矢野祐弘

矢野 祐弘
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県西条市
生年月日 1931年1月6日
没年月日 (1993-06-11) 1993年6月11日(62歳没)
選手情報
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ・監督歴

矢野 祐弘(やの すけひろ、1931年1月6日 - 1993年10月9日)は、愛媛県出身のアマチュア野球の野球指導者。

来歴・人物[編集]

西条高校を経て、立教大学に進学し野球部に属したが、2年で中退[1]1950年3月に母校の西条高校の監督に就任した[2]1956年選抜高校野球で初めて甲子園への出場を果たし、1959年全国高校野球では、エースの金子哲夫を擁し、初めて全国制覇を果たした[2]1962年岡山国体でも優勝を果たした[2]

実績を買われて、1965年から1977年までの間、亜細亜大学の監督を務めた。山本和行投手を擁し1971年春に東都大学野球リーグで亜大3回目の優勝を果たすと、全日本大学野球選手権大会法政大学を破り亜大を全国大会初優勝に導いた[2][3]1978年から1991年までは同大学の総監督を務めた[2][3]。監督・総監督の時を通じて、大橋穣、山本和行投手、古屋英夫大石大二郎宮本賢治投手、古川慎一阿波野秀幸投手、佐藤和弘与田剛投手、小池秀郎高津臣吾川尻哲郎ら1990年の亜大3枚看板投手を育てた[2]

1993年6月11日腎不全のために死去[1]。62歳没。

1990年のドラフト会議では、エースでこの年の目玉選手であった小池秀郎投手に対して事前に断りを入れていたロッテが1位指名のうえ8球団競合で交渉権を獲得。これに激怒したとされ、矢野の逝去後も暫くは同球団への新人選手の入団は途絶えた。

亜細亜大学硬式野球部は以降も矢野の故郷である西条市で春季キャンプを実施していた。

脚注[編集]

関連項目[編集]