酒井忠篤 (庄内藩主)

 
酒井忠篤
時代 江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕 嘉永6年2月13日1853年3月22日
死没 大正4年(1915年6月6日
別名 繁之丞(幼名)
諡号 蓬堂、拗鳴
神号 忠篤命
墓所 山形県鶴岡市家中新町の大督寺
官位 従四位下、左衛門尉、伯爵
庄内藩
氏族 左衛門尉酒井家
父母 酒井忠発:荻原紋蔵の娘・五百子
養父酒井忠寛
兄弟 忠恕、忠篤忠宝、忠庸、忠利、娘(稲葉正邦正室娘)、娘(本多康穣正室)、娘(鳥居忠宝正室)娘、(大河内輝声正室)、娘(松平忠和正室のち戸沢正実継々室)
正室徳川慶頼三女)
忠良忠孝忠悌、娘・長(酒井忠精室)、娘・米子(大給近孝正室)、娘・高子(酒井忠純室)、娘・歌子(大達茂雄室)
養女・璦子(内藤信美の娘、内藤信親子内藤信任妻)
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酒井 忠篤(さかい ただずみ)は、出羽庄内藩の第11代藩主、酒井佐衛門尉家17代当主、後に酒井佐衛門尉家19代当主。

生涯[編集]

嘉永6年(1853年)2月13日、9代藩主・酒井忠発の5男として生まれる[1]文久2年(1862年)、叔父で第10代藩主の酒井忠寛が24歳で死去したため、その養子として跡を継ぐ。文久3年(1863年)10月26日、従四位下、左衛門尉に叙任する。

幕末期の動乱の中では、譜代大名の中でも有力な名門出身のため、文久3年(1863年)4月15日に新徴組を預けられ、11月には江戸市中取締役に任じられた。元治元年(1864年)8月18日には田川由利郡など2郡、およそ2万7000石を加増されて17万石の大名となった。

慶応2年(1866年)、大凶作で減税を求める郡中騒動が起こるが、松平権十郎ら主流派(佐幕派)によって鎮圧された。この功績により藩内で勢力を持った主流派は、慶応3年(1867年)に藩政改革や政治方針で対立していた酒井右京公武合体派を逮捕投獄・粛清して、藩論を佐幕派で統一した(大山庄大夫一件、「丁卯の大獄」とも)。そして同年12月25日には薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちした(江戸薩摩藩邸の焼討事件[1]

慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では、幕府軍が敗れた後も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦う。秋田藩新庄藩そして新政府軍本体による攻撃をも破り、連戦連勝した。しかし、周辺の幕府派の藩が次々と降伏する事態を受け、ほぼ無敗のまま9月25日に降伏し、9月27日に開城して謹慎を命じられた。12月7日には新政府に反逆したとして、改易に処せられた。後に庄内藩は弟の忠宝が藩主となり[1]、12万石に削減された上で存続を許された。

明治2年(1869年)9月23日、忠篤は罪を許された。明治3年(1870年)に薩摩に移った。明治4年(1871年)7月に兵部省に出仕し、明治5年(1872年)2月に陸軍少佐に任じられた。同年3月辞任し、4月からは軍制研究のためにドイツに留学し、明治12年(1879年)6月に帰国した。その間、明治10年4月、陸軍中尉に任官する。明治13年(1880年)2月、養子忠宝の隠居により、再び家督を相続した。同年3月、政界から引退した。同年4月、陸軍歩兵中尉を辞任する。明治14年(1881年)に鶴岡へ帰っている。明治17年(1884年)7月に華族令によって伯爵となった[1]

大正4年(1915年)6月6日に死去。享年63。

栄典[編集]

家族[編集]

南洲翁遺訓[編集]

忠篤と旧庄内藩士七十余名は、明治3年(1870年)に薩摩を訪ね西郷に学んだ[4]。これは戊辰戦争における庄内藩への寛大な処置に対する感謝と、西郷の思想に強く共鳴するものがあったからである。明治22年(1889年)、西郷が大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって赦されると、三矢藤太郎を中心とする旧庄内藩士らによって西郷の教えが纏められ、翌明治23年(1890年)に『南洲翁遺訓』として発刊された[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『新編庄内人名辞典』p.323
  2. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  3. ^ 酒井忠篤『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  4. ^ 『新版 南洲翁遺訓 ビギナーズ 日本の思想』p.219
  5. ^ 『新版 南洲翁遺訓 ビギナーズ 日本の思想』p.227

参考文献[編集]

  • 庄内人名辞典刊行会編『新編庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会、1986年。
  • 西郷隆盛著、猪飼隆明翻訳、解説『新版 南洲翁遺訓 ビギナーズ 日本の思想』角川ソフィア文庫、2017年。ISBN 4044002576

関連項目[編集]


日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
庄内酒井家初代
1884年 - 1915年
次代
酒井忠良