本城 問亭(ほんじょう もんてい[1][2][3]/ぶんてい[4]、1864年(元治元年) - 1915年(大正4年)1月31日[2][3])は、明治時代から大正時代にかけての日本の漢学者。越前国(福井県)出身[2]。名は 蕢[1](蕡とも[2])。字は実生[1][2]。
24歳のときに東京に出て、大蔵省の官吏となった[2][3]。のちに職を辞し、学問に専念[2][3]。三島中洲、重野安繹に師事した[2]。
著書には『碑伝彙纂』[2][3]、『随筆雑記』[2][3]がある。遺文集に『問亭遺文』(大正5年刊行、本城水棹子編)。
次女の千代子は、中村雨紅の妻[4]。