西邑昌一

西邑 昌一
名前
カタカナ ニシムラ ショウイチ[1]
ラテン文字 NISHIMURA Shoichi
基本情報
生年月日 1912年4月18日
大日本帝国の旗 大日本帝国, 兵庫県
没年月日 (1998-03-22) 1998年3月22日(85歳没)[2]
日本の旗 日本, 兵庫県明石市
身長 163cm[3]
体重 57.8kg[3]
選手情報
ポジション FW
ユース
関西学院大学
早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1930 関学クラブ
代表歴
1934-1936 日本の旗 日本 2 (1)
監督歴
関西学院大学
1976-1980 読売サッカークラブ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - 1998年3月22日)は、日本サッカー選手、および指導者。兵庫県出身。旧制甲陽中学(現甲陽学院高等学校)、関西学院大学および早稲田大学卒業。

経歴[編集]

選手時代はフォワードを務めた。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で関学クラブの一員として、後藤靱雄堺井秀雄らとともに優勝に貢献した。

早稲田大学に在籍していた1934年に第10回極東選手権サッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で同点に追いつく得点をあげた[4]

西邑が25歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された[5][3] が、本大会での出場機会は無かった。

その後指導者となり、国際大会に臨む代表チームの指導にあたるなど、日本サッカーの強化に尽力。1956年からは関西学院大学体育会サッカー部を指揮し、関西学生リーグ・東西王座決定戦で優勝に導いたほか、関学クラブを率いて天皇杯も獲得した。

1976年から1980年まで読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)の監督も務めた。また、1982年2月にはベルリン五輪日本代表であった金容植が監督を務めるハレルヤFCが来日した時のレセプションに出席した[6]

1998年3月22日兵庫県明石市肺炎により死去した[2]

所属クラブ[編集]

代表歴[編集]

出場大会[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 2試合 1得点 (1934)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1934 2 1 0 0 2 1
1936 0 0 1 0 1 0
通算 2 1 1 0 3 1

得点数[編集]

# 年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1 1934年5月15日 フィリピンの旗 フィリピンマニラ フィリピンの旗 フィリピン 4-3 第10回極東選手権

指導歴[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、627頁。
  2. ^ a b 「西邑昌一氏死去」 朝日新聞、1998年3月23日、2014年7月11日閲覧
  3. ^ a b c 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年8月14日閲覧
  4. ^ 第10回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年8月14日閲覧。
  5. ^ “元日本代表監督ジーコ氏とベルリン五輪代表チームが日本サッカー殿堂に選出”. サッカーキング. (2016年8月1日). https://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20160801/475060.html 2020年3月21日閲覧。 
  6. ^ 「「ハレルヤ」歓迎レセプション 日韓サッカーあすキックオフ」読売新聞 (1982年2月27日), 2016年8月14日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]