エーリヒ・エーアリンガー

エーリヒ・エーアリンガー(Erich Ehrlinger、1910年10月14日2004年7月31日)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。SD国家保安本部の高官。戦時中にはアインザッツグルッペンの指揮官をしていた。最終階級は親衛隊少将(SS-Brigadeführer)。

略歴[編集]

1910年、ドイツ帝国ギーンゲン・ブレンツ市(Giengen an der Brenz)の市長クリスティアン・エーアリンガー(Christian Ehrlinger)の息子として同地に生まれる。キールベルリンで法律を学んだ後、第一次世界大戦後のヴュルテンベルク自由人民州Freier Volksstaat Württemberg)の公務員となった。

1931年6月にナチ党突撃隊(SA)に入隊している。突撃隊の様々な部隊の指揮官となり、1933年12月には突撃隊中尉(SA-Obersturmführer)に昇進した。1934年3月から突撃隊のスポーツ監督学校で教官を務めた。

1935年6月22日に親衛隊(SS)に移籍した。9月にラインハルト・ハイドリヒに抜擢されてSD本部に移り、ポーランドでの宣伝工作活動に関する事務所を任せられた。1938年のオーストリア併合後にはウィーンSD設立に携わり、また1939年3月のチェコスロバキア併合後にはプラハのSD設立に携わった。この際の1939年3月から9月にかけてプラハでアインザッツグルッペンの部隊アインザッツコマンド(Einsatzkommando)の指揮官となり、反ナチ分子などの殺人行動を指揮している。

ポーランド占領後の1939年11月から1940年3月にかけてアインザッツグルッペン4に勤務し、併せてワルシャワ保安警察及びSD司令官に任じられた。1940年3月に武装親衛隊に入隊して軍務にあたり、7月には二級鉄十字章を叙勲したが、1940年8月には武装親衛隊を離れた。1940年8月から1941年2月にかけてはノルウェーに配属され、ここでハインリヒ・ヒムラーの代理を務め、そこで親衛隊組織創設の指揮を執った。その後、国家保安本部(RSHA)へ戻ったが、1941年6月からはアインザッツグルッペンA隊の「ゾンダーコマンド(Sonderkommando)1b部隊」の隊長をつとめることとなった[1]。また1943年8月から1944年4月にかけてはアインザッツグルッペンB隊の司令官となっている[1]。この間、彼のアインザッツグルッペンが展開していたキエフミンスクウクライナ保安警察及びSD司令官にも任命された[1]。1943年9月から1944年4月にかけてはベラルーシ親衛隊及び警察指導者(SS- und Polizeiführer „Weißruthenien“)にも就任している。アインザッツグルッペン時代には、週に40人ペースで処刑の承認を行ない、時には自身が手を下すこともあった[2]

1944年夏頃から敗戦までベルリンの国家保安本部第I局(人事局)の局長となった[3][4]。この間親衛隊少将に昇進している。

エーアリンガーは1945年2月頃、自身の家族をベルリンから疎開させ、また自身の写真や身元特定につながるものを破棄させた[4]。同年4月8日には、エーアリンガーは家族と会い、パンツァーファウストを渡している[4]

エーアリンガーは終戦後、国防軍下士官の軍隊手帳を得て、身分を偽称しイギリス軍に降伏する[4]。数週間後には釈放され、1951年までカールスルーエにあるアメリカ軍の飛行場で働いていた[4]。1947年時点でエーアリンガーは秘書と結婚しており、かつての妻と再会し、生活の援助のために仕送りをすることを約束する[4]。1951年にはエーアリンガーは元の身分を取り戻しており、妻への仕送りは1952年3月まで続けていたが、仕送りを出し渋ったところ、妻が警察にエーアリンガーの居所を告発し、露見した[4]

その後、西ドイツ政府により拘束され、長きにわたり未決勾留されたが、結局審理不能を理由に裁判手続きが打ち切られ、1969年になって釈放された。2004年にカールスルーエで死去。

キャリア[編集]

階級[編集]

叙勲[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)ISBN 978-4624111823(日本語)
  • Mark C. Yerger 著 『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)ISBN 978-0764301452(英語)
  • クリスティアン・アングラオ 著、吉田春美 訳『ナチスの知識人部隊』河出書房新社、2012年。ISBN 978-4309225616