日本ピーエス

株式会社日本ピーエス
NIPPON P.S CO.,LTD.
日本ピーエス
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
914-8666
福井県敦賀市若泉町3番地
北緯35度38分27.2秒 東経136度4分37秒 / 北緯35.640889度 東経136.07694度 / 35.640889; 136.07694座標: 北緯35度38分27.2秒 東経136度4分37秒 / 北緯35.640889度 東経136.07694度 / 35.640889; 136.07694
設立 1952年(昭和27年)4月1日
業種 建設業
法人番号 9210001010695 ウィキデータを編集
事業内容 プレストレストコンクリート構造物の設計・施工
代表者 代表取締役社長 有馬浩史
資本金 1億5千万円
純利益 11億5500万円
(2021年03月31日時点)[1]
純資産 117億8200万円
(2021年03月31日時点)[1]
総資産 172億3000万円
(2021年03月31日時点)[1]
従業員数 360名 (2014年4月1日現在)
外部リンク http://www.nipponps.co.jp/
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株式会社日本ピーエス(にっぽんピーエス)は、福井県敦賀市に本社を置く建設業者。橋梁を中心とした「プレストレストコンクリート構造物」の設計と施工を行っている。

概要[編集]

株式会社日本ピーエスは、敦賀市に本社、全国に7つの支店(仙台、東京、福井、名古屋、大阪、広島、福岡)を置き、プレストレストコンクリート構造物の専業者として、橋梁工事を中心に、社会インフラの整備に携わっている。

著名な施工物件としては、高さ118mの高橋脚を持つ「鷲見橋」(東海北陸自動車道)があり、日本ピーエスは昭和コンクリート工業とともに上部工を担当した[2]オリエンタル工業とのJVで担当した常磐自動車道の木戸川橋・井出川橋上部工事ではスパンバイスパン工法を採用、同工法では一部のセグメントを地上から設置するのが通常であるところ、全セグメントを既設の桁上から設置する手法を初めて実現した[3][4][5][6]

社会貢献の分野では従業員の子育て支援に取り組んでおり、2006年には「父親子育て応援企業」として福井県の表彰を受けた[7]。また2009年には福井ミラクルエレファンツ支援のため、他の県内企業とともに支援組織「福井を元気にする会」の結成に加わっている[8]

沿革[編集]

三菱重工の北陸進出[編集]

太平洋戦争末期、日本列島太平洋側ではアメリカ軍の攻撃により船舶の航行が困難となったことに加え、満州との連絡も重要となってきたことから、日本海軍日本海側の港湾で船舶修理機能の整備を進め、太平洋側に位置する各造船所に対して日本海側への進出を要請していた[9]三菱重工業横浜造船所はこの要請に応じて1945年(昭和20年)、石川県七尾市で現地の工場を買収して七尾工作部を設置、敦賀(福井県)、伏木(富山県)にも工場を設けて七尾の分工場とした[10][11][12]。敦賀では大友昆布工場の製箱工場や倉庫を転用して工場が設けられた[13]

PC研究[編集]

戦後、七尾工作部は横浜造船所から分離されて七尾造船所となり、1950年(昭和25年)には財閥解体に伴う三菱重工業の分割により東日本重工業の管轄となった[14][15]。この時期は材料の不足により本来の造船は行えず、集魚灯や農機具の製造も行って自活を図っていた。自活のために業務多角化を行う中で、国鉄が木材に代わってプレストレスト・コンクリート(PC)を用いた枕木導入を計画していることを知った七尾造船所は[16]、1950年(昭和25年)より七尾でPC研究を行い、1951年(昭和26年)にはPC枕木の製造を開始、同年七尾市内では日本初のPC橋である長生橋の架橋に着手するなど、成果をあげていた。

一方で本来の造船業の業績は芳しくなく、1951年(昭和26年)に赤字決算を記録。合理化を迫られた東日本重工業は七尾造船所の閉鎖を決定[17]、敦賀工場も閉鎖されることになった。敦賀港唯一の鋼船修理施設が閉鎖されるという事態に敦賀市は対応に苦慮、七尾造船所も公益上の観点から廃業届をいったん取り下げ、当面は運営を継続すると表明するなど[18]、この問題は曲折を経た。結局、敦賀工場長を介して七尾におけるコンクリート試作を知り、以前から事業に関心を持っていた敦賀海陸運輸社長の有馬義夫が社長となって新会社を設立、敦賀工場の人員と鋼船修理業務を引き継ぐとともに、新たにPC製造にも乗り出すことになった[19]

会社設立[編集]

十郷橋(2013年10月)

新会社は1952年(昭和27年)4月1日、敦賀ピー・エス・コンクリート株式会社の名称で設立された[20]。七尾でも同様の経緯を経てピー・エス・コンクリート株式会社が設立された[21]。設立後は製造設備の整備に着手、6月には起業式を行い、製品の試作を開始した[22]。1951年(昭和26年)に工場設置奨励条例を制定し市内への工場誘致をはかっていた敦賀市は[23]、設立初年から奨励金を支給し、新会社を支援した[24]

1952年9月には阪神電気鉄道から橋上歩道板を受注、これが受注第一号となり、以降は国鉄からも橋上歩道板を受注したほか、三井鉱山敦賀セメントからも受注を得た[25]。1953年(昭和28年)5月には福井県より十郷橋(東十郷村、後の坂井市)の架け替え工事を受注した[26][27]。この工事を機に受注が増大、7月には1000万円に増資して工場設備の拡充にあてたが、この年は各地で水害が相次いだことから復旧需要が高く、受注をさばききれない状況となった[28]

社名変更と事業拡大[編集]

1954年(昭和29年)には社名から「敦賀」を外し、「日本ピー・エス・コンクリート株式会社」に改名した[29]。改名は七尾のピー・エス・コンクリート株式会社に対する対抗意識から、七尾より先に「日本」を冠した社名にしよう、という狙いもあったとされる[30]

同年には用地拡張のため、市内の旧小松製作所用地の取得斡旋を市に依頼した。小松製作所は戦時中、軍の要請で敦賀駅東南の水田に工場の建設を開始したが、中途で終戦を迎え、1948年(昭和23年)に工場は売却された[31]。用地は駅にも近く工場適地であったことから、さまざまな企業が進出を予定していたが、未使用のまま放置され、現所有者による利用の見込みもないことから市が斡旋に応じ[32]、鉄道引込線用地も提供するなど便宜をはかった[33]。1955年(昭和30年)には新用地で工場が完成した[34]

この時期には工法の特許が期限を迎え、他社の参入で競争が激化することが予想されたことから、1956年(昭和31年)3月には大阪営業所を開設[35]、以降は名古屋(1958年4月)、東京(同12月)、福岡(1959年8月)と、全国に営業所を展開、営業力を強化した[36]。1960年(昭和35年)以降は工場合理化総合計画を推進、生産力を強化し、高速道路や国鉄線の新設に備えるとともに、巻き返しつつあった鋼橋業者に対抗した。この時期に第三工場やセメントサイロ、砕石設備が完成した[37]

談合問題[編集]

2000年から2004年にかけて、国や福島県の発注する工事の入札で談合を行ったとして、2004年公正取引委員会から排除勧告を受け、審判で争ったが、2010年5月26日に勧告を受け入れた。これを踏まえ、福井県は日本ピーエスを5カ月間の指名停止とした[38]2011年には、福井県会計局技幹を北陸支店技術部長として迎える、天下りの受け入れを行っていることが、県により公開された[39][40]

年表[編集]

  • 1952年(昭和27年)4月 - 敦賀ピー・エス・コンクリート株式会社として創業。
  • 1954年(昭和29年) - 日本ピー・エス・コンクリート株式会社に社名変更。
  • 1961年(昭和36年)10月 - 日本ピーエスコンクリート労組結成[41]
  • 1992年(平成 4年) - 株式会社日本ピーエスに社名変更。
  • 1998年(平成10年) - 国際標準化機構 ISO9001(品質)取得[42][43]
  • 2004年(平成16年) - 国際標準化機構 ISO14001(環境)取得[44]

許可/登録/認証類[編集]

  • 福井県知事登録(ロ)第489号
  • 建設大臣登録(ニ)第4844号[45]
  • 建設大臣許可(特-47)第231号
  • 建設大臣許可(特-7)第231号

参考文献[編集]

  • 三菱重工業株式会社社史編纂室編集『三菱重工業株式会社史』三菱重工業、1956年。
  • 三菱重工業株式会社編集『三菱日本重工業株式会社史』三菱重工業、1967年。
  • 横浜製作所100年史編さん委員会編集『三菱重工横浜製作所百年史』三菱重工業株式会社横浜製作所、1992年。
  • 日本ピー・エス・コンクリート株式会社三十八周年史編集委員会編纂『三十八周年史』日本ピー・エス・コンクリート、1990年。
  • 敦賀市戦災復興史編纂委員会編著『敦賀市戦災復興史』敦賀市役所、1955年。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 株式会社日本ピーエス 第90期決算公告
  2. ^ 松浦隆幸「土木の風景 岐阜県高鷲村 鷲見橋」『日経コンストラクション』2000年1月14日、96-100頁。 
  3. ^ 加藤光男「ズームアップ 橋 常磐自動車道木戸川橋PC上部工事(福島県) 全セグメントを初めて橋上から架設」『日経コンストラクション』2003年5月23日、26-30頁。 
  4. ^ 木水隆夫・黒田健二・渡辺二夫・熊谷修悟「[報告] 常磐自動車道 木戸川きどがわ 橋・井出川いでがわ 橋の設計・施工――スパンバイスパン架設を採用したプレキャストセグメント橋―― Design and Construction of Kidogawa and Idegawa Bridges」『橋梁と基礎』第38巻第3号、2004年3月、13-18頁、ISSN 0287-170X 
  5. ^ 渡辺二夫・井岡隆雄・熊谷修悟「[工事記録] 木戸川橋の設計・施工――ピアセグメントを架設機で架けるスパンバイスパン工法――」第41巻第6号、日本コンクリート工学協会、2003年6月。 
  6. ^ 井岡隆雄「[FIELD NOW] 常磐道 木戸川橋PC箱げた橋の施工――セグメントを橋面運搬するスパンバイスパン架設――」『EXTEC』第16巻第4号、高速道路技術センター、2003年3月、63-64頁。 
  7. ^ 平成18年度父親子育て応援企業表彰企業
  8. ^ エレファンツ支援へ17社が結集 「福井を元気にする会」創設」『福井新聞』2009年12月12日付26面。
  9. ^ 小野塚一郎『戦時造船史』日本海事振興会、1962年、259-260ページ。
  10. ^ 『三菱重工業株式会社史』306, 363ページ。
  11. ^ 『三菱日本重工業株式会社史』13ページ。
  12. ^ 『三菱重工横浜製作所百年史』46, 152-154, 181, 424ページ。
  13. ^ 『三菱日本重工業株式会社史』86ページ。
  14. ^ 『三菱重工業株式会社史』365ページ
  15. ^ 『三菱重工横浜製作所百年史』45, 182ページ。
  16. ^ 『会社12年の歩み』ピー・エス・コンクリート、5ページ。
  17. ^ 『三菱重工横浜製作所百年史』63ページ。
  18. ^ 「赤字覚悟で存續 七尾造船敦賀工場」『福井新聞』昭和26年12月23日付2面。
  19. ^ 『三十八周年史』45-46ページ。
  20. ^ 『三十八周年史』47ページ。
  21. ^ 『三十八周年史』44ページ。
  22. ^ 「敦賀PSコンクリート 本縣で唯一の新事業 試作製造に着手・発展を期待」『福井新聞』昭和27年6月15日付朝刊2面。
  23. ^ 『敦賀市戦災復興史』278-279ページ。
  24. ^ 『敦賀市戦災復興史』282ページ。
  25. ^ 『三十八周年史』47, 49ページ。
  26. ^ 「日本初のコンクリート橋 鉄筋の代りにピアノ線 東十郷村 仏人技師の指導で着工」『福井新聞』昭和28年5月30日付朝刊3面。
  27. ^ 泉志穂「ふくい世間遺産 十郷橋(坂井) 現代交通網支える礎」『福井新聞』平成25年(2013年)3月10日付朝刊1面。
  28. ^ 『三十八周年史』52-53ページ。
  29. ^ 『三十八周年史』54ページ。
  30. ^ 『三十八周年史』113ページ。
  31. ^ 『小松製作所五十年の歩み―略史―』小松製作所、1971年、34-35ページ、資料27ページ。
  32. ^ 敦賀市史編さん委員会編集『敦賀市史 通史編 下巻』敦賀市役所、1988年、570ページ。
  33. ^ 『敦賀市戦災復興史』281ページ。
  34. ^ 『三十八周年史』56ページ。
  35. ^ 『三十八周年史』57ページ。
  36. ^ 『三十八周年史』59ページ。
  37. ^ 『三十八周年史』60, 62-63ページ。
  38. ^ 足立耕作 (2010年6月2日). “日本ピーエス、県が指名停止に 独禁法違反で5カ月”. 朝日新聞・朝刊・福井全県: p. 25  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  39. ^ 平成22年度退職者 再就職状況” (PDF). 福井県. 2012年12月17日閲覧。
  40. ^ 足立耕作 (2011年8月6日). “(入札を問う)入札資格企業に11人 昨年度県職員の天下り実態初公表”. 朝日新聞・朝刊・福井全県: p. 33  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  41. ^ 『昭和60年版福井県労働組合名鑑』福井県商工労働部労政訓練課、56ページ。
  42. ^ 『日刊建設工業新聞』1998年11月2日付4面。
  43. ^ 五十島好人「企業紹介 地域を結ぶ信頼の懸け橋 株式会社 日本ピーエス」『北陸経済研究』第249号、北陸経済研究所、1999年3月、42-43ページ。
  44. ^ 『福井新聞』2005年1月15日付朝刊3面。
  45. ^ 『三十八周年史』161ページ。

外部リンク[編集]