東京都公安条例事件

最高裁判所判例
事件名 昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反
事件番号 昭和35(あ)112
1960年(昭和35年)7月20日
判例集 刑集第14巻9号1243頁
裁判要旨
昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例は憲法第二一条に違反しない。
大法廷
裁判長 田中耕太郎
陪席裁判官 小谷勝重島保斎藤悠輔藤田八郎河村又介入江俊郎垂水克己河村大助下飯坂潤夫奥野健一高橋潔高木常七石坂修一池田克
意見
多数意見 田中耕太郎、小谷勝重、島保、斎藤悠輔、河村又介、入江俊郎、河村大助、下飯坂潤夫、奥野健一、高橋潔、高木常七、石坂修一、池田克
反対意見 藤田八郎、垂水克己
参照法条
昭和25年東京都条例44号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例、憲法21条
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東京都公安条例事件(とうきょうとこうあんじょうれいじけん)とは、日本の判例[1]

概要[編集]

昭和33年(1958年)下旬に全学連幹部ら7人は、警職法反対や勤務評定反対等のデモを主催するにあたって、東京都公安条例による「交通秩序を乱す行為は絶対に行わないこと」とする許可事項に反して蛇行進や渦巻行進などを行ったり、無許可デモを行った[2]。そのため、7人は東京都公安条例違反等で起訴された。

昭和34年(1959年)8月8日に東京地裁(裁判長は岸盛一)は新潟県公安条例事件の最高裁判決の基準を適用し、東京都公安条例は規制対象の特定性に欠け、認否の基準が不明確であり、新潟県公安条例にあったみなし許可規定も存在しないことから、集会の自由表現の自由を規定した日本国憲法第21条に違反するとして、7人に対し、東京都公安条例違反について無罪判決を言い渡した[注 1][2][3]

検察官控訴したが、刑事訴訟規則第247条及び第248条(最高裁判所への事件移送)により、審理は最高裁に移送された[2]

昭和35年(1960年7月20日に最高裁は「デモ等の集団行動はその群集心理から甚だしい場合は一瞬にして暴徒と化し、警察力でもいかんともしがたい事態に発展する危険が存在する」とし、「(公安条例によって)不測の事態に備え、法の秩序を維持するのに必要かつ最小限度の措置を事前に講ずることはやむを得ない」「許可制もその実質においては届け出制と違わない」として東京都公安条例について憲法第21条に違反しないとする合憲判決を出して東京地裁に審理を差し戻した[4]。同日には合憲判決によって有罪となっていた広島県公安条例事件の上告を棄却して有罪判決を確定させ、違憲判決による無罪となっていた静岡県公安条例事件の上告については、条例が廃止されたことを受けて免訴判決が合わせて出された[4]

昭和38年(1963年3月27日に差し戻された東京地裁は7人に対して罰金1万円から1万5000円の有罪判決を言い渡した[5]。被告人7人の内3人が控訴するも、昭和39年(1964年4月27日東京高裁は控訴を棄却した[6][7]。被告人3人は上告するも、同年9月15日に上告が棄却され、7人全員に東京都公安条例違反の有罪判決が確定した[7]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 7人中6人は無罪であったが、1人については昭和33年(1958年)4月にデモの過程で駐日米国大使館に押しかけた際に構内に入った住居侵入罪の別件で罰金2000円の有罪判決が言い渡された。

出典[編集]

  1. ^ 憲法判例研究会 (2014), p. 124.
  2. ^ a b c 中村睦男 & 常本照樹 (1997), p. 161.
  3. ^ 「都公安条例は憲法違反 東京地裁判決 七学生全員が無罪 無届デモの前全学連幹部」『読売新聞読売新聞社、1959年8月8日。
  4. ^ a b 「“暴力”未然に防ぐ 広島、上告棄却 東京は差し戻し」『読売新聞』読売新聞社、1960年7月20日。
  5. ^ 「七人の罰金 都公安条例違反差戻し審」『朝日新聞朝日新聞社、1963年3月28日。
  6. ^ 「高裁でも有罪 無許可集会のやり直し裁判」『読売新聞』読売新聞社、1964年4月27日。
  7. ^ a b 東京地方検察庁 (1974), p. 259.

参考文献[編集]

関連項目[編集]