文保の和談

文保の和談(ぶんぽうのわだん)とは、鎌倉時代後期の文保元年(1317年)に後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する(両統迭立)ことを定めたとされる合意。しかし、近年の学界では合意はなされていないとする見解が主流である(後述)。

前史[編集]

白河院以降院政が定着するとともに、当時貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった家職観念のもと、天皇位と天皇家の家督が分離し、家督者(治天の君)となった者が本来の天皇の権限を執行し、皇位継承者を指名(譲国)するようになった。

しかし承久の乱以後、皇位継承に関しては鎌倉幕府の実質的承認が必要となった。仁治3年(1242年)幼帝四条天皇の予期せぬ崩御で後高倉院系の皇統が絶えて皇位に空きが生じてしまった。その際、朝廷は順徳上皇の第五皇子忠成王の即位でまとまっていたが、鎌倉方は承久の乱の首謀者の一人として佐渡国に配流の身である順徳の系統が皇位に即くを断固拒絶し、乱の責任は問われなかったにもかかわらず自ら進んで土佐国に流された土御門上皇の第六皇子邦仁王を即位させた(後嵯峨天皇)。このため後嵯峨は以後の皇位継承に際しても幕府の内諾を得てから決定した。

後嵯峨は、寛元4年(1246年)、皇子久仁親王(後深草天皇)に譲位した後、文応元年(1260年)に後深草の同母弟恒仁親王(亀山天皇)に譲位させた。その際、後嵯峨院は、亀山の皇子世仁親王を皇太子とした。このことは後嵯峨が後深草の皇位を本人一代限りのものとし、亀山の子孫を正統の王家とする意向を持っていたことを推測させる。しかし後嵯峨はその意向を明確にしないまま死去した。親権者の指名がなければ治天の君の継承問題は解決できない。後嵯峨が解決を鎌倉幕府に一任していたという節もあり、幕府は、後嵯峨の真意を後深草と亀山の母である大宮院に確認し、大宮院の指名により亀山の親政が決まった。文永11年(1274年)亀山は皇太子世仁(後宇多天皇)に譲位し院政を開始した。

しかし、これに不満を抱いた後深草が翌建治元年(1275年)、太上天皇尊号辞退と出家の意思を表明したことから、関東申次西園寺実兼執権北条時宗との折衝により、後深草の皇子熈仁親王(伏見天皇)が同年中に亀山の猶子となり親王宣下、立太子し、続く弘安9年(1286年)には後宇多皇子邦治王(後二条天皇)が親王宣下された。これは伏見が亀山の院政下に即位し、その後を後二条が継ぐことを念頭に置いた措置であったと推定されているが、同10年(1287年)伏見の即位に伴い、治天の地位が後深草に移動、後深草院政が開始された。この理由については、従来幕府による朝廷権力の掣肘であるとする見解が主流であったが、近年では亀山が西園寺実兼との不和に加え、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しかったことや、「新制」に対し熱心であった態度が東国のみならず全国へ実効支配を広げようとする得宗勢力の不審を呼んだのではないかとする説が有力となっている。さらに伏見は、産まれたばかりの自分の皇子胤仁親王(後伏見天皇)を立太子し、正応3年(1290年)に浅原為頼による伏見暗殺未遂事件が起こると、黒幕と疑われた亀山の地位は急速に低下。永仁6年(1298年)には後伏見が即位し伏見の院政が始まった。

このことは大覚寺統の反発、鎌倉幕府への巻き返し工作を招き、邦治親王が皇太子となり、後伏見天皇は即位3年で邦治に譲位させられた。ここに後宇多の院政が開始されたが、持明院統の後伏見の弟富仁親王(花園天皇)が後伏見の猶子として立太子された。これは皇統の再分裂を避けるためであったとされている。その一方で、鎌倉幕府は後二条の即位後、即位前年に生まれた皇子(邦良親王)を立太子すれば大覚寺統嫡流(後二条の子孫)への皇位継承が確定した筈であったのに、7か月も立太子を先送りさせて持明院統の傍流である花園を立太子させた結果として皇統の統一が困難になり、確固たる方針も問題解決の術も失ったまま、無策のままにその場限りの解決策を採り続けることになったとする指摘もある[1]

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
88 後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊親王
鎌倉将軍6)
 
持明院統
89 後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
90 亀山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟康親王
(鎌倉将軍7)
 
92 伏見天皇
 
 
 
 
 
久明親王
(鎌倉将軍8)
 
91 後宇多天皇
 
恒明親王
常盤井宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
93 後伏見天皇
 
95 花園天皇
 
守邦親王
(鎌倉将軍9)
 
94 後二条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王
 
 
 
 
 
邦良親王
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康仁親王
木寺宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


和談[編集]

徳治3年(1308年)、後二条は在位7年の後に崩御し花園が即位、伏見の院政が復活した。しかしここで皇太子にたてられたのは、後二条皇子の邦良親王ではなく大覚寺統の後二条の弟・尊治親王(後醍醐天皇)であった。これは邦良親王が当時幼い上に病弱であったためとも言われているが、天皇より9歳年上の皇太子という異例の措置であり、邦良親王の成長とともに皇統の再分裂を危惧した後宇多は、邦良親王を尊治親王の次の皇太子とする意思を明確にした。

文保元年(1317年)伏見が崩御すると次の皇太子を巡り両統の争いが激しくなり、仲裁を期待された幕府は、以後の皇位継承に一定の基準を定めることを目的に、

  1. 花園が皇太子尊治親王に譲位すること
  2. 今後、在位年数を十年として両統交替すること
  3. 次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見皇子の量仁親王(光厳天皇)とすること

の3点を両統に示し、以降は両統迭立することで和解が成立したといわれている。

この和解を文保の和談という。

近時学説[編集]

しかしながら近年の研究によると、この和談の実態は従来の理解とは異なり、合意に達しない単なる話し合いの場であったとする見解が極めて有力となっている[2]。その見解によると、幕府が提案した内容については上記のとおりであるが、皇太子と次代の皇太子は決定に至らなかったとされる。また、細部において、和談自体の存在を否定する者[3]、和談は実施されたが次代の皇太子については合意に達しなかったとする者[4]が並立している。また、在位年数を十年とする史料が『梅松論』しか存在しないこと、後宇多上皇が邦良即位後の量仁立太子を認めたとする持明院統の主張が出されたのが後宇多の没後であることから、和談においては皇太子即位しか決まらなかったとする見解もある。

また、後宇多の一連の行動の背景の1つとして、亀山が遺命によって花園の次の皇太子として定めた恒明親王の元服が迫っていたからだという見解がある。文保元年時点で恒明は既に14歳であり、皇位継承者としては元服をしていてもおかしくはない年頃であった。後宇多としては持明院統が自分の血を引かない異母弟・恒明との間で新たな両統迭立を始める事態を回避する必要があり、恒明の元服前に何らかの措置を取ろうとしたと考えられる(伏見の正妃であった永福門院は恒明の母方の伯母であり、持明院統はその関係を利用して、恒明への接近を図りつつあった)[5]

実際には、後宇多の申し入れにより翌文保2年(1318年)2月、後宇多院政の下、後醍醐が即位する。そして邦良親王が立太子され、後宇多が危惧していた恒明の元服前に全てを終えることが出来た(恒明の元服は同年12月)[5]。邦良親王の急逝後は量仁親王が立太子した(大覚寺統は亀山の遺命を重視して恒明を立てようとする勢力と後宇多の遺命を重視して後二条の皇子である邦省親王を立てようとする勢力と後醍醐の勅命を重視してその第一皇子である尊良親王を立てようとする勢力の3つに分かれていたという[5])。結果的には上記提案どおりであったが、両統迭立の約束自体が極めて不確実な状態のまま大覚寺統傍系の後醍醐が即位したことは、後醍醐が父後宇多の遺志に従わずに自分の子孫に皇位を継承させようとしたこともあり、南北朝時代の両統分裂に繋がっていった。

脚注[編集]

  1. ^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年、P58-59.
  2. ^ 本郷和人 1996
  3. ^ 龍粛 1957
  4. ^ 村田正志 1959、黒田俊雄 1965
  5. ^ a b c 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P154-158.

参考文献[編集]

関連項目[編集]