十郎の恋』新潮社、1920年4月10日)。菊池・随想23 1995, pp. 95–96に所収
  53. ^ 「自作上演のこと」(『菊池寛全集 第4巻』平凡社、1929年8月)月報。菊池・随想23 1995, pp. 90–91に所収
  54. ^ 森田草平「戯曲の書ける男書けない男」(新潮 1926年4月号)。菊池・評論22 1995, p. 592
  55. ^ 「雑記四つ――少し情ない」(演劇新潮 1924年9月号)。菊池・評論22 1995, pp. 581–582に所収
  56. ^ 『20世紀西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995年)コトバンク「グレン・W. ショー」
  57. ^ 「モーニング・ポースト紙の菊池寛評」(読売新聞 1926年5月17日-19日号)。鈴木 2011, pp. 37–38に抜粋掲載
  58. ^ 「モーニング・ポースト紙の批評原文を読んで」(読売新聞 1926年5月21日号)。鈴木 2011, p. 38に抜粋掲載
  59. ^ a b c 杉山寿美子『アベイ・シアター――アイルランド演劇運動』(研究社、2004年12月)。鈴木 2011, p. 38に抜粋掲載
  60. ^ a b c テネシー・ウィリアムズ三島由紀夫「劇作家のみたニッポン」(芸術新潮 1959年11月号)。三島39巻 2004, pp. 328–341に所収
  61. ^ a b c 「昭和30年11月1日」(三島42巻 2005, p. 199)
  62. ^ a b 齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」(三島24巻 2002月報)
  63. ^ a b 「『ヒヤシンス・ハルヴェイ』誤訳早見表」(第三次・新思潮 1914年6月号)。菊池・評論22 1995, pp. 60–70に所収
  64. ^ a b c d 早川 1994
  65. ^ a b 井上ひさし「接続詞『ところが』による菊池寛小伝」(『菊池寛の仕事――文藝春秋、大映、競馬、麻雀……時代を編んだ面白がり屋の素顔』文春ネスコ、1999年1月)冒頭文。ちくま027 2008, pp. 452–459に所収
  66. ^ a b c 井上ひさし・上林吾郎「菊池寛の今日的意味(解説にかえて)」(菊池・戯曲1 1993, pp. 607–621)
  67. ^ a b 石原慎太郎「わが人生の時の人々――第6回 文士劇の迷優たち」(文藝春秋 2000年8月号)。石原 2002, pp. 149–170、道又 2013, pp. 32–48に所収
  68. ^ 北條誠「素顔の三島由紀夫――君あしたに去りぬ」(『新評 臨時増刊』1971年1月号)。道又 2013, pp. 73–87に所収
  69. ^ 「第四章『金閣寺』の時代――文士劇に出演」(年表 1990, p. 90)
  70. ^ 文藝春秋70年 1991, p. 331
  71. ^ https://www.siscompany.com/produce/lineup/13chichikaeru/index.htm シス・カンパニー公演〜2本立て上演〜父帰る/屋上の狂人](SIS Companyホームページ)
  72. ^ a b テレビドラマデータベース「屋上の狂人」

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]