河守上村

こうもりかみむら
河守上村
廃止日 1951年4月1日
廃止理由 編入合併
河守町河守上村河西村河東村有路上村有路下村大江町
現在の自治体 福知山市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
加佐郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 2,578
国勢調査1950年
隣接自治体 加佐郡河守町、河西村、有路上村、有路下村、岡田上村与謝郡与謝村上宮津村
河守上村役場
所在地 京都府加佐郡河守上村大字二俣
座標 北緯35度24分48秒 東経135度09分16秒 / 北緯35.41333度 東経135.15431度 / 35.41333; 135.15431座標: 北緯35度24分48秒 東経135度09分16秒 / 北緯35.41333度 東経135.15431度 / 35.41333; 135.15431
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河守上村(こうもりかみむら)は、かつて京都府加佐郡にあった。現在の福知山市大江町の北西部、京都丹後鉄道宮福線の沿線にあたる。

地理[編集]

大江山

由良川が形成する河守盆地の北方にあり、由良川支流の宮川流域にいくつかの集落を形成した。生業は農業が主だったが、戦前までは主要な副業として養蚕業があった。また、冬季には木炭串柿などを生産し、栽培したによる和紙製造も行われていた。

  • 山岳:大江山、鳩ヶ峰、鍋塚、矢部山、天ヶ峰、城山
  • 河川:宮川、雲原川

歴史[編集]

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、仏性寺村・北原村・毛原村・内宮村・二俣村・天田内村・橋谷村の区域をもって河守上村が発足[1]。旧村名を継承した7大字を編成。1890年(明治23年)の人口は2,576人だった[1]

1950年(昭和25年)の人口は2,601人だった[1]。1951年(昭和26年)4月1日 - 河守町に編入されて河守上村が廃止される。河守町は即日改称して大江町が発足。

行政[編集]

歴代村長[編集]

名前 就任 退任
1 佐藤和助 1889年6月 1893年1月
2 西垣権左衛門 1893年2月 1894年8月
3 荒賀信右衛門 1894年9月 1895年12月
- 西垣権左衛門 1896年2月 1897年3月
- 荒賀信右衛門 1897年4月 1898年4月
- 西垣権左衛門 1898年5月 1901年1月
4 脇田房蔵 1901年1月 1905年2月
5 岡垣新之助 1905年2月 1907年2月
6 岡垣憲一 1907年3月 1910年6月
7 亀井清太郎 1910年7月 1912年1月
8 荒賀駒造 1912年2月 1912年12月
9 真下市松 1913年1月 1917年1月
10 佐藤留太郎 1917年2月 1929年3月
11 馬谷常四郎 1929年3月 1932年1月
12 荒賀万之助 1932年1月 1937年1月
- 馬谷常四郎 1937年2月 1940年2月
13 佐古田正作 1940年2月 1944年2月
14 佐藤清次 1944年2月 1947年4月
15 佐古田弥一郎 1947年4月 1951年3月

出典は『大江町史 通史編 下巻』[2]

経済[編集]

河守上村の仏性寺には河守鉱山があった。1917年(大正6年)、大江山の中腹での鉱脈が発見された[1]。1928年(昭和3年)に日本鉱業会社(後のジャパンエナジー株式会社)が採掘権を獲得し、1933年(昭和8年)から黄銅鉱磁硫鉄鉱を主とする本格的な採掘を開始した[1]。1960年(昭和35年)の日本鉱業会社河守鉱業所の従業員は215人を数え、月産搬出粗鉱は5500トンに上った[1]。河守鉱山は1969年(昭和44年)に閉山した[1]

交通[編集]

河守上村に鉄道は通じていなかった。大江町発足後の1988年(昭和63年)には京都丹後鉄道宮福線が開業し、二俣駅大江山口内宮駅が設置された。

名所・旧跡[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年
  2. ^ 大江町誌編纂委員会『大江町史 通史編 下巻』大江町、1984年、pp.410-411

参考文献[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年

関連項目[編集]