小出英尚

 
小出英尚
小出英尚像/個人蔵
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永2年9月3日1849年10月18日
死没 明治38年(1905年9月27日
官位 従五位下伊勢守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂慶喜明治天皇
丹波園部藩
氏族 小出氏
父母 小出英教小出英発三女
兄弟 英尚松平義生
坊城俊政録子浅倉七五郎菊江庭田重胤胤子
英延英経英鋪東胤禄妻、
松平義為妻、泰子、恵子
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小出 英尚(こいで ふさなお)は、丹波国園部藩第10代(最後)の藩主。吉親系小出家10代。

生涯[編集]

9代藩主・小出英教の長男。正室は坊城俊政の娘・録子。継室は浅倉七五郎の娘・菊江、庭田重胤の娘・胤子。子は英延(長男)、英経(次男)、英鋪(三男)、娘(東胤禄妻)、娘(松平義為(弟松平義生の長男)妻)、娘(大谷尊由妻)、娘(黒田長敬妻)。官位は従五位下、伊勢守。

嘉永2年(1849年)9月3日生まれ。安政3年(1856年)3月19日、父英発の死去により跡を継いだ。文久3年(1863年)2月15日、従五位下・伊勢守に叙任する。慶応3年(1868年)11月、朝廷の命令に応じて上洛し、早くから新政府側を支持する姿勢を示した。慶応4年(1869年)1月、藩主英尚は上洛中だったものの、園部の重臣たちは家中の意見をまとめ、西園寺公望が指揮する山陰道鎮撫軍に従った。

新政府は万が一京が戦火に飲み込まれる事態となった場合は、明治天皇を英尚の居城園部城に避難させるという策を立てた。そのため、慶応4年1月に英尚は新政府から園部城改築の許可を得る。同年4月に園部城改築を終える。結局、京は戦火から免れ、明治天皇も京にとどまった。

明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免官となる。同年9月16日、東京に移住する。明治16年(1883年)11月、隠居し、息子の英延に家督を譲った。なお、明治17年(1884年)に英延は子爵となった。明治38年(1905年)9月27日、57歳で死去した。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 小出英延『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年