シャムロック・ベイ (護衛空母)

1944年11月11日撮影
艦歴
発注:
起工: 1943年3月15日
進水: 1944年2月4日
就役: 1944年3月15日
退役: 1946年7月6日
その後: 1958年5月にスクラップとして売却
除籍: 1958年6月27日
性能諸元
排水量: 7,800 トン
全長: 512.3 ft (156 m)
全幅: 108.1 ft (33 m)
吃水: 22.5 ft (6.9 m)
機関: 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速: 19ノット
航続距離: 10,240カイリ(15ノット/時)
兵員: 士官、兵員860名
兵装: 38口径5インチ砲1門
40ミリ機関砲16基
搭載機: 28機

シャムロック・ベイ(USS Shamrock Bay, CVE-84)は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の30番艦。

艦歴[編集]

シャムロック・ベイは ACV-84(補助空母)として1943年3月15日に海事委任契約の下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所で起工する。1943年6月10日に CVE-84(護衛空母)へ艦種変更され、1944年2月4日にジェームズ・R・ダドレイ夫人によって進水する。1944年3月15日にフランク・T・ワード・ジュニア艦長の指揮下就役する。

1944[編集]

慣熟訓練を終えた後、シャムロック・ベイは6月まで西海岸に残り、パイロットの資格取得訓練に従事。訓練を終えると東海岸へ回航され、カサブランカへ陸海軍の要員輸送を行った。帰途、シャムロック・ベイは訓練で使用され、あるいは破損したP-40 ウォーホーク、要修理の航空エンジン、それにビルマインドおよび中国戦線で戦ってきたアメリカ陸軍航空軍パイロットなどを乗せてアメリカ本国に戻った。

10月27日にノーフォークに到着して二度目の輸送任務を終えたシャムロック・ベイは、南大西洋方面での対潜掃討の準備を行っていた。しかし、フィリピン戦線において護衛空母群が、神風特別攻撃隊などの攻撃で損害が多くなってきた事から、対潜掃討作戦は取り消された。11月11日、第42混成航空隊 (VC-42) を乗せたシャムロック・ベイは太平洋戦線に向かっていった。

シャムロック・ベイは11月18日にパナマ運河を通過した後、11月27日にサンディエゴに到着。ハワイに進出する第93混成航空隊 (VC-93) を乗せて12月2日に真珠湾に向けて出港し、12月9日に到着。ここで第42混成航空隊と第93混成航空隊が降ろされ、代わりに第94混成航空隊 (VC-94) が配属された。2日後の12月11日、シャムロック・ベイはマヌス島に向けて出港。途中、ジョンストン島に寄港して同島宛の航空機を降ろした後、12月22日にゼーアドラー湾に到着。同地で第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)に配属された。シャムロック・ベイはこれまで、9機のTBM アヴェンジャーと12機のFM-2 ワイルドキャットを定数として載せていたが、それぞれ12機と20機に増加された。

1945[編集]

12月31日、シャムロック・ベイは第79.1任務群および第79.2任務群とともにゼーアドラー湾を出撃し、リンガエン湾に向かった。リンガエン湾に近づくほどに神風攻撃の数が増え、1945年1月8日までにはオマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) などが神風攻撃で沈没もしくは大なり小なりの損傷を受けていた。1月8日、この日も朝から神風が艦隊に降り注いた。午前の攻撃でカダシャン・ベイ (USS Kadashan Bay, CVE-76) が損傷し[1]、これによってカダシャン・ベイは自艦の航空機を全て収容する事ができなくなったので、そのうちの2機がシャムロック・ベイに着艦した。直後、がシャムロック・ベイに突入するように見えた。この隼はシャムロック・ベイを飛び越えてキトカン・ベイ (USS Kitkun Bay, CVE-71) に向かっていったが、撃墜された。間もなくキトカン・ベイも別の神風の命中を受けて護衛艦とともに下がり、シャムロック・ベイはキトカン・ベイの航空機を収容した。これに伴い、シャムロック・ベイはキトカン・ベイから第77.4.3任務群旗艦の座を移された[2]

1月9日から17日までの間、シャムロック・ベイはリンガエン湾沖で上陸部隊支援と空中援護の任務を行い、その数は571回に及んだ。そのうち180回はルソン島上空での作戦だった。1月17日、シャムロック・ベイは第77.14任務群に加わってリンガエン湾を後にし、ウルシー環礁に針路を向けた。

ウルシーに帰投後、シャムロック・ベイは第50.8.25任務隊に加わり、上陸部隊と火力支援部隊の援護のため2月16日に硫黄島沖に向けて出撃した。シャムロック・ベイは3月まで援護任務を続けた後、3月5日にウルシーに帰投して、次の沖縄戦の準備に入った。3月13日、シャムロック・ベイは火力支援部隊の援護でウルシーを出撃し、沖縄島上陸後の4月7日に第52.1.1任務隊に転じて沖縄の日本軍への攻撃を開始した。

シャムロック・ベイは前進根拠地の慶良間諸島で何度か弾薬補給を受けつつ、5月11日まで沖縄戦の支援を遂行し、その後は弾薬や航空機などの補給のためグアムアプラ港に向かった。5月20日、ワード艦長が退任してJ・E・リーパー艦長が着任し、第94混成航空隊は第96混成航空隊 (VC-96) と交代した。5月28日、補給を終えたシャムロック・ベイはアプラ港を出港し、月末には第32.1.1任務隊に合流して任務を再開した。航空支援任務は依然続けられていたが、6月上旬に襲来した台風によって打ち切られ、6月中旬にフィリピンに向かった。

沖縄戦で1,200回も航空機を発進させたシャムロック・ベイは、6月27日にサンペドロ湾 (フィリピン)に帰投。7月前半にギュイアン航空基地に搭載機を移動させ、代わりにオーバーホールでアメリカ本国に送られる航空エンジンを積み込んで7月5日にグアムアプラ港に向けて出港し、グアムに寄港後7月27日にサンディエゴに到着した。第96混成航空隊 (VC-96) を降ろしたシャムロック・ベイは、終戦まで行動しなかった。

戦後[編集]

終戦後、シャムロック・ベイはグアム宛ての陸軍と海軍の航空機を輸送する任務に就き、次いでマジック・カーペット作戦に参加するため、アラメダ (カリフォルニア州)で航空機を降ろした後、10月20日に真珠湾に向けて出港。第4海兵師団復員兵を乗せて11月2日にサンディエゴに到着した。シャムロック・ベイは二度目の復員兵輸送任務で沖縄および日本の本州に向かい、1946年1月26日にシアトルに到着した。2月2日にアラメダに回航されたシャムロック・ベイは、2月7日に不活性化工事を行うため東海岸へ向けて出港した。

シャムロック・ベイは3月1日にボストンに到着し、オーバーホールを受けた後7月6日に退役。その後、1955年6月12日に CVU-84(雑役空母)に艦種変更され、1958年5月にスクラップとしてシカゴのハイマン・マイケルズ社にスクラップとして売却後、6月27日に除籍された。

シャムロック・ベイは第二次世界大戦の戦功で3つの従軍星章を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 下』307ページ
  2. ^ 永井、木俣, 144ページ

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]