上村従義

上村 従義
生誕 1881年1月1日
死没 (1937-03-23) 1937年3月23日(56歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1902年 - 1924年
最終階級 海軍大佐
除隊後 貴族院議員
墓所 青山霊園
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上村従義
かみむら つぐよし
かみむら じゅうぎ
生年月日 1881年1月1日
没年月日 (1937-03-23) 1937年3月23日(56歳没)
出身校 海軍兵学校
前職 海軍大佐
所属政党 公正会
称号 正五位
正七位
正八位
配偶者 上村なミ
親族 父・西郷従道(内務大臣)
義父・山本権兵衛(内閣総理大臣)
伯父・西郷隆盛(参議)
兄・西郷従徳(貴族院議員)
兄・西郷豊彦(貴族院議員)
義兄・財部彪(海軍大臣)
義弟・岩倉具張(貴族院議員)
義兄弟・山本清(貴族院議員)
甥・岩倉具栄(貴族院議員)
従兄・西郷菊次郎(京都市長)
従兄・西郷寅太郎(貴族院議員)

在任期間 1926年3月6日 - 1932年7月9日
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上村 従義(かみむら つぐよし/じゅうぎ、1881年明治14年〉1月1日[1] - 1937年昭和12年〉3月23日[2])は、日本の海軍軍人政治家華族。最終階級は海軍大佐貴族院議員、男爵従三位勲二等[3]

親族[編集]

実父は西郷従道元帥でその四男。養父上村彦之丞海軍大将の嗣子となる。岳父は山本権兵衛海軍大将で、その四女「なミ」と結婚。財部彪海軍大将は義兄にあたる。次男で上村男爵家を継いだ上村邦之丞華族赤化事件治安維持法違反に問われ検挙された。二女の濱子は櫻井錠二の八男・信雄に嫁いだ[4]

略歴[編集]

1902年(明治35年)海軍兵学校卒業(30期)。席次は187名中120番[5]。同期生に百武源吾大将、今村信次郎中将、松山茂中将らがいる。

出雲」乗組みの中尉として日本海海戦に参戦。「出雲」は第二艦隊旗艦で、のちに養父となる上村彦之丞司令長官として座乗していた。戦後海軍大学校選科学生として東京外国語学校ドイツ語を学び、ドイツに留学している。大尉時代にドイツ皇族ハインリッヒ親王が来日した際は、接伴補助員として八代六郎を補佐した。第一次世界大戦では第1特務艦隊所属の「明石」副長として出征。その後、「筑摩」・「春日」の各副長、軍事参議官副官、「勝力」特務艦長などを務めた。1923年(大正12年)、海軍大佐に昇進し、翌年予備役に編入された[6]

1916年(大正5年)、養父彦之丞の死去により男爵を襲爵。1926年(大正15年)3月6日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選出され[7]公正会に属し1932年(昭和7年)7月9日まで在任した[2]

挿話[編集]

第一次世界大戦では、酷暑のなか夜間警備に従事した際、パーティーを開催中の英国艦隊に探照灯を照射し混乱させた。日本海軍の司令官、艦長も参加しているパーティーである。部下であった高木惣吉によれば上村は長身、巨眼で髭を蓄え、司令官(将官)よりも堂々としていたという。なお酒豪であった[8]

栄典[編集]

位階
勲章等

脚注[編集]

  1. ^ 平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)p.450
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』38頁。
  3. ^ 『日本海軍士官総覧』113頁。
  4. ^ 上村家閨閥学
  5. ^ 『海軍兵学校沿革』
  6. ^ 経歴はアジア歴史資料センターの資料、『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』68頁によった。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、36頁。
  8. ^ 『自伝的日本海軍始末期』「上村副長の鬱憤ばらし」
  9. ^ 『官報』第6212号「叙任及辞令」1904年3月19日。
  10. ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
  11. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  12. ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
  13. ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。

参考文献[編集]


日本の爵位
先代
上村彦之丞
男爵
上村(彦之丞)家第2代
1916年 - 1937年
次代
上村邦之丞