木村曙

木村きむら あけぼの
誕生 岡本ゑい
"1872年"4月10日
兵庫県神戸市
死没 (1890-10-19) 1890年10月19日(18歳没)
神奈川県大磯町
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本における郵船商船規則の旗 日本
最終学歴 東京女子師範学校附属高等女学校
活動期間 1889年 - 1890年
ジャンル 新聞小説戯曲
代表作 『婦女の鑑』(1889年)
『いさみ肌』戯曲(1889年)
『曙染梅新型』(1889年)
『操くらべ』(1889年)
『わか松』(1890年)
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木村 曙(きむら あけぼの、"明治5年"[注釈 1]3月3日("1872年"4月10日) - 明治23年(1890年10月19日)は兵庫県出身の作家。本名、岡本ゑい(えい子、栄子)。

生涯[編集]

牛鍋チェーン店"いろは"の経営者木村荘平とその愛人(のち正妻)岡本政の娘として神戸市に生まれる。官立東京高等女学校東京女子師範学校附属高等女学校/現:お茶の水女子大学附属中学校附属高等学校)在学中、ヨーロッパで刺繍を学ぶことを望み、フランス語の学習に熱中。卒業後、文部省フランス留学を命じられた女性から同行するよう誘われ、父荘平に留学の許可を求めたが許されず、母と共に浅草広小路の"いろは"第十支店に住み込んで帳場を担当。

大学生時代の有賀長文(のちの三井合名理事)から想いを寄せられたものの、父の命令での資産家から養子を迎える。しかし、のちに婿の不品行が判明したため離縁。商売の合間に小説『婦女の鑑』(ふじょのかがみ)を書き上げ、1889年讀賣新聞に連載(1889年1月3日-28日)。この作品は、令嬢が父と争い、家出の果てに渡英してケンブリッジ大学の女子部を卒業し、さらに渡米してニューヨークで女工として働いた後、日本に帰国して工場を建て、殖産興業や貧民教育に尽すという内容の物語で、自ら叶えられなかった留学の夢をヒロインに託したものであった。

作品は「婦女の鑑」の他に「勇み肌」(江戸新聞、1889年5月23日-29日)、「曙染梅新型」(貴女之友、1889年7月-9月)、「操くらべ」(読売新聞、1889年10月6日-8日)、「わか松」(読売新聞、1890年1月3日-20日)の全5編が確認されている[2]。女流作家として将来を嘱望されていたが、ふとした風邪が元で結核性腹膜炎を病み、神奈川県大磯に転地。しかし療養の甲斐なく、18歳で早世した。歿後、『婦女之鑑』が遺稿(私家版)としてまとめられた[3]

異母弟に作家木村荘太画家木村荘八作家木村荘十映画監督木村荘十二などがいる。

長谷川時雨は『近代美人伝』の中で、木村曙の実父は栗本鋤雲だったとの説を紹介している。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 通説では「明治5年生まれ」だが、複数の親族の証言からは実際には明治3年(1870年)生まれが正しいと推定されており、そうであれば没年齢は20歳となる[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 北荻三郎『いろはの人びと』文化出版局、1978
  • 神崎清少女文学教室』実業之日本社、1939年。NDLJP:1717396https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001695755 
  • 木村荘太『魔の宴 : 前五十年文学生活の回想』朝日新聞社、1950年。 NCID BN00771582NDLJP:1706825https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000868135 
  • 白井ユカリ「木村曙研究」『成蹊人文研究』第21巻、成蹊大学大学院文学研究科、2013年3月、29-60頁、CRID 1390010292757229440doi:10.15018/00000748hdl:10928/321ISSN 0919-14882024年2月13日閲覧 

関連文献[編集]

  • 女の暦編集室 編『姉妹たちよ 女の暦 一九八九』ジョジョ企画、1989年11月1日。