朝倉外茂鉄

朝倉外茂鉄

朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日[1]1863年3月5日) - 昭和2年(1927年6月14日[2])は、日本の衆議院議員弁護士

経歴[編集]

加賀国金沢出身。石川県専門学校東京英和学校を経て、1885年(明治18年)に東京大学法学部選科に入学した[3]。その後本科に移り、1889年(明治22年)に帝国大学法科大学英法科(東京大学から改称)を卒業した[3]渋沢栄一の知遇を得て第一銀行法律顧問となり、さらに浅野総一郎の法律顧問も務めた[3]。また東京法学院東京専門学校東京商業学校専修学校日本法律学校などの講師に就任した[3]1890年(明治23年)に弁護士となり、1896年(明治29年)には日本弁護士協会の結成に参加した[3]

同年、東京市会議員に当選し、1898年(明治31年)には同参事会員に選ばれ、さらに高級助役に就任した[3]1900年(明治33年)に起きた東京市参事会収賄事件では、収賄罪に問われたが、無罪判決が言い渡された[4]

1901年(明治34年)、言文一致会の会長に就任し、雑誌『新文』『新紀元』の発行にあたった[3]

1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。

1905年(明治38年)より仁川で農業・製塩業を営み、1913年大正2年)からは京城府で弁護士として活動した[5]

出典[編集]

  1. ^ 『人事興信録』
  2. ^ 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年
  3. ^ a b c d e f g 『立身致富信用公録』p.18-22
  4. ^ 奥平昌洪『日本弁護士史』、有斐閣書房、1914年、pp.833-849
  5. ^ 『京城繁昌記』pp.523-524

参考文献[編集]

  • 『立身致富信用公録 第5編』国鏡社、1902年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。 
  • 『京城繁昌記』博文館、1915年。