井伊直満

 
井伊 直満
時代 戦国時代中期
生誕 不明
死没 天文13年12月23日1545年2月4日[1]
別名 彦次郎[2]
戒名 円心院殿安渓寿岱大居士[2]
墓所 龍潭寺浜松市浜名区引佐町井伊谷[3]
井殿の塚(浜松市浜名区引佐町井伊谷)[4]
主君 今川義元
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直平、母:井平安直娘[5]
兄弟 直宗直満直義直元、井平直種[5]
女(今川義元側室→義元養妹→関口親永室?)[1][6]
養兄弟?:南渓瑞聞 [注釈 1]
鈴木重勝娘(鈴木重時妹)
直親
テンプレートを表示

井伊 直満(いい なおみつ)は、戦国時代武将今川氏の家臣。遠江国引佐郡井伊谷城井伊直平の次男[1]または三男[2]

人物[編集]

井伊氏は遠江の国人であるが、父直平と共に今川義元に仕えた。長兄直宗嫡男で甥にあたる直盛に男子がいなかったため、自身の子・直親養嗣子にする約束をしたが、直親が家督相続することを嫌う家臣の反感を買った。特に井伊家家老小野政直とはもともと仲が悪く[1]、井伊家の領地を横領しはじめた甲斐国武田軍に対して直満と弟・直義が父・直平の命令で軍備を進めていたところ、政直が「直満・直義兄弟に逆意あり」と今川義元に讒言した[9]。天文13年(1544年)12月23日、直満は直義とともに駿府に呼び出され義元に弁明したが、政直の讒言を信じた義元に殺害された[1][10]

登場する作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 各種系図では実子か養子かの記載が無いが、龍潭寺が所蔵する『南渓過去帳』には「実田秀公居士 南渓父」と記されており、直平の法名(桂雲院殿西月顕祖大居士[7])とは異なるため、南渓は養子と推定されている[8]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜 第4集』、1111頁、564コマ目。
  2. ^ a b c 『井伊氏系図』、2コマ目(直満 井伊彦次郎)。
  3. ^ 龍潭寺境内墓所図(井伊家歴代・龍潭寺歴代住職 南渓・傑山・昊天・家臣)”. 龍潭寺. 2017年9月29日閲覧。
  4. ^ ゆかりの地|井伊直虎サイト”. 「おんな城主 直虎」推進協議会. 浜松市産業部観光・シティプロモーション課. 2017年9月29日閲覧。
  5. ^ a b “井平城(浜松市北区引佐町伊平) 武田の予想超える行軍裏付け”. 産経新聞 (産経新聞社). (2017年5月7日). https://www.sankei.com/article/20170507-4F7O7VKQ2BMVRNJZ75WAF3KKFM/ 2017年9月29日閲覧。 
  6. ^ 『井伊年譜』1巻、19-20コマ目。
  7. ^ 『井伊氏系図』、2コマ目(直平 共保十三代)。
  8. ^ 小和田 2016, p.94.
  9. ^ 『井伊家伝記』上巻、11-12コマ目。
  10. ^ 楠戸 2016, pp.96-97.

参考文献[編集]

  • 祖山法忍『井伊家伝記』 上、1730年。 浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
  • 祖山法忍『井伊家伝記』 下、1730年。 浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
  • 祖山法忍『井伊氏系図』。 浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
  • 功力君章『井伊年譜』 1巻。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三上参次 編『寛政重修諸家譜 第4集』国民図書、1923年。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 石田雅彦著、井伊達夫監修『女城主井伊直虎 その謎と魅力』アスペクト、2016年。ISBN 978-4757224704
  • 小和田哲男『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』洋泉社、2016年。ISBN 978-4800310385 
  • 楠戸義昭『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』PHP研究所PHP文庫〉、2016年。ISBN 978-4569765525