藤五

株式会社藤五[1]

藤五伊勢丹[1]
種類 株式会社[1]
市場情報 東京証券取引所第2部[1]
本社所在地 日本の旗 日本
群馬県高崎市連雀町44[1]
設立 1950年昭和25年)5月29日[1]
業種 小売業
事業内容 百貨店の運営[1]
資本金 1億5000万円[1]

3億1200万円[1]

5億円[1]

7億5000万円[1]

10億円[2]
売上高 120億円
(1975年(昭和50年)1月期)[3]

54億8000万円
1985年(昭和60年)1月期)[3]
営業利益 マイナス4億8000万円
1985年(昭和60年)1月期)[3]
従業員数 169[3]
決算期 3月[1]

2月[1]
主要株主 伊勢丹[1]
主要子会社 株式会社藤五ストア[1]
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藤五
店舗概要
所在地 群馬県高崎市連雀町44[4]
開業日 1964年昭和39年)10月29日[5]
閉業日 1985年(昭和60年)8月4日[7]
正式名称 藤五
施設所有者 株式会社藤五[4]
商業施設面積 11,000 m²[6]
前身 高崎警察署[6]
後身 藤五伊勢丹[8]

高崎伊勢丹
最寄駅 高崎駅
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藤五(ふじご)は、1964年昭和39年)から1985年(昭和60年)まで群馬県高崎市にあった百貨店である[4]1969年(昭和44年)8月に東京証券取引所第2部に上場したが[1]1979年(昭和53年)8月2日に上場廃止[9]

ちなみに屋号の藤五は、創業者の野口貞一の先祖が花川戸東京都台東区浅草)で営んでいた回槽問屋「藤屋五郎次」の名前からとったものである[10]

歴史[編集]

1951年(昭和26年)に野口が群馬県高崎市中紺屋町に呉服と洋品を扱う小売店を開いたのが始まりである[11]

同店は開業から4年後には売上高1.5億を計上し高崎市でトップとなり[11]関東地方でも知られる存在となった[要出典]。さらに1957年(昭和32年)に高崎市鞘町の「有賀百貨店」を買収して移転し、売場面積を拡大して一段の売上伸張を図った[11]

百貨店が無かったことから地元財界や伊勢丹などの支援を受けて百貨店を開設することになり[12]1964年(昭和39年)には高崎市連雀町の高崎警察署跡に地上5階・地下1階建て[6]売場面積は当時群馬県最大規模の1万1,000m2[要出典]群馬県で二番目の百貨店として藤五百貨店を開業した[6]

群馬県初の百貨店であった前三百貨店前橋市千代田町、現在の前橋テルサが建つ場所)がなかば半官半民で設立したのに対して、藤五百貨店の場合は扇屋千葉県千葉市)などと同様に関東地方の有力洋品店からの発展であった。そのため販売ノウハウに長けたために[要出典]1965年(昭和40年)には売上高25.8億円を計上し開業時から好調であった。これは前三百貨店の売上高11.7億円の2倍以上の規模であり、開業早々に群馬県でトップの売上高を誇る小売店となった[13]

さらには、太田市栃木県足利市などに藤五百貨店の分店的な総合スーパー「藤五ストア」を出店し、1969年(昭和44年)8月に東京証券取引所第2部に上場するまでに成長した。

しかし1968年(昭和43年)、前橋市に本拠を持つスズラン百貨店が高崎市に進出[6]と大型化、ダイエーニチイ髙島屋の進出が取り沙汰されると高崎市は大型店同士の競争激化が懸念され始めた。 これまで高崎市は高島屋ストア、十字屋八木橋支店、丸専、大手月賦店緑屋など藤五を除くと売場面積3,000m2にも満たない小型店がひしめきあう地域であった。それ故に藤五のアドバンテージがこれら大規模の出店ラッシュで地位が脅かされるのは確実であった[要出典]。その危惧から藤五は1969年(昭和44年)3月に伊勢丹とそれまで商品提携のみであった関係を強化、業務提携[14]するに至った。

さらに伊勢丹との提携強化と相前後して、同年10月にはイトーヨーカドーや扇屋などと共に共同仕入機構「ナルサ」を設立[15]するなどして競争力の強化を図った。

また一連の大型店進出ラッシュに対抗するため新館を建設して大規模な増床を実施[3](新館の売場面積7,000m2[要出典] 群馬県で最大の売場面積1万8,000m2を維持することとなった。だが本館の建物の償却が終わらない中での投資であったため、資金面での不安が生じ始めた。[要出典]その経緯から資金面の協力を仰ぐため、1973年(昭和48年)6月に伊勢丹と資本提携し藤五伊勢丹に社名変更した[6][14]

1970年代後半の高崎市は当初の取り沙汰通りダイエー、ニチイ[16]、高崎髙島屋の3店が高崎駅前へ大規模小売店舗法による出店調整のため売場面積の削減があったものの進出を果たしていた。[要出典]この一連の出店ラッシュにより、駅から離れた中心市街地にあった十字屋や緑屋が撤退に追い込まれた[6]

藤五は社名変更後、群馬県下最大の売場面積を維持したこともあり、[要出典]1975年(昭和50年)1月期決算で売上高120億円を計上し販売面でも高崎最大規模を維持した[3]

だが、新館建設の影響で有利子負債が約114億円となり、その利払いだけで年間約10億円の負担が生じた[17]。 その為、同年1975年(昭和50年)1月期決算から連続赤字に陥って[17]、約250億円の累積赤字を抱えて経営危機に陥ることになった[18]

また新館も本館との間に公道が存在したため効率の良い売場運営が難しく業績に寄与しなかった。さらに市内の他店と比較すると、藤五本館が1万1,000㎡に対しスズラン百貨店高崎店は本館が約1万7,000m2、高崎高島屋もスズラン百貨店と同じ約1万7,000m2、ニチイ高崎店が約1万3,000m2、ダイエー高崎店が約1万m2あり、高崎市の百貨店のなかでは規模に見劣りがあった。 以上の点から、藤五は売場構成では売場面積上の広いものの、双方ともに確保したい商品展開も困難であった。さらには公道の買収も資金不足もあって進まなかった。[要出典]

この経営危機に対応するため、群馬銀行を中心とする銀行団や伊勢丹なども加わって経営再建策を策定[17]。 人員を約3分の1の削減するとともに、新館を売却して売り場を本館のみに集約することとなった[17]。 新館は約60億円で[17]1977年(昭和52年)11月に伊勢丹の子会社マミーナに売却されてファッションビルBIBI高崎に転換させた[3]

しかし、その後も、子会社の藤五ストアが1978年(昭和53年)12月20日に、負債総額65億7000万円で、前橋地方裁判所高崎支部に自己破産を申請して経営破綻[19]

百貨店本体の売上高も1975年(昭和50年)1月期の120億円が1985年(昭和60年)1月期の54億8000万円まで落ち込んだ[3]

こうした業績低迷の影響で、3期連続の債務超過におちいったことから、1979年(昭和53年)8月に東京二部上場も廃止となった[3]

また野口の没後の1982年(昭和57年)3月、伊勢丹は藤五の発行済み株式の過半を取得、社名を高崎伊勢丹とし店名も同一のものにした。そして伊勢丹主導でリニューアルを実施し、店内の構成も伊勢丹色を強めていった。[要出典]だが業績はさらに減少し、1985年(昭和60年)1月期決算で売上は54億8000万円とピーク時の半分以下となりリニューアルは失敗に終わった[3]1985年(昭和60年)1月期の累積損失が87億3700万円を抱えることになったことから閉店を決定[3]。 同年8月4日をもって閉店した[14]

なお、法人は閉店後もしば存続し、累積した損失や店舗などの不動産の処分などの残務処理を行う形を取った[20]

閉店後本館は取り壊され駐車場となり[21]、BIBI高崎は高崎伊勢丹閉店後も営業を続けたが、1985年(昭和60年)9月に閉店し[22]、取り壊された[21]BIBI高崎閉店後は映画ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭』の撮影にも使われた。また本館の入口に通じるエントランス跡にも伊勢丹の旧商標が描かれた看板も残っていた。[要出典]

そして2005年平成17年)に一部敷地が売却され、タワーマンションが建設された[23]

藤五ストア[編集]

株式会社藤五ストア[24]
種類 株式会社[24]
本社所在地 日本の旗 日本
群馬県高崎市砂賀町27[24]
設立 1961年昭和36年)11月7日[24]
業種 小売業
代表者 羽田俊一社長[19]
資本金 3000万円[24]

2億1000万円[19]
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1978年(昭和53年)12月20日に、負債総額65億7000万円で、前橋地方裁判所高崎支部に自己破産を申請した[19]

かつて存在した藤五ストアの店舗[編集]

群馬県[編集]

  • 館林店(館林市谷越町萱場319[25]、1962年(昭和37年)12月8日開店[25] - ?)
売場面積850m2[25] → 977m2[26]
  • 渋川店(渋川市新町萱場1861-1[25]、1963年(昭和38年)3月23日開店[25] - ?)
売場面積1,386m2[25] → 1,437m2[26]
  • 高崎店(高崎市宮本町17[25]、1969年(昭和44年)11月開店[25] - ?)
売場面積380m2[25] → 1,187m2[26]
売場面積850m2[26]
売場面積3,312m2[28]
大川屋の跡に出店していた[29]
売場面積457m2[26]

栃木県[編集]

  • 栃木店(栃木市万町3-23[30]、1961年(昭和36年)11月7日開店[30] - ?)
売場面積637m2[30]
  • 佐野店(佐野市大和田町2063[31]、1962年(昭和37年)6月24日開店[30] - ?)
売場面積640m2[30] → 1,946m2[26]
売場面積4,550m2[30]
この藤五ストアは展望室などが設置され、外観も趣向を凝らした店舗であった。特に1960年代当時北関東の代表都市であった足利市の店舗は、地階に食料品売場、最上階に展望レストランが設置されフルライン型の構成であった。[要出典]

埼玉県[編集]

売場面積1,386m2[35][36] → 2,224m2[26]

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 流通会社年鑑 1978年版, 日本経済新聞社, (1977-10-25), pp. 355-356 
  2. ^ “過剰進出と立地の変化が生んだ老舗の死 藤五伊勢丹倒産劇が示す地方百貨店の起爆剤とは?”. 総合食品 1985年6月号 (総合食品研究所) (1985年6月).pp34
  3. ^ a b c d e f g h i j k “過剰進出と立地の変化が生んだ老舗の死 藤五伊勢丹倒産劇が示す地方百貨店の起爆剤とは?”. 総合食品 1985年6月号 (総合食品研究所) (1985年6月).pp35
  4. ^ a b c 日本商業年鑑 1972年版, 商業界, (1972), pp. 500 
  5. ^ 群馬の20世紀 上毛新聞で見る百年, 上毛新聞社, (2000-02), pp. 272, ISBN 978-4880587653 
  6. ^ a b c d e f g “たかさき100年 第72回大型店の進出と商店街”. 広報たかさき 平成11年11月1日号 (高崎市) (1999-11-1). 
  7. ^ 群馬の20世紀 上毛新聞で見る百年, 上毛新聞社, (2000-02), pp. 361, ISBN 978-4880587653 
  8. ^ 群馬の20世紀 上毛新聞で見る百年, 上毛新聞社, (2000-02), pp. 320, ISBN 978-4880587653 
  9. ^ “経済日誌(54年5月)”. 証券 1979年7月号 (東京証券取引所総務部) (1979年7月).pp163
  10. ^ 吉野五郎『商人物語』国光、1960年。 
  11. ^ a b c 吉野五郎『商人物語』国光、1960年。 
  12. ^ “闘わずして敗れた藤五伊勢丹の救済なるか伊勢丹 今秋いよいよ高島屋と勝敗決す”. 実業往来 1977年9月号 (実業往来社) (1977年9月).pp33
  13. ^ デパート新聞社編『全国百貨店年鑑 昭和42年版』デパート新聞社、1967年。 
  14. ^ a b c 創業100周年記念事業社史編纂実行委員会『新世紀への翔き 伊勢丹100年のあゆみ』伊勢丹、1986年。 
  15. ^ 李敬泉. “ジャスコの出店戦略の原型”. 大阪市立大学 経営研究 第55巻第1号 (大阪市立大学) (2002). 
  16. ^ ニチイ高崎店、後の高崎サティ(初代)→高崎ビブレ(2014年3月31日に閉店)
  17. ^ a b c d e “闘わずして敗れた藤五伊勢丹の救済なるか伊勢丹 今秋いよいよ高島屋と勝敗決す”. 実業往来 1977年9月号 (実業往来社) (1977年9月).pp34
  18. ^ “闘わずして敗れた藤五伊勢丹の救済なるか伊勢丹 今秋いよいよ高島屋と勝敗決す”. 実業往来 1977年9月号 (実業往来社) (1977年9月).pp32
  19. ^ a b c d “不振の続く衣料スーパー”. 近代中小企業 1979年2月号 (中小企業経営研究会) (1979年2月).pp105
  20. ^ “過剰進出と立地の変化が生んだ老舗の死 藤五伊勢丹倒産劇が示す地方百貨店の起爆剤とは?”. 総合食品 1985年6月号 (総合食品研究所) (1985年6月).pp35-36
  21. ^ a b “群馬県高崎市 郊外パワーで全国No.1へ浮上、市街地のDC化で二極化する高崎 伊勢丹跡地へ進出か?地元に根強い高崎プリンス待望論”. ヤノニュース 1988年10月25日号 (矢野経済研究所) (1988年10月25日).pp25
  22. ^ “群馬県高崎市 郊外パワーで全国No.1へ浮上、市街地のDC化で二極化する高崎 伊勢丹跡地へ進出か?地元に根強い高崎プリンス待望論”. ヤノニュース 1988年10月25日号 (矢野経済研究所) (1988年10月25日).pp21
  23. ^ “「藤五」跡に大型マンション”. ぐんま経済新聞 (日本工業経済新聞社). (2005年6月2日) 
  24. ^ a b c d e 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp664
  25. ^ a b c d e f g h i 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp154
  26. ^ a b c d e f g 『流通会社年鑑 1976年版』 日本経済新聞社、1975年11月13日。 pp195
  27. ^ a b c 『流通会社年鑑 1976年版』 日本経済新聞社、1975年11月13日。 pp194
  28. ^ a b “商店街の事例に見る(68)世代交代が進み活性化に芽生え 太田市本町・中央商店街”. 石垣 1990年1月号 (日本商工会議所) (1990年1月).pp61
  29. ^ 『太田市史 通史編 近現代』 太田市、1994年3月。pp803
  30. ^ a b c d e f 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp154
  31. ^ 『栃木年鑑 昭和50年版』 栃木新聞社、1975年3月31日。pp402
  32. ^ 『栃木年鑑 昭和56年版』 栃木新聞社、1980年12月10日。pp456
  33. ^ 『栃木年鑑 昭和46年版』 栃木新聞社、1970年12月1日。pp350
  34. ^ a b 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp392
  35. ^ a b c 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp344
  36. ^ a b c 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp168

関連項目[編集]

座標: 北緯36度19分29秒 東経139度00分24秒 / 北緯36.324773度 東経139.00679度 / 36.324773; 139.00679