闕字

闕字(けつじ)とは、文書中に天子貴人に関する語が現れたときに、これに敬意を表すために、該当する用語の前に1字または2字分の空白を設けることである[1]

中国における闕字[編集]

中国の古典籍では対象への敬意を表す場合、直前を空ける闕字、直前で改行する平出、直前で改行して文字を嵩上げする擡頭(たいとう)の三種がある[2]

敬意表現の程度としては平出や擡頭よりも低い[2]。闕字は尊敬の度合いにより、1文字から5文字程度の空きをつくるが、書き手との相対的な関係で定まるもので絶対的な基準があるわけではない[2]。闕字や平出は唐令に規定された敬意表現であるのに対し、擡頭は元朝以降に敬意表現として明確になった[2]

闕画けっかくという慣行もあり、貴人の名を記す際に敬意を表して字画の一部を省略するものである[1]。闕は本来は宮城の門のことであり宮廷を意味する漢字であるが、闕字や闕画の場合はケツと同じく欠けるという意味で用いられる[1]

日本における闕字[編集]

歴史[編集]

日本では中国の書式に倣って大宝律令にて導入された[1]公式令平出とともに規定され、公式様文書以外でも用いられた。また、皇太子親王摂関に対する文書に対しても用いられた。

対象[編集]

公式令では、天皇皇族神々に関連した語を対象として挙げており、以下のような語(関連用語も含む)を用いる際に行うこととされている。

中世以後も朝廷内では比較的守られていた用法であり、時代に応じて「禁裏」「天裁」「奏聞」「公方」などの語が闕字の対象として追加された。

江戸時代の用例[編集]

江戸時代武家社会では闕字は貴人に限定されず、敬意を表す為に苗字の内の一文字を省略していた。 幕末百話の「家督御礼の献上物」の章では「小出播磨守」を「小、播磨守」と記した例が紹介されている。 元旗本と思われる談話者は「これは支那流なんで」と説明している。

福沢諭吉による廃止論[編集]

1858年(安政5年)、福澤諭吉は『華英通語』を翻訳した『増訂華英通語』を最初の出版物として出版した。このとき福澤は本文で「皇國」や「本邦」に闕字したが、出版後に闕字のような習慣に従うことは世間の先例に倣った軽率な行為だったと反省した。しかし勝手に闕字を止めることは法律に違反するかもしれず、そうなれば出版禁止になることもあり得るので、簡単に中止することもできなかった。そこで専門家に聞いてみようと思い、蕃書調所の主任教頭である川本幸民先生を訪問して、闕字の習慣は国法で定められているのかどうかと質問したところ、曾てそのような定めはなく全て筆者の思い思いに委ねられているという答えを得た。念のために闕字を全廃したために著書を絶版にされる可能性は無いかと質問すると、心配することはないとの回答を得た。これを聞いて福澤は欣喜雀躍して家に走って帰り、それからは闕字を全廃することに決心した。そうして『増訂華英通語』を例外として、その他の著書は全て闕字なしで出版した。これも38年前の川本先生の教えの賜物だと思うと『福澤全集緒言』の中で述べている。

安政五年余が江戸に來りて初めて出版したるは華英通語なり是れは飜譯と云ふ可き程のものにも非ず原書の横文字に假名を附けたるまでにして事固より易し唯原書のVの字を正音に近からしめんと欲し試にウワの假名に濁點を附けてヴヷと記したるは當時思付の新案と云ふ可きのみ夫れは扨置き此書を出版して後に獨自から赤面して遺憾なりと思ひしは其凡例を漢文に認めたることゝ皇國又本邦の文字に闕字したることなり畢竟原本が支那人の手に成りて都て漢文なりしゆゑ自然に之に釣込まれたるか左りとは緒方先生の訓に背くものなりと心甚だ安からず又闕字の事は果して國法の命ずる所なるや否や其邊の吟味もせずして漫に世間の先例に傚ふたるは習慣の奴隷たるに過ぎず是亦輕卒の至りなり左れば漢文は此度限りとして以後を愼しむことに决心したれども闕字の要不要は容易に獨斷す可らず斯る些事の事よりして奇禍を得たる先例は珍らしからぬことなれば其筋に質問するこそ上策なれと思ひ當時蕃書調所(開成所と名を改めたる後か確に覺えず)の主任教頭川本幸民先生を木挽町の私宅に訪ひ從來著書中に何か貴尊なる文字あれば闕字するの例あるが如し是れは國法の命ずる所にして背く可らざるものなるや否やと尋ねしに先生云く調所などには曾て其種の成規なし都て著者の思ひ/\なりと余は尚ほ念を押して然らば先輩の先例に拘はらず著譯書中闕字を全廢しても是れが爲めに著譯書の絶版を命ぜらるゝことなく著譯者の罪に陷ることもなきやと質したるに心配に及ばずとの明答は蓋し川本先生も洋學界自由思想の大家なれば口にこそ言はざれ闕字する勿れと暗に訓うるものゝ如し余は之を聞得て欣喜に堪へず走て家に歸り爾後闕字は無用なりと决定して余が著譯書中華英通語を除くの外今日に至るまで古來學者流の弊習を免かれたるは今を去る卅八年前川本先生の賜なりと云ふ可し — 福澤諭吉、『福澤全集緒言』、54-56頁 — 福澤諭吉、『福澤全集緒言』、54-56頁

1872年に闕字の廃止令が出されたが、その後闕字の慣行は復活した[1]

戦後も天皇や皇族に対する文書の中に闕字を用いた事例がみられる。国立印刷局発行の官報中で、たとえば国会開会式における天皇の「おことば」を収録する際、その「おことば」という語の前に闕字を施すといった事例が存在する。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 寺尾善雄『中国伝来物語』河出書房新社、1982年、351頁
  2. ^ a b c d 小島浩之「漢籍整理備忘録 -中国の古典籍・古文書の理解のために-」『大学図書館研究』第106巻、国公私立大学図書館協力委員会、2017年、1-11頁、doi:10.20722/jcul.1493ISSN 0386-0507NAID 1300060887922022年2月19日閲覧 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 陸奥間違い - 手紙の宛名を闕字にした事から発生した騒動を題材とした落語

外部リンク[編集]