堺水族館

堺水族館(さかいすいぞくかん)は、大阪府堺市大浜公園にかつて存在した水族館である。

堺水族館の前身は1903年明治36年)第五回内国勧業博覧会の堺会場(現・大浜公園)に建設された博覧会付属水族館である。日本最初の本格的水族館で、当時東洋一の水族館といわれた。博覧会終了後堺市に払い下げられ、堺水族館となり、さらに1911年(明治44年)12月阪堺電気軌道株式会社に大浜公園および水族館の運営が委託された。その後集客数減少により1961年(昭和36年)9月に閉鎖された。

博覧会付属水族館時代[編集]

この節の出典は[1]

水族館は初め堺商業会議所が第四回内国勧業博覧会が京都で開れた時、堺市に付属としての水族館設置の運動を行ったが許可されなかった。そこで1900年(明治33年)5月第五回内国勧業博覧会の開催地が大阪市に定まると、再度水族館設置運動に着手した。当時候補として大阪市中之島公園と堺市大浜公園との両案があつたが、同年10月博覧会事務局からの、堺市で将来とも水族館を存続すること、施設工事費の一部を堺市が負担することなどの条件を受け入れることで堺市で開催することが決定した。会場は1896年(明治29年)4月3日に開園した約52000平方メートル(15760坪)の大浜遊園地内で、その敷地に東京帝国大学理学部教授で魚類学者飯島魁博士の設計による約720平方メートル(218坪)の和洋折衷木造一部2階建て水族館本館が建てられた。工事は1901年(明治34年)11月に着工し1903年(明治36年)2月に完工した。総工費は14100円余りで、その他の池の整備費等を加えると66800円余りであった。また水族館本館正面には高さ4.5メートル(一丈五尺)の噴水塔の上に高さ2.58メートル(八尺五寸)の龍女の像を立てた乙女の噴水が作られた。 第五回内国勧業博覧会は1903年(明治36年)3月1日から6月30日までの122日間に渡り開かれたが、この間の水族館への来場者数は80万余りを数えた。博覧会閉会後の1903年(明治36年)7月31日、博覧会付属水族館は国より堺市に払い下げられ、翌8月1日博覧会付属水族館の閉館式が行われた。

また、安西冬衛により「堺水族館の歌」が作られた[2]

設備[編集]

水族館本館は左右両翼と中央の3区に分かれ、29槽の水槽と放養池が設置された。水槽のうち第1号より13号までと15、17から22号までは海水槽で、14、16および23号以下が淡水槽であった。別に海水の放養池がありこれを二つに分け、番外1号、番外2号とした。その他館外に2か所の淡水平地槽があり、温室や淡水放養池もあった[1]。 館内の海水槽への海水供給の仕組みは、まず海水をサイフォンの仕組みで敷地内の井戸に導き、これをポンプで濾過池に送り、そこで濾過された海水は貯水池に貯えておく。この貯えられた海水はポンプで高さ約9メートル(3丈)にある塔槽に汲み上げられ、ここから各水槽に給水管を通して給水した[3]

各槽には次のような魚等が展示された[4]。(()内は第五回内國勧業博覧会堺水族館図解から。重複するものは省略)[3]。なお、各槽の動物の種類は季節の関係などで一定していない[3]

展示された魚類は、探集によるもの、購入したもの、寄贈されたものの三種あったが、その大半は市内の魚問屋から購入したものである[1]

職員[編集]

水族館職員は次の9名であった[4]

堺水族館時代[編集]

この節の出典は[1]

博覧会閉会後の1903年(明治36年)7月31日付属水族館は3500円で堺市に払い下げられ、堺水族館と名称変更し8月1日に開館した。以来毎年4月頃から11月まで開館し、冬季は休館であった。また夏期には夜間開場することもあった。開館当時、最高水準の施設内容で、自然観察・生物教育・水産奨励のためのすぐれた文化施設として声価も高く、市内外から多くの来館者を迎えた。しかし、市に経営が移ってからは入場者数が減少し経営不振となったため1905年(明治38年)からは魚槽施設の一部を受負制として経営した。この請負制は1908年(明治41年度)から市営に復したが、1910年(明治43年度)からまた請負制となり、1911年(明治44年)から市営に戻った。この間、1908年(明治41年)3月に水族館の敷地である陸軍省の砲台跡地約52000平方メートル(15760坪)が52219円で堺市に払い下げられた。

経営状態は改善の兆しが見えない矢先、阪堺電気軌道株式会社から、乗客数増加を図るため大浜公園地内の設備に就いての提案が市に出された。堺市は、公園の設備経営は市で設計した設備方法に準拠すること、公会堂の建設及び水族館の修繕等は市に計画を提出し許可を受ける事等の条件で1911年(明治44年)12月に同社と契約を結んだ。 同社は当時南海鉄道会社との競争が激しかったこともあり、契約が結ばれると大浜公園の整備に力をつくし1912年(明治45年)5月に公会堂が設けられ、1913年(大正2年)1月には海水を利用した浴場「大浜潮湯」を開業させるなどした。また、この頃大浜は海水浴場としての整備も整う様になった。

終焉[編集]

しかし、1934年(昭和9年)9月21日室戸台風の高潮で水族館は大破。さらに1935年3月27日、本館などを全焼する火災に遭い、展示する魚類のほとんどを失うこととなった[5]。ようやく1937年(昭和12年)に再建され、同年4月1日に開園した。開園式は大浜公会堂に市長他1000人を集めて行われた大規模なものであった[6]

その後、1953年(昭和28年)に水族館の大規模な工事を行ったが、臨海工業地帯造成により集客数は減少し、1961年(昭和36年)9月に閉鎖された。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 堺市役所『堺市史 第五編』堺市役所、1930年3月。 
  2. ^ 井上俊夫『ふるさと文学館 第33巻』東京ぎょうせい、1995年8月。ISBN 4-324-03800-7 
  3. ^ a b c 『第五回内國勧業博覧会堺水族館図解』第五回内國勧業博覧会堺水族館事務所、1903年5月。 
  4. ^ a b 堺市談会編輯局『堺水族館記』堺市談会編輯局、1903年8月。 
  5. ^ 堺水族館が全焼、魚類ほとんど死ぬ『大阪毎日新聞』昭和10年3月28日
  6. ^ 堺市立水族館が開園『大阪毎日新聞』(昭和12年4月2日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p50 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

外部リンク[編集]