二十世紀音楽研究所

二十世紀音楽研究所(にじっせいきおんがくけんきゅうじょ)は、日本の前衛音楽集団の一つ。作曲家の諸井誠黛敏郎入野義朗柴田南雄、演奏家の森正岩淵龍太郎、音楽評論家の吉田秀和の7人により、1957年に発足した[1]。メンバーは後に作曲家の武満徹一柳慧松下真一、演奏家の小林仁岩城宏之が加わり、現代音楽の音楽祭を1957年から1965年まで長野県軽井沢町ほかで6回開催した。音楽祭では、当時まだ日本では演奏される機会が少なかったシェーンベルクヴェーベルンベルクの作品が毎回演奏され、さらにフランス、アメリカ、イタリア、そして日本の現代音楽作品が取り上げられた[2]

設立の経緯[編集]

ダルムシュタット音楽祭やパリのマリニー劇場のドメーヌ・ミュジカルを経験した黛敏郎と、バーデン=バーデンドナウエッシンゲンの音楽祭を経験した諸井誠は、日本でも同様の音楽祭の必要性を考えていた。一方で柴田南雄と入野義朗は、新声会の活動が中断していたので新しい音楽研究と演奏の場を模索していた。4人の作曲家は1956年8月に会合を持ち、翌年夏に現代音楽祭を開催すること、現代音楽の演奏に真摯に取り組んでいる指揮者の森正とヴァイオリンの岩淵龍太郎、および評論家として内外の音楽事情に詳しい吉田秀和にも声をかけることを話し合った。9月には7人で集まり、会場候補に軽井沢が挙がった[1][3][4][5]

1957年に入り外部との交渉上、団体を設立することになり、3月30日に吉田を所長、他の6名を所員に「二十世紀音楽研究所」が設立された。事務局には寺西春雄北沢方邦の協力を得た[1]。3月20日付けの「設立宣言」は次の通り:「二十世紀の音楽は混沌として、その動向が定まらぬとはいえ、音楽家も一般社会人も、未だその真の理解には程遠いものがある。この時に当って我々は演奏と研究とを通じて、二十世紀音楽の創造と真の理解のための運動を積極的に展開するために、『二十世紀音楽研究所』を設立するものである」[6]

現代音楽祭の開催[編集]

1957年8月に第1回現代音楽祭を軽井沢の星野温泉ホールで開催することになり、研究所では楽譜の整備、出演者の交渉、放送・出版関係への支援依頼などの準備を進めた。音楽祭の事務は音楽芸術家協会に委託し、参加者の受付を始めた。8月にはいると軽井沢の会場でアンサンブル練習を開始し、10日の開会式を迎え、ベルクの『抒情組曲』第3楽章がパレナン弦楽四重奏団により演奏された。11日から13日までの音楽祭では、「ウェーベルンの夕」「若い世代の夕」「現代巨匠の夕」と銘打った演奏会と共に、関連するテーマの講座や公開討論会が行われた。演奏は岩淵龍太郎が主宰するプロムジカ弦楽四重奏団、この音楽祭のために編成された現代音楽祭室内管弦楽団(指揮は森正)などであった。参加者は352名、このほかに主催者や出演者は60から70名であった。演奏の大半は9月に『NHKラジオ・リサイタル』で4回にわたり放送された[1]

第1回の音楽祭は十二音技法のウェーベルンを特集したが、翌1958年の第2回現代音楽祭ではミュージック・セリエルの創始者メシアンが取り上げられ、1959年の第3回ではさらにその典型的後継者ブーレーズが特集のテーマとなった。一方でこの第3回には十二音音楽に与しない武満徹を所員に迎え、湯浅譲二福島和夫の作品もプログラムに入れられた[3]。また指揮者岩城宏之[7]とピアノの小林仁も所員に加わった。なお、第2回では作曲コンクールが行われ、武満徹『ソン・カリグラフィー』と松下真一『室内コンポジション』が入選した[8]

第3回までの会場は軽井沢であったが、1961年の第4回は大阪で行われ、帰国したばかりの一柳慧を迎えて、ジョン・ケージなど「アメリカの前衛音楽」が特集された。この回からは講座が廃止され、演奏会のみの音楽祭となった。1963年に京都で開催された第5回からは、一柳と松下真一が所員に加わり、「現代日本作品の夕」では石井眞木、高橋悠治の作品も取り上げられた。また「現代イタリア音楽の夕」ではベリオダッラピッコラノーノなどの作品が演奏された。そして1965年に東京で第6回が開催されたが、特集はたてられず、音楽祭もこれが最終回となった[3]

現代音楽祭の内容[編集]

日本近代音楽館『戦後作曲家グループ・活動の軌跡 1945-1960』より抜粋編集[2]

第1回[編集]

1957年8月10日-13日 軽井沢星野温泉ホール

第2回[編集]

1958年8月20日-23日 軽井沢星野温泉ホール

第3回[編集]

1959年8月17日-20日 軽井沢晴山ホテル・ホール

  • 講演会等
    • 講師 シュトゥッケンシュミット
    • Cine59同人による前衛音楽の夕
    • 対談:テープ音楽について / 黛敏郎、武満徹
    • 公開討論会:現代音楽の新しい展開について / 中島健蔵、シュトゥッケンシュミット、吉田秀和、黛敏郎、諸井誠、武満徹
  • 演奏会

第4回 シェーンベルク歿後10年記念[編集]

1961年8月25日-27日 大阪御堂会館

  • 演奏会
    • アメリカの前衛音楽:C.ヴォルフ「2つのVnの為の音楽」、M.フェルドマン「継続時間」、S.ウォルプ「形式」、E.ブラウン「PfとVcの為の音楽」、一柳慧「弦の為の音楽とPfの為の音楽」、J.ケージ「Pfとオーケストラのコンサート」
    • 日本の前衛音楽:入野義朗「VibraphoneとPfの為の音楽」「VnとPfの為の音楽」、柴田南雄「黒い距離」、武満徹「リング」、黛敏郎「弦楽四重奏曲」、諸井誠「コンポジション第5番―室内オーケストラの為のシェーンベルク頌歌」
    • シェーンベルクの夕:シェーンベルク「室内交響曲」「地には平和を」「心のしげみ」「ピアノ曲Op33a,b」「ナポレオンへの頌歌」「詩篇Op50a,b」

第5回[編集]

1963年9月5日-7日 京都会館

  • 演奏会
    • 現代日本作品の夕:入野義朗「2台のPfの為の音楽」、柴田南雄「夜に詠める歌」、武満徹「Sarifice」、石井眞木「Sieben Aphorismen」、一柳慧「プラティヤハラ」、高橋悠治「アントナン・アルトーへの窓または冥界の臍」、黛敏郎「カンタータ〈悔過〉」
    • 現代イタリアの夕:S.ブソッティ「3人の為のフレーズ」、L.ベリオセクエンツァ」、N.カスティリオーニ「トローピ」、L.ダルラピッコラ「2つの練習曲」、B.マデルナ「弦楽四重奏曲」、L.ノーノ「春は来たりぬ」
    • 管弦楽の夕:I.リドルム「オーケストラの為のリトルネロ」、松下真一「Pf、打楽器と弦楽合奏の為の交響曲〈生〉」、諸井誠「Vn協奏曲」、ウェーベルン「オーケストラの為の変奏曲」「5つの小品」

第6回[編集]

1965年11月29日-12月1日 朝日講堂

  • 演奏会
    • クセナキス「弦楽四重奏曲」、黛敏郎「プリペアード・ピアノと弦楽のための小品」、入野義朗「弦楽三重奏曲」、武満徹「ソナント」、一柳慧「コラージュ」
    • ブーレーズ「第3ピアノソナタ」、佐藤慶次郎「10の弦楽器のためのカリグラフィー第2」、諸井誠「竹籟五章」、柴田南雄「金管6重奏のためのエッセイ」、松下真一「ダス・ツァイヘン」
    • 高橋悠治「クロマモルフ第2」、R.モーラン「瞬間的照光のうちに」、ペンデレツキ「弦楽四重奏曲」、ルトスワフスキ「弦楽四重奏曲」、ウェーベルン「6つのバガテル」、リゲティ「アヴァンチュール」

エピソード[編集]

  • 設立4年目に音楽祭で武満徹の室内楽曲『環(リング)』を演奏。これについて、吉田秀和は「私たちが音楽祭をやってきたのも、すべてこの音楽が生まれてくるための下働きだった。二十世紀音楽研究所の仕事は、武満を見出したことでもって、目的達成したようなものだ」と評し、物議をかもした[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 柴田南雄「『第1回現代楽祭』白書」(『音楽芸術』15巻11号、1957年11月、pp46-54)
  2. ^ a b 日本近代音楽館『戦後作曲家グループ・活動の軌跡 1945-1960』(奏楽堂春の特別展「戦後音楽の旗手たち」)1998年4月、pp20-23
  3. ^ a b c 柴田南雄「50年代から60年代はじめの日本の作曲界―実験工房・三人の会・20世紀音楽研究所を中心に」(特集:音楽の戦後を問う―始点から現在へ、現在から始点へ)『音楽芸術』31巻7号, pp33-42, 1973年7月。
  4. ^ 吉田秀和「二十世紀音楽研究所にふれながら」『吉田秀和全集3』pp409-417(白水社、1975年)
  5. ^ 諸井誠「二十世紀音楽研究所のころ」『春秋』490号 pp28-30, 2007年7月
  6. ^ 「現代音楽祭(第1回)要項」『音楽芸術』15巻7号、1957年7月、挟み込み。
  7. ^ 岩城宏之『楽譜の風景』岩波書店〈岩波新書〉、1983年、67-81頁。 
  8. ^ 武田明倫「『20世紀音楽研究所』の設立」(特集:創作の潮流(1942~1987)-1-)『音楽芸術』45巻1号, p33-37, 1987年1月。
  9. ^ レコード芸術編『吉田秀和 音楽を心の友と』pp39-40(音楽之友社、2012年)

参考文献[編集]

外部リンク[編集]