F1世界選手権の歴史
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F1世界選手権の歴史では、1950年よりドライバータイトルの世界選手権として始まり、後のFIAフォーミュラ1世界選手権へと続く選手権一連の変遷について記述する。
F1誕生[編集]
1906年、フランスで初の四輪グランプリである「ACFグランプリ」が開催された。その後、徐々に車輌重量やエンジン排気量の規格(GPフォーミュラ)が整理され、1920年代にはヨーロッパ各地でもグランプリが行われるようになった。1930年代にはグランプリレースから成るヨーロッパ・ドライバーズ選手権が発足し、ナチス・ドイツの威信を担うメルセデス・ベンツとアウトウニオンが大活躍したが、第二次世界大戦によりグランプリは中断を余儀なくされた。
終戦後の1946年、国際自動車連盟(FIA)の国際スポーツ委員会(CSI)は戦前のグランプリカーとヴォアチュレット[注釈 1]をもとに新たな規格を制定し、エンジン排気量が「自然吸気式4,500cc、過給式1,500cc」の車両を単座席レーシングカーの最上位クラスに位置づけた。当初フォーミュラAと呼ばれたが、後にフォーミュラNo.1または国際フォーミュラNo.1と正式呼称されフォーミュラ1(F1)が定着した。
1947年に新規定下でグランプリが再開されるとイタリアのアルファロメオが無敵を誇り、次いで新興のスクーデリア・フェラーリが台頭した。フェラーリは戦前にアルファ・ロメオチームの監督だったエンツォ・フェラーリが創設したチームであり、いわば親子関係の対決であった。
1949年には世界各国のグランプリからプライオリティの高い数戦を選手権対象レースに指定し、個別レースの成績に応じて与えられる点数の年間合計により年度の優勝者を決める世界選手権構想が固まり、翌1950年からの開催が決まった。当初、選手権タイトルはドライバーのみであったが、1958年から製造者タイトルが設定された(当時はグランプリレースの世界選手権がドライバータイトル、1953年から始まった耐久レースのスポーツカー世界選手権が製造者タイトルと棲み分けされていた)。
なお、この世界選手権を「F1グランプリ」と呼ぶ例も多いが、歴史上「F1(レースカテゴリ)」と「グランプリ(各国最高峰のモータースポーツイベント)」と「世界選手権」は必ずしも同義ではなかった。日本グランプリやマカオグランプリなどF1以外で行われたグランプリもあり、イギリスのブランズハッチサーキットで開催されたレース・オブ・チャンピオンズ(1967年 - 1983年)のような非選手権F1レースも盛んに行われていた(イギリスや南アフリカではF1の国内選手権も開催された)。F1レースが「年間17戦前後のグランプリからなる世界選手権」という方式で定着するのは非選手権F1レースが廃止された1984年以降のことである。
1950年代[編集]
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
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1950年 | ジュゼッペ・ファリーナ | |
1951年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1952年 | アルベルト・アスカリ | |
1953年 | アルベルト・アスカリ | |
1954年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1955年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1956年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1957年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1958年 | マイク・ホーソーン | ヴァンウォール |
1959年 | ジャック・ブラバム | クーパー・クライマックス |
イタリア・ドイツ勢の争いとファンジオ[編集]
F1世界選手権は1950年5月13日のイギリスGPで開幕した。1950年代はヨーロッパ各国のGPに加え、世界選手権という名目上アメリカのインディ500もカレンダーに組みこんでいたが、実際は欧米間の交流は疎遠であった。
開幕時の構図はアルファ・ロメオ、フェラーリ、マセラティのイタリア3大ワークス・チームの争いとなった。アルファ・ロメオは「アルファの3F」と呼ばれるベテランドライバー[注釈 2]を擁し初年度を全勝で飾ったが、1951年はフェラーリの猛追にあい、資金難のため撤退を強いられた。スーパーチャージャー式エンジンのアルファ・ロメオが去ったのち、F1では1970年代末まで自然吸気式エンジンの時代が続く。
1952年と1953年は参加台数不足の懸念からF2規定での選手権となった。フェラーリが2年間に15戦14勝と圧勝し、エースのアルベルト・アスカリは2連覇を達成した。
1954年にエンジン排気量を「自然吸気式2,500cc、過給式750cc」とする新規定が施行されると戦前の強豪メルセデス・ベンツが復帰し、斬新な技術を投入したマシンで再びGPを席巻した。1955年にかけて12戦9勝を挙げたが、ル・マン24時間レースで大事故を起こした責任から同年末にレース活動を休止した。その後はフェラーリ対マセラティの勝負となるが、イタリア勢はワークス活動の撤退や有力ドライバーの事故死などで徐々に勢いを失った。
この創成期において最も成功を収めたドライバーがファン・マヌエル・ファンジオである。8年間に5度のドライバーズチャンピオンとなり、2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで46年間最多チャンピオン獲得記録者であった。
イギリス勢の台頭[編集]
1950年代後半にはイタリアの自動車メーカー系コンストラクターに代わり、イギリスの独立系コンストラクターが躍進した。多くは「バックヤード・ビルダー(裏庭のガレージが作業場のレーシングカー製造者)」と呼ばれる小規模チームであったが、優れたシャーシ設計技術によりF1界の中心勢力となっていく。量販型コヴェントリー・クライマックスエンジン(元は消火用ポンプのエンジン)の登場もイギリス勢の追い風となった。
1958年にはヴァンウォールが初施行されたコンストラクターズ選手権の初代王者となり、ドライバーズ選手権もフェラーリ所属のマイク・ホーソーンが制した。また、「無冠の帝王」と呼ばれたスターリング・モスはイギリスの国民的ヒーローとなった。
1959年、1960年は独自のミッドシップマシン[注釈 3]を熟成したクーパーがトップランナーに躍り出て、ジャック・ブラバムを擁しドライバーズ・コンストラクターズ選手権を連覇した。ミッドシップ革命は他チームにも波及し、アメリカのレース界にも影響を与えた。
1960年代[編集]
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
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1960年 | ジャック・ブラバム | クーパー・クライマックス |
1961年 | フィル・ヒル | フェラーリ |
1962年 | グラハム・ヒル | BRM |
1963年 | ジム・クラーク | ロータス・クライマックス |
1964年 | ジョン・サーティース | フェラーリ |
1965年 | ジム・クラーク | ロータス・クライマックス |
1966年 | ジャック・ブラバム | ブラバム・レプコ |
1967年 | デニス・ハルム | ブラバム・レプコ |
1968年 | グラハム・ヒル | ロータス・フォード |
1969年 | ジャッキー・スチュワート | マトラ・フォード |
ロータスとクラークの栄光[編集]
1961年にエンジン排気量を「自然吸気式1,500cc以下(過給式禁止)」とする新規定が施行され、「葉巻型」と呼ばれる軽量マシンによる競争となった。ブラバム(ジャック・ブラバム)やマクラーレン(ブルース・マクラーレン)のようなドライバーがオーナーを兼任するコンストラクターも誕生した。
フェラーリは1961年と1964年にダブルタイトルを制覇したが、本社経営が安定せず成績不振に陥る。代わってコーリン・チャップマン率いるロータスがアルミ製モノコックシャーシなど革新的な技術を生み出し、F1界のトレンドリーダー的存在となった。チャップマンに見出されたジム・クラークは通算25勝と2度のチャンピオンに輝き、1968年に事故死するまで最速ドライバーの名をほしいままにした。その好敵手となったのがグラハム・ヒル、ジョン・サーティース、ダン・ガーニーらで、ヒルは伝統のモナコGPを5度制覇し「モナコ・マイスター」と讃えられた。
1960年代は北米レース界との交流が盛んで、クラークとヒルは1965年、1966年のインディ500を制覇した。ガーニーはイーグルを設立し欧米レース界で活動。マクラーレンもF1以前にカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)シリーズで成功を収めた。
DFVエンジンとウイングの登場[編集]
1966年にエンジン排気量規定が「自然吸気式3,000cc、過給式1,500cc」に改められ、初年度と1967年は信頼性の高いレプコエンジンを積んだブラバムがダブルタイトルを連覇した。1967年には安価で高性能な量販型エンジン、フォード・コスワース・DFVエンジンが登場し、以後20年近くにわたり多くのチームに供給され、通算155勝を挙げることになる。
排気量が2倍になったためエンジンパワーの活用法が模索され、ダンロップ、グッドイヤー、ファイアストン3社の「タイヤ戦争」によりワイドトレッドタイヤが登場した(のちに溝無しのスリックタイヤへ移行)。
四輪駆動車[注釈 4]やガスタービンエンジン車の研究なども行われたが、後にレギュレーションで「後輪駆動の四輪車」などと明確化され禁止されるなどしたこともあり、こんにちのF1車への影響は目に見える形では少ない。
前述のミッドシップに続き、この時代にあった最も大きな変化は、走行中の気流による空力において、抗力を減らすことのみに注力する方向から、抗力を少々増やしてでも大きなダウンフォースを発生させタイヤを路面に押しつけることで、中間加速や高速でのコーナリングや減速に必要なグリップ力を稼ぐようになったことであろう(つまり、前述のハイパワー化とも関連する)。このウイングは後にどんどん大型化し、1980年代頃に現在見られるような形態の基本形が完成した。レーシングカーの世界では以前から(抗力を減らす以外の)空力の活用例はいくつかあったが(ベンツ300SLRのエアブレーキなど)、この目的でのウイングはプロトタイプカーやカンナムカーから始まったもので[注釈 5]ある。
ウイングは、F1では1968年に急速に広がり多種多様な形態が現れたが、効果を上げるためのハイマウント、最高速走行時にウィングを寝かせるなどの可変機構、直接タイヤを押さえつけるためにサスペンションよりタイヤ側へ取り付け、といったギミックは多数のトラブルを発生させたため危険であるとして、1969年のシーズン中に、「走行中の可変は禁止」「ボディに固定」という原則と、高さ・幅などの範囲がルール化された。以降のF1の形態の変化は、この原則内で可能なことを追求した結果とも言える。たとえば、サスペンションのバネが固くなった理由の一つとして、走行速度によるダウンフォースの変化の影響を減らしたいから、というものがある(サス下に取り付けられていればバネは影響されない。一方で車高の変化により空力も変化するため、空力の安定のために車高は変化させたくない、という相互関係もある)。
商業的には、FIAが広告活動を解禁したことでタバコメーカーなどのスポンサーが参入し、F1界の商業的な拡大が始まった。伝統のナショナルカラーを捨て、F1マシンはカラフルなスポンサーカラーに彩られることになる。
1970年代[編集]
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
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1970年 | ヨッヘン・リント | ロータス・フォード |
1971年 | ジャッキー・スチュワート | ティレル・フォード |
1972年 | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス・フォード |
1973年 | ジャッキー・スチュワート | ロータス・フォード |
1974年 | エマーソン・フィッティパルディ | マクラーレン・フォード |
1975年 | ニキ・ラウダ | フェラーリ |
1976年 | ジェームス・ハント | フェラーリ |
1977年 | ニキ・ラウダ | フェラーリ |
1978年 | マリオ・アンドレッティ | ロータス・フォード |
1979年 | ジョディ・シェクター | フェラーリ |
F1サーカス[編集]
DFVエンジンとヒューランド製変速機の普及により、新興コンストラクターが「キットカー」と呼ばれるパッケージマシンを製作して続々と参戦した。F1製造者協会(FOCA)会長バーニー・エクレストンの拡大路線により、F1は名実共に世界規模のモータースポーツイベントへ成長する。ドライバーも国際色豊かになり、世界各地を転戦しながら実力伯仲の戦いを繰り広げた。
ティレルはジャッキー・スチュワートを擁し、新興チームとして驚異的な活躍をみせた。スチュワートは3度のワールドチャンピオンに輝いただけでなく、安全面の啓蒙活動にも貢献した。ヨッヘン・リントは事故死後にチャンピオンの栄誉を授かり、若き王者エマーソン・フィッティパルディは後進のブラジル人ドライバーに大きな影響を与えた。マリオ・アンドレッティは欧米を股にかけて活躍し[注釈 6]、ロニー・ピーターソンの豪快なドリフト走法が人気を集めた。
DFVエンジン勢の前に沈黙していた名門フェラーリはニキ・ラウダの抜擢により復活し、1970年代後半に黄金期を迎えた。ラウダは1976年中に瀕死の重傷を負いながら見事にカムバックし、引退・復帰をへて3度のワールドチャンピオンになるなどプロフェッショナルドライバーの規範を示した。
グラウンド・エフェクトカーとターボエンジン[編集]
空力デザインの試行錯誤により個性的な外観のマシンが登場した。サイドラジエター、ウェッジシェイプ(楔形)ボディ、スポーツカーノーズ、巨大な吸気ポッドなどが流行し、6輪車ティレル・P34[注釈 4]のような奇抜なアイデアもあらわれた。
フェラーリ、アルファ・ロメオ(エンジンメーカーとしてF1復帰)などの12気筒エンジン勢に対し、馬力で劣るDFVエンジン勢は空力の追求に活路を求めた。なかでも1977年にロータスが開発したグラウンド・エフェクト・カー[注釈 7]は一大発明となった。ベンチュリ効果によって車体底面の気圧を下げ「路面に吸いつくように走る」という画期的なアイデアはたちまち大流行し、その中から弱小ウィリアムズが上位進出のきっかけをつかんだ。また、同様の発想からファン・カー[注釈 5]という奇策も登場した。
同年にはルノーがターボエンジンを用いて参戦(ルノー・RS01)。トラブルを重ねながらも開発を進め、1980年代のターボエンジン時代の先鞭を付けた。フランス勢はルノー以外にもマトラ、リジェ、ミシュラン(ラジアルタイヤを導入)、エルフ支援のドライバーなど国を挙げてのF1進出が続いた。
1980年代[編集]
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
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1980年 | アラン・ジョーンズ | ウィリアムズ・フォード |
1981年 | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ・フォード |
1982年 | ケケ・ロズベルグ | フェラーリ |
1983年 | ネルソン・ピケ | フェラーリ |
1984年 | ニキ・ラウダ | マクラーレン・TAG |
1985年 | アラン・プロスト | マクラーレン・TAG |
1986年 | アラン・プロスト | ウィリアムズ・ホンダ |
1987年 | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ・ホンダ |
1988年 | アイルトン・セナ | マクラーレン・ホンダ |
1989年 | アラン・プロスト | マクラーレン・ホンダ |
FISA・FOCA戦争[編集]
F1がテレビ放映権料収入により巨大ビジネス化するなかで、運営を巡る権力争いが起きた。現場監督者のF1製造者協会 (FOCA) 会長バーニー・エクレストンと組織統治者の国際自動車スポーツ連盟[注釈 8](FISA) 会長ジャン・マリー・バレストルの対立が表面化。コンストラクターもFOCA陣営(DFVエンジン勢)FISA陣営(ターボエンジン勢)とに分かれて一時は選手権分裂が危ぶまれた。両者は1981年のコンコルド協定で和解し、FISAが統轄面、FOCAが商業面を分担する体制を確立した。以後コンコルド協定は「F1界の法典」として機能するが、収入の分配や参戦資格などをめぐり様々な論争を起こしている。
FISA・FOCAの分裂騒動ではウイングカーの危険性が争点のひとつとなった。1982年にジル・ヴィルヌーヴをはじめ重大な死傷事故が相次いだことから1983年よりフラットボトム規定[注釈 9]が施行され、ウイングカーは姿を消した。
ターボエンジン全盛期[編集]
自動車メーカーが相次いでターボエンジンの開発・供給に乗り出すとDFVエンジンの共栄時代は終わり、1000馬力を超える熾烈なパワー競争が繰り広げられた。FISAが厳しいエンジン規制を課すなか、燃費と出力のバランスに優れたターボエンジンが勝利を独占する傾向が強まり、TAGポルシェ、次いでホンダが最強エンジンと呼ばれた。
この2メーカーと組んで一時代を築いたのがロン・デニス率いる新体制マクラーレンであり、1984年から1991年までの8年間に6度ダブルタイトルを制覇した(1984年には16戦12勝、1988年には16戦15勝を記録)。また、ジョン・バーナードの設計で1981年に実用化されたカーボン製モノコックは、車体剛性を高め安全性の面でも顕著な進歩をもたらした。
80年代に3度のワールドチャンピオンを分け合ったネルソン・ピケとアラン・プロストを筆頭に、遅咲きのナイジェル・マンセル[注釈 6]、そして新星アイルトン・セナを加え、ターボ時代の「四強ドライバー」と呼ぶ向きもあった。マクラーレンで最強コンビを組んだプロストとセナは2年続けて接触でチャンピオンを決するという遺恨を残し、熾烈なライバル意識がコース内外で注目を集めた。
しかし、耐久レースや世界ラリー選手権グループBなどの他カテゴリでターボエンジン搭載車の重大事故が続発した事により、行きすぎたパワー競争は終焉を迎える。FISAが1989年から「自然吸気式3,500ccエンジン、過給式エンジン禁止」とルールを改訂したため、ターボエンジン全盛の時代は幕を下ろす事となった。ただし、これを機に新興コンストラクターの参入が相次ぎF1は活況を見せ、1992年まで予備予選が実施されることとなる。
テストの増加[編集]
1980年代後半からの傾向としてテストの重要性が増し、テストの回数がそれ以前より大幅に増えたことが挙げられる。1988年を例にとると、FOCA主催の合同テストが6回行われ、トップチームはこれとは別にプライベートテストを20回以上行っている。1988年に不振に陥ったロータスは5月半ばの段階で既に9回ものプライベートテストを行っており、ドライバーのネルソン・ピケはこのような状況について「テストのスキをみてレースをやっているようなもの。体が持たない」と語っている。[1]
その後、トップチームはレギュラードライバーとは別にテストドライバーを確保し、テスト専門のチームを作るなどしてレース活動におけるテストの比重は一層高まっていった。[2]