灘中学校・高等学校

灘中学校・高等学校
地図北緯34度43分09.10秒 東経135度16分06.30秒 / 北緯34.7191944度 東経135.2684167度 / 34.7191944; 135.2684167座標: 北緯34度43分09.10秒 東経135度16分06.30秒 / 北緯34.7191944度 東経135.2684167度 / 34.7191944; 135.2684167
過去の名称 灘中学校(旧制
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人灘育英会
校訓 「精力善用」「自他共栄」
設立年月日 1927年
創立記念日 10月24日
創立者 嘉納治郎右衛門
嘉納治兵衛
山邑太左衛門
共学・別学 男子校
中高一貫教育 併設型(外部混合有)
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
学校コード C128310000022 ウィキデータを編集(中学校)
D128310000020 ウィキデータを編集(高等学校)
高校コード 28503A
所在地 658-0082
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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灘中学校・高等学校(なだちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県神戸市東灘区に所在し[1]中高一貫教育を提供する私立男子中学校高等学校[2]

高等学校において、中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学の生徒との間では、第1学年から混合してクラスを編成する併設混合型中高一貫校[3]。科目によっては第1学年の時は別クラスを編成して授業を行う。

概要[編集]

1928年昭和3年)開校[3]。設置者は学校法人灘育英会[3]。校舎のうち、事務棟として現在も使用中の本館[4]は国の登録有形文化財に登録されている[5]

沿革[編集]

(沿革節の主要な出典は公式サイト[3]

灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された。

設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校東京教育大学を経て現:筑波大学)やその附属校(現:筑波大附属中・高)などの学校長職を25年間ほど務めた嘉納治五郎が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった(この嘉納治五郎の影響で現在でも柔道が全員必修である。[6])。

初代校長は東京高等師範学校の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた眞田範衞が治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。1927年昭和2年)10月24日に設置認可を受け、この日を創立記念日とし、その翌年に開校した。

当時は神戸一中(現:神戸高校)や神戸二中(現:兵庫高校)、神戸三中(現:長田高校)等に入学できなかった者が入学してきたが、当初から官公立中学(現在の国公立高校)を抜かすことを考えていたようで、学力向上に力を入れ、学力別に学級分けした。

第二次世界大戦前は柔道部、それに好村三郎立大)や松尾俊治(慶大)ら東京六大学野球などに好選手を送り込んでいた野球部などの活躍の方が有名であったが、戦後の学制改革を経てから進学実績が漸次上昇する。1968年、それまで東大合格者数で首位であった都立日比谷高校を追い抜き、公立校以外で初めて単独での東大合格者数首位の座に立った[7]。くしくも、同時期に都立高校学校群制度を制定・継続した小尾乕雄美濃部亮吉らが東京高等師範学校やその附属校出身者であったように、教育界における日教組から文部省など官界までに至る“高師閥”あるいは“教育大閥”の影響力の強さを見ることができる[8]

校風[編集]

制服の着用義務が無い他、校則は最小限に限り(文章化された校則はなく不文律のみ)、風紀について大部分を生徒の良識に委ねるなど、自由な校風を特徴とする[3][2]

設立の経緯から、現在でも中学校および、高校1年次では、柔道が全員必修になっている[6]

カリキュラム[編集]

学年担任制が導入されており、同じ担任団が中高6年間を指導する[2]という、中高一貫教育ならではの教育方法が行われている。

灘・甲南定期戦[編集]

毎年6月に甲南中学・高校と灘・甲南定期親善試合を催している[9][10]

甲南学園は戦前、主に帝国大学入学を志す生徒が集まる旧制高校であった[11]が、学制改革により、新制の甲南大学と甲南中高に改組する[12]。同じくして新制高校となった灘校から多数の生徒が甲南大に入学した。そのことが縁で1953年から甲南と灘校の間で交流戦が始まり[13]、現在に至る。

文化祭[編集]

毎年5月2日、3日に文化祭が行われる。(2020年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、校舎での文化祭を中止し、オンラインコンテンツでの参加のみとなった。2021年・2022年は制限付きでの校舎・オンラインの同時開催だった[14]。)

部活動(クラブ活動)[編集]

灘中学校・高等学校の部活動(クラブ活動)は中学生、高校生が混合して活動している。また、サークル同好会なども存在する。

文化部

ESS、アマチュア無線研究部、囲碁部、将棋部、数学研究部、地理研究部、鉄道研究部、クイズ同好会、社会科学同好会、写真同好会、書道同好会、地学研究部、文芸同好会、マジカル同好会、化学研究部、物理研究部、ディベート同好会、灘校パソコン研究部、生物研究部、古典文化同好会、レゴ同好会、クラシック研究部、グリークラブ、ブラスバンド部

運動部

野球部、ソフトボール同好会、サッカー部、ソフトテニス部、ラグビー部、陸上競技部、バスケットボール部、バドミントン部、バレーボール部、剣道部、柔道部、少林寺拳法同好会、卓球部、ワンダーフォーゲル部、水泳部、硬式庭球部

不祥事[編集]

1985年に実施された「六甲山集中登山」に参加した高校3年生の生徒が、落石に遭って死亡する事故が起きた[15]。この遠足では学校側が指定した5つのコースから生徒の班が選択して実施することになっていたが、事故に遭遇した班は独断でコースを変更し、それを学校側に報告していなかった[15]。遺族は学校法人灘育英会に対して安全配慮義務違反および使用者責任に基づく損害賠償を求める民事訴訟を神戸地方裁判所に提訴したが、神戸地裁は1992年3月の判決で、学校の自主性尊重の校風、被害者生徒が中学2年生からワンダーフォーゲル部に所属して登山の経験を有していたこと、さらに「高校3年生ともなれば、心身発達の程度が一般に成人のそれにほぼ匹敵するに至ることは経験則に照らして明らかというべきであるから、かかる生徒に対しては自己の行為について自主的な判断で責任を持った行動をとることを期待することができ」るといった理由から、「逐一指導監督するまでの義務はないものと解するのが相当」とする判決を下した[15]

アクセス[編集]

[1]

学校関係者[編集]

提携校[編集]

阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)[編集]

1995年平成7年)1月17日早朝に発生した、阪神・淡路大震災は灘中学・高校をも直撃した。学校の保健室が臨時の診療所として使用され、体育館は緊急の遺体安置所として使用された[16]。また、グラウンドでは自衛隊からの食糧配給なども行われていた。この地震の影響で古い校舎の耐震工事などが行われた。

脚注[編集]

  1. ^ a b アクセス”. 灘中学校・高等学校. 2020年2月3日閲覧。
  2. ^ a b c ご挨拶”. 灘中学校・高等学校. 2020年2月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e 沿革”. 灘中学校・高等学校. 2020年2月4日閲覧。
  4. ^ 灘中学校・高等学校施設一覧” (PDF). 灘中学校・高等学校. 2020年2月4日閲覧。
  5. ^ 灘中学校・高等学校本館”. 文化庁. 2020年2月3日閲覧。
  6. ^ a b “灘の畳が映す「柔道の父」の教え グローバル人材育む”. NIKKEI STYLE. https://style.nikkei.com/article/DGXMZO5346474017122019000000? 2020年2月3日閲覧。 
  7. ^ 1965年~2016年 過去52年の東大合格者ランキングベスト10 (PDF) 大学通信
  8. ^ トーマス・ローレン 著、友田泰正 訳『日本の高校--成功と代償』サイマル出版会(原著1988年3月)、28・61-62頁。ISBN 9784377107777 など
  9. ^ 灘中学校・灘高等学校”. www.nada.ac.jp. 2022年8月31日閲覧。
  10. ^ 6/12(日)灘甲戦が開催されました|新着情報”. 甲南高等学校・中学校. 2022年8月31日閲覧。
  11. ^ 株式会社新潮社. “第16回 帝大に多様性を持ち込んだ「成城ボーイ」 | 「反東大」の思想史 | 尾原宏之 | 連載 | 考える人 | 新潮社”. 考える人. 2022年8月31日閲覧。
  12. ^ 甲南の沿革・伝統|学校紹介|甲南高等学校・中学校”. 甲南高等学校・中学校. 2022年8月31日閲覧。
  13. ^ 灘甲戦・高校総体壮行会|新着情報”. 甲南高等学校・中学校. 2022年8月31日閲覧。
  14. ^ 第76回灘校文化祭「Turn it Over 」 (@nada_festival) - X(旧Twitter)
  15. ^ a b c 柿沼昌芳「学校の日常が法の裁きを受けるとき104 高校3年生の自己責任」『月刊生徒指導』2004年8月号、学事出版(筆者による自身のブログへの転載
  16. ^ 藤井祐美子 (1995年7月). “阪神大震災被災地の医療支援活動に参加して”. 阪神・淡路大震災救援活動報告書. 神戸大学附属図書館. 2019年3月17日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]