コーレン・キャンベル

コーレン・キャンベル
コーレン・キャンベル設計による
スタウアヘッドハウス (1720年竣工)
ウィトルウィウスブリタニクス」より
生誕 1676年6月15日
ブロディ― (英語版)
死没 1729年9月13日
ロンドン
国籍 スコットランド
職業 建築家
建築物

コーレン・キャンベル (Colen Campbell、1676年6月15日-1729年9月13日) は、スコットランド建築家・建築研究家の先駆けであり、ジョージアン様式 (英語版) [注 1] の創始者として、また「ウィトルウィウス・ブリタニクス」(Vitruvius Britannicus ) [注 2] の著者として有名である。そのキャリアの大半をイタリアイングランドで過ごした。

キャンベルは「コーダー城 (Cawdor Castle) (英語版) のキャンベル一族 (英語版) 」の子孫で、エディンバラ大学を1695年7月に卒業し[1]:7、弁護士としてのトレーニングを受けた後1702年7月29日にスコットランド弁護士会 (Faculty of Advocates) (英語版) への入会が認められた。

キャンベルは1695年から1702年にかけてイタリアに旅行しており、1697年にパドヴァ大学の来訪者帳に「コーリナス・キャンベル」と署名したと考えられている。ジェームズ・スミス (James Smith、1645年-1731年) (英語版) [注 3] の下で建築のトレーニングと研究をしたと言われており[1]:7、この推察は彼がスミス設計による建物のデザイン画を複数所有していたことからも補強されている。

ロンドンのブルック通り (Brook Street) (英語版) 76番には、キャンベルが1729年に出版した「Five Orders of architecture 」にその内装のデザインが掲載された彼自身の家の跡地があり、現在そこにはブルー・プラークが設置されている。

ブルック通りのキャンベル宅跡地に掲げられたブルー・プラーク

ウィトルウィウス・ブリタニクス[編集]

ウィトルウィウス・ブリタニクス
表紙

キャンベルの主要な出版物として「ウィトルウィウス・ブリタニクス」(Vitruvius Britannicus, or the British Architect... ) が挙げられる。本著は1715年から1725年にかけて全3巻で発行された。(さらに続編がジョン・ウルフィー (John Woolfe) とジェームズ・ガンドン (James Gandon、1743年-1823年) (英語版) により編集され、既に有名になっていたタイトルを使って1767年と1771年に出版された。) エリザベス朝において発行されたジョン・シュート (John Shute、1563年没) (英語版) による「First Groundes 」以来初めてのイングランドの建築作品集である。経験論の流れをくみ、研究論文ではなく基本的にデザインカタログであり、イニゴー・ジョーンズ (Inigo Jones、1573年-1652年) やクリストファー・レン (Christopher Michael Wren、1632年-1723年) 、及びキャンベル自身やその他のその時代における主要な建築家達によるイギリスの建築物の凹版画が掲載されている。

キャンベルは導入部や概要において、バロック様式の「無駄」について持論を展開し、イギリス建築の諸外国からの独立を宣言した。また彼はその巻をハノーヴァー朝ジョージ1世 (George I、1660年-1727年) に捧げた。1725年に発刊された第3巻には、急速に時代遅れになりつつあったバロック様式による、樹木の生い茂った農園を通って裁判所やパルテール (幾何学的にレイアウトされた装飾花壇) (英語版) に通じるまっすぐな並木道のある、庭園や公園の全体のデザインがいくつか収録されている。

建物は平面図 (plan) や断面図 (section) 、立面図 (elevation) で示されたが、いくつかは俯瞰視点によるものだった。この本に掲載された図面やデザインは、キャンベルが思索的な枠組みに組み込まれる以前のものであった。「ウィトルウィウス・ブリタニクス」の成功は18世紀のイギリスやアメリカにおけるネオパッラーディオ建築の普及に大きな役割を果たした。例えば本著の図16、ロンドンにあるサマセットハウスレンダリングは、アメリカの建築家ピーター・ハリソン (Peter Harrison、1716年-1775年) (英語版) が1761年にロードアイランド州ニューポートのブリックマーケット (Brick Market) (英語版) を設計する際にインスピレーションを与えた[2]

キャンベルは、全盛期には極めて卓越したスコットランドの建築家で、キャンベルに「スコットランドにおいて最も経験豊富である。」[注 4]「と言われた初期のネオパッラーディオ主義者のジェームズ・スミス (James Smith、1645年-1731年) (英語版) からまるで若者のように影響を受けた。

素晴らしいレンダリング版画が掲載された幾分商業的な本著は、ホイッグ党による寡頭政治の中、カントリーハウスヴィラのブームの始まりのちょうどいいタイミングで出版された。キャンベルはすぐに第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル (Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington、1694年-1753年) に採用された。伯爵はバーリントンハウスでのジェームズ・ギブス (James Gibbs、1682年-1754年) (英語版) の役割をキャンベルと交代させ、彼自身がイギリスのネオパッラーディオ建築の中心になることとした。1718年キャンベルはクリストファー・レンに替わって王室建設局 (Royal Board of Works) (英語版)サーベイヤー・ゼネラル (Surveyor General、王室建設局の最高技監の職名) (英語版) となったウィリアム・ベンソン (William Benson、1682年-1754年) (英語版) の代理人に任命されたが、この採用はバーリントン伯爵の推薦によるものだった。しかし在任期間は1年と短く、ベンソンが建設局を去る時キャンベルもそれに従った。

主要な業績[編集]

ワンステッドハウス
ナサニエル・スペンサー (英語版)The Complete English traveller, (London 1771年) より
マーブル・ヒルハウス
オーガスティン・ヘッケル (英語版) による
版画

建築物リスト[編集]

キャンベルが手掛けた建築物の一覧は以下の通りである[3]

ギャラリー[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ジョージアン様式 (Georgian architecture) とはジョージ1世からジョージ4世までの時代、1720年から1830年当時のイギリスの建築様式をいう。
  2. ^ ウィトルウィウス (Marcus Vitruvius Pollio、紀元前80年/70年頃-紀元前15年以降) は、共和政ローマ期に活動した建築家・建築理論家で、現存する最古の建築理論書である『建築十書』 (De Architectura ) を著した。
  3. ^ ジェームズ・スミスはスコットランドの建築家。スコットランドにおけるパッラーディオ建築の先駆者である。
  4. ^ 本著の第2巻に「the most experienced architect」との記載がある。

脚注[編集]

  1. ^ a b Catalogue of the Drawings Collection of the Royal Institute of British Architects: Colen Campbell, John Harris 1973, Gregg International Publishers Ltd
  2. ^ アメリカパッラーディオ建築研究センター (The Center for Palladian Studies in America, Inc.) (英語版) "Palladio and Patternbooks in Colonial America." 2016年3月4日閲覧
  3. ^ Howard E. Stutchbury, The Architecture of Colen Campbell, 1967, Manchester University Press. p. 145-47

参考文献[編集]

  • Howard Colvin (英語版) A Biographical dictionary of British Architects, 3rd edition
  • Robert Tavernor, Palladio and Palladianism 1991

外部リンク[編集]