伝馬町牢屋敷

大安楽寺内の伝馬町牢屋敷処刑場跡。

伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)は、かつて江戸に存在した囚人などを収容した施設である。現在はその一部が東京都中央区立十思公園(じっしこうえん)になっている。東京都指定文化財(旧跡)に指定されている[1][2]

概要[編集]

江戸時代刑法には現在の懲役禁固に類する処罰が原則として存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設である。

日本橋小伝馬町3丁目から5丁目(現在の日比谷線小伝馬町駅周辺)一帯に設置され、2618(約8639平方メートル)の広さがあった。

常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たとされる[2]高野長英吉田松陰らも収容されていた。1857年、吉田松陰は安政の大獄の際に刑死し、現在十思公園には「松陰先生終焉之地」の碑が設置されている[2]明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。

周辺は煉塀で囲まれ、堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。

牢屋敷内の構成[編集]

伝馬町牢屋敷跡である十思公園内の時の鐘。日本橋石町に設置されていたこの鐘が鳴ると共に処刑が執行された。
伝馬町牢屋敷の石垣(十思スクエア

牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は大番衆の石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人から80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理をしていた。

囚人を収容する牢獄は東牢と西牢に分かれていた。身分によって収容される牢獄が異なり、大牢二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶医師山伏が収容されていた。

また独立の牢獄として揚座敷天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容していたため、ほかの牢より設備は良かったようである。

大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪影響を与えるのを避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになった。また安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。

収容者の総数は、300人から400人程度と思われる。

牢内の慣習[編集]

牢内は囚人による完全自治制が敷かれており、牢屋役人ですら権限のおよばない世界であった。また、幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれており、平囚人には牢内で体を伸ばす権利すら与えられていなかった。

食事は1日朝夕の2度。玄米5合(女囚は3合)と汁物が支給された。漬物は牢内でこしらえていた。

牢内の人員が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた。
主に牢内の規律を乱す者、元岡っ引目明しいびきのうるさい者、牢外からの金品による差し入れのない者などが標的にされ、死亡時には「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった。

牢獄にはがなかったため、風通しも悪く日光も入ってこなかった。栄養状態も悪くトイレも牢内にあったため、内部の環境は非常に劣悪であった。医師はいたが、いい加減な診察しか行わなかったため、飛び火疥癬を主とする皮膚病に罹患する者が後を絶たず、主人や親を傷つけた者(逆罪)以外で体を壊した者はに収容された。高野長英のように腕の良い医師が入獄して牢内の環境改善をして牢名主にまでなった例も有るが、滅多にある事では無かった。

脚注[編集]

  1. ^ 「伝馬町牢屋敷跡」東京都教育庁地域教育支援部 - 東京都文化財情報データベース(2022年1月14日閲覧)
  2. ^ a b c 金山正好,金山るみ『中央区史跡散歩』学生社、1993年、22-25頁。 

参考文献[編集]

  • 松平太郎『江戸時代制度の研究』武家制度研究会、1919年、886頁。
  • 原胤昭『刑罪珍書集 (1)』武侠社、1930年
  • 尾佐竹猛『刑罪珍書集 (2)』武侠社、1930年
  • 石井良助『江戸の刑罰』中公新書〈中央公論社〉、1964年、94頁。
  • 名和弓雄『拷問刑罰史』雄山閣、1987年、237頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度41分27.4秒 東経139度46分40.1秒 / 北緯35.690944度 東経139.777806度 / 35.690944; 139.777806