青山ミチ

青山ミチ
別名 八木 フサ子(本名)
カミソリQ子
生誕 1949年2月7日
出身地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市
死没 日本の旗 日本2017年1月??日(満67歳没)
ジャンル 歌謡曲
職業 元ポップ、ロック歌手
活動期間 1962年 - 1972年
レーベル ポリドール日本グラモフォン
日本クラウン

青山 ミチ(あおやま みち、本名:八木 フサ子〈やぎ ふさこ〉[1]1949年昭和24年)2月7日 - 2017年平成29年)1月[1])は、日本の元ポップ、ロック歌手

代表曲に「涙の太陽」「ミッチー音頭」「叱らないで」「恋のゴーカート」「恋はスバヤク」などがある。

人物・来歴[編集]

週刊アサヒ芸能』1966年12月18日号の新聞広告

神奈川県横浜市出身。父親が在日米軍のアメリカ人兵(黒人と報じられることもあったが菊地史彦は白人と断定している[2])で母親が日本人(八木キミ子)。1961年昭和36年)、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールで入賞したのをきっかけにポリドール・レコード日本グラモフォン、現・ユニバーサル ミュージック)の目にとまり、翌1962年(昭和37年)に「ひとりぼっちで想うこと」でレコードデビューした。当時は13歳で横浜市立港中学校の2年生だったが既に身長160センチメートル(cm)、バスト93cm、ヒップ90cmに達していた[3]

パワフルでパンチのある唄声で「ミッチー」の愛称で親しまれ、ジャンニ・モランディの曲をカバーした「恋のゴーカート」や、やはりカバー曲の「恋はスバヤク」などを発表した。また、1963年(昭和38年)には「ミッチー音頭」が、1965年(昭和40年)には、エミー・ジャクソンと競作となった「涙の太陽」が小ヒットした。1960年代後半には生き別れたアメリカ人の父親を捜そうとしてニュースにもなっている。

風吹く丘で」の発売を控えた1966年(昭和41年)11月に覚醒剤逮捕され、レコードの発売がお蔵入りとなる(後に「亜麻色の髪の乙女」に改題され、ヴィレッジ・シンガーズでヒット・後年、島谷ひとみによるカバーでもヒットした)。その後日本クラウンに移籍し活動を再開。1968年(昭和44年)には「叱らないで」を発表した。

1974年(昭和49年)3月に万引き現行犯逮捕。当時はキャバレーの歌の営業で、月200万円ほどの収入があったとも報道された。1978年(昭和53年)10月には再び覚醒剤で逮捕され、芸能界から追放状態となる。その後、1999年にも3度目の覚醒剤による逮捕で実刑判決を受け、表舞台から完全に姿を消した。

その後は長らく消息不明だったが、娘と2人で生活保護を受けながら暮らしていることがテレビ番組『あの人は今!?』の調査で判明した。また、アメリカに父方の彼女の異父姉妹に当たる姉がおり、2009年平成21年)に妹のミチを捜し続けて、彼女の情報提供を呼びかけていた[4]

2017年(平成29年)1月、急性肺炎のため神奈川県横須賀市の自宅で死去。1月25日に親族が自宅を訪れたところ死亡しているのが発見された[5]。67歳没[1]

ディスコグラフィ[編集]

シングル[編集]

ポリドール(日本グラモフォン)時代[編集]

発売日 規格品番 タイトル(A面) タイトル(B面) 備考
1962年10月1日 DJ-1270 ひとりぼっちで想うこと ヴァケイション英語版
1962年12月1日 DJ-1277 涙の砂丘 レインボー・ガール
1963年1月10日 DJ-1287 星空の道 わたしの願い
1963年1月25日 DJ-1298 若い樹々 涙のシャボン玉
1963年5月 DJ-1324 ひとつの花が咲く時に 淋しいときには
1963年5月 DJ-1334 ミッチー音頭 いたずらなミッチー
1963年7月1日 DJ-1367 恋のゴーカート 夜がいっぱい A面:ジャンニ・モランディイタリア語版英語版の日本語カバー。
1963年9月 DJ-1381 東京こんちわ 遠い道
1963年10月 DJ-1382 ミッチー・マーチ おとなはきらい
1963年11月 DJ-1394 ABCからZまで スポーツカーでぶっ飛ばせ
1963年12月 DJ-1405 いろはにほへと 恋は陽気に朗らかに
1964年3月 DJ-1422 ヨコハマ・ブルース ジャンケン・ポン
1964年4月 DJ-1444 恋はスバヤク シャムネコ天使
1964年7月 SDR-1001 ボクは特急の機関手で ミッチーの風船旅行
1964年9月 SDR-1018 恋のピーラッタ ワンペンルックでレッツゴー
1964年10月1日 SDR-1036 夢の超特急 ロマンス超特急
1964年12月 SDR-1046 波止場キット 前向き横向き後向き
1965年2月 SDR-1065 ムズムズ まかり出ました女の子
1965年3月 SDR-1073 世界の恋は君のもの L-O-V-E
1965年5月25日 SDR-1114 涙の太陽 憧れはいつも心に A面:エミー・ジャクソン(1965年4月)の日本語カバー。のちに安西マリア田中美奈子メロン記念日がカバーしたのは当バージョンである。
1965年6月 SDR-1100 太陽の恋 GO-GO 野良犬のブルース
1965年8月 SDR-1122 レットキス すてきなジェンカ
1966年3月 SDR-1169 太陽が沈むとき 素敵なあなた
1966年7月 SDR-1204 ワン・ナイト・ワン・キス ロンリー・ガール
1966年11月1日 SDR-1234 風吹く丘で 銀のイニシアル 未発売。A面:のちにタイトル・アレンジを変えて「亜麻色の髪の乙女」(ヴィレッジ・シンガーズ)が発表。

クラウン時代[編集]

発売日 規格品番 タイトル(A面) タイトル(B面) 備考
1966年12月1日 CW-590 情熱の波止場 青いシャンデリア
1967年4月1日 CW-641 男ブルース 女ブルース
1967年6月1日 CW-660 太陽と遊ぼう 淋しさでいっぱい
1967年9月1日 CW-707 マンハッタン・ブルース 雨の日の待ちぼうけ
1967年12月1日 CW-765 港ブルース しかたないのよ
1968年2月1日 CW-776 叱らないで 女と酒 オリコン最高位67位、売上2.9万枚
1968年6月1日 CW-822 俺のブルース 恋の芽ばえ
1969年2月10日 PW-51 泣く女 女なの…
1970年2月1日 PW-85 命のかたみ 女の涙
1970年6月1日 PW-94 おもちゃの女 夜がふりかえる
1970年9月25日 PW-96 雨の夜の恋は終った 恋のブルース
1971年4月25日 CW-1141 或る女の人生 身の上のブルース
1972年5月20日 CW-1239 むらさきの京都 湖のバラード
1975年9月25日 CW-5044 叱らないで マンハッタン・ブルース 再発。ベストカップルシリーズ

ソノシート[編集]

  • スケバン・ロック(「カミソリQ子」名義)[6]
まんがNo.1』付属ソノシートとして発表[7]東京12チャンネル(現:テレビ東京)私がつくった番組 マイテレビジョン』の「赤塚不二夫の『激情No1』」の回に青山ミチが出演しこの曲を歌っている[6]

主な出演[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c “歌手の青山ミチさんが死去…「ミッチー音頭」”. 読売新聞社. (2017年2月8日). オリジナルの2017年2月10日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20170210164539/http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170208-OYT1T50003.html?from=yartcl_blist 
  2. ^ 菊地史彦 (2014年1月31日). “[2]第1章「忘れられた歌姫――青山ミチの存在と闘い(2)」”. 論座. 朝日新聞社. 2022年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月10日閲覧。
  3. ^ 週刊現代』 1962年9月2日号、講談社、1962年。 
  4. ^ Lifelines back to the 1900s”. ジャパンタイムズ (2009年1月20日). 2018年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  5. ^ 青山ミチさん、急性肺炎のため死去…代表曲に「涙の太陽」など - SANSPO.COM、2017年2月9日
  6. ^ a b 文化ジャーナル(平成19年3月号) ■長谷邦夫さん インタビュー北島町
  7. ^ あの幻の「まんがNo.1」が今蘇る!?、赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!、2006年9月26日。

関連項目[編集]