捕鯨船

19世紀末頃のニューイングランドの捕鯨船

捕鯨船(ほげいせん)とは、捕鯨に用いられる船のことである。

法律上の定義[編集]

日本の法令上は、各種捕鯨業やいるか漁業に用いる漁船の一種にあたる。

国際捕鯨取締条約では、以下のような用語を使用している。

  • 「捕鯨船 (whale catcher)」 - の追尾、捕獲、殺害、引寄せ、緊縛又は探察の目的に用いるヘリコプターその他の航空機又は船舶(2条3項)として、船舶以外を含む用語をしている。
  • 「母船 (Factory ship)」 - 船内又は船上で鯨を全部又は一部処理する船舶をいうとしている。

分類[編集]

捕鯨船団を構成する船[編集]

ここでは捕獲に使う船のみでなく、捕鯨船団を構成する特徴的な船についても述べる。

キャッチャーボート 第一京丸(保存船)
キャッチャーボート
鯨を捕獲するためにロープ付きの銛を撃ち出す捕鯨砲を搭載し、直接の捕獲に当たる船。高いマストに見張り台を備え、第二次世界大戦後になると探鯨用にソナーを装備する船が多くなった。捕鯨砲が据えられた船首は、航洋性を高めるために高い船首楼になっている設計が多く、しばしば「ガンナーズ・ブリッジ(砲手橋)」と称するキャットウォーク(橋の様な細い通路)で船橋と繋がれている。船員には鉄砲船とも呼ばれた。1950年代頃までは、鯨に接近を気づかれないよう、主機関にはディーゼルエンジンよりも水中騒音の低いレシプロ蒸気機関を使用するケースが多かった。
1987年-2019年に行われた日本の調査捕鯨の船団では標本採集船と呼ばれ、目視調査船を兼ねる場合は目視採集船と称していた。
捕鯨母船
鯨の解体加工設備を有する船。捕獲した鯨を解体用の甲板に上げるスリップウェーやクロー(鯨の尾を掴む装置。尾羽はさみ)と呼ばれる専用設備がある。解体作業の他に鯨油の製造設備を持つものは捕鯨工船とも呼ばれ、クワナー・ボイラーやハートマン・ボイラーに代表される蒸気式の大規模な鯨油採取設備を搭載した。ミール・プラントと呼ばれる飼料肥料用製造設備や船団への補給設備を有する場合もある。
日本では、1970年代後期以降、母船式捕鯨の縮小により冷凍工船や塩蔵工船の随伴をやめ、捕鯨母船に食肉用の鯨肉冷凍加工設備や塩蔵加工設備を搭載するようになった。
1987年-2019年に行われた日本の調査捕鯨の船団では、使用された日新丸調査母船と呼ばれていた。
塩蔵工船/冷凍工船
捕鯨母船が解体・食肉処理した鯨肉を、長期保存が可能なように塩漬け肉に加工する設備、または冷凍保存する冷凍冷蔵庫設備を備えた船。
塩蔵/冷凍工船は、日本を始め、鯨肉を大量に消費する文化のある国が保有したもので、鯨油のみを目的として捕鯨を行っていた国では存在しない船種である。後には塩蔵と冷凍保存の両方が1隻で行える船が主流となった。
油槽船
捕鯨工船で生産された鯨油を輸送するための船で、タンカーの一種。往路では重油やディーゼル油を搭載して船団を構成する各船への補給を行い、復路では生産した鯨油を積載する例が多い。また、食料や各種生活物資を搭載した船団への補給船としても用いられた。
日本の戦後南氷洋捕鯨では、往路の途中で船団へ燃料を補給した後は船団を離れ、中東地域で船舶用燃料を積み込んだ後に南氷洋で合流して再び船団に燃料を補給、生産された鯨油を積み込んで輸出先である欧米に鯨油を輸送した後に再び中東地域に寄港して日本向け原油を積載、日本への帰路につき、原油の荷降ろし後に次の船団に随行する、というローテーションで運用され、その業務の性格から「中積油槽船」と呼ばれた。
探鯨船
捕獲対象の鯨の捜索を担当する船。
曳鯨船
捕獲後に沈まないように空気を充填したり、ブイを付けたりした鯨を、捕鯨母船まで曳航する船。

探鯨船、曳鯨船共に専業の船が建造されることは少なく、旧型のキャッチャーボートを流用する場合が多かった。小規模な船団では船団内のキャッチャーボートが持ち廻りで担当する例も多かった。

大発艇(だいはつてい)
川崎船とも。日本の船団式捕鯨で、捕鯨母船で大まかに解体した鯨肉を冷凍工船などへ移送するのに用いられた小型艇。捕鯨母船に搭載された。“大発艇”の名称は、旧日本軍が用いた上陸用舟艇の一つである大発動艇の略称に由来するという説がある。

なお、後述するように戦時には捕鯨母船他の捕鯨船は徴用されて軍用艦艇として使用されており、また、戦時が終わると軍用艦艇が払い下げられるなどして捕鯨船に転用されるという逆の例もある。日本では戦後に近海捕鯨で捕鯨母船として用いられた第一号型輸送艦9号艦の例がある。

沿岸捕鯨船(日本)[編集]

北海道網走函館宮城県石巻市鮎川などを基地とする太平洋方面沿岸・沖合水域の捕鯨や、千葉県南房総市和田漁港などを基地とする房総沿岸捕鯨、和歌山県太地町の沿岸捕鯨、佐賀県呼子唐津などを基地とする西海沿岸捕鯨[1]等では、母船式遠洋捕鯨の日本導入と前後して小型のキャッチャーボートを用いた近代捕鯨が導入され、発達した。遠洋捕鯨のキャッチャーボートと同様に鯨に接近を気づかれにくい低騒音の機関が好まれ、焼玉エンジンが長く用いられていた。

漁業法令上は、100総トン以上のキャッチャーボートを使用するもので母船式捕鯨業以外のものを「大型捕鯨業」、50総トン以下のキャッチャーボートを使用するものを「小型捕鯨業」と分類していた[2]2020年令和2年)12月1日付の漁業法改正により、大小型を問わず、陸上の処理施設を基地として操業する捕鯨形態は「基地式捕鯨業」に改称された。

2019年7月の日本の商業捕鯨再開の時点では、6事業者5隻の沿岸捕鯨船が操業している[3]

天渡船(てんと船、テント船)
和歌山県太地町で、明治時代から昭和40年代までゴンドウクジラの突き取り漁に使われていた小型のキャッチャーボート。大正時代以降、動力化される、動力は小型焼玉エンジン[4]

歴史[編集]

ここでは捕鯨船の発達の歴史のみを追う。捕鯨全体の発達については捕鯨#歴史を参照。

世界の捕鯨船の発達[編集]

捕鯨砲を装備したノルウェー式捕鯨船(1900年ごろ、カナダ・ケベック)

古代の沿岸捕鯨時代では、カヌーのような手漕ぎの小舟が用いられたと考えられる。伝統的な捕鯨地域では現在でもこうした方式を用いている例がある。

次第に、より大型の帆船を用いて外洋に出て捕鯨を行うようになった。これらの帆船には捕鯨ボート(Whaleboat, Whaler, 捕鯨艇)と呼ばれた細長く高速の専用艇[5]が4-7隻ほど搭載され、鯨を発見すると捕鯨ボートを降ろしてや捕鯨銃などを使い捕獲を行った。捕獲後、本船である帆船の舷側に鯨を係留して脂皮が剥がされた。本船には炉が設置されるようになり、船上での採油が行われた。こうした帆走捕鯨船は小説『白鯨』にも登場するように、特にアメリカでは非常に盛んに用いられた[6]

1860年頃には、ノルウェーで甲板固定式の捕鯨砲が開発され、汽船に捕鯨砲を装備したノルウェー式の捕鯨船が実用化された。これにより、従来は捕獲が困難だったナガスクジラ科のクジラが容易に捕獲できるようになった。捕獲後は鯨を港へ曳航し、陸上の工場で解体加工することが多かった。初期は100総トン以下の小型船であったが、後の南極海での船団式捕鯨でキャッチャーボートとして活躍した中には900総トンに達するものもある。通常はスクリュー1基の一軸型であるが、運動性の高いザトウクジラ捕獲を目的として、小回りの利く二軸型も建造された。

捕鯨母船の船尾スリップウェー(日本の第二図南丸

20世紀初頭には、基地設備の無いところでの操業を可能とするため、蒸気式の大規模な採油設備が備えられた捕鯨母船が開発された。1903年に運用が始まったロシア太平洋捕鯨漁業会社のミハイル号(3643総トン[7]、及びノルウェー人が設計したテレグラーフ (Telegraf) 号(737総トン)はその最初期の例である。当初は帆船時代同様の舷側解体を行わなければならず、皮のみの非効率な利用で、また安全に作業をするには湾内に停泊しなければならなかった。その後、1922年に船尾のスリップウェーが考案されると洋上作業が容易になり、しかも甲板で解体することから骨や内臓なども鯨油原料とした効率的な利用が行えるようになった。改装を受け世界初のスリップウェー装備母船とされたノルウェーのランシング号(7990総トン)は、1924年にアフリカ沿岸で操業を行い、翌年には南極海へ出漁した。洋上作業可能な捕鯨母船開発の背景には、捕鯨産業でノルウェーと競合関係にあったイギリスが、南極大陸の領有権問題もあって、領有権を主張する海域からノルウェーの捕鯨母船の排除を図ったことがあるといわれる。さらに1930年代のクローの実用化で近代的な捕鯨母船は完成した。この間、急激に船体も大型化し、当初は1000総トン以下のものもあったのが、1930年頃には2万総トン前後に達し、1960年頃には3万総トンを超えるものも生まれた[8]。捕鯨母船を中心に10隻以上の船団が組まれ、キャッチャーボートなどが分業して活動するようになった。

日本の捕鯨船の発達[編集]

日本の古式捕鯨では、用途に応じた多様な捕鯨船が鯨組と呼ばれる捕鯨集団によって開発された。鯨を追い込み銛を打つ15人乗り八丁艪の快速艇勢子舟、網を展開して鯨を拘束する網舟、2隻組で捕獲した鯨を挟み込み曳航する持双舟(もっそうぶね。持左右舟とも)などが存在した。いずれも船団内での識別と装飾のため赤や黄、黒などの派手な色彩で塗装され、きらびやかな姿を誇った。

明治維新頃から西洋式の捕鯨技術が導入され、主力はノルウェー式の捕鯨船へと移行した。近代における特色としては、鯨肉の食用需要があったことから、捕鯨船団に鯨肉の冷凍設備や塩蔵設備が広く導入されたことである。1934年昭和9年)に運用開始した日本最初の本格捕鯨母船である図南丸(元ノルウェー船アンタークチック号)は、ノルウェー船時代からの冷凍倉庫を装備していた。1939年(昭和14年)に日本最初の大型冷凍工船である厚生丸(元イギリス船ナレンタ号)が導入されたのを皮切りに、以後も多くの専用の塩蔵工船や冷凍工船、運搬船が船団に加入するようになり、缶詰加工も行われた。なお沿岸捕鯨では、捕獲した鯨を基地へ曳航する際に、肉の鮮度低下を避けるためにオーニングと呼ばれるキャンバス(帆布)製の覆いをかけるなどの工夫を行っていた。

1987年の南極海での商業捕鯨終了後も、沿岸捕鯨の捕鯨船が建造されるほか、南極海での調査捕鯨では「採集船」の名称で継続して捕鯨船が建造された。2023年には70年ぶりの新造捕鯨母船である関鯨丸が進水した[9][10]

捕鯨以外への転用[編集]

航洋性が高く長距離航海に耐える捕鯨船は、他の用途への転用がしばしば行われた。

軍事用[編集]

米英戦争やアメリカ南北戦争の際には、多数の捕鯨船が私掠船や哨戒用の補助軍艦として用いられた。第二次世界大戦では、キャッチャーボートが駆潜艇掃海艇として各国で使用された。第二次世界大戦時の日本では95隻のキャッチャーボートが特設駆潜艇特設掃海艇などの特設艦艇として正規艦艇の補完用に徴用された他、輸送船用に捕鯨母船6隻全部が徴用され、うち67隻のキャッチャーボートと捕鯨母船すべてが戦没している[11]。なおイギリス海軍では、キャッチャーボートの設計を流用したフラワー級コルベットが建造され、一部は戦後に民間の捕鯨船になっている。

その他[編集]

捕鯨母船は漁期以外はタンカーとして使用されることがあった。また帆船時代の捕鯨船は、スコット隊のテラ・ノバ号のように極地探検隊の探検船に用いられたこともある。江戸時代の日本では、捕鯨船の高速性能を生かして水害時の救難や復興作業に用いられ、「鯨船鞘廻御用(くじらぶねさやまわしごよう)」と称していた。

1977年、日本の排他的経済水域が沿岸から200海里に拡張され、その面積がおよそ405万km²に拡大した際には、海上保安庁巡視船の建造が間に合わず、海上保安庁は1978年に、巡視船を補完する警備救難用船舶の種別として「漁業監視船」を定め、商業捕鯨の縮小で余剰となっていたキャッチャーボート2隻(第二十五興南丸、第十八関丸)を用船した[12]。これらのキャッチャーボートには固有の乗員の他に各2名の海上保安官が乗船する体制がとられ[12]、1980年代初頭まで運用された[13]。また、海上保安庁への用船期間の終了後は水産庁漁業取締船として用船された[13]

注記[編集]

  1. ^ 佐賀県立博物館 『玄界のくじら捕り 西海捕鯨の歴史と民俗』、1980年
  2. ^ 漁業法第52条第1項の指定漁業を定める政令
  3. ^ 2019年7月1日付西日本新聞夕刊
  4. ^ 「日本の動物記」毎日新聞社 122頁 
  5. ^ 高速性能などが優れたことから、捕鯨用以外の船舶にも搭載艇として採用され、同様に捕鯨ボートと称された。
  6. ^ 当時の捕鯨拠点の一つだったアゾレス諸島では、捕鯨ボートを沿岸から使用する捕鯨が行われ、動力船で曳航して洋上へ出るように進化をしながら、商業捕鯨停止となるまで続けられていた。
  7. ^ 同船は翌年の日露戦争勃発により、日本によって拿捕される。
  8. ^ 第二次世界大戦前においては外航客船と並び最大級の民間船であった。
  9. ^ 今泉遼 (2023年8月31日). “捕鯨の新母船「関鯨丸」の進水式「鯨肉の供給責任果たせる」…課題は消費者の需要喚起”. 読売新聞. 2023年11月13日閲覧。
  10. ^ 深水千翔 (2023年9月1日). “世界唯一!70年ぶり新造「捕鯨母船」ベール脱ぐ 電気の最新鋭船で“クジラ漁本格再開”外相もエール”. 乗りものニュース. https://trafficnews.jp/post/127900/2 2023年11月13日閲覧。 
  11. ^ ただし、チューク諸島(トラック諸島)で沈没した第三図南丸は、捕鯨船不足のため戦後にサルベージが行われ、再使用された。
  12. ^ a b 世界の艦船』1981年5月号(No.295) p.49
  13. ^ a b 「海上自衛隊・海上保安庁 艦船の動向 昭和56年度を顧みて」 海上保安庁 4.解役船艇(『世界の艦船』1982年7月号(No.309) p.147)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]