ルイ・アドルフ・ブリデル

ルイ・アドルフ・ブリデル(Louis Adolphe Bridel、1852年7月26日 - 1913年3月23日)は、明治時代にお雇い外国人として来日したスイス法学者政治家である。

経歴・人物[編集]

ローザンヌの生まれ。1870年にローザンヌ高等学校(のちのローザンヌ大学)を卒業し、1879年に同校から学位を授与された[1]。来日前はジュネーヴ大学法学の教鞭を執ったり、同大学の法学部長を務めた。また、ジュネーヴ議会議員を務めたりする等政治家としても活躍した。

1900年(明治33年)に日本政府の招聘により来日し、東京帝国大学(現在の東京大学)のお雇いとなり、明治法律学校でも教壇に立った(通訳:野沢武之助[2]。日本の学生にスイス法やフランス法等西洋法学の教鞭を執った。また、同時期にスイス法の法典起草者であったオイゲン・フーバー英語版が日本当てに送ったとされる書簡を用いて講義する等、法律における日本とスイスの関係を向上させた。

後にその法典の冊子は穂積重遠の使節、孫文に提供された。滞日中の1913年大正2年)に東京市小石川区高田老松町の自宅で急逝した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『来日西洋人名事典』 386頁
  2. ^ 明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年、22頁

出典[編集]

外部リンク[編集]