中央公論

中央公論
1964年3月号の新聞広告
刊行頻度 月刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
出版社 中央公論新社
刊行期間 1887年8月 – 現在
ウェブサイト http://www.chuokoron.jp/
特記事項 創刊当初は『反省会雑誌』。1892年から『反省雑誌』、1899年から現在のタイトルに改称。
テンプレートを表示

中央公論』(ちゅうおうこうろん)は、1887年に日本で創刊され、現在も発行されている月刊総合雑誌である。1999年までは中央公論社(旧社)、以降は中央公論新社が発行する。

歴史[編集]

反省会雑誌/反省雑誌[編集]

前身は、普通教校(西本願寺系、龍谷大学の前身)で高楠順次郎らの学生有志が禁酒と仏教徒の綱紀粛正を目的として1886年に組織した「反省会」の会員証を兼ねた機関誌『反省会雑誌』[1]禁酒を主張したり、青年の生き方を探る雑誌だった。1887年8月に第1号(首巻号)を発刊、同年12月10日から定期刊行を開始[2]1892年に東京に進出し、『反省雑誌』と改題(「会」の字がない)、口絵を尾形月耕月岡耕漁らが描いていた。

1890年には、反省会の創立から数えた(本誌の創刊からではない)「第5年第○号」という号数表記がなされるようになった[3]

なお、本誌の通巻番号は『反省会雑誌』の第2号から計算されている。『反省会雑誌』の第1号は雑誌自体に「第1号」と明記されているにもかかわらず、「首巻号」として通巻に算入していない[3]

中央公論(戦前)[編集]

1899年(明治32年)1月に『中央公論』と改題した。次第に宗教色はなくなり、小説や評論などを掲載するようになった。明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介菊池寛をいち早く起用した。

1912年(大正元年)11月号では平塚らいてうが「自分は新しい女である」と主張する意見を掲載。新しい女に関する議論が起きる契機となった。このため、翌年には文部省が「反良妻賢母主義的婦人論」であるとして取り締まりを行っている[4]。このほか、大正期には吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした。また、小説欄は新人作家の登竜門であった。

マルクス主義が流行し、1919年(大正8年)、より急進的な『改造』が発刊されると、中道的な路線となる。このころには、中央公論に作品が掲載されることは、人気作家の仲間入りと見なされるまでになった。

1938年(昭和13年)、3月号に石川達三の『生きてゐる兵隊』を掲載したところ、発売日直前に新聞紙法第23法に基づき発売禁止処分を受ける[5]。後日、発行人の牧野武夫、編集人の雨宮庸蔵が起訴され[6]、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

第二次世界大戦中、横浜事件が起こる中で、1944年、軍部の勧告により『改造』と共に廃刊される。 2月には編集方針が『改造』とともに左翼的であったとの理由で中央公論社からは小森田一記編集長ほか7人が検挙された。小森田は神奈川警察署の16畳の監房に26人が押し込められる劣悪な環境で1年7か月間勾置される間に起訴された。逮捕者は戦後の1945年9月15日、左翼的意図のもとに雑誌を編集したという理由で禁錮2年、執行猶予3年の刑を言い渡された。公判の後、判事は「近々恩赦もある、この辺で我慢してくれ」と申し入れたという[7]

戦後[編集]

終戦後の1946年に復刊した。現在に至るまで様々な評論、小説が掲載される総合雑誌として継続している。

1960年同誌に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」のため、右翼によって社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡する事件が起こり(風流夢譚事件)、続けて同社が『思想の科学』の天皇制特集号の刊行をとりやめるなどして、天皇制への批判は同誌ではタブーとなった[8]

1970年12月号で創刊100号を、1985年1月号で「第100年第1号」をそれぞれ迎えた[3]

1999年、発行元の株式会社中央公論社が経営危機に陥り、旧中央公論社の出版・営業など一切の事業を読売新聞社(現・読売新聞東京本社読売新聞グループ本社)の全額出資で設立された新会社「中央公論新社」に譲り受ける(旧中央公論社は特別清算され、解散時の商号は『株式会社平成出版』と称していた)。これに伴い、読売新聞販売店でも『中央公論』を取り扱うようになった。

読売新聞グループの傘下に入り、当時の読売新聞社が発行する男性向け月刊総合誌である『This is 読売』(1990年創刊)があるものの、『中央公論』と同じ論壇誌がグループ内で競合することになったことから、『This is 読売』は1999年3月に廃刊され、『中央公論』が存続誌となったが、上記の経緯上それまでの『中央公論』における中道的論調は排され、『読売ウィークリー』などにおける読売新聞社系雑誌の論調であった右派保守的な色彩を帯びるようになった[9]。実態としては『This is 読売』が老舗雑誌の『中央公論』に吸収統合される形となった。

嶋中事件(風流夢譚事件)[編集]

1960年(昭和35年)に『中央公論』に深沢七郎風流夢譚」が掲載されたことに端を発する嶋中事件は、岸信介首相襲撃事件、浅沼稲次郎暗殺事件など、安保闘争に対抗するかのような一連の右翼テロの一つであった。

読者数[編集]

『中央公論』の1954年以後の最大実売数は14万部弱(1965年11月号の80周年記念号と1970年12月号)である[10]。実売数は、1960年-1963年頃までは10万部弱、1963年9月頃から10万部を超え、1965年末には14万部に達した。驚異的な売り上げと言われた『世界』の「講和問題特集号」が公称15万部であり、当時の『中央公論』はそれに近い部数を毎月得ていた[11]

愛読月刊誌ランキング
毎日新聞社『全国読書世論調査』「買って読む」(1947年〜1986年)[12]
実施年 世界 中央公論 改造 文藝春秋
1947 調査無し 調査無し 調査無し 調査無し
1948 24位 14位 15位 8位
1949 ランク圏外 12位 13位 8位
1950 26位 10位 12位 3位
1951 23位 11位 13位 1位
1952 21位 9位 13位 2位
1953 16位 11位 17位 2位
1954 15位 11位 19位 2位
1955 15位 12位 廃刊 2位
1956 18位 12位 廃刊 2位
1957 18位 11位 廃刊 2位
1958 ランク圏外 12位 廃刊 3位
1959 19位 10位 廃刊 3位
1960 19位 9位 廃刊 2位
1961 19位 15位 廃刊 2位
1962 19位 11位 廃刊 2位
1963 29位 12位 廃刊 2位
1964 20位 10位 廃刊 2位
1965 23位 12位 廃刊 1位
1966 19位 9位 廃刊 1位
1967 17位 10位 廃刊 1位
1968 21位 10位 廃刊 1位
1969 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1970 25位 25位 廃刊 1位
1971 23位 13位 廃刊 1位
1972 27位 12位 廃刊 2位
1973 29位 14位 廃刊 1位
1974 ランク圏外 17位 廃刊 1位
1975 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1976 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1977 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1978 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1979 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1980 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1981 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1982 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1983 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1984 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1985 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1985 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
毎日新聞社『全国読書世論調査』「いつも読む」(1947年〜1986年)[12]
実施年 世界 中央公論 改造 文藝春秋
1947 2位 3位 5位 6位
1948 13位 15位 12位 7位
1949 22 12位 13位 8位
1950 26位 10位 13位 3位
1951 22位 12位 14位 2位
1952 ランク圏外 9位 14位 1位
1953 18位 12位 19位 3位
1954 16位 12位 18位 3位
1955 18位 13位 廃刊 3位
1956 20位 12位 廃刊 3位
1957 19位 12位 廃刊 3位
1958 ランク圏外 12位 廃刊 4位
1959 20位 10位 廃刊 4位
1960 20位 10位 廃刊 2位
1961 19位 11位 廃刊 2位
1962 22位 12位 廃刊 2位
1963 33位 13位 廃刊 2位
1964 22位 12位 廃刊 1位
1965 23位 12位 廃刊 1位
1966 22位 10位 廃刊 1位
1967 18位 10位 廃刊 1位
1968 24位 9位 廃刊 1位
1969 22位 9位 廃刊 1位
1970 27位 17位 廃刊 1位
1971 27位 12位 廃刊 1位
1972 27位 15位 廃刊 2位
1973 31位 11位 廃刊 1位
1974 ランク圏外 18位 廃刊 1位
1975 37位 17位 廃刊 1位
1976 50位 27位 廃刊 1位
1977 47位 16位 廃刊 1位
1978 ランク圏外 27位 廃刊 1位
1979 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1980 調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1981 ランク圏外 21位 廃刊 1位
1982 ランク圏外 35位 廃刊 1位
1983 ランク圏外 ランク圏外 廃刊 1位
1984 ランク圏外 39位 廃刊 1位
1985 ランク圏外 ランク圏外 廃刊 1位
1985 ランク圏外 ランク圏外 廃刊 1位

評価・批判[編集]

『朝日新聞』論壇時評[編集]

三島由紀夫は、『中央公論』1968年7月号で70枚の論文「文化防衛論」を発表したが、小汀利得との対談で以下のように述べている。

読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。朝日は長洲一二さんがやっていますが一行もとりあげないし、毎日は社内記者がやっていますが、やはり一行もふれない。そうすると、一つの現象があって、この目鼻立ちがいいか悪いかわかりませんが、そこに人間がいることは確かなんですね。それを黙殺するということは、たぶんに意識的だ。意識的な態度にちがいないと思うのは、あるいは私のウヌボレかも知れません。その辺が、こっちがウヌボレで、つまり偏向だという場合と、それから実際に偏向である場合の区別がつけにくいんですね。これは実にむずかしい。私がそんなことをいうと、「あの野郎はつまらんものを書きやがって、ウヌボレやがって、とり上げられないのは当たり前だ」ということになる。じゃ第三者から見た場合はどうかというと、その第三者の中に右も左もいる。いいという奴と、黙殺するのが当然という奴がいるかもしれない。第三者だって公平とはいえない。言論の偏向ということは実にむずかしい。 — 『尚武のこころ』p4-p5「天に代わりて」

辻村明による『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)の量的分析は以下のようになる[13]

雑誌別言及頻度
  1. 『世界』1390
  2. 『中央公論』1072
  3. 『朝日ジャーナル』(注:1959年3月15日号創刊)556
  4. 『文藝春秋』467
否定的に取り上げらた割合
  1. 『改造』19%
  2. 自由』15%
  3. 『文藝春秋』13%
  4. 『中央公論』10%
  5. 『世界』5%

『朝日新聞』論壇時評において『中央公論』は多く取り上げられているが、否定的に取り上げられるケースが多く、辻村明は以下のように評している[14]

『中公』も現実主義路線として批判されることが多かったので、このような悪い評価が比較的高くなるのであるが、『文春』『自由』となると、反左翼的、あるいは右翼反動的な雑誌として、悪い評価が一層高くなっている。『自由』が目の仇にされている様子が窺われる。(中略)『諸君!』『正論』も『自由』とほぼ同じ傾向の雑誌であり、ほとんど論壇時評にとりあげられないが、(中略)編集方針が論壇時評の担当者の意に添わないことの結果でもあろう。それはやはり比較的若い『現代の芽』や『現代の理論』がベストテンに入っていることと対照的である。 — 「朝日新聞の仮面」『諸君!』1982年1月号

1981年1月(高畠通敏)〜2009年2月(松原隆一郎)まで論壇時評者14人の言及した上位15誌は以下となる[15]

朝日新聞論壇時評言及頻度(1981年1月〜2009年2月)[15]
順位 雑誌名 総数 肯定的言及 否定的言及
1 世界 460 93.7% 6.3%
2 中央公論 355 85.6% 14.4%
3 エコノミスト 222 95.5% 4.5%
4 文藝春秋 143 90.2% 9.8%
5 朝日ジャーナル 91 98.9% 1.1%
6 Voice 80 86.3% 13.8%
6 諸君! 80 82.5% 17.5%
8 論座 73 89.0% 11.0%
9 現代思想 51 94.1% 5.9%
9 週刊東洋経済 51 92.2% 7.8%
11 月刊現代 46 93.5% 6.5%
12 月刊Asahi 39 94.9% 5.1%
13 アスティオン 34 97.1% 2.9%
13 34 85.3% 14.7%
15 正論 33 84.8% 15.2%

相変わらず、『世界』と『中央公論』が多く取り上げられており、論壇時評者14人のうち9人が最も多く言及したのは『世界』であり、残りの論壇時評者の多くは『中央公論』を最も多く言及したが、その場合は『世界』の言及頻度は2位となる[16]

歴代編集長[編集]

氏名 就任年 退任年
武田福松 1899年 1903年
麻田駒之助 1904年
高山覚威 1905年
麻田駒之助 1906年 1912年
滝田樗陰 1912年 1925年
高野敬録 1925年 1926年
嶋中雄作 1927年 1928年 主幹
木佐木勝 1927年 1929年
雨宮庸蔵 1929年 1932年
荒川竹志 1932年
佐藤観次郎 1933年 1936年
雨宮庸蔵 1937年 1938年
小森田一記 1938年 1940年
松下英麿 1940年 1941年
畑中繁雄 1941年 1943年
松下英麿 1943年 1944年
蠟山政道 1945年 1946年
畑中繁雄 1946年 1947年
山本英吉 1947年 1949年
篠原敏之[注 1] 1949年 1953年
藤田圭雄 1953年 1954年
嶋中鵬二 1954年 1957年
竹森清 1957年 1960年
嶋中鵬二 1961年
笹原金次郎 1961年 1965年
宮脇俊三 1965年 1967年
粕谷一希 1967年 1970年
島村力 1970年 1972年
笹原金次郎 1972年 1973年
粕谷一希 1973年 1976年
青柳正美 1976年 1983年
望月重威 1983年 1985年
近藤大博 1985年 1988年
平林孝 1988年 1990年
青柳正美 1990年 1991年
宮一穂 1991年 1997年
平林敏男 1997年
湯川有紀子 1997年 1999年
宮一穂 1999年 2001年
河野通和 2001年 2004年
間宮淳 2004年 2011年
木佐貫治彦 2011年 2014年
安部順一 2014年 2016年
齋藤孝光 2016年 2018年

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 俳人篠原梵

出典[編集]

  1. ^ 平井金三における明治仏教の国際化に関する宗教史・文化史的研究吉永進一ほか、科研報告書、平成 16年度 ~18年度
  2. ^ “長寿”雑誌と雑誌の起源、出版科学研究所、2008年1月10日。
  3. ^ a b c 廣瀬誠『図書館と郷土資料』桂書房、1990年初版、1991年再販、181-182頁。
  4. ^ 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p.384 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
  5. ^ 生きてゐる兵隊掲載の中央公論を発禁『東京朝日新聞』(昭和13年2月19日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p11 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  6. ^ 発行人・編集人ともに起訴される『東京朝日新聞』(昭和13年8月5日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p11
  7. ^ 中央公論・改造両社解散の裏の弾圧判明『朝日新聞』(昭和20年10月9日)『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p762-p763
  8. ^ 粕谷一希『中央公論社と私』より
  9. ^ 佐藤都日本の総合雑誌3誌の数量・内容分析からみる日本人の中国に対する関心の変遷」『Sauvage : 北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集』第8号、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集制作委員会、2012年3月、100-108頁。 p100
  10. ^ 竹内 2011, p. 81.
  11. ^ 竹内 2011, p. 64.
  12. ^ a b 竹内 2011, p. 82.
  13. ^ 竹内 2011, p. 117.
  14. ^ 竹内 2011, p. 119.
  15. ^ a b 竹内 2011, p. 446.
  16. ^ 竹内 2011, p. 447.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]