カウーゼン・WK

カウーゼン・WK
カテゴリー F1
コンストラクター カウーゼン
デザイナー クルト・シャベック
クラウス・カピッツァ
主要諸元
シャシー アルミニウムモノコック
トレッド 前:1700 mm
後:1610 mm
ホイールベース 2700 mm
エンジン フォード コスワースDFV 2,993 cc (182.6 cu in) V8 自然吸気, ミッドエンジン
トランスミッション ヒューランド FGA400 5速
タイヤ グッドイヤー
主要成績
ドライバー ジャンフランコ・ブランカテリ
通算獲得ポイント 0
初戦 1979年スペイングランプリ
最終戦 1979年ベルギーグランプリ
出走優勝表彰台ポールFラップ
20000
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カウーゼン・WK (Kauhsen WK) は、カウーゼン1979年F1世界選手権に投入したフォーミュラ1カー。2戦に参加したが、いずれも予選落ちとなった。

背景[編集]

西ドイツアーヘン出身の元レーシングドライバー、ヴィリー・カウーゼンは1976年にヴィリー・カウーゼン・レーシングチーム(WKRT)を興し、欧州F2選手権に参戦。1977年11月、全日本F2000選手権にゲスト参戦した際、日本のシャシーコンストラクター、コジマと提携する案がまとまり、コジマが1977年日本GPで使用したKE009を提供され、1978年のF1世界選手権に参戦する計画を立てた。日本から西ドイツへマシンが輸送されたものの、カウーゼン側の事情により計画は中止となった[1]。この失敗にもかかわらず、カウーゼンはフォーミュラ1への進出を諦めず、1シーズン後に自身のマシンで参戦することを決め、アーヘン大学のハンス・J・ゲルハルト教授とカール・クレーマー、エドゥアルト・イェーガー[2]および空力の専門家であるクラウス・カピッツァとデザイナーのクルト・シャベックがそのチームに加わった[3]

開発[編集]

チームは全ての開発を自らの設備で行うこととし、その作業は1978年に始まった。プロジェクトはロータス・78をベースとした[3]。1978年の秋には最初のプロトタイプ、WK001が完成した[3]。エンジンはフォードコスワースDFVを搭載した。当初カウーゼンはアルファロメオV12エンジンの使用を希望していたが、ブラバムがアルファロメオとのエンジン供給契約を決定したため、このアイデアは放棄せざるを得なかった[2][3]。WK001はヒューランド製5速ギアボックスを採用した(その当時でほとんどのチームは6速ギアボックスを使用していた[2])。プロトタイプの特徴は、非常に短いホイールベース、フロントスポイラー、サイドセクションのラジエーターなどであった[2]。その設計により、グラウンド・エフェクト効果を得ることはできなかった[3]

欠点を解消するために開発が行われ、その後のバリエーションが製作された。主な目的はグラウンド・エフェクト効果を得ることであった。WK002およびWK003はディティールの差異があるもののWK001と同一であった。WK004はフロントスポイラーが無かったが、エキゾーストマニホールドとタンクの間違った配置などシャシー構造のため、グラウンド・エフェクト効果は達成されていなかった。WK005はホイールベースが大幅に延長され、グラウンド・エフェクト効果を得ることが可能であった[3]

レース戦績[編集]

車のテストはジャンフランコ・ブランカテリハラルド・アートルパトリック・ネーヴによって1978年11月に始まった[3]

1979年4月初旬、カウーゼンはイギリス国内選手権としても知られるオーロラF1のレースに出場した。ゾルダー・サーキットで行われたこのレースでブランカテリは8位で予選を通過したが、2周目にリタイアした[3]

カウーゼンはF1世界選手権にスペイングランプリでデビューした。WK004とWK005の2台を持ち込み(WK005はスペアカー)、グッドイヤーにタイヤ料金の全額を支払うことができなかったため、チームには中古タイヤが供給された[2]。WK004を走らせることができず、ブランカテリはWK005で予選に参加した。予選では最下位で通過したヤン・ラマースシャドウよりさらに5秒も遅く、予選落ちとなった[4]。スペイングランプリの後、クルト・シャベックはチームを去った[3]

ベルギーグランプリではWK005のみが使用された。予選セッションでクラッチに問題があり[3]、予選最下位タイムより9秒も遅く、ブランカテリは再び予選落ちとなった[5]

ベルギーグランプリの後、カウーゼンはF1から撤退した。

その後[編集]

1979年の夏、カウーゼンはマシンと機材をアルトゥーロ・メルツァリオのチームに売却した。メルツァリオは自身の名を冠した独自のチームを設立していた[2]メルツァリオ・A4はカウーゼン・WKをベースにしており、ジャンパオロ・ダラーラが設計を支援した[6]。 メルツァリオは1979年シーズンの7戦でA4を使用したが、1度も予選を通過することができなかった[7]

ダイワのエンジニアであるピエトロ・「ダイドー」モングッツィは、ダイワ・010でカウーゼン・WK001のリアスポイラーを使用したが、レースに出場することは無かった[3]

F1における全成績[編集]

(key) (斜体ファステストラップ

シャシー エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 ポイント
1979年 カウーゼン・WK フォード コスワースDFV 3.0 V8 G イタリアの旗 ジャンフランコ・ブランカテリ ARG
BRA
RSA
USW
ESP
DNQ
BEL
DNQ
MON
FRA
GBR
GER
AUT
HOL
ITA
USA
CAN
NC 0

参照[編集]

  1. ^ 実戦デビューを果たせなかった悲運の国産F1マシン「コジマKE009 カウーゼン仕様」”. AUTO MESSE WEB (2018年12月27日). 2024年4月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e f Kauhsen - Full profile”. f1rejects.com. 2011年3月12日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k Steffen Schulz. “Formel 1 Teams: Kauhsen Ford”. research-racing.de. 2011年3月12日閲覧。
  4. ^ Gran Premio de Espana 1979 - Wyniki kwalifikacji”. f1wm.pl. 2011年3月12日閲覧。
  5. ^ Grand Prix de Belgique 1979 - Wyniki kwalifikacji”. f1wm.pl. 2011年3月12日閲覧。
  6. ^ CONSTRUCTORS: KAUHSEN”. grandprix.com. 2011年3月12日閲覧。
  7. ^ Merzario A4”. chicanef1.com. 2010年12月28日閲覧。

外部リンク[編集]