塩谷奉正

 
塩谷奉正
時代 江戸時代
生誕 享保4年(1719年
死没 寛政7年5月17日1795年7月3日
別名 佐助、平四郎
戒名 日義
墓所 谷中妙情寺
氏族 塩谷氏
父母 父:塩谷明正、母:鈴木氏女
兄弟 奉正正澄酒井忠辰
勝市郎右衛門命雅[1]
正房、女子、正住[2]
安藤図書定堅室(養女)[3]
女子(養女)[4]正義(養子)、
かね塩谷正義室・養女)[5]
鈴木正誼[6]、八五郎[7]
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塩谷 奉正(しおのや ともまさ)は、江戸時代の武士。

生涯[編集]

略歴[編集]

塩谷義通塩谷氏の六代目。塩谷明正の嫡男として生まれる。

江戸幕府御家人として、寛延3年(1750年)12月16日御勘定に列し、宝暦2年(1752年)2月12日に検地のために関東諸国を回った。宝暦7年(1757年)10月8日に家督を継ぎ、翌年の7月2日には関東及び甲斐美濃伊勢等の河川の普請に従事し、この功により時服2枚、黄金2枚を賜った。

寛政7年(1795年)4月14日、老身を理由に引退して小普請となり、同年5月17日に没した。享年77。

跡継ぎを巡って[編集]

天明6年(1786年)に嫡男正房が33歳という若さで奉正に先立って没すると、正房の遺児である鉄之丞を養子とするが、鉄之丞も間もなく病死した。次男正住は病者[8]のために家督を継げず、三男正英(鈴木正誼)は既に養子に出しており、家督を継ぐ者がなくなった。

奉正は弟の正澄の娘や嫡男正房の妻の父中村孝邦の娘(正房室の妹)を養女としており、正房が亡くなった後は正房の娘も養女としていた。正房の死から2年後の天明8年(1788年)、養女としていた正房の娘おかねの婿として、鳥見役粟津家の粟津清喬の次男(庶子)を養子に迎えて跡継ぎとした。塩谷正義(塩谷大四郎)である。

脚注[編集]

  1. ^ 勝海舟高祖父
  2. ^ まさをり、時之丞。系譜には『病者たるにより嗣たらず』とあり。
  3. ^ 弟である塩谷正澄の娘。経緯は不明だが、奉正の養女となり、安藤正堅の妻となった。
  4. ^ 中村浅右衛門孝邦の娘。経緯は不明だが奉正の養女となった。
  5. ^ 義兄正房の長女。
  6. ^ 始め正英。備前守、捨五郎、九郎右衛門。鈴木三次郎正昌の養子となり、京都仙洞御所付となる。
  7. ^ 系図にも『某』とあり、名は不明。
  8. ^ 系図の表記に従う。病弱なのか、障害があったものか、精神的なものかは不明。

参考文献[編集]

  • 『ふるさと矢板 第七号』(矢板市文化財愛護協会 平成三年七月)
  • 寛政重修諸家譜