仲倉重郎

なかくら しげお
仲倉 重郎
生年月日 (1941-08-21) 1941年8月21日
没年月日 (2023-06-29) 2023年6月29日(81歳没)
出生地 日本の旗 日本 黄海道
職業 映画監督脚本家作詞家
ジャンル 映画
テンプレートを表示

仲倉 重郎(なかくら しげお、1941年8月21日[1] - 2023年6月29日[2][3])は、日本の映画監督脚本家作詞家

略歴[編集]

旧朝鮮黄海道生まれ[1]東京都立新宿高等学校卒。東京大学文学部を卒業した1965年松竹大船撮影所助監督として入社。野村芳太郎加藤泰監督等の薫陶をうける[4]

1983年に『きつね』で映画監督デビューし、1987年にフリーとなる[4]

脚本家(南部英夫と共に私塾「アシモフ・シナリオゼミ」も開設)や、作詞家(主に子供向け番組で発表)としての活動も多い。

生い立ち[編集]

1945年11月に引き揚げて、三重県津市の親戚の家に身を寄せる。その後も、鉱山技師の父の関係で、富山県黒部市神奈川県藤沢市東京都武蔵野市と住居を変える。本籍地の東京都千代田区内神田は、父の生まれ育った地である。松竹入社後の1966年5月、絵本作家の河野眉子と結婚。一男一女あり[5]

1999年頃より、病気による脊髄損傷車椅子生活を送っている。この経験は車椅子の女性を主人公とした2015年公開の映画『マンゴーと赤い車椅子』に生かされた[6]

監督[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • 古都に挑むアメリカ人〜青い眼の蝋型鋳物師30代目〜(1992年、テレビ東京 ドキュメンタリー人間劇場)
  • 江戸湾戦争〜黒船は奪われていた!(1993年、岡山放送)
  • クエンカの風〜岡野耕三・白の世界(1994年、岡山放送)
  • 私の好きな東京・四方義朗篇(1994年、パーフェクトTV)
  • 私の好きな東京・山形由美篇(1995年、パーフェクトTV)
  • 維新を予告した一枚の写真(1998年、岡山放送)

助監督[編集]

映画
テレビ

監督補[編集]

脚本[編集]

映画[編集]

  • 再会(1975年、松竹、監督:斎藤耕一)
  • 憧憬(1976年、松竹、監督:斎藤耕一)
  • 江戸川乱歩の陰獣(1977年、松竹、監督:加藤泰)
  • ざ・鬼太鼓座(1981年、松竹=田事務所、監督:加藤泰)
  • 彩り河(1984年、松竹、監督:三村晴彦
  • 幕末のスパシーボ(1997年、東和ビデオ) ※アニメ作品

テレビドラマ[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • 朝陽の海〜写真家緑川洋一・85歳の再挑戦(2000年、岡山放送)

オーディオ・ドラマ[編集]

レコード・アニメ[編集]

作詞[編集]

みんなのうた(NHK)
おかあさんといっしょ(NHK)
ひらけ!ポンキッキ(フジテレビ)
その他

著書[編集]

  • 風の中、心はいつもアウトバーン〜20年遅れのライダー修業(1982年、ブックマン社)
  • ビバ!スペースカレッジ(1988年、偕成社)
  • 銀行(脚本集)(2000年、演劇ぶっく社)
  • 官僚たちの夏(脚本集)(2000年、演劇ぶっく社)

脚注[編集]

  1. ^ a b 現代日本人名録 94(日外アソシエーツ
  2. ^ Shigeo Nakakura [@nananakaba] (2023年7月29日). "ご報告遅くなりました。父・仲倉重郎はかねてより患っていた大腸癌の再発に新型コロナ感染が重なり、先月6月29日永眠いたしました。". X(旧Twitter)より2023年8月1日閲覧
  3. ^ 仲倉重郎氏がご逝去されました”. 日本脚本家連盟 (2023年8月15日). 2024年1月22日閲覧。
  4. ^ a b アシモフ講師陣の紹介
  5. ^ 「日本映画人名事典 監督篇」(1997年、キネマ旬報社)
  6. ^ 【FREE】『マンゴーと〜』完成披露に秋元才加ら登壇”. 文化通信.com (2015年1月20日). 2015年1月20日閲覧。

外部リンク[編集]