三輪引田難波麻呂

 
三輪引田難波麻呂
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
主君 天武天皇
氏族 三輪君
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三輪 引田 難波麻呂(みわ の ひきた の なにわまろ、生没年不明)は、飛鳥時代7世紀後半)の豪族

出自[編集]

三輪君氏大和国城上郡大神(現在の奈良県桜井市三輪町を根拠地とした氏族である。「三輪引田」は複姓で、「引田」については、奈良県桜井市白河にある秉田神社[注釈 1]周辺が想定されている[1]

『大和志料』所収の「三輪氏系図」によれば、三輪身狭の弟・宇留斯の子の牟良が三輪引田君氏の祖とされる。

続日本紀神護景雲2年2月7日条に、大和国人の従七位下・大神引田公足人ら20人が大神朝臣の姓を賜ったという記事がある。

また、大和国城上郡辟田の部民で、三輪引田君と同じく大田田禰子の末裔とされる引田部も三輪引田君と関係があるとされており、『古事記』雄略天皇条には引田部赤猪子の逸話が記録されている。

記録[編集]

天武天皇13年5月28日684年7月15日)、遣高句麗大使となり(同小使は桑原人足)、同国に遣わされたという[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 延喜式神名帳』の「曳田神社」に比定される式内社。地元の伝承では、昔の秉田神社は谷ひとつ隔てた西の丘の上にあって、そこは古宮址と呼ばれ、三輪引田君難波麻呂の邸宅後であったとされる。

出典[編集]

  1. ^ 原田敦子 1994, p. 14.
  2. ^ 日本書紀』天武天皇十三年五月辛亥朔戊寅条。

参考文献[編集]