利用者:Manono

利用者名:Manono 新規・追加記述を自粛中、過去の記述に対する権利保持のためアカウント。

記述の際しての考慮: 同じ文書のなかの矛盾や非合理

勝手に合意と称して、押し付けられるがウザい。

--Manono会話) 2014年4月29日 (火) 00:10 (UTC)


お断り:【捏造】ファンタジー【創作】

          __         /  ../)         三三)/)   __    三三)/           __ /  ../)  こうだったハズ ♪    /  ../) 三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/) 三三)/   ( `∀´)  (`∀´ ;)   三三)/ かんしゃく起こる!    ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧     __   ( #i!`Д) /⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#)  /  ../)   / _∧_,,∧ 口  ∧_,,∧⌒   φと_   ヽ  三三)/)   (/(   `) 口 (   #)φ/⌒//(__ム  三三)/)  ∥ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/   __`ー‐'    `ー‐' こうだったに違いない! /  ../)       __    歴史はつくれる! 三三)/)     /  ../)     〃∩ ∧_∧ウェーハハハ♪ 三三)/)     三三)/)     ⊂⌒ ( `∀´) 三三)/      三三)/       `ヽ_っ⌒/⌒c 

現在、南部藩 2014年3月9日(日)13:10時点以降の加筆、追記について、wikipedia 以外で記載できるサービスを検討中。

匿名記述していた頃の IPアドレスについては、海江田民主党研究まとめ @ ウィキ AAに、同一アドレスあり。

--Manono会話) 2014年6月24日 (火) 13:59 (UTC)

記述再開したら早速きました、「出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。」

と書かれてても、資料名はあくまでも参考として書いただけで、根拠のない参考文献は書いていませんので、参照方法という紐付けは必要な方におまかせします。 記述の精度あげてもあれではw

脚注で出典明示するのは、他人の記述の修正するときぐらい。

--Manono会話) 2014年9月9日 (火) 12:28 (UTC)


Manono による 2014年3月9日 (日) 13:10 時点の版

南部藩(なんぶはん)は、中世以来の旧族居付大名で近世初頭に陸奥国岩手郡盛岡に城を構え、陸奧国北部諸郡(岩手県北上市から青森県下北半島)を領有した外様藩

一般に「南部」とは、準国持大名の南部氏が領有していた「南部領」のことである。文化年間(180418年)に、南部藩は盛岡藩に改称(南部領分呼称替え)された。また、領有していた地域において複数の南部氏の藩があるため、盛岡の南部氏が支配したところを南部藩または盛岡藩、八戸の南部氏が分立し支配したところを八戸藩、七戸の南部氏が分知し支配したところを七戸藩と呼ぶ。

鎌倉御家人の系譜をひく(三戸)南部氏は、中世以降、糠部郡を中心に所領を拡大し、戦国期には津軽地方一円、南は閉伊郡から岩手郡を支配していた。

略史[編集]

奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、清和源氏義光流(甲斐源氏)の系譜に連なる、加賀美二郎遠光の三男とされ、甲斐巨摩郡富士川西岸の南部郷を領し南部三郎を名乗ったが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称された[1]

光行の子息は、『尊卑分脈』によれば、太郎朝光、二郎実光、三郎行朝、小四郎実長の四人で、「秋山系図」(『続群書類従』)は、行朝を太郎、実長を「南部破切の六郎」とし、五郎行連を加える。そのうち、光行の嫡子実光とその子時実の名はしばしば『吾妻鏡』にあらわれ、将軍の供奉を務める御家人で、かつ北条時頼の側近として登場している。[1]

文治 5年(1189年)秋の奥州平泉攻撃に、加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって南部光行は奥州糠部郡の土地を給され、建久 2年(1191年)の末 家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられているが拝領を支証するものはない[2]

近世盛岡藩公認の系譜

南部光行 行朝    一戸氏の祖
実光 三戸南部氏の祖
実長 根城南部氏の祖
朝清 七戸久慈氏の祖
宗朝 四戸氏の祖
行連 九戸氏の祖

南部宗家の始祖は、南部光行の嫡子・実光の系譜が後の三戸南部氏となり、庶家には実光の弟で、後の八戸南部氏の祖となる波木井実長がいると言われているが、波木井家初代実長・二代実継・三代長継のあと、嫡家三代時実の子政行の次男師行が長継の娘婿となって波木井家を継いだとするが、実継・長継の名は波木井南部家一族の名を記した同時代史料には見えず、八戸(遠野)南部家文書には鎌倉時代の波木井領に関する文書は存在せず、八戸南部氏が波木井家の子孫とする「八戸家系」は、享保4年(1719年信有時代において八戸家と身延山久遠寺との交渉を通じ遠野南部家文書の中に入った[1]

奥州南部一族の中で史料から南部光行の子孫であることが確認出来るのは、三戸・八戸・七戸の三家のみで七戸家は八戸南部信光の弟政光の子孫である[1]

鎌倉・南北朝時代以降[編集]

南部氏が北奥羽で本格的な活動を開始するのは、南北朝争乱の頃からである。
元弘 3年(1333年)5月、鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、鎮守府将軍に任じられた足利尊氏には北条泰家の遺領である外が浜、糠部郡を与えたが、尊氏が離反すると、鎮守府将軍は北畠顕家に移り、陸奧守として義良親王を奉じて多賀城国府に赴任し、随行した根城南部氏3代の南部師行が北奥各郡の検断・奉行として任じられた。

1189年 文治 5年 奥州平泉攻撃
1215年 建保 3年 11月 21日 南部光行、鎌倉で死去。
1322年 元亨 2年   安藤氏の乱
1324年 4年   正中の変
1333年 正慶 3年 5月 南部政長、新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その功により、甲斐国倉見山、陸奥国糠部郡七戸郷を与えられた。その後陸奥国に下向した。
  後醍醐天皇、北条氏滅亡を受けて京都に帰り、北畠顕家を陸奧守に任じる。
1334年 建武元年   建武の新政
  南部師行糠部郡郡奉行郡検断を兼ねる国代として任じられる。
  大光寺合戦
1335年 2年 3月 南部師行、北条得宗領外ヶ浜内摩部郷(現青森市)のうち、泉田、潮方(後潟)、中沢を与えられる[3]
7月 北条時行が兵を挙げ、鎌倉に入る。(中先代の乱
10月 足利尊氏が鎌倉で反旗をひるがえすと、曾我氏安藤家季以下安藤氏一族も呼応[3]
1336年 建武 3年 延元元年) 足利尊氏の御教書をうけた安藤家季が合戦奉行となり、津軽曾我氏などがそれに従い、藤崎城、平内城の南朝の軍勢と戦う[3]
1338年 暦応元年 (   3年) 5月 北畠顕家・南部師行ら、和泉国石津で討死。(石津の戦い
1339年 2年 (   4年) 8月 後醍醐天皇、吉野において崩御。義良親王が帝位を継がれる。
1340年 3年 興国元年) 12月 南部政長根城南部氏5代となる[4]
1341年 4年 (   2年) 栗谷川の合戦、宮方勢、岩手斯波両郡を制圧。
6月 津軽の曾我氏と糠部郡の南部氏の間で抗戦が始まる。
1343年 康永 2年 (   4年) 陸奧国司北畠顕信、滴石(雫石)に逃げる。
1352年 文和元年 正平 7年) 南部信長、多賀府中合戦に出陣中に北朝方に転じる。
1373年 応安 6年 文中 2年) 南部守行、一族を伴い糠部に下だる。(三戸南部の糠部定着)
1386年 至徳 3年 (   3年) 11月 北畠氏、「奥州新国司」を自称して浪岡入部。[5]
1392年 明徳 3年 元中 9年) 閏10月 南北朝合一。
1393年 4年   根城南部氏8代の南部政光、甲斐の本領を室町幕府に返上、根城に移住する。
1407年 応永14年 4月 根城南部氏10代の南部光経、修理亮に推挙。
18年 南部守行、八戸南部氏と共同で仙北刈和野安東鹿季と合戦、領地を確保。(秋田合戦)
1417年 24年 北畠氏の仲介により安東氏領と南部氏領の領境を定める[6]
1418年 25年 8月 南部氏、上洛。馬100疋、金1000両を将軍に献上。
1428年 正長元年 十三湊、南部勢に掌握される[6]
1432年 永享 4年 10月 南部義政藤崎城を攻める。敗れた安藤盛季康季蝦夷地に敗走、幕府が調停する。
1435年 7年 和賀惣領家と須々孫氏の内訌(和賀・稗貫の動乱)
1437年 9年 関東地方で発生した永享の乱の影響により、奥州に於いても葛西氏大崎氏が合戦を始める(永享・嘉吉の乱)
1440年 12年 結城合戦
1442年 宝徳 2年   安藤盛季・康季、南部義政のため十三湊を追われる。翌年12月、小泊から蝦夷地松前に逃れる。
1451年 嘉吉 3年 蠣崎蔵人信純、錦帯城を築く[6]
1452年 享徳元年 武田信広、田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎氏と名乗る[7]
1453年 2年 津軽安東氏第9代義季(よしすえ)が、再び南部軍と戦い討死。その養子の第10代政季が南部氏の捕虜となり、下北に配流。のちに再び蝦夷地に逃避[6]
1455年 3年 享徳の乱
1456年 康正 2年 4月 糠部南部義政、秋田に出陣、湊安東氏と交戦、南部方敗退[4]。(秋田高寺合戦)
1457年 3年 2月 陸奧の田名部において蠣崎蔵人の兵乱起る[4]
2月 根城南部氏南部河内守政経、兵船をもって田名部に進攻[4]
4月 田名部一帯が南部政経により制圧され、蠣崎蔵人、蝦夷地に逃れる[4]
4月 南部政経、軍功により田名部全土を所領に加えられる[4]
1467年 応仁元年 1月 京都に攪乱起る。(応仁の乱
2月に (三戸)南部政盛は斯波政直の軍触によって、葛西氏秋田氏等と共に、信夫郡に征上、伊達・葦名氏等と合戦したが兵糧が続かずに帰陣。
1468年 2年   南部家信、仙北支配を断念し三戸に撤退。
1477年 文明 9年 11月 応仁以来の兵乱略治まる。
1483年 15年   南部彦四郎の乱(『南部史要』)
1485年 17年 8月 南部政盛、葛西領気仙郡有住郷に侵入し敗績した。
1491年 延徳 3年   久慈南部光信を津軽西浜の鼻和郡種里城におく。
1498年 明応 7年   南部弾正康時が津軽外ヶ浜の堤浦(青森市)に入部[8]
1502年 文亀 2年   久慈光信、種里から大浦に進出し、大浦氏と名乗る。
1521年 大永元年 6月 志和郡郡山にて三戸南部氏と和賀氏の合戦。
1533年 天文 2年   南部安信の弟高信、津軽で起きた反乱を鎮圧。津軽郡代に任命。
1534年 3年 6月 大崎領内に内乱が惹起。大崎義直の族新田頼遠が主家に叛く。(大崎内乱)
  8月 三戸南部氏が北上地方に南侵し、柏山氏と合戦、敗退する[2]
1536年 5年 6月 大崎再乱。陸奥国守護職伊達稙宗は江刺左衛門督に対し大崎領袋中に出兵するよう申し送る。
10月 伊達稙宗の子・小僧丸が大崎高兼の娘を娶る形で養子として送り込まれ、大崎氏は伊達氏に従属したく。
1539年 8年   6月 家臣赤沼備中の放火により、本三戸城(聖寿寺館)が焼失。
  八戸義継、早世のため弟次郎(治義)が家を継ぐ。(八戸家内訌)
  7月 南部晴政、上洛し将軍足利義晴より偏諱を拝領。
1540年 9年   南部氏、雫石戸沢氏を攻めて、岩手郡より出羽仙北郡角館に走らせる。
1541年 10年   南部晴政、三戸南部家第24代当主となる。
1555年 弘治 元年 浪岡中将具永が死去。
1562年 永禄 5年 4月 浪岡具運、所領をめぐり叔父の川原御所具信と対立から川原御所の乱
1565年 8年 7月 鹿角郡及び比内郡においてに、南部氏と秋田安東氏との間で衝突。(鹿角合戦)
1569年 10年 正月 新田左馬助行政が卒去し、八戸政栄が出向いて会葬している留守を狙い、櫛引氏八戸根城城を襲撃。
1568年 11年 正月 安東愛季、鹿角郡に侵攻。長牛館を攻める。
3月 南部信直、晴信の陣代として鹿角出陣。
1569年 12年 南部晴政、鹿角を奪回。
1571年 元亀 2年 2月 大浦為信石川城攻略。石川高信、自害。
8月 八戸政栄、櫛引領に侵入。櫛引方は大敗。
1572年 3年 8月 田子城主南部左衛門尉高信、津軽三郡を平定。

安土桃山時代[編集]

三戸(盛岡)南部家文書には中世三戸南部家の家伝伝書は伝えられておらず、信直以後の文書がその総てである。本来、盛岡南部家には膨大な史料が伝えられていたと考えられていたが、確認されているのは盛岡市中央図書館に所蔵されているもののみであり、1539年(天文 8年)本三戸城の炎上のさいに、類焼、多くを失ったとされている[1]

1573年 天正元年     三戸南部氏、厨川平野より南方に進出し、和賀氏と交戦。
1575年 3年 1月     大浦為信、大光寺城城攻略。
1578年 6年 7月     大浦為信、浪岡城攻略。浪岡御所北畠顕村は自害して浪岡氏、滅亡。
1581年 9年 6月     南部方の津軽郡代、石川城主南部高信が卒去。
    一戸城主一戸兵部大輔政連、子息一戸出羽と共に一戸信州に惨殺される。
1582年 10年 1月     南部晴政・晴継父子、相次いで死去。田子信直、三戸南部家第26代当主となる。
6月 2日     本能寺の変
7月     九戸政実、和賀郡侵攻。
1583年 11年 3月     秋田愛季、庄内平野の酒田に侵入後、比内に侵入して浅利氏を倒す。
    南部勢、志和郡東武、大萱生城にて合戦。
1585年 13年 3月     大浦為信、外浜油川城を攻略。油川城主奥瀬膳九郎、田名部ヘ逃れる。
5月     大浦為信、田舎館城を攻略。
1586年 14年     南部信直、加賀の前田利家に使者を遣わす。
    高水寺斯波氏の娘婿高田吉兵衛康実、斯波家を出奔。南部信直に出仕し、中野修理亮康実と改称。
9月     南部信直、雫石斯波氏を攻撃し岩手郡を手に入れる。
1587年 15年 2月     南部信直、北信愛を加賀の前田利家に派遣。
1588年 16年 6月     大浦為信、飯詰高楯城攻略。津軽一帯と外ヶ浜ならび糠部郡の一部を手中に収める。
7月     南部信直、志和郡に侵入し高水寺城を落とす。斯波氏滅亡。
1589年 17年     南部信直、秋田氏の同族争い(湊騒動)に乗じて北信愛を総指揮に比内に侵入占拠。
1590年 18年 3月     南部信直、小田原参陣、豊臣秀吉に謁見。
7月 27日     南部信直、宇都宮で秀吉より南部領の内7ヶ郡を安堵される。奥州仕置により、葛西・大崎領没収。
10月     葛西・大崎一揆和賀・稗貫一揆がおこる。
1591年 19年 3月 九戸政実の乱(九戸一揆)。
9月     九戸政実の乱鎮圧のため奥州再仕置軍下向。九戸城落城、九戸政実斬首。
1592年 20年     南部氏、領内諸城破却。(12城存置36城破却)
1597年 慶長 2年 3月     不来方(のち盛岡と改称)に築城を開始。
1599年 4年 10月 5日     南部信直、二戸郡福岡城で死去。
12月     南部利直、三戸南部家第27代当主、盛岡藩初代藩主となる。

江戸時代[編集]

1600年 慶長 5年 7月   徳川家康の命により南部利直、最上に出陣。
9月   関ヶ原の戦い。和賀忠親、利直の留守中に和賀郡で一揆を起こす(岩崎一揆)。
1601年 6年 4月   南部利直、岩崎一揆を平定。
1603年 8年 2月 12日   徳川家康、征夷大将軍宣下。
1614年 19年 11月   大坂冬の陣
1615年 20年 4-5月   大坂夏の陣
1617年 元和 3年 3月   南部利直、八戸氏(根城南部氏)から下北の支配権を接収。
1627年 寛永 4年 3月   八戸直義(直栄)を八戸根城から遠野横田城へ陸奥国代として転封させて、遠野南部氏となる。根城は廃城となった。
    南部利直、八戸城築城。
1632年 9年     南部重直、第2代藩主となる。
1633年 10年     南部重直、盛岡城を居城と定める。
1634年 11年 8月   糠部郡が三戸二戸九戸の4ヶ郡に分割されて、徳川家光により、領内10郡10万石の領知判物拝領。
1643年 寛永20年 6月   閉伊郡山田浦にオランダ船来航。(ブレスケンス号事件
1664年 寛文 4年 9月   南部重直が、嗣子を定めず江戸で死去。
12月   幕府、重直の弟七戸重信に盛岡8万石(3代藩主)、中里数馬に八戸2万石を分割相続させ、八戸藩分立。
1668年 8年 8月 八戸領  南部直政、八戸藩第2代藩主となる。
1669年 9年 9月 盛岡領  シャクシャインの乱に対し、野辺地・田名部を警備。
1683年 天和 3年 5月 盛岡領  南部重信、幕府に届け出て高直しを願い出、10万石に復した。
1692年 元禄 5年 6月 盛岡領  南部行信、盛岡藩第4代藩主となる。
1694年 7年     南部行信は弟の政信に(麹町候)5,000石、同じく勝信に(三田候)3,000石を分知して、それぞれを旗本として出仕。
1699年 12年 5月 八戸領  南部通信、八戸藩第3代藩主となる。
1702年 15年   盛岡領  南部信恩、盛岡藩第5代藩主となる。
12月 24日 元禄赤穂事件
1705年 宝永 4年   盛岡領  南部利幹、盛岡藩第6代藩主となる。
1716年 享保元年 10月 八戸領  南部広信、八戸藩第4代藩主となる。
1725年 10年   盛岡領  南部利視、盛岡藩第7代藩主となる。
1741年 寛保元年 12月   八戸領  南部信興、八戸藩第5代藩主となる。
1749年 寛延 2年   八戸領  猪・鹿の異常繁殖による猪飢饉
1752年 宝暦 2年   盛岡領  南部利雄、盛岡藩第8代藩主となる。
1755年 宝暦 5年 12月   旗本 南部利正、盛岡藩主南部利雄の養子となり、それにともない三田候3000石は廃家。
1765年 明和 2年 1月 盛岡領  尾去沢銅山を藩営化。
5月   八戸領  南部信依、八戸藩第6代藩主となる。
1774年 安永 3年     宝暦の大飢饉
1780年 9年 2月 盛岡領  南部利正、盛岡藩第9代藩主となる。
1781年 天明元年 2月 八戸領  南部信房、八戸藩第7代藩主となる。
1783年 3年     天明の大飢饉
1784年 4年   盛岡領  南部利敬、盛岡藩第10代藩主となる。
1793年 寛政 5年 2月   ラクスマン来航事件のロシア遣日使節との幕吏(宣論使)交渉の警護の幕命、盛岡・弘前両藩と共に松前で警護。
1795年 7年 11月 盛岡領  和賀・稗貫地方で大百姓一揆おこる。
12月 八戸領  久慈で百姓一揆おこる。
1796年 8年 八戸領  南部信真、八戸藩第8代藩主となる。
1797年 9年 10月   盛岡藩に松前警備の命が下る。
1799年 11年 1月   東蝦夷地収公(前期蝦夷地幕領期)にともない、幕府、盛岡・弘前両藩に箱舘守備を命ずる。
1807年 文化 4年 4月   エトロフ島に20数名のロシア人が発砲しながら上陸。応戦した盛岡藩士大村治五平 は 、負傷してロシア人に捕えらる。(文化露寇)
1808年 5年 12月 盛岡領  南部利敬、蝦夷地警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。また、弘前藩も7万石から10万石へ石高を改める。
1812年 9年 盛岡領  武家屋敷地を「小路」、町人地を「町」と表記。
盛岡領  南部藩を盛岡藩に改称。
1817年 14年   七戸藩  盛岡藩からの分知旗本家(麹町候)当主・南部信鄰に新たに6,000石を支給し、七戸藩(盛岡新田藩)を立藩する。
1820年 文政 3年 9月 盛岡領  南部利用、盛岡藩第11代藩主となる。
12月 七戸藩  南部信鄰、盛岡新田藩初代藩主となる。
1821年 4年 4月 23日   相馬大作事件
12月   幕府、蝦夷地を松前藩に返還、盛岡・弘前藩等へ蝦夷地警備廃止。
1822年 5年 1月 七戸藩  南部信誉、七戸藩第2代藩主となる。
1825年 8年 9月 盛岡領  南部利済、盛岡藩第12代藩主となる。
1829年 12年 10月 八戸領  藩校文武講習所を新築落成。
1832年 天保 3年 4月   天保の飢饉が始まる。
1834年 5年 1月 八戸領  久慈の惣百姓一揆(稗三合一揆)。翌月、野村武一失脚。
1836年 7年 盛岡領  領内各地で百姓一揆おこる。(盛岡南方一揆)
1838年 9年 八戸領  南部信真、城主格となる。
1842年 13年 八戸領  南部信順、八戸藩第9代藩主となる。
1847年 弘化 4年 11月   盛岡領  三閉伊一揆おこる。
1848年 嘉永元年 6月   盛岡領  南部利義、盛岡藩第13代藩主となる。
1849年 2年 9月 盛岡領  南部利義、父利済の強訴により隠居。
10月 盛岡領  南部利剛、盛岡藩第14代藩主となる。
1853年 嘉永 6年 6月 盛岡領  嘉永の三閉伊一揆おこる。
1854年 安政元年 3月 3日   日米和親条約調印。
6月   幕府、松前藩より箱舘および周辺5-6里四方を上知(後期蝦夷地幕領期)、箱館奉行をおき、盛岡・弘前両藩等に蝦夷地警護を命ずる。
1855年 2年 盛岡領  箱館開港によって幕府に、箱館山岬恵山岬から幌別(登別市)までの沿岸警備を命じられる。
8月 盛岡領  新渡戸傳、三本木新田の御用掛となる。
1856年 3年 盛岡領  蝦夷地警護のため、砂原陣屋、モロラン出張陣屋を構築。
1858年 5年 七戸藩  南部信誉城主格となる。
1859年 6年 6月   幕府、蝦夷地を東北諸藩に分与、警備・開拓を行わせる。各藩の負担に配慮して警備地の一部の領有を認める。
1860年 7年 3月 3日 桜田門外の変
1862年 文久 2年 七戸藩  南部信民、七戸藩第3代藩主となる。
1867年 慶応 3年 10月 14日   大政奉還
12月 9日   王政復古の大号令

明治以降[編集]

1868年 慶応 4年 1月   戊辰戦争
5月   奥羽越列藩同盟成立。
7- 9月   秋田戦争
8月   箱館戦争
1868年 明治元年 9月 8日   明治元年と改元。
1868年 9月 20日 盛岡藩降伏。
9月 23日 野辺地戦争
10月   総督府、東北平定宣言。
12月 7日 盛岡領  南部利剛、隠居差控を命じられ、盛岡藩20万石を幕府直轄地として没収。
17日 盛岡領  南部利恭、家名相続を許される。
24日 南部利恭、白石13万石宮城県)に転封。白石藩が発足
盛岡領  弘前藩主津軽承昭、旧南部氏領域のうち、北郡三戸郡二戸郡の取締りを命じられる。
1869年 2年 1月 七戸藩  南部信方、七戸藩第4代藩主となる。
2月 9日   北郡、三戸郡、二戸郡の津軽氏の取締りに対し住民による反対運動がおきたため、下野黒羽藩栃木県那須)大関美作守の支配とした。
4月 26日   黒羽藩、三戸県を設置。
5月   五稜郭の旧幕府軍降伏、箱館戦争終結。
6月 17日   南部利恭、版籍奉還を許され、白石藩知事に任命。
22日   版籍奉還、南部信順、八戸藩知事に任命。
23日   楢山佐渡、盛岡・報恩寺において刎首。
24日   南部信方、七戸藩知事に任命。
8月 7日   南部利恭、旧領盛岡に復帰。
10日   南部利恭、盛岡藩知事。
11月   松平容大会津藩主)、陸奧国3万石(旧南部領の北郡、三戸郡、二戸郡金田一以北)に移封、三戸県は解体され、斗南藩成立。
1870年 3年 5月 14日 南部利恭、県制施行を建白し、盛岡藩知事の辞任を請う。
15日   松平容大、斗南藩知事に任命。
7月 盛岡藩を廃し、盛岡県を置く(廃藩置県)。
1871年 4年 2月   斗南藩、藩庁を五戸から田名部に移す。
7月 14日   廃藩置県により一関県(岩手県)、弘前黒石斗南七戸八戸館(北海道の一部)県(青森県)成立。
9月 5日   黒石、斗南、七戸、八戸、館の5県、弘前に合併。
23日   弘前県を青森県に改称し、県庁は弘前から青森に移す。
11月 2日   盛岡・一関・胆沢・江刺の四県を廃し、盛岡県と一関県を置く。
1872年 5年 1月 8日   盛岡県を岩手県に改称。

藩庁機構[編集]

藩の行政組織は10万石の軍役組織によるもので、中央の職制は幕府を模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。

家老・加判役[編集]

藩行政の最高機関であり、常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。日常中丸に登城して庶務を決議し、連署に応ずる。

御席詰[編集]

藩主の常勤する御用の間に出仕する、家格が高く、家老の経験を積んだ老練な人が選任される。

御大老[編集]

北地御用所[編集]

北方警備の監督部署。分轄された蝦夷地の警備・下北半島から釜石浦に至る海岸の防備についての費用調達、動員計画、陣屋説定、配備計画などを行う。

御用人所[編集]

城内中丸の御用人所に常勤し、その庶務を執る。

目付所[編集]

御目付所は司法、検察等、主として治安方面を総轄し、その大目付は高知格についても検察の権があり、常時二人とされた。勘定所、寺社町奉行とともに公示三役と称されて、広汎にわたっていた。

御目付所の所管には、寺社町奉行、表目付、牛馬目付、武具奉行、御境奉行等があり、監査・検察を要するものは、目付所の管轄に置かれている。

勘定所[編集]

城内に設置されてあった出納事務所で、目付所、寺社町奉行とともに公示三役と称された職掌であった。御郡支配方、御代官方、御支配方、山林方、御土蔵方の七つの分掌となって、領内の地方行政に係わていた。

家臣団構成[編集]

盛岡藩士の家系を調べる際の必須の書とされている『参考諸家系図』が岩手県立図書館等に架蔵されており、復刻版も出版されている。

格と職[編集]

主な家格
天保15年(1844年 明治元年(1868年 明治2年
高 知 御家門   3 家 御家門   2 家 上 士
高 知  28 家 御三家   3 家
着座高知   7 家
高 知  20 家
高 家  御新丸御番頭  21 家  御新丸御番頭  19 家 中 士
本番組 平士 100石以上 平士 150石以上
加番組 平士 50石以上 平士 50石以上 下 士
新番組 平士 50石以下 平士 50石以下
一生御給人 一生御給人
勤中御給人 勤中御給人
御医師茶道 100石以上御医師 100石以上御医師 中 士
100石以下御医師 100石以下御医師 下 士
御茶道 御茶道
在々御給人 在々御給人 在々御給人 平民のち士族
その他 御同朋から御同心 御同朋から御同心 卒 族
在々御与力・御同心 在々御与力・御同心

「天保十五年御国住居緒士」「明治二年身帯帳」

家臣在郷制[編集]

通常の武士身分で在郷している御給人制があり、また、陪臣は在郷のものが多い。

在々御給人[編集]

代官の下に下役以下各種奉行その他の役職を務めさせるため「御給人」を置いた。藩士とは区別され、城下を離れた在町に土着して、自ら農業もしくは商業を営みつつ士分に準ずる待遇を受けている者のことである。形式的には苗字帯刀を許され、知行が与えられるが、この知行地は自己所有の石高の全部または一部を知行地として認められたものである[9]。 その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して「七戸御給人」、「野辺地御給人」などと称された。

領内統治[編集]

諸城破却書上[編集]

天正18年(1590年)7月、秀吉より所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻は、南部氏の居城下に集合を厳命されている。地方の諸城にいたものは従来の在地地主から、その城館を破却して大名城下に出仕して、不在地主という性格に変わっていった。 同20年6月には、その処理を報告している。

盛岡藩[編集]

代官[編集]

大目付は司法、警察、軍事を総轄し、勘定奉行の下に御代官、御山奉行などが配置され、代官は100石以上の本番組士。各通ごとに2人を置かれ当番非番制により、民政関係の庶務に従事していた。

通制[編集]

盛岡・八戸両藩の独特の行政組織としての「通制」である。領内の郷村支配のため、代官統治地区を「(とおり)」と称しているが、藩政初期は単に方面とか、その地方を表現した言葉であったが、天和年間(1681 - 83年には、代官所統治区域を指した。
「通」には原則として代官を置き、盛岡で藩士の中から任命し、任期を2年として2人を任用、半年交替勤務とした。その下に下役・物書を2、3人を任用した。 下役は代官が地方の給人から任用し。代官は地方行政・司法・警察・租税の一切を執行する権限をもち、その経費は村高に応じて地方付加税として徴収した。

盛岡町奉行[編集]

藩の諸機関の整備に寛永年間に基礎が定まり、地方統治は城代統治が城の廃絶に伴って、代官統治へと移行していった。 大目付所の下に盛岡町奉行(天和元年(1681年)以降、寺社奉行と兼務し、寺社町奉行と称した。)が置かれ、市内取締まりのため特に任命され、創設の年代は盛岡城下開市にともなって、慶長年間といわれている。

 (盛岡城下)検断頭(六検断) - 町検断役 - 書留役 - 宿老役

盛岡城下六検断は苗字帯刀が許され[10] ており、通例中津川を挟んで、向い町(河南)方向に3人、川北に3人常置され、藩からの任命で任期は終身であり、町吏の最高機関として、直接町奉行の支配に属していた。

郷村三役[編集]

南部藩の村政は肝煎(村長格)、老名(助役格 2,3人)、組頭(五人組組頭)を持って構成され、その下に本百姓、水呑百姓がいた[11]

  • 肝煎 - 宿老 - 組頭

町と村との区別は、町は宿駅伝馬の有る市街地で、村にはそのような設備がないところである。

領内の町と称されているところでは、町検断を通して日常の町政が運営された。軽犯罪の処罰権をもっていたので、各村肝煎より以上の権限があった。土地の売買に立ち会い、これに認印するのもしごとの一つであった。 村肝入の役も同様に、多くはその町の名家で検断役宅はその自宅があてられていた。

町検断も村肝入も代官所の配下に属し、任免もその所管区の代官の権限内にあり、任期も定まっていなく、事故がない限り終身勤務しており、多くは世襲でその村の生活の安定している旧家などが務めていた。

老名は年寄ともいい、肝煎・検断の補助役であり村政担当者のひとりとして処理に当たった。

村内20石を単位に検地帳に登録された本百姓を中心に、五人組を組織し、五人組の長を組頭と呼んだ。肝煎・検断などからの通知を通達し、相互に連帯し相互互助に務め、売買質入れ手形の連印犯罪防止その他の義務を負った。なお、幕領のような村方三役のうち農民の代表である百姓代はおかなかった。

村肝煎の職務内容については『紫波郡矢巾町教育委員会 矢巾町文化財報告第31集 「間野々村肝煎緒帳面改引請目録」延享元年(1744年)』に記載がある。


要害屋敷[編集]

はじめは、伊達、佐竹、津軽藩に対する国境警備のための城館であったが、文化年間になると地方統治の一拠点に変質し、役所が要害屋敷にあり、年貢(金穀や現物)を収納する藩庫(土蔵)があってその土地の人々が年貢を上納する便宜上の理由もあり、代官所とは異なった。

八戸藩[編集]

通制[編集]

八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用いた。

元禄元年(1688年)正月、領内の郷村に庄屋名主制度[12]を採用し、元禄7年(1694年)10月に実施し、町検断を庄屋に、肝入を名主と改称した。盛岡藩とは異なっている。

交通[編集]

陸路の主要街道[編集]

目的地の地名を冠して街道名と呼ぶため、街道沿いの別の土地では、別名称で呼ばれているのが常態であった。

南部藩[編集]

街道名 起 点 終 点 備 考
大 道 筋 奥州街道 仙台境鬼 柳 津軽境馬 門
小道井山道 秋田往来 盛 岡 橋 場  
小 道 沢内街道 雫 石 太 田 出羽うとう村へ出ル道筋
鹿角街道 盛 岡 花 輪 楢 柏境目
花 輪 松 山
横 道 花 輪 小 坂
   小 道 三戸鹿角街道 三 戸 大 湯
三戸街道 三 戸 八 戸
七 戸 平 沼
登り街道 福 岡 八 戸
山 道 三 戸 大 湯
海 辺 道 浜街道 平田坂石塚境目 八 戸  
北浜街道 八 戸 大 畑
北通 大 畑 長 後
入 海 辺 道 田名部街道 野辺地 田名部  
西通 田名部 脇ノ沢

盛岡藩[編集]

八戸藩[編集]

八戸領内の主な街道は八戸城下を起点としていた。

明治期における国道・県道・里道の区別(岩手県)[編集]

国道・県道・里道の分類は、修繕費について、国道は官費支弁、県道は地方費支弁となったものと考えられ、それに次ぐ重要路線は里道(村道)となっていた。
明治14年の県記録に、一等国道として1路線、三等国道として1路線、県道の名称は17線あり、内一等県道1路線、三等県道16路線をあげられている。

  • 一等国道
    • 函舘街道 管内の中央部を南北に貫通する管内陸上交通の幹線。
  • 三等国道      
    • 浜街道  宮城県下気仙沼を経て岩手県に入り、三陸海岸を経過して青森県下に通ずる沿岸郡村の陸上交通線。

        宮城県下気仙沼-気仙-氷上-盛-吉浜-小白浜-釜石-大槌-船越-山田-津軽石-宮古-田老-小木-田ノ畑-普代-宇部-久慈-青森県 十七駅が設置

  • 一等県道
    • 秋田街道     盛岡-雫石-橋場-秋田県生保内、途中二駅
  • 三等県道
    • 山形街道(其一) 盛岡-繋-南畑-川舟-秋田県 途中七駅
    • 山形街道(其二) 黒沢尻-川尻-越中畑-秋田県 途中四駅
    • 津軽街道     盛岡-一木木-寺田-秋田県、途中五駅
    •  同新道     田頭-松尾-兄川-秋田県、途中三駅
    • 宮古街道     盛岡-築川-川井-宮古、途中七駅
    • 釜石街道     盛岡-大迫-遠野-釜石、途中七駅
    •  同古道     達曾部-遠野
    • 小本街道     盛岡-藪川-岩泉-小本、途中三駅
    • 久慈街道     沼宮内-葛巻-久慈、途中二駅
    • 八戸街道     福岡-観音林-八戸
    • 遠野街道(其一) 花巻-土沢-下宮守-遠野
    •  同街道(其二) 伊手-人首-鮎貝-遠野
    • 気仙沼街道    磐井-薄衣-手厩-気仙沼、途中三駅
    • 石巻街道     磐井-金沢-涌津-宮城県、途中二駅
    • 気仙街道(其一) 磐井-長坂-大原-気仙、途中四駅
    •  同街道(其二) 水沢駅-岩谷堂-世円米-盛、途中四駅

主要な港[編集]

当時の海上輸送ルートは、田名部湊(むつ市)や野辺地湊(上北郡野辺地町)を利用して日本海を経由して西国に至る日本海海運(西廻り航路)と、宮古湊(宮古市)から三陸沖を経由したり、北上川舟運を通じた仙台領石巻湊(宮城県石巻市)を利用して銚子に陸揚げする太平洋海運があった。

閉伊郡  釜石・両石・大槌・吉里吉里・山田・宮古
北 郡 泊・野辺地・横浜・田名部七湊(川内・安渡・大畑・大間・奥戸・佐井・牛滝 『郷村古実見聞記』時代により変化した
八戸領  久慈・鮫

北上川水運[編集]

盛岡藩では江戸藩邸への物資を廻送は、慶安期以降に北上川舟運(しゅううん)[14][15]太平洋海運を利用し、仙台領石巻に米倉を設置した。米雑穀類のほかに、鹿角地方で産出された銅も新山河岸からも積み出されていた。

また、八戸藩の飛地である志和郡四ヵ村の米穀類も郡山河岸を利用して江戸廻米を行っていた。

河 岸 盛 岡 日 詰 花 巻 黒沢尻 (藩 境) 仙台藩領
新山河岸 郡山河岸 花巻河岸 和賀川舟場 石巻湊

盛岡領 番所の所在地[編集]

境目番所 (他領との境界警護)
和賀郡 鬼柳番所 立花番所 黒岩番所 浮田番所 田瀬番所 倉沢番所 越中畑番所 岩崎番所
閉伊郡 鮎貝番所 荒屋番所 赤羽根番所 平田番所
岩手郡 橋場番所
鹿角郡 熊沢番所 土深井番所 松山番所 濁川番所
北郡 馬門番所
物留番所 (領内の商品流通の統制)
和賀郡 煤々孫番所 沢内番所 下中島番所 黒沢尻番所
閉伊郡 遊井名田番所
稗貫郡 野沢番所
岩手郡 簗川番所 尾入番所
鹿角郡 湯瀬番所
二戸郡 小繋番所
三戸郡 夏坂番所
遠見番所 (船舶を監視)
閉伊郡 小谷鳥 重茂 箱ヶ崎 下ノ崎 羅賀崎
九戸郡 山の上
北郡 泊ノ崎 尻屋崎 黒岩 牛滝

「郷村古実見聞記」(文化元年(1804年)書上)

八戸領 番所の所在地[編集]

城下 沢里惣門 売市惣門
久慈街道筋 田代番屋
登り街道筋 天狗沢番屋
市川・五戸街道筋 大橋番屋

このほかに、必要に応じて改所が設置された。

産業構造[編集]

畜産[編集]

古代・中世に糠部と呼ばれた地域は名馬の産地として知られ、糠部の駿馬と称されており、その中心は北奥の三郡(北、三戸、九戸)であった。平安末期には東西南北の4つの「門」(かど)と、9つの「戸」(へ)に分けられ、九ヵ部四門の制(くかのぶ しかどのせい)が成立し馬牧・駿馬の産地として知られていた。糠部の公田に課せられた年貢は馬で納められていた[16]

南部駒[編集]

近世期に入ると、、南部藩の馬制は、藩直営の牧野で飼う「御野馬(おのま)」と、民牧の「里馬(さとうま)」との二本建になっている。南部藩内の(九牧を含む)すべての牛馬の総轄したのが、「牛馬掛御用人」[17]であって、その下に「野馬掛」と「里馬掛」がおかれた。

また、民間の馬であっても藩の許可なく移動することも売却することも禁止されており、藩は馬産による収益を確保していた。 藩から貸与された種牡馬によって生れた若駒(牡馬を「駒」、牝馬は「駄」と呼ばれた。)は、牝なら馬主に与えたが、牡はすべて二歳駒で「掫駒(せりごま)市」にかけて廉価で微収して種馬や群軍用馬にして、馬商人も取引区域が限られ、他国人は取引が制限されていた[18]

盛岡城下の成立とともに産馬の掫(せり)市が始められたといわれているが、詳細は明らかではない。 田名部では季節的に早い馬市が毎年ひらかれていた[18]

貞享元年(1684年)、御掫駒奉行が9組20人任命され、領内30カ所近くの馬市を開催している。

南部九牧[編集]

藩政期を通じ、南部九牧(なんぶくまき)[19]と総称される「御野(藩営牧場)」を整備して、実務は三戸に御野馬役所を設けて、総括責任者は「御野馬別当」と呼ばれ、各牧には「馬責(調教)」「馬医」が配置されて補佐する一方、藩牧が存在する各代官所には牛馬役が置かれた。

  • 大間野(青森県下北郡大間町)(現 むつ市
  • 奥戸野( 〃  〃  〃 )
  • 蟻渡野( 〃 上北郡横浜町および野辺地町北部)
  • 木崎野( 〃  〃 三沢市)
  • 又重野( 〃 三戸郡新郷村)
  • 住谷野( 〃  〃 三戸町)
  • 相内野( 〃  〃 南部町)
  • 北野 (岩手県九戸郡侍浜村)(現 久慈市
  • 三崎野( 〃 九戸郡宇部村)

他に田鎖野・妙野・広野・立崎野があって、公牧は計13カ所。住谷野は中世から牧が存在したが他の牧は多くが寛永から正保期に整備されている。この他に寛文4年(1664年)の八戸藩分立によって盛岡藩は妙野(青森県八戸市)と広野(岩手県久慈市)の二牧を譲渡した。

実際の藩牧経営は地元農民に転嫁され、夫役を微収して行われていた。牧場に飼育さえている馬は、冬期には、積雪や寒凍を避けて、周辺の農家に課役として預けて保護している。また、牧場により、積雪の少ないところは、四季を通じて放牧のままであった。

明治維新後、盛岡藩の減転封に伴ない、各牧は後継の斗南藩・七戸藩に引き継がれたが、廃藩置県後は廃止された。 明治3年(1870年)9月、、旧盛岡藩の産馬事業は直接政府が管轄することとなり、盛岡に民部省養馬掛出張所が置かれた。 明治5年(1872年)10月 岩手県は九戸郡侍浜村北野と宇部村三崎野の旧盛岡藩の牧場廃止を行った。

里馬[編集]

里馬は飼育にあたって、村単位に春から秋まで共同の牧野や、冬場の舎飼のための草刈り場も共同利用の入会秣場であり、村ごとに「馬組」が結成されて、「馬肝入」がそれを統括し、藩の牛馬方役人につながっていた[18]

藩有の「野馬」は藩の乗用や贈答用にあてられていたほかに、郷村に無償で父馬として預けて「里馬」の改良に役立つ貸付種馬の育成を目的としており、藩の「牛馬改役」のほか、各代官所の「牛馬役」が巡回して郷村の農家の飼食する牡馬の調査を行なった。

宝永3年(1706年)、領内の里馬に関して、牝馬(母駄)を上中下の三等級に区分して本帳(馬籍帳)に登録し、その区別を何人も判別するために、髪を切り父馬も髪を切り一般牡馬と区別の明確化を図り、上駒、中駒は一切他領に出すことは禁じられていた。

御馬買衆[編集]

毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮(宮城県)から出羽国に出て、途中の横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。 公儀御馬買衆は寛永2年(1625年)にはじめられ、元禄3年(1690年)を最後に廃止されたが、ある年の記録によれば一行の人数は御馬買衆は2人で従者を含めると50人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという[20]。 元禄4年(1691年)4月、老中より、盛岡・仙台両藩の留守居役に対して、御馬買衆の派遣は中止するが、歳、毛色、性別を目録に認めて、幕府に提出するよう求められ、目録をもとに注文して馬を購入するようにした。この仕組みを「御買馬」と呼ぶようになった。享保4年(1719年)まで続き、毎年7-8疋が購入された。

牛の飼育[編集]

南部領の牛飼育の産地は偏っておらず、北上川流域以外で行われ、閉伊郡の北方や九戸郡北部方面に飼育され、峻嶮な山谷の運搬のためなど、民間の駄用に利用され、農耕に使役された形跡がない。北上谷の米穀地帯への塩とその他の海産物を、おおむね閉伊・九戸の海岸に近い山間部から「野田ベコ」と呼ばれる牛方によって搬入されて来る例があった。

藩における牛の飼育は、馬に比較すると後れていたため、馬における諸制度のような完備が見受けられなく統制も緩やかであった。官職には目付役監督下に馬牛改役があり、各代官所毎に牛馬役があって、各村の馬牛肝煎を指揮していた。


飢饉・一揆[編集]

東北地方の太平洋側では、初夏になると、「やませ」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、また水稲生産の限界地的な地域で、当時の幕藩社会が石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていたが、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害を原囚とする凶作を契機にして、食糧の欠乏が原因で多数の飢人と餓死者を出していた。

盛岡・八戸両藩で発生した百姓一揆は132回を数え[21][22]、徳川期の最多発生地であった。その中でも「稗貫・和賀」(花巻・北上)地方が最多発地域だった。

元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。

元禄の飢饉[編集]

(元禄4年(1691年) - 8年(1695年))  元禄年間(16881704年)の盛岡藩は、元禄6(1693年)年・10年・11年・16年の四ヵ年を除くと、あとは連年不作と凶作が続き、元禄8年と15年には飢饉となった。 元禄8年、典型的な霖雨・早冷による冷害がもとで作柄も悪く、年貢収納が例年の28.6%しか見込めず、ついに飢饉となって米価が高騰した。 11月、藩では幕府に「領内不作の儀」について報告した結果、来春の参勤が免除され、その費用をもって飢饉対策に充当した。 米雑穀等の他領移出禁止、貯穀奨励、他領者の領内逗留禁止、酒造の禁止、火の用心などを命令するとともに、城下の庶民救済のため払米をし、紺屋町と寺町では盛岡御蔵米を小売させた。さらに城下の寺院や富豪の協力を得て、長町梨子本丁出口辺と束顕寺門前の二ヵ所に御救小屋を設け、飢人の救済にあたった。

寛延2年 猪飢饉(イノシシけがづ)[編集]

当時関東周辺で、田畑を木綿や養蚕などの収益の上がる作目に転換したため、大豆が不足し、盛岡藩や八戸藩が大豆生産のため、焼き畑を繰り返し放棄地に餌が生い茂ることで猪が異常繁殖して、寛延2年(1749年)、凶作で里に下りてきた畑の作物を食い荒らし、多くの農民を餓死に追いやった。

宝暦の飢饉[編集]

(宝暦3年(1753年) - 宝暦7年(1757年))
宝暦4年(1754年)が大豊作であったので約10万石の江戸廻米を行った結果、藩内に米が払底し、宝暦5年(1755年)の大凶作を契機に大飢饉に発展した。藩では城下の富豪からの御用金を資金として、翌宝暦6年(1756年)正月、城下の永祥院と円光寺に茅葺きの御救小屋を建て、飢人の収容救済に乗り出した。 宝暦6年に代官所が提出した報告書によると、餓死者 49,594人、空家 7,043軒であり、なかでも三戸郡五戸通、次いで岩手郡の雫石通・沼宮内通の被害が激甚を極めた。

天明の飢饉[編集]

天明2年(1782年) - 天明8年(1788年))
天明3年、土用になっても「やませ」よって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥った。

寛政 2年 長岡通久保村知行地一揆[編集]

寛政 7 - 8年 盛岡南方税制改革一揆[編集]

寛政11年 - 文政 4年 蝦夷地幕領化にともなう一揆[編集]

下北地区の一揆13件の内8件までは、寛政11年(1799年)から文政4年(1821年)までの蝦夷地幕領化にともなう時期に集中している。

寛政11年(1799年)2月の東蝦夷地の幕領化によって、享和2年(1802年)の東蝦夷地の永久直轄化と、課役負担の固定化という危機感を増幅させた。

文化元年(1804年)の佐井-箱舘間の航路にともなう夫役・伝馬役にかかわる課役負担の増加に、人馬通行役の軽減を求めた愁訟が起こり、文化5年(1808年)12月に、盛岡藩は東西蝦夷地を永久に警護するため1,000人の藩兵を蝦夷地へおくることになったが、代わりに領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。それにより増俸なしに軍役負担だけが倍になって藩財政は枯渇状態であるという過重な結果をまねいた。

文化9年(1812年)農民が従来負担してきた賦役を貨幣で賦課した「定役銭」を農民に転嫁したため、北通の関根村、下風呂村、易国間村、蛇浦村、大間村、奥戸村、牛滝村、佐井村の各肝入と大畑村険断が連名で田名部代官所に愁訴に及び免除された(文化9年定役銭一揆)が、西通と東通の村々は負担が重くなった。また、文化12年(1815年)にも新役銭の微収免除の愁訴が行われた。

天保の飢饉[編集]

天保3年(1832年) - 天保10年(1839年)) 霖雨・早冷・降霜などの気象条件を主な原因とし、天保3年(1832年)から同9年(1838年)まで連続的に凶作が続き、これを七年「飢渇(けかつ)」と呼ばれた[18]、また藩財政の窮乏による重税政策がその度を高めた。 天保期、盛岡藩領では凶作がうち続き、にもかかわらず、盛岡藩領からは藩財政の補填のために米価の高い江戸を目標としての米の移出が強行されていた。それは百姓からの年貢の通常の取り立てでまかなうことはできず、来年の耕作のための種籾や、食料としての蓄えにも及ぶものさえ取り立てて廻送していった。

天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。

天保 5年 久慈・軽米通 稗三合一揆[編集]

天保4年(1833年)の飢饉に際して、八戸藩は一切の救済を行うことなく、領民の一日の食料を精白しない稗三合と定め、それ以外の穀物は市場の実勢を無視し、強制的にすべて藩札で安く買い上げることを布告した。 天保5年(1834年)12月に入って是川村を皮切りに、久慈・軽米・嶋守に広がり、最初集結した2千人の一揆勢が久慈街道を、法螺貝の音轟かせながら八戸城下鍛治町および周辺村々に結集した時には人数8千になっていたと言われる。一揆の訴願書には、70以上の願書を出して、野村軍記の引き渡しと稗三合一件の撤回を要求した。 野村軍記は起こった総百姓一揆の責任を負わされて入牢して八戸で獄死した。

天保 7年 盛岡南方一揆 盛岡越訴[編集]

天保7年(1836年)11月に新税・増税反対一揆として、現大迫町(花巻市)の農民数千人が決起して、盛岡城下に押しかけ(盛岡強訴)の一揆側の要求を一度受入れたが、解散をすると、前言を取消した。

天保 8年 盛岡南方一揆 仙台越訴[編集]

天保8年(1837年)には、昨年の一揆に対し稗貫・和賀の農民2千人以上が 仙台領に越訴する事態に発展し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、許可したものを破棄し、首謀者を処刑した。これで領民からは軽蔑するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。

三閉伊一揆[編集]

三陸東海岸では水稲生産力には恵まれず、江戸市場輸出・長崎俵物輸出、魚粕・魚油の商品生産化によって、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であった。

弘化4年 遠野強訴[編集]

盛岡藩は,、天保10年(1839年)、今後、御用金など一切の租税を廃止するとして、全領内に一軒あたり1貫800匁を基準に全戸に割り当てた軒別役という新たな税を課した。三陸沿岸の大槌・宮古通の三閉伊地域は、特に課税額が多く、全領の合計は2万9180両に及んだ。

弘化4年(1847年)10月に、新たな課税はしないという先の約束を破り、財政難に窮した藩は、外船警備のための特別御用金5万2500両を課した。これが契機となって11月17日、野田通の安家村(下閉伊郡岩泉町)から起きた一揆が周辺も村々を巻き込んで小本、田老、宮古、山田、大槌と南下し各地の一揆と合流して笛吹峠を越えて、遠野に強訴した。 上納金の不払いを要求するものではなく、大挙して仙台領へ出稼ぎにでてその労賃をもって支払うという経緯のため、南部藩の恥を天下にさらすこととなり、鎮圧一点ばりの鎮撫は行えなかった。

 12月4日、遠野早瀬川原において、不信極まる本藩上席家老南部土佐に何を問われても口を開かず終始無言で相手とせず、遠野南部家家老新田小十郎に、一揆の代表は集会の25ヶ条の要求を願書で提出した。要求は、御用金の免除、大豆・塩の買い上げ免除、いままでの定役と年貢以外の新税の免除などであった。ついに、盛岡藩は、これらの要求の12条を認めて事態を収拾しようとしたざるを得なかった。 遠野南部家では一揆の農民に帰路の食料を支給したので、12月5日から各村々に散っていって、伊達領への越藩もかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫するにいたった。 『内史略』によれば、一揆の代表弥五兵衛は花巻で逮捕され、盛岡で牢死している。

 また、これに呼応し、同年12月1日に鬼柳・黒沢尻通、同15日には徳田・伝法寺通と八幡・寺林通でも一揆発生したが、当局によって鎮圧された。

(藩の対応)
嘉永元年(1848年)6月、責任を取る形で南部利済は病気在国中であったため病気隠退を願いで、南部利義が第13代藩主となるが、利済は家督は譲ったものの官位も返上せず「大太守」の名で院政が行われた。 嘉永2年(1849年)7月、利済は藩主位を譲っていた南部利義が江戸滞在中に南部土佐を派遣して退位するように圧力をかけられて、11月に隠居した。この廃立に反対した東堂学派一派は翌1850年に弾圧され、南部利剛を第14代藩主に相続させて院政を継続した。

嘉永6年 仙台強訴[編集]

嘉永6年(1853年)2月、藩は行きづまった財政はいかんともしがたく、郷割御用金の徴収が強制されたことを契機にして、各種の新税に反対する流通商人を中心に、同年5月、野田通の田野畑村から一斉に蜂起をはじめ、 浜通りを南下して田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となっていった。 6月4日、大槌通に押し寄せ、翌5日に釜石に集合した一揆の人数は一万六千余人にも達し、仙台領への越訴を画策し、盛岡領平田番所から仙台領へ押し通ろうしたが、唐丹番所側では 藩境警備を厳重に取り締まっていたため、間道を進み気仙郡唐丹村に八千人余が越訴し、仙台藩の役人に訴え出るという、前代未聞の自体になっていた。 これに対して、盛岡藩が策を練るすべもなく混乱しているうちに、6月17日に一揆の代表45人を残して帰国した。村々は、この代表に何らかの不幸が起きた場合には共同で子孫養育料をだすことなどの約束を取り交わしていたのである。

その訴状によれば、三閉伊を幕領化か、仙台藩領化を願い出たもので、仙台藩では政治的要求であるから返答は出来ないとし、具体的な要求を尋ね、商品経済の発達によって賦課された重税に対する反対行動であったが、答えた47箇条の願文をつくりあげ、伊達藩へ差し出した。伊達藩と南部藩の話し合いは5ヶ月も話し合われ、ようやく三閉伊通りの農漁民の願いが叶ったのであった。6ヶ月間にわたった押し出し一揆は成功の内に終わる

(藩の対応)
嘉永7年(1854年)、この一揆は幕府に知られ、藩主利剛はお構いなし、隠居の利済には参府の上、永久閉居が申し付けられた。 領袖を失った利済派は、家老 南部土佐、横沢兵庫を、御役御免のうえ家祿半減、永久閉居。参政石原汀田鎖茂左衛門、川島杢左衛門らも家祿屋敷を没収のうえ、召しかかえを放たれる。

南部利義は隠居の身になっており、父利済が公儀から謹慎を命ぜられたときも、遊興遊猟を続けていたため、譴責を受け、江戸家老の毛馬内典膳、東中務は責任を負って免職されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『青森県史』資料編 中世1
  2. ^ a b 『岩手県史』第2巻 中世篇 上
  3. ^ a b c 川内町史
  4. ^ a b c d e f (岩手県史-12)年表
  5. ^ 『南朝編年紀略』(彰考館文庫本)
  6. ^ a b c d (むつ市史)年表
  7. ^ 新羅之記録
  8. ^ 『前代歴譜』
  9. ^ (むつ市史) 近世編
  10. ^ 文化7年11月15日条 藩日記
  11. ^ (むつ市史)近世編
  12. ^ (近世こもんじょ館)八戸藩の村役人制度-名主・大下書・田屋について
  13. ^ 「青森県史」資料編 近世篇 4 南部1盛岡藩
  14. ^ (岩手県博物館)北上川の舟運
  15. ^ (日本財団)郡山河岸と小操舟
  16. ^ 「吾妻鏡」文治5年9月17日条
  17. ^ (岩手大学研究年報) 第61巻第2号, 2001 公儀御馬買衆と盛岡藩
  18. ^ a b c d 『大間町史』
  19. ^ (岩手県図書館) 岩手の古地図 南部九牧之図
  20. ^ あきた(秋田県広報誌)通巻121号、1972年(昭和47年)6月1日発行
  21. ^ 「森嘉兵衛著作集 七 南部藩百姓一揆の研究(昭和10年(1935年))」 (法政大学出版局 1992出版)
  22. ^ (岩手県博物館)百姓一揆を禁じた制札

参考文献[編集]

  • 菊池悟郎『南部史要』菊池悟郎、1910年8月28日。 
  • 青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料』青森県、2004年3月31日。 
  • 青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 2 安藤氏・津軽氏関係資料』青森県、2005年3月31日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1 前期津軽領』青森県、2002年3月31日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 3 津軽2 後期津軽領』青森県、2006年3月31日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 4 南部1 盛岡藩』青森県、2003年3月3日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 5 南部2 八戸藩』青森県、2011年3月31日。 
  • 青森県史編さん近現代部会『青森県史 資料編 近現代 2 近代成立期』青森県、2000年3月31日。 
  • 青森県史編さん民俗部会『青森県史 民俗編 資料 南部』青森県、2001年3月31日。 
  • 青森県史編さん民俗部会『青森県史 民俗編 資料 下北』青森県、2007年3月31日。 
  • 『岩手県史 第2巻 中世篇 上』岩手県、1961年3月25日。 
  • 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。 
  • 『岩手県史 第5巻 近世篇 2』岩手県、1963年1月30日。 
  • 『岩手県史 第9巻 近代篇 4 岩手県篇(その2)』岩手県、1964年3月30日。 
  • 『岩手県史 第10巻 近代篇 5 岩手県篇(その3)』岩手県、1965年3月30日。 
  • 『岩手県史 第12巻 年表』岩手県、1966年11月1日。 
  • 『秋田県史 第1巻 古代・中世編』秋田県、1977年4月30日。 
  • むつ市史編さん委員会『むつ市史 近世 編』青森県むつ市、1988年3月31日。 
  • むつ市史編さん委員会『むつ市史 年表 編』青森県むつ市、1988年2月20日。 
  • 工藤睦男『大畑町史』青森県下北郡大畑町(現むつ市)、1992年2月1日。 
  • 川内町史編さん委員会『川内町史 原始・古代 中世 近世 編』青森県下北郡川内町(現むつ市)、2005年3月13日。 
  • 『五所川原市史 通史編Ⅰ』青森県五所川原市、1998年3月31日。 
  • 『矢巾町文化財報告書第31集 久慈文書』岩手県紫波郡矢巾町教育委員会、2003年2月28日。 
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  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 5 秋田県』角川書店、1980年3月8日。ISBN 4-04-001050-7 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』平凡社、1982年7月10日。ISBN 4-582-49002-6 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第5巻 秋田県の地名』平凡社、1980年6月6日。ISBN 4-582-49005-0 
  • 児玉 幸阿・坪井 清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会『角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」』角川書店、1998年5月18日。ISBN 4-04-002030-8 
  • 木村 礎、藤野 保、村上 直『藩史大辞典 第1巻 北海道・東北編』雄山閣、2002年4月15日。ISBN 4-639-10033-7 
  • 松岡孝一『青森県百科事典』株式会社東奥日報社、1981年3月1日。 
  • 岩手放送『新版 岩手百科事典』岩手放送株式会社、1988年10月15日。 
  • 秋田魁新報社『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月1日。ISBN 4-87020-007-4 
  • 細井計、伊藤博幸、菅野文夫、鈴木宏『岩手県の歴史』山川出版社、1999年8月17日。ISBN 4-634-32030-4 
  • 浪川健治『街道の日本史 4 下北・渡島と津軽海峡』吉川弘文館、2001年7月10日。ISBN 4-642-06204-1 
  • 瀧本壽史、名須川溢男『街道の日本史 5 三陸海岸と浜街道』吉川弘文館、2004年12月20日。ISBN 4-642-06205-X 
  • 細川計『街道の日本史 6 南部と奥州道中』吉川弘文館、2002年5月20日。ISBN 4-642-06206-8 
  • 西ヶ谷恭弘『国別 戦国大名城郭事典』東京堂出版、1999年12月5日。ISBN 4-490-10533-9 
  • 地方史研究協議会『地方史事典』弘文館、1997年4月30日。ISBN 4-335-25056-8 
  • 大正十三造『不来方の賦 -南部藩主物語-』岩手日報社、1987年4月10日。ISBN 4-87201-015-9 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

自治体史[編集]