ハリー・ウェスレイク

ハリー・ウェスレイク
Harry Weslake
生誕 (1897-08-21) 1897年8月21日
イギリスの旗 イギリス
デヴォン エクセター[1]
死没 (1978-09-03) 1978年9月3日(81歳没)
イギリスの旗 イギリス
[1]
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 自動車エンジン技術者
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ハリー・ウェスレイク(Harry Weslake、1897年8月21日[1] - 1978年9月3日[1])はイギリスの自動車技術者である。レーシングエンジンビルダーのウェスレイク英語版を創業したことで知られる。

経歴[編集]

父親ヘンリー・ジョン・ウェスレイクは、ガスメーターの製造会社であるウィリー・アンド・カンパニー社(Willey and Co.)という、地元エクセターでは大きな会社を営んでいた人物で、ウェスレイクはその次男として生まれた[1]

ウェスレイクは勉強よりもスポーツを好み、学生時代に自転車を手に入れたが、ほどなく、オートバイが欲しくなったことで、自身で作ろうと考えた[1]。ウェスレイクは、自転車の後輪の横にエンジンで駆動する補助輪1輪をつけたサイドカーのようなオートバイを考案した[1]。この「オートバイ」は設計したのみで、父親が資金援助を渋ったため、実際に製造はしなかったが、これは後年登場する似たようコンセプトのウォール・オートホイール英語版に先んじるものだった[1]

見習い期間[編集]

1912年、15歳の時に運転免許証を取得し、この時期に父親のウィリー・アンド・カンパニー社で見習いとして働き始めた[1]。同社では、父の計らいで、工具室、製図鋳物、製作といったあらゆる部門で経験を積み、これが後のエンジニアとしてのウェスレイクの基礎となる[1]

1914年9月に第一次世界大戦が始まると、ウェスレイクはイギリス陸軍デヴォンシャー連隊英語版にすぐさま志願したが、開戦直後であり、ウィリー・アンド・カンパニー社の仕事も既に持っているということが勘案され、志願の除外を受ける[1]

1915年から通勤用にオートバイに本格的に乗り始め、レースにも興味を持ち、まずはヒルクライムへの参加を始め、余暇はオートバイを改造して過ごすようになった[1]

1916年、18歳の時に改めてイギリス陸軍航空隊(2年後にイギリス空軍に改組)に志願し、この時は認められ、ヘイスティングスに配属されてパイロット候補生となった[1]。候補生の訓練には内燃機関についての講習が含まれており、ウェスレイクは筋の良さを認められ、教官から航空エンジン用のキャブレターの設計試作を指示され、この時に初めてキャブレターの設計を行った[1]

このキャブレターは優秀で、ウェスレイクはそのアイデアを基に熟成を進め、燃料を噴霧する「センスプレー」(Senspray)という機構を備えたキャブレターを設計・開発し、1918年にその特許を取得した[1]

Wex[編集]

1919年に除隊したウェスレイクは、ロンドンにて、キャブレター製造会社のウェックス・キャリブレーター社(Wex)を創業した[1]

この時期のウェスレイクは主にオートバイのエンジンを手掛け、エンジンの中の燃焼ガスの噴流に着目し、その流量を計測・試験し、どういったアプローチが効果的に機能し、あるいは機能しないのか、その感覚を磨いていった[1]

この時期に、ウェスレイクはウォルター・オーウェン・ベントレーに雇われ、エンジン出力の低さに悩んでいたレース用のベントレーエンジンの開発コンサルタントを務めた[1]。ウェスレイクは、オートバイ用エンジンと同様、エンジン内の気流のテストと調整を行うことで、ベントレーのレース用エンジンの出力を従来よりも20%から40%は向上させた[1]

こうした改良が奏功し、ベントレーは、1929年のル・マン24時間レースで総合優勝から4位までを独占する圧勝をし、さらに、1930年のル・マン24時間レースでも1-2フィニッシュを達成した[1]

SSカーズ / ジャガー[編集]

XK120に搭載されたXKエンジン

1934年[2]ウィリアム・ライオンズと契約を結び、SSカーズのためにコンサルタントとして働き始めた[1]。この際、それまでのSSカーズの2.5リッター直列6気筒エンジンの最大出力は20馬力程度だったが、ウェスレイクはそれを95馬力まで引き上げることを約束した[1]

1935年に同社に入社したウィリアム・ヘインズ英語版とも協力し、2.7リッターのエンジンを開発し、目標を上回る102馬力を発生させることに成功した[1]。この改良について、従来はサイドバルブだったシリンダーヘッドを、オートバイ用エンジンからの着想で、オーバーヘッドバルブ(OHV)に変更したことが出力向上の決め手となった[1]。このエンジンは、スポーツカーの「SS100」に搭載された[1]

ウェスレイクは第二次世界大戦(1939年 - 1945年)の戦時中もSSカーズへの協力を続け、戦後の1945年に同社が「ジャガー」に改名された後も関与し[注釈 1]、ヘインズやウォルター・ハッサン英語版と協力してジャガー・XK120XKエンジンも手掛けた[2]。ウェスレイクはこのエンジンをさらに発展させ、1955年のル・マン24時間レースで上位3位を独占したジャガー・Dタイプにもこのエンジンが搭載された[2]

ウェスレイク[編集]

1947年、サセックス州(現在のイースト・サセックス)のライにファクトリーを建設し、ウェスレイク社(Weslake and Co, Ltd.)を設立した[1]

この会社はオースティンオースチン・ヒーレーコンノートコヴェントリー・クライマックスデイムラーHWM、ジャガー、MGヴァンウォールウーズレーといった、イギリスの主だったエンジン製造メーカーのほとんどと取引した[1]

ヴァンウォール[編集]

F1コンストラクターのヴァンウォールを設立したトニー・ヴァンダーヴェルは、少年時代の1930年代からウェスレイクの活躍を知っていた[1]。1950年代に入り、当時始まったばかりのフォーミュラ1(F1)へ参戦するにあたり、自身の「シンウォール・スペシャル」(フェラーリのグランプリ車両がベース)のフェラーリエンジンのシリンダーヘッドの改造を依頼するという形で、ウェスレイクへの依頼を始めた[1]

その後、ヴァンウォールは独自の車両とエンジンを開発して1954年からF1に参戦を始めたが、1955年シーズンになっても成績は振るわず、エンジンを改良する依頼が再びウェスレイクに持ち込まれた[3]。ウェスレイクは、ヴァンウォールのVバンク角60度のV型12気筒エンジンの吸気特性を改善するためシリンダーヘッドを改修した[3]。このエンジンは285馬力程度を発生するようになり[3]1958年シーズンにヴァンウォールは初めて設けられたF1のコンストラクターズタイトルを獲得することになる[2]

ガーニー=ウェスレイク・V12[編集]

ガーニー=ウェスレイク・V12エンジン
ガーニー=ウェスレイク・V12エンジン

オール・アメリカン・レーサーズ(AAR)からの依頼により、F1用の3リッターV型12気筒エンジンを製作することになった[4]

このエンジンは、当初、F1で3リッター規定が導入される1966年シーズンの序盤から投入される予定だったが、全くの新設計であるため完成が遅れ、デビューは同年9月に開催された第7戦イタリアGPまで遅れた[5]。1966年時点で370馬力、翌1967年時点で417馬力という当時としては高い出力を発生したが、結果として、優勝したのは1967年ベルギーGPの1戦のみとなった[6](ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPではトップを独走したがドライブシャフトを折ってリタイアした[7])。ガーニーは自製車両とエンジンによる参戦に見切りをつけ、1968年シーズンマクラーレンフォードM7A)を走らせるようになり、それも短期間で終わり、その年限りでF1からは撤退した[7]

人物[編集]

仕事に対しても人々に対しても、無愛想でナンセンスな態度を取ることで知られていた[1]

ライオンズとの最初の会合でも、SS社(ジャガー)のサイドバルブ式エンジンを酷評した[1]。それでもSS社に協力することにしたのは、その少し前にMGの社長セシル・キンバー英語版と不仲になり、その競合であるSS社に協力して意趣返しをすることが大きな動機だった[1]

エンジン技術者としては、吸入ポートの空気流への着目は1920年代当時としては先進的で、それを用いて多くのエンジンの改良を行った。一方、1960年代頃には、すでに旧式化した吸入ポート理論に傾くあまり、排気脈動の効果的な活用ができていなかったとも指摘されている[8]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この時期、「SS」はナチス親衛隊(SS)を想起させ、好ましく思われなくなっていたため。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af Harry Weslake” (英語). Jaguar Daimler Heritage Trust. 2023年10月8日閲覧。
  2. ^ a b c d Harry Weslake” (英語). GrandPrix.com. 2023年10月8日閲覧。
  3. ^ a b c レーシングエンジンの過去・現在・未来(中村1981)、「2.5 Litre Vanwall」 pp.183–188中のp.186
  4. ^ レーシングエンジンの過去・現在・未来(中村1981)、「Eagle-Weslake V12」 pp.239–244中のp.240
  5. ^ レーシングエンジンの過去・現在・未来(中村1981)、「Eagle-Weslake V12」 pp.239–244中のp.241
  6. ^ レーシングエンジンの過去・現在・未来(中村1981)、「Eagle-Weslake V12」 pp.239–244中のp.242
  7. ^ a b レーシングエンジンの過去・現在・未来(中村1981)、「Eagle-Weslake V12」 pp.239–244中のp.243
  8. ^ レーシングエンジンの過去・現在・未来(中村1981)、「Eagle-Weslake V12」 pp.239–244中のp.244

参考資料[編集]

書籍
  • 中村良夫『レーシングエンジンの過去・現在・未来』グランプリ出版、1981年11月15日。ASIN 4381004388NCID BN08938229