米倉里矩

 
米倉里矩
時代 江戸時代中期
生誕 享保18年8月6日1733年9月13日
死没 寛延2年3月6日1749年4月22日
改名 鍋三郎(幼名)、里矩
戒名 桃雲元珠真髯院
墓所 東京都港区西麻布の長谷寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
武蔵金沢藩
氏族 米倉氏
父母 米倉忠仰、堀井氏娘・香雲院
昌晴
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米倉 里矩(よねくら さとのり)は、江戸時代中期の大名武蔵国金沢藩2代藩主。六浦藩米倉家5代。

略歴[編集]

享保18年(1733年)8月6日、初代藩主・米倉忠仰の長男として誕生。母は堀井氏娘(香雲院)。

享保20年(1735年)5月18日、父の死去により家督を継いだ。忠仰の実兄で伯父・柳沢吉里より偏諱を受けて里矩と名乗る。しかし、里矩の年齢を9歳と詐称していたことが判明したため、幕府は重臣らを柳沢吉里に預けるなどの処罰を行った。年齢詐称は、里矩があまりに幼少であったことから、家督相続を幕府に認められないことを恐れたためと考えられる。延享3年(1746年)3月に9代将軍・徳川家重御目見したが、寛延2年(1749年)3月6日に17歳で死去した。

子が無かったため、養子・昌晴米倉昌倫の次男)が跡を継いだ。

系譜[編集]

父母

  • 米倉忠仰(父)
  • 香雲院 ー 堀井氏、側室(母)

養子