鈴木泉三郎

鈴木 泉三郎
生誕 1893年5月10日
東京市赤坂区青山
(現在の東京都港区青山
死没 1924年10月6日 (満31歳没)
神奈川県中郡大磯町小千畳口
(現在の神奈川県中郡大磯町大磯)
出身校 旧制 四谷第二小学校 卒業
旧制 大倉商業学校 卒業
国民英学会 卒業
職業

劇作家編集者


配偶者 あり
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鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 - 1924年10月6日)は、日本の劇作家編集者である。豊島屋主人(としまやしゅじん)、伊豆 巳三郎(いず みさぶろう)などの筆名ももつ。

人物・来歴[編集]

1893年(明治26年)5月10日東京市赤坂区青山地区(現在の東京都港区北青山南青山)に生まれる[1]四谷区左門町(現在の新宿区左門町)にあった旧制・四谷第二小学校(現新宿区立四谷第六小学校)を卒業後、四谷銀行に入社、その傍ら、当時、同市同区葵町3丁目(現在の港区虎ノ門2丁目)にあった旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)夜間部に通い、卒業する[1]。が同市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)にあった国民英学会に進む。

17歳で作家の水野葉舟に入門し、1913年(大正2年)、20歳のときに三越呉服店(現在の三越)の募集した懸賞脚本に入選[1]松居松葉(のちの松居松翁)に認められ、松居の推薦で岡村柿紅に入門する。1914年(大正3年)、共同火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身のひとつ)に入社している。

1916年(大正5年)、23歳のころ、岡村柿紅の勧めで、共同火災保険を退職、化粧品メーカー伊東胡蝶園が経営する出版社「玄文社」に入社、岡村が主筆をつとめる雑誌『新演芸』の編集に携わる[1]。その傍ら、7月、帝国女優劇に戯曲『八幡屋の娘』、『ラシャメンの父』、『美しき白痴の死』等を発表した。1919年(大正8年)、河田富久子と結婚する。1920年(大正9年)、第一戯曲集『ラシヤメンの父』を玄文社より刊行。 1921年(大正10年)、11月『新演芸』に『谷底』、明治座で河合・喜多村の新派が『高橋お伝』を上演。 1922年(大正11年)春から病み、臥床につく。『次郎吉懺悔』が、1923年(大正12年)1月、『劇と評論』に発表され、2月、六代目尾上菊五郎が市村座で上演し、好評となる[1]。同年9月1日の関東大震災で首都は壊滅、玄文社は解散した[1]1924年(大正13年)1月、『心中の始末』、5月、『山芋奇譚』、8月、『生きてゐる小平次』を書き、10月6日、病気療養中の仮住まいであった神奈川県中郡大磯町小千畳口(現在の同町大磯)で女児2人をのこして死去した[1]。満31歳没。逝去に先立つ同年8月、『演劇新潮』(文藝春秋社)に発表した『生きてゐる小平次』が絶筆となったが、これが代表作とされ、近代戯曲史上の名作とされる[1]。作品は、虚無的で無気味な雰囲気をたたえつつも、人間の真髄を描き出しているものが多いとされる[1]。戯曲を原作に映画化が行なわれたが、『八幡屋の娘』を除けば、すべて没後であった。

ビブリオグラフィ[編集]

  • 俳優評伝『左団次の巻』(「豊島屋主人」名義、玄文社、1918年)
  • 鈴木泉三郎戯曲集『ラシヤメンの父』 (玄文社、1920年5月)
  • 劇作家協會編『現代戲曲大觀』 (新潮社、1922年)
  • 現代脚本叢書 第11編『次郎吉懺悔 外四篇』 (新潮社、1923年)
  • 読物文芸叢書 第10篇『お伝地獄』 (春陽堂、1925年) - 以降没後出版
  • 鈴木泉三郎戯曲全集 (プラトン社、1925年)
  • 現代戯曲全集 第19巻『郡虎彦・鈴木泉三郎』 (国民図書、1928年)
  • 火あぶり (プラトン社、1928年2月)
  • 現代日本文学全集 92『現代戯曲集』 (筑摩書房、1958年) - 秋田雨雀ほか
  • 名作歌舞伎全集:第20巻、第25巻『新歌舞伎集』 (東京創元新社、1969年)

フィルモグラフィ[編集]

関連事項[編集]

参考文献[編集]

  • 鈴木泉三郎『鈴木泉三郎戯曲集』、プラトン社、1925年
  • 大山功『近代日本戯曲史』、第2巻 大正篇、近代日本戯曲史刊行会、1969年

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  1. ^ a b c d e f g h i コトバンクサイト内の記事「鈴木泉三郎」の記述を参照。