塩谷かね

 
塩谷かね
時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 不詳
墓所 谷中妙情寺
父母 父:塩谷正房
養父:塩谷奉正
養母:勝市郎右衛門命雅[1]
兄弟 実父正房時代
かね、女子[2]、鉄之丞[3]

養父奉正時代
正房、女子、正住[4]
安藤図書定堅室(養女)[5]
女子(養女)[6]正義(養子)、
かね鈴木正誼[7]、八五郎[8]
塩谷正義(夫)
正路いさしげ、女子
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塩谷かね(しおのや かね)は、塩谷大四郎こと塩谷正義の正室。

経歴[編集]

塩谷義通塩谷氏塩谷正房の長女として生まれる。天明6年(1786年10月24日に父正房が没すると、祖父の塩谷奉正の養女となり育てられた。

天明8年(1788年11月25日に、後継者を無くした塩谷氏の養子となった20歳の正義の妻となる。その後、夫の正義を支え続け、寛政12年(1800年)に正義が久美浜代官に任命されると正義とともに任地に赴いた。享和元年(1801年1月28日には嫡男捨五郎(正路)が誕生。その後、正義との間に一男四女を儲ける。文化13年(1816年8月29日に正義が日田代官に任命されると、九州という遠方であり、子育ての事情もあって江戸に戻る。

天保7年(1836年9月8日には、正義が江戸にて亡くなり、これを看取っている。

脚注[編集]

  1. ^ 勝海舟高祖父
  2. ^ 酒井熊之丞忠供の養女となる。
  3. ^ 父の死後、祖父奉正の跡継ぎとして養子になるが間もなく病死した。
  4. ^ まさをり、時之丞。系譜には『病者たるにより嗣たらず』とあり。
  5. ^ 弟である塩谷正澄の娘。経緯は不明だが、奉正の養女となり、安藤正堅の妻となった。
  6. ^ 中村浅右衛門孝邦の娘。経緯は不明だが奉正の養女となった。
  7. ^ 始め正英。備前守、捨五郎、九郎右衛門。鈴木三次郎正昌の養子となり、京都仙洞御所付となる。
  8. ^ 系図にも『某』とあり、名は不明。

参考資料[編集]

  • 『ふるさと矢板 第七号』(矢板市文化財愛護協会 平成三年七月)
  • 『ふるさと矢板 第八号』(矢板市文化財愛護協会 平成四年五月)
  • 寛政重修諸家譜