ホルスト・シュテッヒバルト

ホルスト・シュテッヒバルト
Horst Stechbarth
右からジンダーマンホフマンホーネッカー、シュテッヒバルト、シュトフ
生誕 1925年4月13日
ドイツの旗 ドイツ国
プロイセン自由州
チェヘルンドイツ語版
死没 2016年6月8日(2016-06-08)(91歳)
ドイツの旗 ドイツ連邦共和国
ブランデンブルク州
シュヴィーローゼードイツ語版
所属組織  ドイツ国防軍陸軍
(Heer)
 国家人民軍地上軍
(Landstreitkräfte)
軍歴 1943年 - 1945年(国防軍)
1949年 - 1989年(地上軍)
最終階級 大将
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エーリッヒ・ホーネッカー(中央)と共に閲兵するシュテッヒバルト(1984年6月21日)

ホルスト・シュテッヒバルト(Horst Stechbarth, 1925年4月13日 - 2016年6月8日)は、旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の軍人。1972年から1989年まで、副国防相および国家人民軍地上軍(東ドイツ陸軍)総司令官を務めた。

経歴[編集]

第二次世界大戦まで[編集]

1925年4月13日、ホルスト・シュテッヒバルトはチェヘルンドイツ語版(現ポーランド領)に農民の子として生まれ、1939年から1943年までは自身も農民として働いていた。1943年、国家労働奉仕団に入団すると共に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党、NSDAP)へ入党を果たす。また1943年からは陸軍第3装甲師団装甲擲弾兵として従軍し軍曹(Unteroffizier)となるも、1945年には赤軍の捕虜となる。1948年に解放された後、シュテッヒバルトは戦前と同様に農民として過ごした。

ドイツ民主共和国の軍人として[編集]

1949年、在独ソ連軍政府は占領地の治安維持を担うドイツ人民警察に対し、軍事部門たる機動警察(Bereitschaftspolizei)の設置を命じた。人民警察の各地方支部では、旧ドイツ国防軍将兵から隊員の募集を行い、1949年3月1日にはシュテッヒバルトも入隊を果たす。この際、集団指導者(Gruppenführer)に選出された事を皮切りに、シュテッヒバルトは高級将校への道を歩み始める。1954年から1955年にかけて、彼は士官学校に士官候補生として在籍し、その後はポツダムに駐屯する第1自動車化狙撃兵師団にて副師団長及び師団長を務めた。1959年から1961年にかけてソビエト連邦ソ連軍参謀本部大学校ドイツ語版に在籍し、卒業までに少将 (Generalmajor) へ昇進した。

1964年から1967年には第5軍管区長(司令部:ノイブランデンブルク)を務め、1970年11月2日には中将(Generalleutnant)への昇進を果たす。1972年、新設された地上軍司令部にて地上軍司令官に任命され、また1989年まで国防副大臣と兼任する。国家人民軍建軍20周年記念に当る1976年3月1日、彼は大将(Generaloberst)に昇進すると共にドイツ社会主義統一党中央委員に任ぜられた。ただし、シュテッヒバルト自身は政治的指導者としてよりは、一介の軍人として振る舞うことを好んでいたという[1]

建国記念日にあたる10月7日に東ベルリンカール・マルクス大通りで毎年行われる軍事パレードを指揮していたが、1989年の40周年が最後となり、1989年12月31日を以て空軍・防空軍総司令官および国防次官のヴォルフガング・ラインホルトや政治総局長ホルスト・ブリュンナーとともに退役した。

その後[編集]

ドイツ再統一後に東ドイツ時代の「ベルリンの壁」をめぐる責任を問われベルリン地裁に起訴されたが、証拠不十分で審理停止となった。

2006年、回顧録『Soldat im Osten: Erinnerungen und Erlebnisse aus fünf Jahrzehnten』(東の兵士:50年間の思い出と体験)を出版する。

2016年6月8日、ブランデンブルク州シュヴィーロウ湖近くの自宅にて死去した[1]

著書[編集]

  • Horst Stechbarth: Soldat im Osten. Erinnerungen und Erlebnisse aus fünf Jahrzehnten. 1. Auflage 2006. ISBN 3-92062-110-7

脚注[編集]

  1. ^ a b Ehemaliger DDR-Vize-Verteidigungsminister Stechbarth tot”. MDR.DE (2016年6月18日). 2016年7月28日閲覧。
先代
-
国家人民軍地上軍総司令官
1972年1989年
次代
ホルスト・シュケーラドイツ語版