ダウラト・ラーオ・シンディア

ダウラト・ラーオ・シンディア
Daulat Rao Scindia
シンディア家当主
グワーリヤル藩王
ダウラト・ラーオ・シンディア
在位 1794年 - 1827年
戴冠式 1794年3月3日
別号 マハーラージャ

出生 1779年
死去 1827年3月21日
グワーリヤルラシュカル
子女 ジャンコージー・ラーオ・シンディア2世(養子)
家名 シンディア家
父親 アーナンド・ラーオ・シンディア
マハーダージー・シンディア(養父)
宗教 ヒンドゥー教
テンプレートを表示

ダウラト・ラーオ・シンディア(Daulat Rao Scindia, 1779年 - 1827年3月21日)は、インドマラーター同盟シンディア家の当主、グワーリヤル藩王国の君主(在位:1794年 - 1827年)。ムガル帝国の副摂政、軍総司令官でもある。

その治世は先代にマラーター同盟内で誇ってきたシンディア家の優位がインドールホールカル家によって覆された時代であり、第二次、第三次マラーター戦争でもイギリスに敗北を喫して従属国(藩王国)の地位に落ちた時代でもあった。

生涯[編集]

当主位の相続[編集]

1779年アーナンド・ラーオ・シンディアトゥコージー・ラーオ・シンディアの息子)の息子として生まれた[1]

1794年2月12日、大叔父であるシンディア家の当主マハーダージー・シンディアが死亡し、その養子となっていたダウラト・ラーオが後を継いだ[1]

同年3月3日、ダウラト・ラーオはマラーター王国宰相府にその継承を正式に認められ[1]5月10日にはムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世により、帝国内における地位である副摂政と軍総司令官に叙任された[1]。マハーダージーの保持していた地位は摂政、軍総司令官であり[2][3]、副摂政は格下げであるものの、シンディア家が帝都デリーを保護していたからか軍総司令官の地位は与えられている。

シンディア家の領土はマハーダージーの治世に中央インドのグワーリヤルを中心に拡大し、ムガル帝国の首都デリーを含め、広大な北インドの地域を支配していた。

ホールカル家との紛争[編集]

さて、マールワー地方を支配したホールカル家とは、マハーダージーの時代から紛争を繰り返していたが、ダウラト・ラーオの時代にはそれがさらに悪化した。

1797年1月、ホールカル家の当主トゥコージー・ラーオ・ホールカルは息子のカーシー・ラーオ・ホールカルに譲位したが、統治者としては不適格だったため、弟のマルハール・ラーオ・ホールカルヤシュワント・ラーオ・ホールカルヴィトージー・ラーオ・ホールカルらが反乱を起こすこととなった。

その際、ダウラト・ラーオは危機に陥ったカーシー・ラーオに援助を求められた。シンディア家にとってもまた、北インドにおけるホールカル家の勢力増長は悩ましい話だったので、50万ルピーの支払いで合意した。ダウラト・ラーオは軍を派遣し、同年9月24日にマルハール・ラーオルをプネーで攻撃し、彼を殺害した。

しかし、ヤシュワント・ラーオ・ホールカルとヴィトージー・ラーオ・ホールカルはプネーを逃げることに成功し、前者はナーグプルへ、後者はコールハープルへとそれぞれ逃げた。ダウラト・ラーオはナーグプル候ラグージー・ボーンスレー2世にヤシュワント・ラーオの逮捕を要請し、1798年2月20日に彼は捕えられた。

とはいえ、同年4月6日にヤシュワント・ラーオは再び逃げ、1799年1月にはカーシー・ラーオの廃位を宣言した。

ウッジャイン及びプネーの戦い[編集]

1800年4月に宰相府の財務大臣ナーナー・ファドナヴィースが死亡したのち更なる対立状態となり、1801年7月18日ウッジャインにおいて、シンディア家の軍はホールカル家の軍に破れ、大きな損害を与えた(ウッジャインの戦い)。

1801年4月、王国宰相バージー・ラーオ2世は捕えたヴィトージー・ラーオを象に踏みつぶさせて殺すという極めて残虐な方法で処刑し、ヤシュワント・ラーオの恨みを買うこととなった[4]

1802年5月、ヤシュワント・ラーオはプネーに向けて進撃し、マーレーガーオンアフマドナガルプランダルナーシクナーラーヤンガーオンネールなどを次々に落とし、プネーに迫った。シンディア家はホールカル家との対立から宰相府に援軍を送り、ともにこれを迎撃するところとなった。

そして、同年10月25日にヤシュワント・ラーオはバージー・ラーオ2世とシンディア家の軍を破り、宰相府プネーを占領した(プネーの戦い[4][5]

第二次マラーター戦争と講和[編集]

1805年のインド

バージー・ラーオ2世はプネーから逃げざるを得ず、1802年12月31日にイギリスと軍事条約バセイン条約を結び、マラーター王国の領土割譲なども約し[5]1803年5月3日にプネーに戻っていた。

そのため、ヤシュワント・ラーオはイギリスと戦うため、グワーリヤルのダウラト・ラーオやナーグプルのラグージー・ボーンスレー2世に団結を求めた。シンディア家もイギリスがマラーター同盟の問題に介入してきたことを脅威に思っていたので、宰相府から離れることにした[6]

8月に第二次マラーター戦争が勃発したのち、9月11日にシンディア家は庇護下にあったデリーをイギリスに攻撃され、デリーがイギリスのものとなると(デリーの戦い)、ボーンスレー家とシンディア家は連合して戦うようになった。

だが、同月23日にシンディア家とボーンスレー家の連合軍がアッサイェの戦いで敗れ、11月29日アルガーオンの戦いでも連合軍は大敗し、ここから講和への流れが強まっていった。

12月17日にボーンスレー家がイギリスと講和条約デーオガーオン条約を締結したのち、12月30日にシンディア家も講和条約スールジー・アンジャンガーオン条約を締結し、デリー・アーグラ地域などを割譲した[4]

第三次マラーター戦争と保護国化[編集]

ダウラト・ラーオ・シンディアと廷臣

第二次マラーター戦争終結後、マラーター同盟内には束の間の平和が訪れ、1810年にダウラト・ラーオはグワーリヤルに新区域ラシュカルを建設した[1]

だが、1814年に宰相とガーイクワード家との間でグジャラートの都市アフマダーバードをめぐり対立したこと、それによる1815年のガーイクワード家の使者殺害により状況は変化した。イギリスは使節を殺害した宰相の家臣を投獄したが、宰相バージー・ラーオ2世はダウラト・ラーオにイギリスに対し共に対抗しようと提案した[7]

11月5日第三次マラーター戦争が勃発したが、シンディア家はその同日にイギリスと軍事保護条約グワーリヤル条約を締結した。これにより、シンディア家はラージャスターン地方における権益を放棄し、その進出を認めたばかりか、イギリスの対ピンダーリー戦争においてはピンダーリーの掃討への協力も約した[8]。ここにシンディア家はイギリスに従属する、いわゆる藩王国の地位に落ちた。

1827年3月21日、ダウラト・ラーオは死亡し、養子のジャンコージー・ラーオ・シンディア2世が継承した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f Gwalior 3
  2. ^ Gwalior 3
  3. ^ 1
  4. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.280
  5. ^ a b チャンドラ『近代インドの歴史』、p.77
  6. ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.296
  7. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.282
  8. ^ 山本『インド史』、p.180

参考文献[編集]

  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • 山本達郎『世界各国史10 インド史』山川出版社、1960年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、粟屋利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • ブライアン・ガードナー 著、浜本正夫 訳『イギリス東インド会社』リブロポート、1989年。 

関連項目[編集]