ハメンクブウォノ10世

ハメンクブウォノ10世
Hamengkubuwono X
ジョグジャカルタ スルタン
ハメンクブウォノ10世
在位 1989年3月7日 - 在位中
別号 ジョグジャカルタ特別州知事

全名
出生 (1946-04-02) 1946年4月2日(78歳)
インドネシアの旗 インドネシアジョグジャカルタ
配偶者 グスティー・カンジェング・ラトゥー・ヘイマス
子女
王朝 ハメンクブウォノ朝
父親 ハメンクブウォノ9世
宗教 イスラム教
サイン
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ハメンクブウォノ10世インドネシア語: Hamengkubuwono X, 1946年4月2日 - )は、インドネシア・ジョグジャカルタ王朝のスルタン(在位:1989年 - )、ジョグジャカルタ特別州知事(在任:1998年10月3日 - )。

経歴[編集]

1989年に行われた戴冠式の様子

1946年にジョグジャカルタで生まれる。父のハメンクブウォノ9世は他の君主と異なりインドネシア独立に協力的であったため、インドネシア独立時にジョグジャカルタのスルタンとして特別な地位を与えられ、世襲制の特別州知事となった。1988年に父が死去するとスルタン位を継ぎ、副知事のパクアラム8世英語版が知事を務めた[要出典]。1989年3月7日にスルタンに即位する。

ジョグジャカルタのガジャ・マダ大学(UGM)法学部を卒業後、インドネシア・ビジネス協会会長・スポーツ委員会委員長などを歴任し、1996年7月からはジョグジャカルタ特別州知事顧問を務めた。ハメンクブウォノ10世は父の姿勢を継承してインドネシアのナショナリズムの精神的支柱となり、1998年5月14日に発生したスハルト政権に反対する学生デモを支援した。同年にパクアラム8世が健康問題から引退する[要出典]と、スハルトの後任ユスフ・ハビビはジョグジャカルタ特別州知事の世襲制を廃止して選挙制を導入したが、州議会と市民の強い要望から実質的な選挙は行われず、ハメンクブウォノ10世が選任された[1]。ハメンクブウォノ10世は副知事を置かずにいたが、2003年からはパクアラム9世インドネシア語版を副知事に任命した[注釈 1]

2008年4月、同年の任期を最後に州知事職を辞すると表明したが、10月8日、ジョグジャカルタ特別州知事としての任期を3年間延長する旨の大統領令が出された。10月28日2009年夏の大統領選挙にゴルカルから出馬することを表明したが、落選している。

2012年8月30日、インドネシア政府とジョグジャカルタ特別州政府との間で合意が成立し、再び特別州知事の地位を世襲制とする法律が制定された[2]

現在は歴代のスルタンが暮らしたクラトン英語版ジャワ語で王宮の意味)に住んでいる。

家族[編集]

ハメンクブウォノ10世は王家の伝統だった一夫多妻制を廃止し、女性の権利の拡大を推進している。王妃のヘイマスインドネシア語版との間に5女をもうけた。男子の嫡子がいないため、スルタン位の継承問題が懸念されている[3]

日本との関係[編集]

1991年平成の天皇(現上皇)がジョクジャカルタを訪問した際には、午餐会が開催された[5]

2008年5月には、日本インドネシア友好50周年とジャワ島中部地震復興支援に対する感謝及び阪神・淡路大震災からの復興過程を学ぶため、大阪京都神戸の3都市を訪問した。京都府はジョグジャカルタ特別州と姉妹都市関係にあり、山田啓二知事への表敬訪問では、文化芸術の相互交流を深めることを確認し、相互交流の成果として、京都文化博物館別館と高島屋京都店にて両都市職人間のコラボレーション活動「てこらぼ:手仕事のコラボレーション」展が開催された。また、京都迎賓館において、京都府知事主催の歓迎夕食会が開催された[6]

2023年の今上天皇(徳仁)の公式訪問においても、ジョクジャカルタで天皇を歓待した。天皇徳仁は皇后雅子の負担を考慮し、単独で訪問した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2015年11月21日、パクアラム9世は死去し、子息のパクアラム10世が後継者となった。

出典[編集]

関連項目[編集]

公職
先代
パクアラム8世英語版
ジョグジャカルタ特別州知事
1998年 -
次代
-
インドネシアの君主
先代
ハメンクブウォノ9世
ハメンクブウォノ家スルタン
1989年 -
次代
-