宇佐美承

宇佐美 承(うさみ しょう、1924年5月1日 - 2003年5月7日)は、日本のジャーナリストノンフィクション作家。妻は新田義美の娘の公子。

来歴[編集]

中国天津に生まれる[1]。自著で、父は外国関係の案件を手がける弁護士だったと記している[2]。幼少期は兵庫県武庫郡御影町(現・神戸市東灘区)で育つ[2]。この時期、近くに住む造船技師で実業家の笹子謹(ひとし)が開いていたアトリエに通い、伊谷賢蔵やその後任の八島太郎(光は笹子謹の娘)夫妻に絵を習った[2]。小学校は師範学校の附属小学校に通い[2][3]、その後「スパルタ教育で名だかい県立中学校」に進学する[4]。在学中に病気療養のため、通常よりも2年遅れて中学校を卒業する[5]。当時、すでに徴兵年齢が1年繰り下げられていたうえ、希望だった高等学校の文科に進むことは兵役に直結した[6]ため、医学専門学校に進む[5]。日本の敗戦後に医学専門学校を退学し[5]、高等学校文科に改めて入学した[7]

東京大学文学部を卒業後、1953年に朝日新聞社に入社した[1]朝日新聞では名古屋本社報道部や調査研究室に在籍した後、「朝日ジャーナル」編集部に移った[1]。1979年に記者を退職して記録文学作家に転身し[8](ただし1981年時点では朝日新聞社出版局嘱託だった[1])、1982年、『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。この書籍は幼少期、そして1970年以降親交を持った両人を題材としながらも、二人の「過去をさらけ出す」ことに加え、八島太郎を称賛するだけの内容とはしなかったため、執筆中は「何度か筆を折ろうとさえ思った」という葛藤に襲われ、刊行後は八島太郎本人から手紙で不満をぶつけられたという[8][9][10]

池袋モンパルナス 大正デモクラシーの画家たち』など美術関係の著書もある。

著書[編集]

  • 『真実と勇気の記録』 筑摩書房1971 (ちくま少年図書館)ISBN 978-4480040152
  • 『ルルの家の絵かきさん 原爆の絵をかきつづける丸木夫妻の物語』 偕成社 1978 (世界のこどもノンフィクション)ISBN 978-4035070207
  • 『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』 晶文社1981ISBN 978-4794959379
  • 『椎の木学校 「児童の村」物語』 新潮社 1983ISBN 978-4103488019
  • 『原爆の図物語』 丸木俊丸木位里小峰書店 1985 (こみね創作児童文学)ISBN 978-4338057066
  • 『池袋モンパルナス 大正デモクラシーの画家たち』 集英社 1990 のち文庫ISBN 978-4087482737
  • 『神戸一中弓道部史 戦争とともにあった五年 神戸一中弓道部の会』 1992
  • 『求道の画家松本竣介 ひたむきの三十六年』 中公新書 1992ISBN 978-4121011084
  • 『新宿中村屋相馬黒光』 集英社, 1997ISBN 978-4087742893
  • 日本の名随筆 (別巻96)』 大正 編著 作品社 1999ISBN 978-4878936760

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 「著者について」『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』晶文社、1981年、奥付
  2. ^ a b c d 『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』、pp.12 - 15
  3. ^ 宇佐美は校名を記していない。当時御影には兵庫県御影師範学校附属小学校(後の神戸大学附属住吉小学校)があった。
  4. ^ 『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』、p.18
  5. ^ a b c 『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』、pp.20 - 21
  6. ^ 当時すでに文系大学生への徴兵猶予は停止され、学徒出陣が実施されていた。
  7. ^ 『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』、p.26
  8. ^ a b 「あとがき」『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』pp.318 - 319
  9. ^ 『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』、pp.26 - 27
  10. ^ 野本一平「ながいあとがき」『八島太郎 - 日米のはざまに生きた画家』、pp.211 - 213

外部リンク[編集]