村田勉

村田 勉(むらた つとむ、1909年6月3日[1] - 2000年1月30日[2])は、日本軍人(技術士官)、技術者実業家。軍における最終階級は大日本帝国海軍技術少佐

火薬の専門家として知られ、海軍では艦砲の火薬や固体燃料ロケットの研究をおこない、戦後は日本油脂に勤務し、糸川英夫ペンシルロケットに推進剤を提供した。のちに日本油脂の社長・会長を務める。

生涯・人物[編集]

熊本県に生まれる[1]。旧制玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)から第一高等学校を経て東京帝国大学に進む[3]。旧制中学校時代に読んだ三上於菟吉の小説『春は蘇れり(地獄の彼方の天国)』に影響を受け、火薬に興味を持つ[1]東京帝国大学工学部卒業後、海軍技術士官となる。

海軍では、平塚にあった火薬廠の研究部でロケットの開発に従事する[4]。1934年には辻堂の海岸で固体燃料ロケットの発射実験をおこなう[5]。その後、ロケット用の大型火薬を圧縮成形する機械を開発した[6]。また、戦艦大和の砲弾に使用する火薬の研究にも携わったという[1]。ドイツの火薬専門誌に1940年頃に掲載されたアメリカの論文を翻訳して海軍内に配布したが、その中に「ウラン235の核に中性子を衝突させて核分裂反応を起こせば莫大なエネルギーが発生する」という内容があり、海軍が原子爆弾に着目する契機になったとされる(詳しくは日本の原子爆弾開発#F研究を参照)。1940年に勲五等双光旭日章を受章[2]

終戦後の1945年、愛知県武豊町の日本油脂に入社。1954年2月、ロケット開発に乗り出した糸川英夫に依頼された戸田康明富士精密工業)の訪問を受け、実験用ロケットの推進剤としてロケット弾用の火薬を提供した[7]。糸川の実験ロケットはペンシルロケットとして実現することとなる。

1967年、日本油脂の社長に就任[8]。1972年に藍綬褒章、1981年に勲三等旭日中綬章を受章[2]

2000年1月30日、心筋梗塞のため死去[2]

著書[編集]

  • 『私の研究余録 海軍12年・会社45年』私家版、1990年[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 的川泰宣ペンシルロケット物語 プロローグ」 - 宇宙航空研究開発機構
  2. ^ a b c d 『現代物故者事典2000~2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.610
  3. ^ 玉高同窓会
  4. ^ あなたと博物館 2014年3月号 - 平塚市博物館(PDF文書。2ページ目下段を参照)
  5. ^ 的川泰宣戦前の日本のロケット研究」- ISASニュース2001年2月号(No.239)
  6. ^ 日本海軍の固体ロケット - 天体観望支援ボランティア黄華堂ウェブサイト(「宇宙開発裏話」)
  7. ^ 日本の宇宙開発の始まり 百万の味方 - 日本の宇宙開発の歴史(宇宙科学研究所)
  8. ^ 「人物スポット 日本油脂新社長 村田勉」『化学経済』1967年12月号、化学工業日報社(国会図書館検索結果[1]