小出英知

 
小出英知
小出英知
時代 江戸時代前期
生誕 元和4年(1618年
死没 元禄8年1月13日1695年2月25日
改名 英知、常慶(号)
別名 吉久
戒名 快山常慶青春院
墓所 京都府南丹市園部町の徳雲寺
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
丹波園部藩
氏族 小出氏
父母 小出吉親本多正重
兄弟 青龍院、杉原重長正室、加藤直泰正室、
英知板倉重矩正室、一柳直次
半井成忠室、井上正義正室、小出吉明室、井上正義継室、某、小出重治室、金森七之助室
成瀬正虎養女、山崎氏
英利英陳板倉重高[1]戸田氏利正室
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小出 英知(こいで ふさとも)は、丹波国園部藩2代藩主。吉親系小出家2代。

生涯[編集]

初代藩主・小出吉親の長男。母は本多正重の娘。

寛文7年(1667年)6月9日、父の隠居により跡を継ぐ。翌年に父が死去した後、父の隠居料だった5000石のうち、3000石を一族の小出吉直に、2000石を小出吉忠に分与した。延宝元年(1673年)10月27日、長男の英利に家督を譲って隠居し、常慶と号した。元禄8年(1695年)正月13日、78歳で死去した。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 賞延武鑑(正徳三年)、一統武鑑(宝永七年)、御林武鑑(宝永二年)には、板倉重高は小出伊勢守英利二男と記載がある。また本朝武系當鑑(元禄八年、四年)、本朝武鑑(元禄元年)によれば、板倉重高は小出伊勢守の子とあり、小出家の方には小出伊勢守吉尚(吉尚は、長男 英利の初名)という記載もあるので、重高は英知の子ではなく、孫にあたるのではあるまいか